TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > 亡国の情調 > 04
「それは昭和四十八年…一九七三年のことでした」
「一九七三…」
衝動的な感情をどうにか静め、働かない頭を動かす。
その年には何があったかと記憶を掘り起こしていると、日本は視線があった瞬間、切なさとか喜びとか、そういったいろんな感情を綯い交ぜにしたような顔をした。
「杜鵑花の咲く頃…五月のことでした」
一九七三年五月。確かその頃に日本と――。
「ドイツ民主共和国と日本国が国交を結んだのです」
そうだ。大使間の交換公文によってそれは成された。小規模ながら、祝賀会も開かれたことを覚えている。日本との半世紀近く振りの再会だった。
「あなたの姿をこの眼に映したとき、魂の震えるような…いえ、きっと言葉で表すことなど不可能なほどの激情に駆られた。あなたは記憶にあるより随分と痩せ細っていましたが、曙光の射す空を思わせる類い稀なる双眸も、戦果が色濃く刻まれた白皙の肌も、刃の煌めきを思わせる白金の髪も…それらは何ひとつ変わってなどいなかった。あのとき私は…恥も外聞もなく泣き喚いてしまいそうだった」
予想もしなかった男の言葉に瞠目したものの、得心が行かないというのが率直な感想だった。この男をそれほどの激情に駆り立てる何が自分にあったのかまったくわからなかった。
「だって、プロイセン君がいるんです」
震えた声音だった。
「私の目にあなたが映っていた。目に、見えるんですよ」
当然のことを男は随分と大袈裟に言う。
俺たちは対面した。何十年振りかの再会。日本はそこにいて、俺もその場にいた。目に見えるのは自明の理である。
「触れられるんです。熱をもってそこに存在するんです」
握手をしたなと思い出す。そういう場で行う特段代わり映えするわけでもない挨拶みたいなものだ。
「〝プロイセン〟がいるんです」
冷静で感情の機微の少ないこの男にしては些か興奮したように走った言の葉だった。今一度放たれたそれに男の真意が見えそうな気がしたが、彼は的を射ない話を続ける。
「あなたは東ドイツではないじゃないですか」
男の言葉を正しく理解するより先に感情が先回る。その瞬間、脳天から一気に腹の底に何かが刺さったような衝撃が走った。
「私にとって…いえ。きっとあなたの存在を知る誰もの目にあなたは〝プロイセン〟として映っている」
俺は東ドイツではない。それは当たり前のことだった。そのとき、〝プロイセン〟は地球上のどこにもなかったわけだが、だからといって俺自身が〝ドイツ民主共和国〟の化身として新たに生まれ変わったわけではない。東西に分かれていようとも、あの地は、民は、ヴェストのものである。俺が東ドイツの化身のような仕事をしていたのは、実際にそうだったからではなく、役目であったに過ぎない。
それは至極当たり前の事実である。あの日々の中、相まみえた旧知の誰もが俺を〝東ドイツ〟とは呼ばなかった。俺はプロイセンだから。
そう、当たり前のことだった。考えるまでもないことだった。そんな当然のことを真面にいる男は言ったに過ぎない。それなのに身体を衝撃が駆けたのは、その当たり前のことをこの男が初めて口にしたからだ。この男だけが唯一、言葉にして俺に投げかけたからだった。
「あなたにとって私は、ほんの一時関わった東の果ての島国に過ぎないかもしれない。今を生きる日本人だって、自国と大きく関わった国を挙げるとすればあなたの名を挙げる人など殆どいないでしょう。大きく交わったとも、強い繋がりがあるとも、とても言えません。歴史の教科書に絶対的に必然と書かれる関係では決してない。師と仰いだのもあなたの国だけではなかった。それでもあの頃の…明治国家の私にとってあなたの存在は、何ものにも代え難いほどに大きなものだったのです」
「――…明治、国家」
日本の口からぽろりと零れた何でもない言葉だったが、その名を名乗った、眼下の男とそっくりな男が脳裏に焼き付いている。死人のように――事実、彼は死んでいたのだろう。たったの四、五十年…この日本の上にあった国家――冷たい手に触れた。その感触が残っているような気がして、己の手をさする。そんなことはあり得ないというのに。
