01

 

 (略)
 急かされた注文の為、版下を抱えて電車に乗った。もう何本もすれば終電になってしまう。帰りはタクシーかと、思わず溜め息を漏らした。私如きのサラリーマンにとっては痛手だ。嗚、経費で落とせるか。そんなことすら思い至らないとは相当疲れているらしい。乗客はちらほらといたが、どの人も私同様疲れ切っているように見えた。
 営業先の最寄り駅に着く。立ち上がった際に眩暈がして、慌てて電車を降りた。その瞬間だった。
「きゃあ」
 悲鳴が上がった。可愛いものではない。身を切るような恐怖の叫喚であった。
 人が! 会社帰りらしき女性がプラットホームに設置された錆びれたベンチを指して言った。その場にいた数人――私、悲鳴を上げた女性、電車に乗ろうとしていた男性、そして駅員――がその方向に視線を向ける。電車のホームに散った血痕に、誰もが悲鳴を上げた。
 ベンチの下に滴るほどの流血。私は人の死を目の当たりにして、一歩も動くことが出来なかった。

 (略)

 猟奇的な犯罪は様々なメディアで一際目に付く。新聞で読み、報道番組で見た、その一連の事件に触れることになるとは思っていなかった。
 三人目の被害者であった。
 私は遺体が発見された場所にいた者として警察に事情聴取されることとなった。その場にいた者は駅室に集められ、刑事を待つこととなった。時間は深夜を回っている。終電は当然逃していた。
 駅室の扉が開く。禿頭の男が入ってきた。太腹の端をサスペンダーが覆っていた。もう一人、男が入ってくる。ネイビーのシャツに白いジャケットを羽織った男だった。よく見れば整った顔立ちをしているが、弛んだ細いネクタイと白髪交じりの乱れた髪によって、少しばかり残念なことになっている。
 禿頭の男が警察手帳と共に自己紹介をした。そして次に僅かに後ろで佇む白いジャケットの男を指して紹介した。
「犯罪学者の火村先生です。我々が捜査協力をお願いしました」
 学者先生やったんか。心の内で零した。捜査協力とは、まるで探偵みたいやなぁ。そう思いながら会釈する。
 今度は順番に私たちが自己紹介をすることになる。座っていた場所がたまたま端だったため、私からする羽目になった。こんな状況が初めてである為に無駄に緊張することとなった。加えて、母親から与えられた名前が余計に緊張を促した。
「有栖川有栖です。印刷会社の営業をやっています」
 名前を言った途端、怪訝そうな幾つもの目が向けられる。犯罪学者もまた、目を丸くして私を見ていた。


***


 犯罪学者もまた、目を丸くして私を見ていた。
 そこまで書いて手を止めた。若い頃になけなしの金で買った安物の万年筆を置いて、深く息を吐く。原稿用紙に滲む文字は情けなくも所々震えていた。それをぼんやり眺めながら、昔より字が下手になったなと思う。今はほぼパソコンで執筆するため、原稿用紙に書いては消してを繰り返していた高校時代などを思い出すと懐かしくなった。そんなことに思いを馳せては、それに付随して思い出してしまう記憶が胸を抉ってくる。想いを綴った手紙を渡した少女の面影が脳裏を彷徨う。いつまで引き摺っているつもりだともうひとりの自分が笑った気がしたが、いつまででも引き摺るように思えた。
 机に置いてあった携帯が震えた音にびくりと肩を揺らす。画面に表示された名前にすぐに手にして、通話ボタンを押した。

「もしもし」
『〝もしもし〟はかけた側が使う文句であって、かけられた側は使わねぇんだよ。有栖川先生はそんな常識も忘れてしまうほど、ミステリの世界に没頭していたのか
「……どちら様ですか開口一番文句を放つ常識外れの方は」
『火村です』
「わかっとるわ
『怒鳴るな。頭に響く』
「怒鳴ってへんやろ。いちいちムカつく奴やなー」
『酷いな。ナイーブな俺に対して』
「ああ、英生くんはデリケートにできてるんやったな」
『そうだぜ。この世知辛い浮世、生きにくいったらありゃしねぇよ』
「…こんな会話したことなかったか
『そうだったか
「今無性に君に何か投げつけてやりたいわ」
『そうか。じゃあ今すぐ降りてこいよ』
「うん
『下にいる』
「はあ!?

