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03
あとは任せてくださいと言った鮫山警部補と別れ、署を後にした。無口にキャメルを咥える火村に遅めの昼食でもどうかと問う。ああ、と生返事が返ってきたため、「疲れたやろうから、俺が運転するわ」と彼の動いているのが不思議なベンツの運転席に座った。
彼はひどく無口だった。深く息を吐き、目を閉じる姿を横目に見て、私は不安になった。確実に今、私たちの関係に何かしらの罅が入っている。
――ああ、辛いね。
取調室での彼の言葉が耳の奥で残響する。十二年前、逃げ出した臆病な私は彼をずっと苦しめてきたのだ。そして、私は未だ逃げようとしているのだ。降り続ける沈黙が怖ろしくて、私は口を開いた。
「火村」
「…あ?」
「み」
「み?」
「見てみぃ」
車窓から見えた公園で、大学生らしき男女がこんな早いうちから酒盛りをしているようだった。
「元気やなー。花見の時期でもあらへんのに」
「…若い奴見て元気だなって言うのは歳取った証拠だぞ」
「うっさいわ。俺も君もおっさんや。若かりし頃を懐かしむくらいええやん」
「まぁ、別にいいけどな。あんなに騒いで警察呼ばれたらどうするんだか。ああいう連中は単位落としたくなる」
「ひどいな、君。大学には遊びいくようなもんやで」
「それだけの金があって自分の好きにしてるなら、文句なんて言わねぇよ。遊ぶために来ていようがな。俺の授業の単位は落とすだろうが」
「君は大学生の頃からしっかり学業に励んどったなー」
「そりゃあな。だが、それだけじゃなかったさ」
「そうなん?」
「ああ。二回生のときにもう一つ加わった。大学に行く理由が」
「なに?」
「アリス」
「うん?」
「お前に会うためだ」
息を呑む。手元が狂いそうになって、慌ててハンドルを改めて握り締めた。
火村は話を続ける。ひどく静かな口調だった。
「お前の紡ぐ世界を覗いたとき、不思議だった。俺は犯罪者が憎い。多分、〝普通でないほど〟憎んでいるだろう。それなのに、犯罪が起き、殺人者が存在するお前の紡ぐ世界がどうしてか……何て言えばいいんだろうな」
火村は次の言葉を探すように一時沈黙した。
「うまく言えないが…好きだと思ったんだろうな。俺はそんな世界を紡ぐお前に興味を持ち、いつしか傍にいてほしいと思うようになった」
は、と息を吐く。彼の言葉を一言一句聞き漏らすまいと息を止めていたことに気付く。
「だから四回生のとき、怖くなった」
「こわい…?」
「俺は院に進み、お前は就職する。俺はそれまで同様大学に通うが、お前はもう大学には来なくなるんだ。会えなくなる、そう思った」
火村が自分を皮肉るように小さく笑った。
「俺はガキの頃あちこち引っ越したから、友人というものが少なかった。だから、友情を存続させる術がよくわからなかった。そんな俺でも、友情というものが双方の思いでしか成り立たないことはわかっていた。一方の思いでは続かない。どちらかが連絡しなければ、生活の違う俺たちは声を聞くことも会うこともなくなる」
それは私だって怖かった。生活が変わってしまう。彼と顔を合わせることが少なくなってしまう、と。
「だから、あの日――俺の部屋でぼんやりしながら酒を飲むお前を見て、らしくないことを言った」
あの日。彼は言った。
「「〝寂しい〟」」
胸の内で思い出していたはずの言葉は口に出ていたらしい。火村と同じタイミングだった。彼は驚いたように目を丸くした。
「覚えていたのか」
「…当たり前やろ」
あの日のことを忘れるはずがない。彼はそのあと私に――。
「……そうだよな」
彼は自嘲するように嗤った。私の言葉を曲解して受け取ったのだ。彼が思うような意味で忘れなかったわけではないのに。
「寂しい。そんな言葉が俺の口から出てくるとはな。自分でも驚いた」
火村はジョークのように大袈裟に言った。
「俺は一生誰かを求めることはないと思っていた。でも俺は求めてしまった」
そこで言葉を止めて、彼は小さく息を吐いた。
「俺はお前を構成する世界の一部になりたかった」
「――…どういう、」