「私、あなたに憧れていたんです」
夢の中と同じ声が重なった。
闇色の双眸が真っ直ぐに俺を貫く。それがまばたいた一瞬、その眸が血のように紅く煌めいた気がした。それは気のせいに過ぎないのだろうけれど、俺は夢で見た〝日本〟と同じように不敵な笑みで答えた。
「知ってる」
清いまでの憧憬を湛える瞳を知っている。
きょとんと目を瞬かせた日本は、思わずといった感じで小さい笑声を漏らした。
「変わることは恐ろしかったです。けれど、変わることの覚悟というのは早い段階で出来ていました。インドさんや中国さんを見れば、変わらなければこの国が生きていけないことなど明白でしたから。けれど、変わることの覚悟があることと、世界に見合った近代国家に変われることは同義ではありません。覚悟だけあったって、そんなもの何の役にも立たない。文化も思想も国の在り方もまるで違う欧米諸国のような近代国家に変わることができるのか、ずっと不安でした。新政府の暫定政権が京都に置かれた頃、大きい変換を迎えようとしていたこの国は明確なビジョンすら持ち得ていなかった。お金もなければ、統一された軍隊もない。〝政府〟や〝国〟などと、およそ呼べるものではなかった。そして、どんな国にすればいいのかがわかっていなかった。あの革命にあったのは攘夷思想です。攘夷をして何を成すか――開国か鎖国か、そんなところで止まっていた。当然です。欧米諸国と出くわし、その力の差を知り、どうにかして侵されることなく、その国々と同じ、今までとは全く違う国をつくろうとしたのです。どうすればいいのか、明確にわかるはずもなかった」
日本は言わば世界に類を見ない存在だ。帝国主義の外国の脅威を退けた。同じ帝国主義に染まって。俺が思うにそれしか手はなかった。あのとき、日本が生き残る術は。それをたった数十年で、侵される脅威の中やり遂げたのだ。
けれど、そんなことを大成した目下の男はその頃は不安で仕方なったのだと弱音を漏らしている。
「例えるなら、真夜中の真っ暗闇の海に浮木ひとつにしがみついて漂っているかのような、そんな先の見えない不安でした。世界を知れば知るほど自国との差異を思い知り、ひとつひとつ希望が潰えていくかのようで…情けないですが、正直明るい未来など見えはしませんでした。そんな中、明治国家が改革を成すより先に、世界に見合う新時代の小さな文明国家がこの島国の上に誕生したのです」
「小さな文明国?」
「はい。紀州藩です」
「…紀州藩」
――『新しいプロイセンの誕生だ』
夢で見た光景がありありと瞼の裏に浮かび上がった。
「我が国の上には二百七十以上もの藩がありました。藩という呼び名はわかりやすくするために付けられた新しい呼び方ですけれど。藩はそれぞれがそれぞれの自治を行い、民を治めていたのです。藩ごとに文化があり、藩ごとに教育も違う。互いに競い合い、絡み合い、江戸の文化を創り上げていました。諸藩ごとにそれぞれ独自の軍――武士がいた。幕末の頃より、どの藩も外国の脅威を感じて近代化を独自で行っていました。紀州藩は幕府の親藩で明治維新では後れを取っていたのですが、あの地が行った藩政改革は明治国家を先取りしたようなものでした。あの地は明治国家より先立ち、鎌倉以来七百年以上続いた封建制度を根底から崩壊させる改革を行ったのです」
何千という長い世を悠々と在り続けたこの国にとって、革命がいかに大きな破壊を齎すか、想像だけで恐ろしいものがある。
「藩士の給与を縮め、官僚制度も才能と能力次第で登用するようにし、最高機関として政治府を設置した。これに並び、公用、軍務、会計、刑法、さらに領国各地には郡ごとに民政局を置きました。教育を扱う学習館も設置し、学校制度も整えられた。それから、開物局という通商に関する機関を置き、洋式技術や機械を導入する事で新しい産業が展開しました。軍は陸軍と海軍にわけ、傷病になった兵士の面倒を見る廃兵院も設置されました。そして、紀州藩では明治政府に先立って徴兵制がしかれたのです。武士・農民を問わず、二十歳に達した青年から選抜徴兵をするというものです。これはいわゆる志願兵制度に似たものですが、後に兵賦略則によって一律の徴兵が行われるようになります。これが後に新政府が行う四民平等の徴兵制です」