 携帯を耳に当てながら、ベランダまで急いで行く。少し乗り出して下を覗くと、おんぼろのベンツに寄りかかった白いジャケットを羽織った男がいた。彼は上を向いて私に気付くとひらひらと手を振った。さながら逢引にきた男が女に会いたかったんだと気障ったらしく手を上げるドラマのワンシーンのようである。

『会いに来たぜ、ダーリン』

 同じような場面を思い浮かべたのだろう。電話口から聞こえた火村の一言はそんなしょうもない言葉だった。

「…何の用やねん」
『大阪で事件だ。ついでだから寄ったんだが、助手は来てくれるかな

 来てくれるかな? のところで彼は携帯を持ってないほうの手を前に出した。マイクを差し出すような仕草だ。

「……いいともー」

 火村が喉奥でくつくつと笑う振動が携帯越しに聞こえる。

『そりゃあよかった。早く来い、アリス』
――…了解」

 〝アリス〟。会話を初めてからようやく呼ばれた自分の名前に一際大きく跳ねた鼓動の意味に気付かないふりをして、私は火村のもとに向かった。



 事件の内容は、とあるマンションの駐車場で女性の遺体が発見されたというものだった。女性は身体中を滅多刺しにされていた。その様をあまり見ないようにと火村が私を背に隠すように立った。そのことに気付きつつも、私は悲惨な運命を辿った女性をちらと見てから、その姿をじっと見て検分している火村をこっそりと見つめた。彼はこれが専門だ。犯罪という非日常の中に飛び込むことは、彼の研究のひとつである。しかし、私はいつだって不安になる。犯罪が行われた、または死体が遺棄された現場。関係者たちの強い感情――哀しみや憎しみ――の発露。そういう場の空気というものは、どこか禍々しい。それは単なる思い込みでしかないかもしれないが、火村はそういう場に躊躇なく踏み込む。それが彼の仕事ではあるが、例えば犯人と対峙するとき、犯人の理不尽な怒りや憎悪が彼に向かうことも当然あるだろう。それを一身に受ける彼の心がその禍々しい何かに穢されていくのではないか。そんな不安が拭えない。
 古来より神道では、人間や動物の死などは不浄のものとされていた。また、血の流出や国津罪――神道における罪の概念――に相当する病気にかかることは穢が発生する原因と考えられてきた。神道はこの穢というものを殊更に厭う。そしてその穢に接触して汚染することを触穢という。穢の伝播は弘仁式や延喜式に規定され、国家が管理していたほどである。その思想でいえば、火村は穢に触れすぎているということになる。…いや、無神論者の彼にとってそんなことはどうでもいいことなのであろうが、そのような目に見えない何か――それ自体が存在するとは勿論思ってはいないが――心が受ける負担、犯罪という場においての不条理や理不尽、そのようなものが火村の心を圧迫していってしまわないか。そんなことを思うようになった。
 端的に言えば、私は怖かったのだ。彼がこのようなフィールドワークを行うことによって起こり得るすべての可能性が怖かった。例えば、激情した犯人に襲われたり、彼の手で暴かれた事実によって逮捕された犯人、またはそれに近しい人物が彼に復讐をしたり、それから。それから、彼の心が昏く底の見えない闇の中へと堕ちてしまわないか。私はそのとき、彼の役に立つことは出来るのだろうか。この無力な手は彼の背を支えられるのか。彼の腕を掴むことは出来るのだろうか。