意味だ。
「俺がいなくなったら、失えばいいと思った。俺ひとり分、お前が欠けてしまえばいいと。そうすれば、俺がいなくなったらお前は俺を捜すだろ? 俺がいなくてはならないと…そう思うだろう?」
胸が苦しい。それだけの想いを寄せられていることに私の胸は張り裂けそうだった。
「――ひどく傲慢な想いだ」
そう言って、火村は昏く嗤った。
「嫌な思いをさせた。悪かった」
嫌な思い。きっと取調室でのことを言っている。完璧な友人の顔を崩したことを謝っているのだ。私は何も言えなくて、ふるふると力無く首を振った。謝らなければならないのは私のほうなのに。
アクセルを踏む。向き合って話さなければならないと思った。私は急いで自分の住むマンションまで車を走らせた。
「遅めの昼食を取るんじゃなかったのか?」
マンション近くのパーキングに車を停めると、火村がぽつりと呟いた。
「聞いとったんか」
「ああって言っただろ」
「空返事だったやないか」
「どうでもいいが俺はもう帰るぞ。ここに停める必要はない」
「ある」
「何だよ? 昼飯まで俺に作れって?」
「ちゃうわ。…ちゃんと話しよ」
火村は少し黙り込んでから、わかったよと車を降りた。その瞳に諦観が浮かんでいるのを見てしまい、私はどうしようもなく切なくなった。
ソファに並んで腰かけてから、私は口を開いた。
「ごめん」
「なぜお前が謝る」
「それ、は…」
「お前が謝ることは何もない。俺が身勝手にお前を思慕しているだけだ。同じ感情を持ち得ないのは仕方ない」
「ちゃう…ちゃうねん」
彼の言葉を遮るように否定した。何をどう伝えればいいのかわからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「……わからへん」
「わからない?」
「何で君が俺なんかに想いを寄せるのか、わからん。何で傍におくん? なんの役にも立たへんのに……こうやって君を苦しめてるだけやん…」
火村が俯いた私の頭をぽんと叩いた。顔を上げると、彼は少し眉を下げて笑った。
「お前、さっき取調室で聞いてなかったのか?」
「…?」
「十何年も無理して笑ってなんかいられねぇんだよ。俺はおまえの前で無理な顔でもしてたか?辛そうだったか?苦しんでいたか?」
「……それは…だって、君は隠せるやん、そういうの」
「隠してねぇよ。俺はおまえの前で心から笑っていたさ」
「でも」
「そりゃあな、辛いとも苦しいとも思ったことは何度だってある。俺はお前が好きなんだ。あらゆることで一喜一憂もする。けどな、そんなもんは耐えられるんだよ。俺が一番辛いことはお前を失うことだ」
静かな声だった。波のない水面のように凪いだ声。犯罪者へ事実を突きつける凛としたものではなく、ただ私だけに想いを伝えるための声。
「お前の自己評価の低さがどこから来るのか知らないが……役に立つ立たないとかそういうことじゃねぇんだよ。だが立つか立たないかで言えば、お前は十分俺の役に立っている」
「…嘘や」
「嘘なもんか。お前は魔法使いみたいなもんだよ」
「は…?」
「俺はこれからもフィールドワークを続けるだろう。それは俺にとって必要不可欠なものだ」
それはそうだろう。彼の奥底に蜷局を撒く昏く冷たい何か。私はそれを知り得ないが、彼は一心不乱に犯罪の研究を続ける。
「事件現場にいることや関係者と話すことは…まぁ慣れたけどな。俺だって何も思わないわけじゃない。時々、その場にある何か禍々しいものが俺を侵していくような気がする」
私はハッとして火村を見た。私の抱いていた不安は彼自身も感じていたのだ。
「例えば…連続された事件で、捜査中に次の被害者が出たとする。そんなことが起こる前に解決できなかったことに呵責を感じたりもする」
「でもそれは…!」
「わかっている。悪いのは犯人だ。俺じゃない」
「………」
「ままならねぇんだ。頭で理解していることと感情はリンクしない。フィールドワークをしている内に色々慣れていくだろ?死体を見ることも血を見ることも。被害者遺族の悲しみだってそうだ。俺にとっては何度も見てきたことでも、彼らにとってそれはは一生を狂わせた出来事だ。時々無性に…それに慣れてしまっている自分が怖いと思う。そういう負の感情やら何やら、心の奥底に降り積もっていってるのかもな」