日本が目を伏せた。長い睫毛が覆い、闇色がさらに深くなる。
「これがどんなに大きなことか…欧米諸国と渡り合うには、旧来の封建的秩序を壊さなければならなかった。一刻も早い中央集権化が必要でした。近代国家として統一された兵制の確立は不可欠だった。しかし、そう簡単にいくものではないのです。新政府を樹立したのは藩士なのです。命を懸けて戦い、血を流し、勝利に凱旋したのは各々の藩の武士たちなのです。彼らが封建的諸藩の兵力に基礎を置くのは当然です。しかし、紀州藩はその封建的な藩でありながら、その中で近代的な〝国〟を創り上げたのです」
顔をあげた日本はどこか遠いところ――きっと、その過去の情景だ――を見ているかのようで、視線の合わない双眸が細められた。
「その様を見たときの感情を何と言い表したらよいのでしょう…眼下には強大な軍隊が広がっていました。歩兵は第一聯隊から第六聯隊、その他騎兵大隊、工兵隊、輜重隊、兵学寮、火薬兵器司所など、ほぼ近代的と言って遜色ない軍隊でした。洋式の軍服を身に纏い…ああ、下着には綿ネルを用いていたのです。木綿織物の生産に発展し、紀州ネルとして全国的に有名になったのですよ。それから草履ではなく、牛の皮を鞣した革靴を履き、兵卒は兵舎でベッドや椅子、机を使った生活を送っていました。さらには牧場まで開拓し、そこから牛乳や食牛を得ていました。兵学寮の図書館には軍事書籍がたくさんありました。このような近代的陸軍を指導したのは、」
彼の視線が真っ直ぐに俺を貫く。
「プロイセン人でした」
知っている。その光景を俺は見た。あの不思議な夢の中で。
「歩兵教官、工兵教官、製靴師、製革師、火工家、築城家。皆、そうだった」
日本が瞼を閉じた。
「黒い一様の軍服を着、革靴で行軍し、ドイツ語の号令で動き、プロイセン式の統率された隊列を組んでいました」
その瞼の裏に言葉通りの情景が浮かんでいるのだろう。俺の瞼の裏にもあの光景が焼け付いていて離れない。教官の男に『新しいプロイセンの誕生だ』と言わせしめたほど、それはプロイセン式の充実した軍隊だった。
「私はその光景を見つめながら、書物と、条約を結びに来たあなたが語ってくれたことでしか知り得ない、一度も訪れたことなどない遠い異国に想いを馳せました」
開かれた瞼の先に見えた闇色が微かに露を纏っているような気がした。
「あなたは鼻で笑うかもしれませんが…私にはそこに〝プロイセン王国〟が在るように見えた」
その言葉を聞いたとき、気管を圧迫されたかのような苦しさが胸底から湧き起こった。当然、あれだけでプロイセンが在ったとは言えない。けれど、その国を見たことすらない男の目にはそう映り、そして俺ですら、あの光景に今は亡き祖国の薫りを感じたのは確かだった。
「他の欧州諸国に遅れながらも短い期間で近代化を果たし、強大で勇壮な軍隊を持つ大国。文化も思想も国の在り方もまったく違うあなたに、私は勝手にも希望を見いだしたのです」
――『私、貴方に憧れていたのです』
夢の中で、目前の男とそっくりな男が再三繰り返していた。そして男の闇色が紅く見えさえもした。まるで俺と同じように。
「私はあの光景を見たとき、それまで胸中の大半を占めていた不安が少しずつ消えていくのを感じました。変わることは出来るのだと、そう思えた。紀州藩のプロイセン式軍隊は朝廷にも各藩にも喧伝され、果てにはイギリス公使やアメリカ公使までが見学に来たほどだったのです。彼らの目にもあの軍は一偉力に見えていた。…認められた気がしました。あの光景は、日本人でも洋式の軍隊を創れることを証明していた。私にも変わることが出来ると確信できた。だから、私はあの頃よりずっと…あなたに憧れていたのです」
あの清いまでの憧憬の意味がようやくわかった。不安に押し潰されそうだった日本にとってあの光景は、プロイセン式の統率された軍隊は希望に見えたのだ。
俺に師事を仰ぐより、ずっと前から憧れていたのだと言う。胸中に湧き上がる喜びはくすぐったいほどに温かく、優しいものだった。憧憬の目など向けられることは少なかった。日本の眩しいまでのそれは昔から不思議だったが、嬉しくないわけではなかった。