「アリス、どうした

 火村がぼんやりしていた私に声をかけた。

「いや…」

 何でもないと首を振った。

「なんかわかったんか
「ああ」

 彼の怜悧な頭脳はすでにこの現場のあらゆることを把握したらしい。
 殺された女性は三十四歳。奇しくも私たちと同じ齢であった。そして偶然はそれだけではなかった。

 彼女には親友がいた。その親友に話を伺うと、その女性はこう言った。
 ――彼女とは大学生のときに出会いました。それから、ずっと…
 女性は火村がテーブルの上に置いた被害者の写真を見ながら、口を閉ざした。火村が問う。
 ――親友だったのですね
 ――……はい。
 ――しかし、貴女は彼女に親友以上の感情を抱いていた。
 女性がハッとして火村を呆然と見つめた。
 ――そうですね
 ――…はい。大学四回生のとき、私は彼女に告白しました。好きだったんです。そういった意味で…。
 私は思わず横目で火村を見た。彼はただ無表情で彼女を見つめている。
 ――出逢ってから十四年…十五年ですか今でも貴女は…
 ――はい。愛しています。
 火村が夜色の目を細めた。その瞳が湛える感情が何なのか、私にはわからなかった。ただ、その瞳が見つめる先の彼女は諦観を浮かべて、泣きそうな顔で微笑っていた。



 その日はもう夜も深くなり、捜査は翌日に持ち越されることとなった。火村が運転するベンツは今にも壊れそうな音を立てながら、私のマンションに向かった。近場のパーキングに当然のように車を停めた火村は私のマンションにさっさと歩いていく。泊めてくれの一言もないとは、と思いながらも彼についていった。早く開けろとばかり不遜な態度でドアの前に佇む彼に呆れながら、鍵を開ける。私に続いて玄関へ入ってきた火村が背後でガチャリと鍵を閉める音がやけに大きく響いた。ただ戸締りをしただけのその音に私が小さく肩を揺らすと、背後の火村が微かに笑った気がした。

「俺はお前を殺したりなんかしねぇよ」

 玄関で棒立ちしていた私を追い越しざまに、彼が小さくそう言った。わずかに自嘲を含むような、哀しみを含むような、そんな声音だった。
 〝俺は〟? それはつまり、あの女性が親友に手をかけたということなのか。十四年、恋情を抱き続けた親友をその手で――
 私は見えなくなった火村の背にハッとして、急いで追いかけた。私はそんな不安を抱いたわけではない。彼が私を殺すなどという、そんな恐怖を抱くなんてことはあり得ない。そう伝えたかったが、冷蔵庫を勝手知ったるといった感じで開けて覗いている火村に口を噤んでしまった。

「何にも入ってないじゃねぇかよ」

 ちっと火村が舌打ちする。

「コンビニ寄ってくればよかったな。お前もなにもないってわかってたんなら、早く言えよ」

 私を振り返った火村がそう言った。

「…まさか君が断りもなく泊まるなんて思わなかったんや」
「こんな時間に京都まで帰れってか。作家先生は人情ってもんがないのかね」
「君に言われたないわ。有栖川ホテルはちゃあんと金取るんやで」
「明日の朝食なら作ってやるよ」
「冷蔵庫空なのに
「…朝買いに行く」

 眉を寄せた火村が不機嫌そうに言ったので、私は思わず笑ってしまった。
 ふてくされた表情のまま、「シャワー貸してくれ」と言って元々緩んでいたネクタイをさらに緩めている彼に頷く。浴室に向かう彼の背を見送りながら、私は十二年前の出来事を思い出していた。
 大学四回生のとき、私は火村に告白された。


