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02
(略)
五月の木漏れ日が緑の生い茂る公園を所所照らしている。
気分転換であった。碌に掃除もしていない我が家を飛び出し、文字を紡がない頭を働かせるため、近場の公園へやってきた。
公園にはそれなりに人がいた。どうやら休日であったらしい。何日も部屋に篭り切りで曜日感覚が狂っていた。
子どものはしゃぐ声。母親たちの談笑。幾つもの明るい声が辺りに響いていた。私には妻も子もいないが、それらを持つ幸福を想像することは容易い。もう三十も半ばを越え、同窓会で会う同級たちの多くは結婚をしていた。結婚だけが幸せだとは思わないが、きっと家族を築くというのは素晴らしき清福なのだろう。
「すみません」
背後からかかった声に振り返る。黒いシャツに白いジャケットを羽織った男が立っていた。風に乗って煙草の匂いが僅かにした。
「道をお尋ねしたいのですが」
細いネクタイをだらしなく結んだ男は、困ったように白髪交じりの頭髪を掻き回しながら言った。
私が口を開こうとしたとき、
「あなた」
軽やかな女性の声が聞こえた。
「ひとりでさっさと行かないでください」
女性は花のレースで覆われた上品な白いタイトスカートに、ロールアップ風のスリーブがあしらわれた控えめのライトブルーのシャツを着ている。緩やかにウェーブのかかった黒髪を靡かせた美しい女性であった。女性は白いジャケットの男に寄り添うように立った。
ふたりが並ぶ様は、一緒にいることが必然であるかのようで、相応しい男女であった。
「このレストランを探していまして」
耳に馴染むバリトンを響かせて男が言う。私は丁寧に道順を教えた。
「ありがとうございます。妻がどうしても行きたいと言って聞かなくて」
「まぁ、一言余計ですよ」
彼らは顔を見合わせて笑った。仲の良さそうな夫婦である。
連れ立って歩くふたりの後ろ姿を見送って、私は幸せのお裾分けをしてもらったような、そんな気がした。
さて、そろそろ仕事に取り掛からなくては。気分転換は功を奏したらしい。頭の中で巡る物騒な物語を紡ぐため、私は急ぎマンションに向かった。
(以下略)
***
「アリス」
耳に馴染んだバリトンが夢うつつの中で聞こえる。
「おい、アリス」
コンコンとドアを強めに叩く音に目を覚ました。ベッドの中から薄目で部屋の入り口へ視線を向けると、ドアを控えめに開けて、そこに凭れるようにしてこちらを窺う火村がいた。
「うー…ひむらぁ?」
「おはよう。朝食、温かいうちに食っちまえ」
「つくってくれたん?」
身体を起こす。
「宿泊代だろ?」
「材料買いにいったんか」
「朝一にな」
不機嫌そうに言われて笑ってしまった。
足を下ろして立ち上がろうとベッドに手をついたとき、くしゃりと紙が丸まる音が聞こえた。枕元に無雑作に置いてあった原稿用紙だった。ベッドの中で姿勢悪くも書いていたのだった。
火村がそれを見て方眉をあげた。
「ベッドでまで執筆か?…というか、まだ原稿用紙使うことがあるのか」
「や、これは…」
中身を言えるはずもなく押し黙る。
「何でもないんや。ちょっとした暇つぶし」
「…へぇ。小説書く合間に小説書いて暇つぶしか?」
怪訝そうな顔をされてしまった。
「…別にええやん。たまには紙に書きとうなっただけや」
火村にだけは見られたくなくて、思わず隠すように原稿用紙を引き寄せる。
「そうかよ。飯が冷める、早く顔洗ってこい」
私の恋心を吐き出すための用紙は慌てて引き寄せたため、ぐしゃりと大きく歪んでいた。
「なんやこれ」
テーブルの上を見てぽかんと口を開く。
皿の上には雑誌に載っていそうな、いや、主婦の皆さんが見る情報番組で紹介されるようなお店顔負けの朝食があった。
「これ、あれや」
「なんだよ」
「エッグなんとか」
「エッグベネディクト」
「それ。家で作れる料理やったんか」
「そりゃ作れるだろ。簡単だぞ。某料理サイト見れば」
「そやかて盛り付けも完璧やん。しゃれおつ過ぎて怖い」
「怖いって何だよ。色味まで考えて他のもん添えたんだから、もっと褒めてくれ」
「何なん。君、料理極めてどうするん?」
「まったくもって極めてはいないが、嫁にいくとき自慢できるスキルの一つになるな」
ぷっと小さく吹き出す。
「火村、君が嫁にいくん?」
「一声かければもろ手を挙げる連中が山ほどいるぜ、俺を嫁に欲しいって」