「勝手な憧れですが、国家見学のために欧米諸国を巡った中で、あなたの上司の演説を聞いて、あなたに憧れたのは間違っていなかったと、そう思えました」
小さくはにかんだ日本は、少し恥ずかしそうにそう言った。こんな風に直接的に好意を伝えられたのは初めてだ。彼の雄弁な瞳でわかっていたとはいえ、面と向かって言われると俺だって恥ずかしい。「そうかよ」とぶっきらぼうになってしまった返答にも、日本は微笑んでいた。
少しの沈黙の間、すっかり冷め切っているだろうお茶を含んだ日本は、「…ですが」とそれまでの微笑を寂しげなそれに変えて続ける。
「紀州藩のプロイセン式軍隊は、ほんの二年で終わりを迎えました」
「二年?」
「はい。藩が無くなったからです」
――『二百七十の藩が消える』
明治国家の声が耳の奥に聞こえた気がした。
「武士の、」
誰に聞かせるでもないような小さな声が口を衝く。
「え?」
「武士の消滅か」
目を丸くした日本が、ぱちぱちと瞬いてから不思議そうに首を傾げる。
「よくご存知ですね」
いや、知らなかった。あのあまりにもリアルな夢が本当に現実だったのではないかと、そんな馬鹿げたことを思わせる。事実、あの夢の光景は目前の男が見てきた情景なのだろうか。そんなことがあり得るのか。考えたって答えなど見つかりそうもないが、泡沫の夢と片付けるには、あまりにも鮮明に頭に焼き付いている。
「廃藩置県。藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化したのです」
「士族はどうなったんだ?」
「失業ですよ。先に言った通り、明治維新は士族による革命でした。命を懸け、そして多くの武士が死んだ…。それなのに、領地は取り上げられ、武士は失業…あまりな結果です」
「それでもしなくちゃならなかったんだろ」
夢の中のあの男はそう言っていた。
「ええ。必要だった。どうしても」
真摯な眼差しだった。昔の、俺の国へ師事に訪れた頃の、あの熱情を孕んだ眼差し。変わったと思っていた男の、昔と同じ姿を彷彿とさせるそれに指先が痺れるような昂奮が沸き立った。
「勿論、ただでというわけではありません。大名に対してはその家禄の十分の一を毎年支給…ただ武士は碌高の数年分に相当する現金、もしくは公金を一時的に支給されただけでした。それでも他の職に転業などというのは難しいもので、〝武士の商法〟などという言葉が流行りまして。慣れない商売に手を出して失敗したことを意味します。それが急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえとなったほどでした。…中には、殿様から頂戴した、その一時金が尽きるまで生き、尽きたあとは餓死した方もおられます」
きっと、夢の中の『もうこれで善い』と言っていた男のことだ。
「反乱はなかったのか?」
「もっと後になって最後の武士の反乱ともいえるものが起きますが、廃藩置県が行われたときは、ほぼ一例の反乱もありませんでした。倒幕をやった勝利者…藩の威信を根強く抱く彼らも、敗者も皆共々に武士が切腹したようなものです」
「…そりゃあ不思議だな」
「根底にあったのは幕末以来、日本人が共有していた危機意識です。この国は変わらなければならないと皆気付いていた。だから、武力を持った彼らが黙々と従ったのです」
日本国としての意識が、この島国に生きる者たちの中で芽生え始めていたからか。
「紀州藩の改革は、明治国家のモデルとなりました。陸軍兵制については政府はフランス式の導入を決めていましたから、プロイセン式になるのは十五年ほど後のことですけれどね」
そんなにも後のことだったのか。
「そして国家見学のため使節団は海を渡り、この国は大きく変貌していった。あの時代は…明治という国はその時代いっぱいを、大日本帝国という独立自尊の国にすることに費やしました」
自分で自分を支配して、他に寄り縋ることのない国。周りが欧米諸国に屈している中、独り立ちするために全身全霊をかけた、明治国家。あのやけに記憶に残る、真摯で思慮深く底のないような眼差し。熱情を秘め爛々とし、紅潮させた頬で力強い意思と存在感を発していた。あの国は確かに強かった。そこに根付く民が日本国全体を運命共同体としてみる意識を持つ国民となっていった、そんな時代。