***


 火村は大学院に進むこと、私は印刷会社への就職が無事に決まった頃、火村の下宿先で酒盛りをした。これから年が明け、四ヶ月も過ぎれば新しい生活が始まる。私は社会人になることに漠然とした不安を抱いてはいたが、ふいにこうして彼と過ごす時間が減るということに思い至った。
 二回生のとき、階段教室で出逢ったこの風変わりな男とここまで近しい友人になるとは思っていなかった。あれから、時間さえあれば一緒にいたように思う。違う学部で悔しいことに頭の出来だってあまりに違うというのに、何かあれば議論を朝まで交わし、意味のない酒盛りで盛り上がったりした。こんな日々とは無縁になるのかと思うと、嫌で仕方なかった。
 学生のときの友人は大切にせよ、と世間では度々言うだろう。社会人になれば友人ではなく、知人が増えるのだという。一生の友人を得るということがいかに難しいか、わからなくはない。特に私のような心の裡に入られることを厭う人間には難しいのだろうなと思う。そして彼――火村英生もそうだろう。どこか浮世離れした雰囲気を纏い、孤高のように見える彼はどうしてか凡俗な私の傍にいた。
 普通でないほど犯罪者を憎むこの男が大きな闇を抱えているのだろうということは容易に想像できた。きっとそれを私が知ることはないのだ。深酒して彼の部屋に泊まったある日、彼がひどく魘されていることを知った。声にならない悲鳴をあげ、己の掌を食い入るように見つめる火村を薄目を開けた私は見てしまった。しばらくして、彼がこちらを向いた。私は咄嗟に目を瞑る。何も見ていないよ、と知らないふりをした。彼が安堵したような息を漏らしたのを聞いて、これで正解だったのだとほっとする。他人に知られたくないことなど、誰にだってあるだろう。それは勿論私にだってあった。高校時代についた傷は五年経った今でも癒えることはなかった。
 もしかしたら、いつか私は彼に語るかもしれない。もしこの先、何年も彼の傍に居ることが叶ったならば、私は言うかもしれない。二回生の五月七日、君が勝手に覗いた原稿用紙に物語を紡ぎ始めたきっかけはこうだったのだと、昔に想いを馳せて言えるときが来るのかもしれない。そうしてそのとき、皮膚が突き破れるほどと思ったあのときの惨痛が少しでもやわらいでいたら――そこまで考えて私は愕然とした。
 あれは恋情が最初の一歩だった。想いを綴った手紙。必死に掻き集めた言葉で紡いだ私の心の裡。それの何一つ彼女には届かなかった。その惨痛が火村によってやわらぐかもしれない。そんな想像をした理由を唐突に理解して、私は愕然とした。
 好き、なのだ。私は彼が、火村英生が好きなのだ。
 そのことに気づいて、私はとても怖ろしくなった。

――アリス
「っ、」
「ぼーっとしてどうしたんだ。溢れるぞ」

 それ、と火村が指した缶ビールは今にも中身が溢れそうだった。慌てて傾けてしまっていた手を戻す。

「俺を差し置いて兎の穴に落っこちるなよ、アリス」
「別に不思議の国に迷い込んでたんとちゃうわ」
「じゃあミステリの国か
「なんやそれ。行ってみたい」
「そのときは俺も連れてけよ」
「なんや、置いてけぼりは寂しいって

 揶揄するように言ったのだが、

「寂しいよ」

 そう、やけに真面目な声音で返ってきた。驚いて火村をまじまじと見る。彼は少し困ったように眉を下げていた。

――な…んやねん、急に」

 火村は小さく笑った。少し自嘲するような感じで。

「…いや。お前がどこかに行っちまうのは寂しいなと思ってな」
「別にどこにも行かんよ
「行くさ。四月になればな」
「就職ってことかしゃあないやん、そんなの。君かて院に進むんやから」
「俺は変わらないだろ。あの大学にいる」
「それは…そうやけど」