「もうやめぇ。腹痛いわ」
クスクス笑いながら、両手を合わせて火村渾身の料理を頂く。
「めっちゃ美味い」
「そりゃよかった」
三十も半ばなら、こうして向かい合って朝を迎えるとしたら、目の前のいるのは女性なのだろう。脳裏に火村が奥さんに料理を振る舞う様がありありと想像できてしまって、私は少し俯いた。
私が食後の後片付けを買って出たところで、火村の携帯が着信を告げた。すでに何本目かのキャメルを咥えていた火村は、待ってましたとばかりに電話に出た。
「鮫山さんからだった」
「なんて?」
「深山友梨が自首したらしい」
「自首?…被害者の親友やった子か」
「ああ」
「君わかっとったんやろ。彼女が犯人やて」
「まぁな」
「このために黙っとんたんか」
「は?」
「…自首させるため」
「まさか。証拠が見つからなかっただけだ。伝えておいたから、刑事がちゃんと見張っておいただろうよ」
「何も聞いとらん」
「昨日はお前がぼーっとしてたんだろ」
「……」
「俺はこれから署に行く」
「なんで?」
「深山友梨は自分が殺したの一点張りで、他のことは何も話さないらしい。俺にだけ話すと、そう言っている」
「火村にだけ?」
「ああ、だからすぐに出る。宿の提供助かった」
「ちょお待て」
「何だ?」
「俺も行く」
「…来る必要はないだろ。犯人は捕まったんだから」
「行く」
「…仕事はいいのか?」
「締め切りに追われとるわけちゃう。…俺に来てほしくないんか?」
「いや…」
珍しく歯切れの悪い火村をじっと見つめると、彼は溜め息をついて頷いた。
「わかった。行くぞ」
そう言って、私から視線を外した火村の黒曜が僅かに澱んでいる気がした。
取調室の中、今回の事件の容疑者である深山友梨と火村が対面していた。部屋の隅には、鮫山警部補がまるで火村の執事のように静かに立っていた。
署に着くなり、火村は容疑者と二人だけで話させてくれと私に言った。森下刑事に「では有栖川さんはこちらへ」と言われて、取調室の様子をマジックミラー越しに見ることとなった。「火村先生にお伝えするほどの事件じゃなかったですね」と森下は言ったが、私はできれば伝えてほしくなったと心底思った。これから行われる火村と容疑者の話が私と火村の関係を大きく変えてしまうような、そんな予感がしたからだ。それでもついてきたのは、どうしても彼をひとりにしたくなかったからだった。
「全部話してください」火村がそう言ったきり、取調室の中は沈黙が続いていた。深山友梨は何も話そうとはせず、ただ俯いていた。沈黙を破ったのは火村だった。
「結婚を考えたことはありますか?」
「え…?」
深山が顔を上げた。
何の関係もないような話をし始めた火村に、鮫山も隣で見ている私も森下も目を丸くする。
「考えたことはありますか?」
火村がもう一度言った。深山は戸惑ったような顔で、それでも何か言おうと口を開いた。
「……どうして」
「はい?」
「どうして、昨日わかったのですか?」
「わかった、とは?」
「あなたは私に聞きました。親友以上の感情を抱いていたのですね、と。どうして…」
「貴女が彼女と親友であることは、彼女の部屋に飾ってあった写真や携帯の履歴から簡単に想像できます。ですが、私は昨日わざわざ貴女に彼女の写真を見せた。名前を言えば済むところを、彼女との関係は? と写真と共に伺いました。彼女の写真を見た貴女の瞳を見て、そうではないかと思ったのです」
「…そんなに分かり易かったでしょうか?」
「どうでしょう? ただ、貴女の彼女を思う顔が似ていると思った、それだけです」
「似ている?」
「はい、私と」
息を呑む。私からは火村の背しか見えない。だから、彼がどんな顔をしているのかわからなかった。
「……あなたも…叶わない恋をしているのですか?」
火村は何も言わない。ただ深山が切なげに目を細めたのが見えた。
「火村さん、と言いましたよね?」
「はい」
「ご結婚は?」
「していません」
「…では、あなたも結婚を考えたことがあるのですか?」
深山が聞く。
「ありますよ」
私は息が止まってしまったような苦しさに襲われた。
「この歳にもなれば、そういう話を持ちかけられますから。結婚してしまえば諦められる。貴女はそう思ったのでしょう?」
「…ええ」
結婚すれば諦められる。確かにそうかもしれない。もう二度と手の届かない場所へ行ってしまったのだと、そう思えば。自分がしてしまえば、いいのか。法で縛られた誓いに身を投じてしまえば。