日本は少し揶揄っぽい子どもじみた顔をしながら続けた。
「幕府があなたにした七重村の租借を白紙に戻すとか、そのようなことですね」
「…ああ、惜しいことをしたよな。ちょっと世情が違えば、北海道は俺様のもんだったかもしんねぇのに」
悪戯っぽく言った日本に今だからこそ言える冗談で返せば、「それは困りますねぇ」と笑みを含んで軽く返ってきた。
「まぁ、そういうような…植民地にする足掛かりのようなことをどうにか折衝して、ひとつひとつ取り除いていったのです。アメリカさんの鉄道敷設、イギリスさんとフランスさんの軍隊の駐屯……不平等条約改正には三十年もかかりましたが」
強い意思を含む眼差しが伏せられた。そこにあるのは矜持だ。男は確実にその時代の自分に誇りを持っている。それだけのことをしたと俺ですら思うが、過去を、あの時代を、この男が誇ることは、きっと許されていないのだろうなと思った。
「…この国に〝国民〟が生まれたと言っていい時代に突入したわけですが、その民はまだ支配されるだけの民だった。民が国を創るんです。そうして初めて〝国民〟と言える。そうするには、」
「参政権が必要だ」
日本は、こくりと頷いた。その顔には喜びとも切なさとも言えるような表情が湛えられている。
「国会が必要…その運営には、そして近代国家として、文明国として、憲法が必要不可欠でした。それはあなたを模したものだった」
街中を喧噪が包んでいた様子が脳裏を過ぎる。その発布をこの国の国民が大袈裟なほどに祝していた。
「……〝憲法とは法文ではない〟」
「国家の精神であり、能力…民族精神の発露だ」
俺が教えたことだった。
「ええ。…はい……はい、そうです」
こくこくと彼は何度も頷いた。幾度も返事をする震えた声は、その黒曜から雫が零れていないのが不思議なほどだったが、なぜそのような顔をするのか理解は出来なかった。
憲法は民族精神の発露であり、民族の歴史に立脚しているというのは歴史法学の考えだが、それが当時ドイツでは支配的だった。
憲法調査に来た日本人を待ち受けていたのは、ある種冷たい反応だった。憲法とはそういうものであるから、ドイツ人であり、欧州人である自分は欧州やドイツのことは熟知していても日本の事は知らない。日本の歴史に無知である自分が役に立てる自信はない。ベルリンを訪ねた日本の調査団にそう語った人がいた。彼はさらに、日本が憲法を作るなどということは銅器に鍍金をするようなもの…百年早いというようなことまで言っていた。しかし、日本はそれをやり遂げた。例えそれが、後の世で見せかけの立憲主義の産物と言われるものだったとしても。
「憲法の発布は国家的な祭典でした。この国が憲法を有した文明国になったことを表明するもの。明治国家が行った変革の帰結のようなものです。近代国家としての形式を整え、世界の秩序に見合った国になったことを意味していました」
ここで言う世界は欧米中心の世界という意味だが、その世界に参入するという日本の意思そのものだったのだろう。
夢の中の情景が蘇る。あの祝福の騒ぎは、真実、この男の喜びそのものだったというのか。その疑問に答えるように日本が続ける。
「私にとってあれは…誇りだった」
「……本当に」
「え?」
俺は苦々しい気持ちのまま、目前の男に探るような目で問うた。
「本当にそう胸を張って言えるのか? 強大な君主大権を定めて、議会の権限を弱体化させた…それが戦争を助長させたと言われている憲法を、誇りだと」
世界中から非難を向けられるお前の過去を作ったもののひとつじゃないのか。
憲法は国の骨組みだ。お前も言っていた。ハワイ王国の滅亡、憲法によって王家は弱体、のちに国は滅んだ。それほどの力を持っている。それは俺だって骨身に沁みて理解している。議会による軍事費の承認の効果をめぐって憲法紛争は引き起こされたし、四年間も憲法停止したこともあった。だからこそ、俺の国の人間は憲法調査に来ていた日本人に言っただろう。国会を開くな、国費を徴収するのに国会の許諾を必要とするようなことはするな。ドイツ皇帝ですら、そう伝えただろう。議会政治の難渋を経験していてそう言っていた。日本は議会制導入を躊躇いはしなかったが、そんなふうに上手く運営することも難しい国の法。