 火村らしくないと思った。彼も思ってくれているのだろうか。こんな何でもないような共に過ごした日々との別れを寂しい、と。

「しゃっくり」
「は
「しゃっくりを起こすように時間をループできるなら」
「筒井康隆か」
「お前と会ったあの時点がいい」

 初夏の木漏れ日の射す五月七日が。
 私はすぐには何も言えなかった。

「この二年間を繰り返せたらな」

 彼が非現実的なことを言うのは珍しい。

「……『しゃっくり』で繰り返す時間はたったの十分間やで」
「そうだったか」
「覚えてへんのか」
「大分昔に読んだからな」

 それにそんな楽しい物語ではない。

「俺やって…」
「ん

 君と過ごした二年間を繰り返せるなら――そう言おうとしてやめた。これは単なる寂寞だ。これから変わってしまう生活に対する不安を含んだもの。

「…いや、なんでもない」
「何だよ
「別にまったく会わなくなるわけやないやん」

 自分の希望を多分に含んだ言葉を放つと、火村はなぜか驚いたような顔で私を見た。

「なに
「……いや」
「そりゃ今までみたいに毎日顔合わせるなんてことはなくなるかもしれんけど…会えるやん。連絡取ればええことや」

 会いたかった。きっと互いに忙しくなるだろうその合間を縫ってでも、私は会いたかった。だからそうすればいい、そうしてほしい、そんな願いを込めて私は言った。
 彼はどう思っただろう。恐る恐る彼を見て、瞠目する。火村は破顔した。ふわり、と花が綻ぶような嬉しさを隠さない笑顔だった。そんな顔をするのは初めて見た。思わず頬が熱くなる。

「そうだな」

 子どものような声音で彼はそう言った。

「アリス

 ぽかんとしたまま隣に座る彼を見ていると、怪訝そうな顔をされた。
 ああ、もったいない。火村の笑顔をまだ見ていたかったのに。

「おい、アリス」
「……ん
「どうしたんだよ頬が赤いぞ。もう酔ったのか

 火村の指が私の頬に触れた。動いたことによって、キャメルの匂いが強く香った。
 普段と何ら変わらない距離だった。自覚した感情と、いつもと少し様子が違った火村の所為だろうか。隣同士に座ったあまりに近さにくらくらする。頬を綺麗な指先がなぞるように動いた。

「いや、まだ酔って――

 酔ってへん。そう言おうとしたが、言葉は出てこなかった。横を向いた拍子に目が合った。近かった。ドクンドクンと心臓の音が耳鳴りのように響いていた。彼の夜色の瞳が潤んでいる気がした。酒のせいだろうか。でも彼の瞳の奥に浮かんだ熱を垣間見た気がして、私は思わず目を閉じてしまった。わかっていた。瞼を閉じることで何が起きるか、私は無意識に理解していた。わかっていて、目を閉じたのだ。

「…ん」

 次の瞬間には唇に熱が触れた。彼の、火村の唇が触れたのだ。あまりの幸福に泣きそうだった。それなのに、どうしようもなく怖かった。
 ゆっくりと目を開ける。火村の手は私の頬に触れていたが、私は彼に手を伸ばすことはどうしても出来なかった。

「…アリス」
「ッ、」
「アリス」

 呼吸が交わる距離で、切なげに漏らされた自分の名前。その声も、夜の海のような瞳も、彼の感情を雄弁に伝えていた。
 だめだ。だめ、いやだ、やめてくれ。私は恐怖に震えた。彼はダメ押しのように言葉にした。

「アリス…好きだ」

 噫。私はびくりと身体を震わせた。
 怖かった。恋とか愛とか、そんな不確かなもので彼と結ばれるのがひどく恐ろしかった。私の中では友情のほうが確かだった。彼が誰かとつるむところは見たことがなかった。私が特別だと知っている。私は彼よりは友人を持っているだろうが、けれどわかっていた。私も彼も互いが唯一無二の友人だと思っている。このままがよかった。ほど良い距離のまま、けれど唯一無二のままで。そうすれば、傍にいられる。いつか、彼がひとりではどうしようもなくなったとき、私は彼の手を掴みたかった。そのためにもずっと傍にいたかった。
 でも、恋は冷めてしまう。それはきっと友情よりもっと強固で粘着質で傲慢で、そんな感情なのだ。私は耐えられるだろうか。彼の内の決して踏み込めない領域を望んでしまうのではないだろうか。そうして彼に疎まれたら、きっともう友人には戻れない。傍にいられなくなってしまう。いつか彼からの感情が無くなってしまったら、私はもう――。脳裏に少女の姿が過ぎる。あんな思いはもうたくさんだ。彼に捨てられてしまったら、きっともう立ち直れない。怖かった。どうしようもなく。友人なら隣にいられる。けれど、恋人だったら私は悩み続けるに違いない。彼の隣に相応しくない、役立たずは捨てられると恐怖に怯え続けてしまう。終わりのある始まりをはじめたくなかった。