「貴女は大学生のときに彼女と出会ったと言いましたね?」
「はい。一回生のときです」
「それから、十五年ですね。親友と言うほど仲が良かった」
「……親友でした。彼女にとっては」
「なぜ殺したのですか」
火村の凛とした声が空気を引き裂くようだった。しん、と沈黙が下りる。
「話さないつもりですか? …いいでしょう。順番にいきましょうか」
「順番…?」
「大学一回生のとき、貴女は彼女と出会った。どんな風にかは知りませんが、親友と呼べるほど仲良くなり、貴女は次第に彼女に惹かれ、傍にいてほしいと願うようになった」
深山が俯く。
「四回生のとき、それぞれ就職…まぁ進学したかもしれませんが、とにかくこれまで同様に毎日のように一緒にはいられなくなる。連絡を互いに取らなければ、すぐに疎遠になってしまう。将来への不安もあったことでしょう。貴女は怖くなった。彼女が離れていってしまうのが」
「……こわかった」
「だから、告白した。…いえ、きっとそれは衝動的なものだったのでしょうね。貴女は思わず漏らしてしまった、胸懐を」
「…………」
「彼女は貴女の想いを受け入れることはできなかった。しかし、彼女は貴女にとって唯一無二のひとだ。その告白ですべてを失うことは耐えられなかった。貴女は親友の立場でいることを選んだ。彼女もそれを了承した」
深山が顔を上げて、力無く笑った。
「まるで私の胸の内を見てきたかのように語るのですね」
「…すべて憶測でしかありませんよ」
火村が静かに言った。
「大学卒業後も親友という関係は続いた。貴女は友人の仮面を被り続けたが、彼女への恋情が消えることはなかった。それでもよかった。傍にいられるなら、彼女が幸せであるのなら、それで」
深山が途端に馬鹿にしたように火村を見つめて嗤った。
「三十も過ぎれば、結婚を考える。彼女には恋人がいた。貴女は友人の顔で祝福した。心の奥底で沸々と煮え滾る悋気の炎に目を瞑って。ただ傍にいられるなら、幸せになってくれるなら、それでいいと…そう十五年過ごしてきたのだから」
ふふ、と深山が笑った。
「…傍にいてくれるなら? 幸せになってくれれば?そんなの、」
「ただの綺麗事だ」
火村が遮った。
「そうよ! そんなもので本当の気持ちを覆い隠して…私は必死だった! あの子の傍にいられるようにッ」
それまで静かだった深山が金切り声をあげた。
「閉じ込めてしまいたかった! どこにも行かせずに誰の目にも触れさせずに、私のものにしてしまいたかった! 私にはあの子だけだった。あの子がいれば他に何もいらなかった。あの子だけが私を理解し、支えてくれる! 大好きだった。ずっと傍にいてほしかった! だから、辛かった…! 幸せになってほしいって? そうやってずっと傍で過ごして、あの子が結婚して家庭を築くのを目の当たりにしろって言うの!? そんなの耐えられない! だからッ…だから私は…あの男のもとへ向かうあの子を刺したわ!何度も何度もッ……私はただ自分だけのものにしたかった! ずっと、ずっとよ! 十五年間、私は耐えてきたの! 恋情なんて微塵も感じさせずに、完璧な友達の仮面を被ったわ! あの子はあのときの告白なんて、まるでなかったかのように――」
「それは貴女がそのように振る舞ったのではないですか」
「それ、は…ッでも、少しくらい…!」
「少しくらい?」
「わかってくれてもいいじゃないッ!! こんなに私は苦しんでいるのに…っ」
「それは押し付けだ」
「わかってるわよ! 仕方ないじゃない! どうにかできる想いなら、そんなもの恋じゃないもの! 叶わない恋なんて惨めよ! 辛くて苦しいだけ! あなただってッ…私の気持ちがわかるでしょう!? あなたも私と同じ顔をしてる!」
「…同じ顔?」
「鏡で見てみなさいよ! 自分だけのものにならないことに耐えられなくて友人を殺した私と同じ顔よ!」
シン。すべての音が無くなったかのような冷たい静けさが部屋を満たす。次の瞬間には声を張り上げていた深山の荒い呼吸だけが響いた。
私は咄嗟に身を翻した。火村の傍にいかなくては。早く、早く。「有栖川さん!?」血相を変えた私に森下刑事が慌てたが、そんなもの気にならなかった。その場を飛び出し、取調室のドアへ向かう。追いかけてきた森下が焦ったように私の肩を掴んだのとほぼ同時に取調室のドアを開けた。