火村が私を見た。
「けどな…そういうあらゆるものから解放してくれるのは、アリス、お前だよ」
「ッ、」
「お前が…勿論すべてではないがフィールドワークについてくるようになって、いつも俺の隣にいてくれるだろ? 名前を呼んでくれる。それだけで鬱蒼としたあらゆるものから俺を解放してくれるんだ。まるで魔法のように」
目の奥が熱い。喉元までせりあがった感情が身体中を圧迫していた。
「お前がいるから〝俺〟を保てるんだ。俺はお前が構成する世界の一部になりたいと言ったな」
「…ん」
「十四年だ。俺はお前との繋がりを切ることはなかった。お前も…少なからず俺を必要としてくれているんだろう? だから俺たちは十四年間も傍にいたんだ。片方が求めなければ関係なんて簡単に断ち切れる。俺とお前の感情の違いはその想いの比重がちょっと違うだけなんだろうよ。俺にとっては、お前はもう俺を構成する世界の一部みたいなもんなんだ」
もう声など出せそうになかった。
「お前がいなくなれば、俺はお前ひとり分欠けてしまうのさ」
火村が小さく笑った。
「だから、俺はもうお前を手放せない。失えない。…悪いな」
目を細めた火村が言う。
「俺と出逢ってしまった人生を呪ってくれ。俺はお前と生涯離れないだろうからな」
もうだめだった。冷たい感触が頬を伝う。堪え切れなかった涙が溢れるのを彼は少し驚いたように目を見開いてから、哀しげに瞳を揺らした。ごめんな、と彼の口が動いたのを見て私は必死に手を伸ばした。彼の腕を掴んで首を振る。触れ合った熱が余計に涙を誘う。
彼は私によって侵蝕されていく何かから解放されると言った。私は今、彼によって恐怖から解放されたのだ。恋情の結び合いのその先には別れがあると思っていた。臆病で役立たずで彼を追いかけることしか出来ない私なんて、いつか彼には届かなくなるのだと思っていた。隣に立ち続けることなど出来ない。いつか、彼は私に別れを告げるのだと。怖かった。いつか私の声など届かなくなることが。どうしようもなく恐ろしかった。そうなったら、きっともう私はだめだ。二度と立ち直れやしない。自分が壊れてしまうと思った。彼は自分の想いをひどく身勝手で傲慢だと言ったが、身勝手なのは私のほうなのだ。自分勝手に逃げ出して、彼に苦痛を強いてきたんだ。あの告白の夜から、ずっと。
生涯離れることなどないのだと云う。私がいなくなれば彼の世界が欠けるのだと云う。私の自分勝手な恐怖など、吹き飛ばしてしまう言葉だった。不安に感じることなどなかったのだ。彼が離れていくことなどないのなら。私の声が手が永遠に届き続けるのなら。
「ひむら」
「…アリス」
泣くな。戸惑うように長い指先で目許を拭われる。
「――可哀想に」
親友に手をかけた女性と同じ言葉を火村は私に言った。
「お前は俺と出逢ったことは不幸だっただろうが」
違う。そんなことはない。
「俺の幸福はお前と出逢えたことだった」
「――っ、」
どうやって、何て言って、彼に私の心の内を伝えればいいのかわからなかった。だから、衝動のまま彼の懐へと飛び込んだ。そうして、見上げた先の唇へ自分のそれを重ねた。勢いをつけすぎたその口づけはかちん、と音が鳴ってしまった。
「…いたい」
「……こっちの台詞だ。どういうつもりだ」
訝しげに、そしてどこか不安に揺れた瞳に、深く息を吐いてから告げる。この一言を伝えるのはいまだ怖さが付き纏った。けれど、これは私から告げなければならない。
「好き」
「――は?」
「好きや、火村」
「……嘘や」
「関西弁使うな。似合わへん」
「嘘だ」
「わざわざ言い直さなくてもええねん。嘘なもんか」
「アリス、」
「ん」
「アリス」
「うん。好き、君が好きや」
本当だと信じてもらえるよう、何度も告げた。彼が名前を呼び、私が答えて、そして想いを告げるたび、彼が泣きそうな顔をするから、何度だって言ってやろうと思った。その整った顔が幸福に微笑むまで、ずっと。