 私は無意識にいやいやというように首を振っていた。火村が息を呑む音が聞こえた。何もかもが恐ろしくて、ぎゅうっと目を閉じる。すると唇に何かが触れた。咄嗟に目を開けると、彼は微笑んでいた。その瞳に諦観を湛えて。唇に触れたのは彼のシャツだった。先ほど触れた口づけの感触を拭うように、彼は自分のシャツの裾で私の唇を拭った。

「悪かった」

 少し間を置いて、彼は私を真っ直ぐに見つめて口を開く。

――忘れてくれ」

 私は彼に酷い仕打ちをしている。目を閉じたのは私だった。あの口づけを望んだのは他でもない私のほうだったのに。
 それでも彼は自分が悪いのだと言わんばかりに笑った。何でもないことのように、私の罪まで背負って。

「…ひ、む」

 火村。乾ききった喉で呼ぶ。彼が離れていかないようにと。ああ、私はあまりにもひどい男だ。

「大丈夫だ」

 彼の想いに応えないくせに、自分の望みだけを押し付けていた。友人として傍にいて、と。明敏な彼は私の気持ちを汲み取ったのだろう。
 火村は私の髪を少し乱暴にくしゃりと撫でて、また笑った。

「もう寝よう」

 そう言って彼は机の上を片付け始めた。

 いつもと変わらない距離で布団に入った。電気の消えた部屋は窓の外の月明りだけが頼りだが、ほとんど見えないくらいだった。寝息は聞こえない。今日、彼は悪夢に苛まれることはないだろう。きっと、朝まで眠ることはないのだ。私と同じように。眠れるわけがないと互いにわかっていながら、けれど私たちはこうして何も起こっていないのだと云うように、いつもと変わらない行動をとった。
 部屋の冷たい空気が頬を撫でる。それは、先程触れた火村の指先の熱を塗り替えていくようだった。それが嫌で布団を顔に寄せようと引っ張ったときだった。

――アリス」

 火村が呼んだ。驚いて息を呑む。返事を返すことは出来なかった。けれど互いに起きていることなんてわかっているのだから、返事などいらなかったのだろう。

「確認していいか
「……うん」
「明日も俺たちは友人か

 彼の声ははっきりと言葉を紡いでいた。私は震える声で答える。

「…当たり前やろ」
「そうか」

 声音からは彼の感情を読み取ることは出来なかった。
 目の奥が熱くなる。止まりそうな呼吸をどうにか紡ぐと、この部屋に染みついた火村の匂いがした。思案するときの彼の癖のように、自分の唇をなぞる。確かに触れたはずの彼の唇の熱はそこにはなかった。他でもない彼の手によって、拭われたのだ。私は彼との口づけの感触を思い出しながら目を閉じた。おそらく最初で最後のその触れ合いを生涯決して忘れないと胸に誓って。