――『後悔なんてしませんよ』
明治国家はそう言っていた。あいつは知らない。その先の未来で何が起きるか。確かに、憲法の施行は日本にとって大きなことだった。事実、それで近代国家として成立したとも思わせるし、世界に参入した。けれど、現代に生きるお前は本当にあれを誇りだと思えているのか、俺にはそう思えなかった。
日本は湯呑の横に置いた手をぎゅっと握り締めた。耐え難い痛みにでも堪えるかのような表情をして、小さく口を開いた。
「…確かに……不備だらけ、穴だらけの憲法でしたよ。いろんな欠点のあった…危ういものでしたけど」
逸らしたい何かを必死に正視しているかようだった。
「それでもちゃんと運営されていた…明治国家をつくった人々が生きていた内は」
幾度後悔してもし切れない過去を正面から見据えて、男は言う。
「勿論…崩壊の音は確かにこの耳に聞こえていました。昭和の頃にはもう……明治憲法体系はバランスを失って、力は大きく傾いた。あの頃にはもう…憲法なんてなかったんです。それは確かに存在していましたけど、名ばかりで、その中身は白紙だった」
崩壊の音。それは俺も聞いたことがある。帝政ドイツの滅びへ向かう音。憲法に記された統帥権の独立がそれを助長していた。初代皇帝と鉄血宰相と呼ばれた男がいたうちは、その音は聞こえなかった。
「……けれど、あの憲法は日本人がつくったものでした。でも今は…」
その先は続くことなく、日本はそれきり口を閉ざした。何かを言おうと唇は震えるが、結局それは音にならない。ぎゅっときつく握られた拳が何かの痛みを堪えるように、小さく震えていた。
日本の言いたいことがようやくわかった気がした。それ以上語ってはならない。男はそう自分を戒めているのだろうし、声高に主張していいことではなかった。
日本人がつくった。それが男の誇りだった。男があのとき――憲法とは国家の精神であり、民族精神の発露だと話したとき――泣きそうな顔をしたのは、そういうことだったのだ。憲法は民族精神の発露。それは、その国の歴史と伝統と文化の所産。その国の歴史を知らなければつくれない。
日本は決して言葉にすることはなかったが、こう思ってしまったのだろう。現憲法をそう言い切ることが出来るのか、と。あれを日本人がつくったと言えるのか。あれにこの国の歴史は、精神は、詰まっているのか。この国に〝かたち〟あるのか、と。
日本は〝かたち〟を失くしたと言った。憲法はある種、国のかたちとも言える。あれは、そういう意味も含んでいたのかもしれない。
この男の言いたいことの全容がようやく見えてきたと思った。
玄関先で俺は挨拶もなしに訊ねた。
――亡国になるってどんな気持ちだ?
それは顔を見た瞬間に口を衝いて出てしまった言葉だった。飛行機の中、この太平洋に浮かぶ島国に向かう最中、何をどう話そうかずっと考えていた。けれど、あの夢の話をするのには躊躇いがあった。この目前の男とそっくりな、いや、この男の過去とも言える、明治国家と名乗った男。それは俺だけが知っていればいいと思った。満面の笑みも、温もりのない冷たさも、涙を流す姿も。夢は都合の良い俺の幻想に過ぎない。〝亡国〟だと称したあの国のことは、同じ亡国の俺だけが知っていればいい。そんなよくわからない感傷を抱いていた。
日本は、俺の唐突な質問に、意味がわからないと首を傾げることも、何かを問い返すこともしなかった。それは過去一度でも自分を亡国だと思ったことがあるということを示唆していた。もしあれで、日本は存在していますよ、とかそのような切り返しがあったなら、俺は何を言うでもなく、この国を去ったのだろう。まぁ、わざわざ十時間以上かけて来たわけだから、多少お邪魔することくらいはしたかもしれないが。ただ、あの夢は俺の中に留められ、日本に対して何を思うこともなくなったはずだった。けれど、日本は俺の質問に全力で応え始めた。
なぜ、存続しているのにも関わらず国は亡いと思ったか。的を射ないような長く続いた話はそれをしっかりと語っていた。