互いに友人の顔を外すと、瞳の奥には熱い色がはっきりと見えた。私はもっと想いを告げたくてもう一度唇を寄せたが、同じタイミングで火村もそうしたために、またしても強く互いの唇が当たった。かちん、歯が鳴る。もはや衝突事故のようなキスだった。
「「下手くそ」」
同時だった。顔を見合わせて吹き出す。
「今のは君が悪い」
「どこがだ」
「やり直ししよ」
「どっちがどっちにするんだ?」
「じゃんけん、」
「ぽん」「ほい」
私がパーで火村がグー。
「勝った」
「ちょっと待て。勝ったほうがどっちだよ」
「決定権が俺ってことや。はい、火村ちゅー」
唇を尖らせて、してくれと強請ると火村がぷっと笑った。
「間抜け面」
「人のキス顔に何てこと言うねん」
「言い換える。可愛い、アリス」
「なっ…んぅ、」
唇が重なった。はむ、と食まれるように動く彼の形の整った唇は熱く、そしてとても猥らだった。しばらく重なり続け、唇を離すと互いの荒い呼気が顔を擽る。
「ふ、」
「なに、笑っとんねん」
「頬真っ赤だぞ」
「うっさいわ。君かて澄ました顔して耳が赤いで」
「くすぐってぇ」
耳にさわさわと触れると、喉奥で火村が笑った。
「あ…」
「なんだよ?」
「次は俺の番やで」
そう言って、私から唇を重ねた。火村はおとなしく目蓋を閉じてそれを受け入れた。自分で言うのは虚しいが、このような経験になれていない私はただ重ねるだけでその先は難しかった。先程の彼の口づけを真似るように、はむはむと彼の唇を挟んでいると、重ねたままの唇が、ふ、と弧を描いた。
「次は俺だな」
唇を離すと、彼はそう言った。そうしてまた口づけが交わされる。ぬるり、と入り込んだ舌にびくりと身体を震わせると、彼の大きな手が宥めるように背を撫でた。歯列をなぞる感触にぞくりと快感が腰を駆け上る。ようやく絡まった互いの舌は恐ろしいほど熱かった。甘い呼吸が互いの間を行き交う様にくらくらする。やっと離れた唇の間を銀糸が垂れるのが卑猥だった。
どん、と彼の肩を押す。
「うわ、」
「俺の番や」
ソファの上に縺れるように倒れて、もう一度唇を重ねた。
そんなふうに触れては離れ、順番に互いにするキスを何度も何度も繰り返した。段々と荒さが増す呼吸。熱に浮かされた身体にはしっとりと汗が滲んでいた。
「ふ、ぁ…あかん」
「ん…あかん、だな」
「止まらへん」「止まらねぇ」
終わりの見えない口づけだった。
「やばい、くちびる痺れとる」
「俺もだ。腫れてねぇか?」
「や…さすがにそこまでちゃうけど」
「けど?」
「うあー…」
彼の口許を見て、頬に熱が昇った。
「なんだよ?」
「…むっちゃエロいことになっとる」
君のくちびる。そう告げると、火村が吹き出す。
「お前もだぜ?」
顔を見合わせて笑う。そうしてまた唇が重なった。強く抱き寄せた互いの身体をもっと感じたくて、互いにシャツの裾から手を入れる。直接触れる肌が火傷しそうなほど熱かった。
「ありす」
「ん」
「このままおっぱじめそうな雰囲気だが」
「おっぱじめる?」
「セックスを」
「ぶっ…な、なに言うて…!」
「なぜここで初心っぽく振る舞う。裾に手突っ込んどいて」
「な、それは君やって…!」
「お前とまぐわいたいのは山々なんだが」
「まぐ、…!?」
「ちょっといっぱいいっぱいでな。やるとしても動ける気がしねぇ。マグロ状態になるけどいいか?」
「君な……俺かていっぱいいっぱいで動けんわ。俺もまぐろになんで」
「それじゃあ何も起こらねぇじゃねぇか」
額を合わせてクスクスと笑い合う。目が合えば、自然ともう何度目かわからない口づけを交わした。
その日は一緒にベッドの中に入った。互いにいっぱいいっぱいで、ただぴったりと寄り添うようにして布団の中で抱き締め合う。そこでぽつりぽつりと私の胸中を語った。とても理路整然と話すことなど出来なくて、訳のわからない内容になっていたと思う。けれど、彼はただただ頷くだけで何も言うことはなかった。
「…ごめんな」
自分勝手の思いで彼に苦しみを強いてきたことへの謝罪だった。けれど、彼は抱き合った腕でぽんぽんと私の背中を叩いて笑った。
「謝る必要なんかねぇよ」