 翌朝、「おはよう」と言った火村の顔は完璧な友人の顔だった。



 火村が大学院を出てからも大学に残り、私は珀友社主催のゴールドアロー賞に佳作入選しデビューして専業作家となった頃、それは起きた。もうあと数年で三十路も超すという頃である。あの唇の触れた夜のあとも、大学を卒業したあとも、私たちの交流は当然のように続いていた。
 私は資料探しに、火村の勤め先でもある母校の図書館へと向かっていた。そのとき遠目に見えた友人の姿。印刷会社の営業を辞め、専業作家となって会える時間が増えると私は喜んだ。彼は相変わらず忙しいままであるだろうが、私は夜中まで駆けまわるようなことはなくなったのだ。声をかけようと足を向けたとき、私からは陰になって見えなかった人物が火村の隣にいることに気付く。艶やかな漆黒の長髪を風になびかせるその女性は清楚で美しかった。二人は何か会話しながら歩いている。年齢も同じくらいだろうか。大学の職員なのかどうかはわからないが、火村の隣に寄り添う姿はそこにいるのが当然であるかのようにぴったりだった。
 火村が隣の彼女を見て、目を細めて僅かに口角をあげた。それを見た瞬間、胸中を凄まじい感情の嵐が巻き起こった。やめろ。やめてくれ。彼の隣に立つな。彼に笑いかけるな。その男は私の、私の――

 ――俺の、ものだ。

 私は愕然とした。胸が苦しくて息が止まりそうだ。これは紛れもない嫉妬だった。
 どうして思い至らなかったのだろう。足りない私の脳は、所謂そういう想像をこれまで一切しなかったのだ。大学生の頃、火村に女性の影はなかった。あるいは気づかなかっただけかもしれないが、彼は女嫌いを公言していたし、勉学以外はずっと私といたようなものだった。卒業後も忙しい合間を縫って会っていたが、女性の話が出てくることはなかった。だから考えもしなかったのだ。彼が恋人を作り、過ごし、いつしか結婚を――そんなこと考えたことがなかった。大学四回生のとき、彼は私を好きだと言ったが、いつまでもそうであるはずはなかった。ましてや、私は彼を振ったのだ。
 結婚。誰しもがその話題を取り上げるだろう。作家などという不安定な職業、専業としては駆け出しで収入も少ない私はともかく、火村はこの先結婚という話題は避けられないに違いない。彼が誰かを愛し、将来を誓う。いずれは子どもを授かり、幸せな家庭を築く。それを想像しただけで、私はもう立っていられなくなりそうだった。
 あの日。彼に告白され、それをなかったことにした最低な私は彼への恋情を心の奥底に閉じ込めた。友人でいることを望み、それ以上は怖いのだと逃げ出した。けれど、その恋情は簡単に忘れられるほどのものではなかったのだ。私はあの日から何年も経ってようやく、そのことを思い知った。気付かないまま、私の心には降り積もっていたのだろう。火村への恋情が。
 私は棒立ちしたまま、火村と女性の姿を眺める。火村、火村。気づけ、気づいて。俺を見ろ。そんな醜い感情を胸の奥底で叫びながら、彼の姿を瞳に映し続けた。彼が私に気付くことなく、建物へ入ろうとしたきだった。火村は何かに導かれるように振り向いた。彼の視界が私を捉える。驚いたように目を丸くした彼は、次の瞬間には私を見て小さく笑った。
 「アリス」彼の唇がそう動いたのがわかった。彼は女性に何かを言ってから、私のほうに向かってくる。熱く滾るような嫉妬心が女性に対する醜い優越感に変わり、私の心は浅ましく歓喜した。目前まで来た火村の顔を見て、私は努めて自然に笑った。

「ようやく専業作家になったっていうのにサボタージュか、有栖川先生」
「君こそ、研究に勤しむ振りして美人と密会しとったんか」
「おいおい、男の嫉妬は醜いぜお前好みの女だからって」
「別に俺好みちゃうわ」
「いーやお前好みだね。大学のときから、ああいう女がよくお前の小説に出てくる」
「なっ…そんなわけない」
「そうだったか

 そう言って、にやりと笑う火村は完璧な友人の顔だった。

「…それで、あの美人は恋人なん
「まさか。同僚だ」
「そうなん? それにしては――

 仲良さそうだった。そう言いかけて口を噤んだ。

「何だよ
「や…君も隅に置けへんなって思うて」
「だから、そういうのじゃねぇって言ってるだろ」
「でも、」
「やけに突っかかるな。友人に先越されるって焦ってるのか
「先って…」
「結婚」