死ぬのだと思っていたという。しかし、男は、男の国は無事に存続した。それは喜ばしいことなのに、男の心は晴れなかった。天籟を聴いたと思ったあの日から、男の目には世界は変わって見えていた。国はその国民がつくるもの。それは当たり前のことだが、男があの絶対的な瞬間を迎えたあと、とてもそうは思えなかった。占領軍による改革、新たな時代に見合った憲法の制定。この国は日本人がつくったと胸を張って言うことは、もうこの男には出来はしなかった。
自分で自分を信用できなかったという。この国に、この国たらしめる何かは残っているのか、男にはわからなかった。自分を〝日本〟であると痛烈に自覚した過去、男は国民の誕生に歓喜した。日本国全体を運命共同体としてみる意識――国民意識。七十年の平和を享受した現代のこの国の民に、共通意識はあるのだろうか。日本とは何か、日本人とは何なのか、考えている人はどれだけいるのだろう。政治的無関心ではない――国をつくることに参加している――〝国民〟はどれだけいるのだろう。そんなことも男は思ったのかもしれない。それは苦しみだ。愛する民に不信を抱くようなそれは、手酷い裏切りだ。男はもうそんなことを思ってしまう心はいらないと思ったに違いない。――機械になってしまいたいと…。そうだろう。亡霊のように彷徨い、実体を感じない日々。〝ただ生きていた〟そう言っていた。考えたくないことを、それでも男は胸の内に留め続けた。
もうこの国にこの国たらしめるものは亡い。一瞬でも男はそう思ってしまったから。
「……馬鹿ですよね、本当」
ぽつりと零された罵倒は日本が自分自身に向けたものだった。
ああ本当にな、と内心返しながら、それでも俺は男の語った内容を否定することも諸手を挙げた頷くことも出来はしなかった。
例え、男の言ったように一時的にしろ、この国を再生したのは日本人じゃなかったとする。けれど主権は回復され、この国を運用してきたのは、事実、日本人である。様々な枷があるにせよ、変えようと思えばこの国はまた生まれ変わったはずだ。そうならなかったと男が感じているのは、この今の世界で変わることを必要としなかったからかもしれない。あるいは、もしかしたら、本当に日本人は国民意識を失くしてしまったのかもしれない。
そんなふうに思惟したことをはっきりと否定することも、手放しで肯定することも出来なかったのだろう。俺たちは全知全能ではない。簡単に見失い、簡単に失くす、一個の生命体だった。俺たちのような国の化身という存在が〝国〟をひとつの命として見做してしまうのは必然であった。国というものにも意思があり、形があり、魂があり、精神がある。俺たちは熱を持ち、息をして、生きているから、そう思うのは当然だった。その〝意思〟がない。〝かたち〟がない。それは亡霊のようだと思うには充分なことだ。この国は生きていない。国を〝亡くした〟のだと、そう思うのには。
そうだ。男が一度言ったように甘んじて受け入れればいいことなのだ。生きていれば、妥協でも諦念でもいくらでもするだろう。この真実にも諦めてしまえばいい。あるいは、妥協すればいい。日本国は存在し、世界の中心に限りなく近いところで生きているのだから。
俺は俯く日本を見つめた。そして、遥か過去の情景を思い浮かべて、少しだけ笑う。ああ、でもこの男は割り切って逃げることは出来ないのだろうな、と。馬鹿みたいに頑固で、真っ直ぐな男だったことを思い出した。割り切って逃げることもできず、ただその苦しみを正面から受け入れて苦悩する。教育を間違えたなと思う。諦めることも肝要なのだと教えればよかった。夢の中で無惨な姿で戦おうとしていた光景が胸を痛める。男は失くすことを知っていた。敗ければ失くしてしまうことをわかっていた。だから、あんなになってまでも――。まだ大丈夫と嘯いて微笑ってしまうようなことはよくないと叱っておけばよかった。
「…私は後ろばかり振り返っていて…愚かで…どうしようもない奴なのです」
――『…師匠。どうぞ、過去に追い縋るどうしようもない未来の〝私〟を叱ってやってください』
過去に追い縋っている。そうなのだろう。決してあの頃を賛美しているとか、そういうことではない。ただ、自分を信用できた、自分の存在を痛烈に自覚できた、あの頃に思いを馳せてしまう。この世界を憎むことなく、受け入れることの出来た、生きていると実感できた、あの頃に。
それは理性では律せないところから滲み出る愚かな衝動なのかもしれない。過去に戻りたいかと問われれば、首を傾げるだろう。きっとそういうことじゃない。そうじゃなくて。