「でも…」
「言っただろ。辛いだけじゃなかった。お前を思っての苦しみは、翻せば幸福だ。お前と出逢えたからこその感情なんだから。必要だったんだ、俺たちのこの十四年間は。その間にいろいろと考えたしな」
「考えたって……結婚とか?」
「まぁな」
何度も想像した火村の結婚。こうして通じ合った今では、想像することさえ嫌だった。
「そんな顔するなよ」
「どんな顔や」
「〝火村が結婚するなんて嫌や、俺のもんなのに!〟って顔」
「…俺の心の声を勝手に創作すんな」
「違ったか?」
くつくつと笑った火村は宥めるように頬にちゅ、とキスをした。
「結婚もな、まぁ考えなかったわけじゃねぇが…ほら、俺って聖人並みに心根が優しいだろ」
「……どこからどう突っ込んでええのかわからん」
「できねぇよ、結婚は。これっぽちも愛されない妻が可哀想だろ」
「出逢うかもしれんかったやん。…これからでも。君が愛することのできる女性が」
「それはない。俺はもうお前と出逢ってしまっている。お前以外に渡す愛情は婆ちゃんと猫くらいにしか持ち合わせていない」
「寂しい人生やな」
「そうか? 俺には、あまりある幸福な人生だ。…それに」
「うん?」
「俺の人生に付き合うなんて――地獄だろ」
自嘲するように彼は言った。
「火村、」
「可哀想なアリス。俺みたいな面倒な男に捕まって」
彼の奥底にある触れることのできない何か。もしかしたら、そこには生涯触れることが叶わないのかもしれない。いや、いつか彼から話してくれると勝手に信じていよう。私はそう思った。
「……その台詞、そっくりそのまま返すわ。俺はめちゃくちゃ面倒やで。十四年ひとりで拗らすくらいやからな」
「…俺ほど面倒見のいい奴なんているかよ」
「修羅場明けの小説家の世話なんて慣れたもんやしな?」
「そうそう。何年も面倒見てやってんのに、その小説家はベストセラーひとつ出さねぇんだぜ? 困ったもんだよな」
「だから、君は一言余計やねん!」
背に回してある手でバシバシと叩くと、「いてぇ」と笑いながら返された。
「あー眠くなってきたな。アリスが温かいせいで」
「俺は子ども体温ちゃう」
「ぬくい」
もともと密着していた身体がさらに抱き寄せられる。
「夢も見ないほどぐっすり眠れそうだ」
「――そりゃよかったわ」
静穏な夜がこのままずっと続けばいい。けれど、彼には訪れないのだろう、いまだ。この先も劈くほどの悲鳴をあげて飛び起きる日々が待っているのだ。でもせめて、少しでも穏やかなる夜を過ごしてほしかった。他でもない私と。
「おやすみ、火村」
「おやすみ、アリス」
うつらうつらとし始めた火村は目を閉じた。その姿を視界に収めてから、彼に倣って瞼を落とす。少し間を置いて、「アリス」火村が呼んだ。目を開けると、彼は瞼を下ろしたままだった。
「ありがとう」
掠れた声だった。もしかしたら微睡の中にいたのかもしれない。私はそっと唇を重ねて、泣きそうな幸福を味わった。
意識が浮上した。薄く瞼を開けると、傍にあった体温がなくて慌てて起き上がった。火村はベッドに腰かけていた。
「ひむら?」
彼の肩が小さく揺れた。顔だけ振り返った火村が手にした紙を見て目を見開いた。
「な…なに勝手に見てるん!?」
彼が手にしていたのは、サイドテーブルに無雑作に放置していた原稿用紙だった。そこには火村と私が今のように関わらない世界が描かれている。私の臆病な恋心を吐き出すために書いていたものだった。彼が、私と出逢う不幸に襲われない世界。そう思っていた。昨日までは。
寝起きだからというだけではないのだろう。火村は凶悪な顔をしていた。しかし、そんな彼が紡いだ声は小さく掠れていた。
「お前が隣にいない世界なんて、ぞっとする」
心底嫌そうにそう言った。
私は堪らなくなって彼に抱き着いた。俺もや、小さく呟いた。私たちは生涯離れることはないのだ。だって出逢ってしまったのだから。己の世界の一部になってしまうような存在に。私はこの男を決してひとりにはしないと心に誓った。きっと彼も同じ誓いを立てているに違いないと、そう信じることは容易かった。
End.
2016.7.2