鮫山警部補と深山友梨が驚いて私を見たが、火村だけはぴくりとも動かなかった。私は彼の顔を見てぞっとした。すべての表情が抜け落ちてしまったかのように色のない顔だった。深山も彼の顔を見て息を呑んだので、きっと先までは違う顔をしていたのだろう。
「…ひむら」
勝手に口から漏れた声が彼を呼ぶ。火村の肩が僅かに揺れた。壊れた玩具のようなぎこちない動きで私を見た。そうしてその深い海の底のような瞳に宿った僅かな恐怖や罪悪感を読み取って、私は確信した。彼が今も私に恋情を抱いていることに。
「火村」
肩にそっと手を置いた。その瞬間にはもういつもの火村の表情に戻っていた。いや、ほんの少しだけ違う。彼は力無く笑ってから、いつもの何もかもを見透かす探偵のような顔をした。
「――可哀想に」
深山が私を責めるようにして言った。彼女は気付いたのだろう。火村が私に想いを寄せ、それに私が気付いておきながら応えることはなく、傍にいることに。
「出逢わなければよかった。あなたもそう思っているのでしょう?出逢わなければ、こんな辛い思いをすることはなかったのよ」
心臓が縮むようだった。出逢わなければ。私も確かにそう思った。火村は私と出逢わなければよかったのだと。そうすれば、こんな役にも立たない、臆病で彼を苦しめるだけの私を傍におかなくて済んだのに。
「はっ」
冷たい空気を裂くように火村が鼻で笑った。彼は、まるで深山から私を隠すようにして、椅子から立ち上がった。
「出逢わなければよかった? 笑わせるな」
「なに――」
「あんたに殺された彼女はそうだっただろうな。あんたと出逢わなければ、こんな理不尽な目にあうことはなかった」
「ッ、」
「閉じ込めて、誰の目にも触れさせずに自分だけを見てほしい。その気持ちは理解できる」
「それが理解できるなら、わかるでしょう!? 辛くて苦しいだけよ、こんな報われない気持ちなんて…あなただって辛いはずよ!」
「ああ、辛いね」
私は拳を握り締めた。火村にそれを強いてきた酷い自分がどうしようもなく憎たらしかった。
「苦しいさ。あんたは辛くて苦しいだけだと言う。ならば、どうして十五年も傍にいた?さっさと縁でも切りゃあよかったんだ」
「っそれ、は」
「十五年、無理して笑い続けていられるほど人間は強かにできてねぇんだよ。あんたは辛さや苦しみ以外の“何か”を彼女から齎されていたんだ」
「――…っ、」
「それが何かは俺とあんたとでは違うかもしれないが…あんたは言ったな。彼女だけが自分を理解し支えてくれる、と。あんたが彼女を手放せなかっただけだ。自分で苦しみに飛び込んでいったようなものさ。でも、その苦しみ以上に貴女は彼女から与えられていたはずだ」
火村が冷たい眼で深山を見る。
「あんたは永遠にそれを失ったんだ。他でもないあんた自身の手で」
深山は顔を覆って泣き崩れた。
「――俺はそれを失うわけにはいかない」
火村が誰に気付かせるでもなく小さく呟いた。
深山はもう何か話せる状態ではなかった。取り調べは中断となった。殺害方法は落ち着いたら、彼女は嘘偽りなく話すだろう。
火村が無言で部屋を出るのについていくと、「ちょっと一服してくる」とさっさと行ってしまった。言外にひとりにしてくれと言われている気がして、私は彼の背を見送ることしか出来なかった。
「有栖川さん」
振り返ると森下刑事がやけに真剣な眼で私を見つめていた。
「何ですか?」
「火村先生はひとりで何でもこなせる人ですよね」
話が見えない。
「例えば、事件現場に我々がいなくても颯爽と解決してしまうのでしょう」
「………」
「譬え――あなたがいなくても」
息を呑む。森下はそんな言葉を投げかけた次の瞬間には、柔らかく笑った。
「それでも火村先生はあなたを傍にいさせるやないですか」
「…ええ」
「ええなぁって思っとったんですよ」
「――え?」
「お二人が別々に現場にくることもあるじゃないですか? 火村先生が「有栖川は?」と問うときはどこか焦燥感に駆られているといいますか…どこか不安定なんです。でも先生はあなたの顔を見た瞬間、纏う雰囲気が変わる。柔らかくなるんです。隣に立つお二人はそうあることが自然であるように見えます。そんな唯一無二のひとが傍におられるやなんて羨ましいなぁって思っとりました。……ええなぁって思っとったんですよ」
森下が切なそうに目を細めた。その雄弁な瞳が語っている。彼は惹かれていたのだろう、火村に。
「…渡さへんよ」
火村は。
無意識にそう零していた。森下は「わかっていますよ、そんなこと」と言って子どものような顔で笑った。