 ひゅ。息を呑む。

「まぁ、お前は当分無理だろうな」
「どういう意味や」
「結婚できるくらい稼いでねぇだろ」
「うっさいわ! 助手の君に言われとうない」
「違いねぇ」

 喉の奥でくつりと笑った火村は少し沈黙してから、静かな声で言った。

「…俺はできねぇよ、結婚は」
「え…

 〝しない〟ではなく、〝できない〟と言った言葉に違和感があった。どういう意味だと聞こうする前に、彼が口を開いた。

「今夜は空いてるのか
「えああ、まぁ」
「歯切れ悪ぃな。暇なら飯食いに行こうぜ」
「君は仕事平気なん
「今日は何が何でも早く帰ってやるさ。最近、仕事の押し付けが酷いからな」

 酒飲みてぇ。そう呟いた火村に笑う。

「あんま強くないんやから、ほどほどにな」
「お前がストップかけてくれ」
「酒量くらい自分で制限せぇ」
「今日は無理だ」
「なんでやねん」
「アリス」
「はいはい。見張っといてやる」

 ぽんぽんと火村の背を叩く。友人の触れ合い。それなのに、私はその触れた熱に溶けてしまいそうだった。

「店どこにする
「お前が決めてくれ」
「おん、わかった。割り勘やからな」
「えー」
「〝えー〟ちゃうわ! 互いに薄給なんやから、出し合いっこせなあかん」
「早くベストセラー出して奢ってくれよ、有栖川先生」
「もうちょい待っとれ」
「〝もうちょい〟? もうしばらくの間違いだろ
「素直に頷いておけばええねん。一言余計やわ」

 むっとした私に小さく笑った火村が腕時計を見て顔を顰めた。

「そろそろ行かなきゃな」

 私は頷いて笑う。

「じゃあまた夜にな。連絡するわ」
「わかった」

 慌ただしく去っていく火村の背が見えなくなってから踵を返す。資料を求めて図書館に行くはずだったが、とても脳が働かない気がして大学を後にした。頭の中は火村のことでいっぱいだった。

 夜はどこの店に行こうかと考えながら、何気なく寄った大学近くの公園には親子連れの姿がちらほらあった。想像力逞しい私の脳はその姿を火村に変換した。
 大学生の頃から不思議だった。彼はどうして私を傍に置いたのだろう。こんな何の取柄もない凡庸な私を。のみならず、彼は私に告白までした。好きだと言った。あれから彼の瞳に、あの日と同じ熱い恋情が浮かぶことは一切なかった。その気持ちはもう跡形もなく消え去ったといわれても驚かないほど、友情以外の情が見えることはなかった。私は深く息を吐いて、自嘲するように嗤った。彼を突き放したのは私なのに、彼の想いが私に向いていないのは厭だと思ってしまった。最低だ。
 あの告白は間違いだ。私は彼に想ってもらえるような人間ではない。公園に幼い子どもの笑い声が響く。子どもを抱く火村はあまり想像できないが、それがあるべき姿なのだろう。彼の内にある暗い澱みを取り払えるような、そんな彼を幸せにする家族。私はそれになり得ない。私が女性だったらなれただろうか。愚問だった。
 彼の不幸は私に出逢ってしまったことではないだろうか。そんなことを思った。出会わなければ彼はこんな酷い男に恋をして苦しむことはなかったのだ。
 私はベンチに腰かけて、鞄の中から原稿用紙と万年筆を出した。原稿用紙はお守りみたいのもので、いつも鞄に入れておいた。膝に乗せた鞄の上にそれを広げて、不安定な場で大きく揺れる文字で、物語を紡ぎ始めた。
 火村英生と有栖川有栖が大した関わりを持たない世界の話を。恋情などという自制の利かない感情に振り回されない世界の話を。
 己の中に降り積もり続ける彼への恋心をひとつひとつ吐き出すように。