「私の記憶に…あの時代は凄烈に刻み込まれています」
それはそうだ。自分という存在を強く自覚したと言っていたのだから。
「でも、過去のものは捨てなくてはならないこともわかっていました」
男は罪を負っている。俺もそうであるが、罰は解体という形だった。男の罰は一様には言えないが、この男が先まで語ったようなことに苦しむこともまた罰のひとつなのかもしれない。
「私はもう…あの頃の精神とか、意思とか、そういったものが跡形もなくなった世界は愛せなくて…だから、前を向けなかった。後ろばかり振り返って……」
でも、とか、だから、とか、男は震えた声で続けているが、それは支離滅裂で真意を汲み取れない。「…あなたが」と虚ろな目を向けられて身構えた。そうだった。男は言ったのだ。そうやって苦しむ日々は終わったのだと。あなたのおかげで、と言った。
――だって、プロイセン君がいるんです。
久方ぶりの再会のとき、そう思ったという。
――〝プロイセン〟がいるんです。
泣き出してしまいそうだったという。
「あなたがいて…この目に映っていて、…存在していて……」
いつも静かに言葉を紡ぐ男の聞いたことのないような、心許ない声音だった。
「〝プロイセン〟がそこに在ったから、わたし…」
プロイセンがそこに在った…?
「あなたを見たとき、あの頃の…明治の薫りが漂った気がして……」
情念が揺らめく視線が重く俺を貫いた。
――あなたに憧れていたんです。
真夜中の真っ暗闇の海に放り投げられたかのような不安を払拭した希望だったと言った。国の骨組みとなる法を真似た。それは誇りだったと言った。この男に〝プロイセン〟が痛烈に刻まれていたと思っていいのか。
「まだあの頃の情調は世界に残っていると、そう思って…思えてしまって…」
俺は、ある種茫然としたままそれを聞いていた。
低音の激しさなどまったく感じない声なのに、ある事実に思い至った瞬間、それは刃のような鋭利なものに変貌して、俺の心を突き刺していった。
「非道いとお思いになるでしょう……私はあなたを過去の存在として認識し、自分勝手に己の胸懐を慰めた。あなたには何一つ関係ないのに、もう一欠けらも遺っていないと思っていたあの頃の情調をあなたに重ねた」
非道いとは思わなかった。〝プロイセン〟は過去の存在だ。それは明瞭な事実であり、その認識に間違いは一切なく、非道い思いでは決してない。
男が話した内容をようやっと飲み込めたような気がした俺からするに、非道いという形容は間違いであった。寧ろ、「過去の存在として認識した」ということがいかに重大なことか。この男は自分がどれ程のことを口にしたかわかっていないのだろうか。どうやら男の目に映ったのは〝亡国のプロイセン〟ではないらしい。
俺はもう声など出せそうになかった。頭の天辺から足の先まで溢れ出した感情で埋まってしまって、息することすら難しい。胸襟に澱みなく溢れ続ける感情を何と言ったらいいのかわからない。しかし、それは激震であり、感喜であり、そして期待でもあった。
目下の男は「プロイセンがいる」と言った。「プロイセンが存在する」と言った。それは短い言の葉に幾多の意味を持たせ、感情を乗せるはずの男が発するにしては拙かった。その真意は何かと探ろうとするのは意味のないことだったのだ。その言葉は恐らくそのままの意味で発されていた。俺を指して「プロイセンがいる」「目に見える」「触れられる」「熱を持って存在する」と言ったわけだが、男がいると言った〝プロイセン〟は過去のプロイセンだ。プロイセンの化身がそこにいて、己の目に映っているなどという明白なことではない。そんな仕様もないことなんかじゃない。
あれほど絶望していたと言った男の、亡霊のように彷徨っていると思ったという男の感情を激しく揺らしたのだという。もう地球上のどこにもない、存在しない、跡形も消え去って亡くなったと男が思っていた〝何か〟を感じたという。明治の薫りが漂った気がしたと言った。まだ〝プロイセン〟が在った明治の頃の薫りが。
なあ、わかるか。これがどういうことなのか。男が泣き喚いてしまいそうだと思うほどの〝何か〟を持つプロイセンがいたのだと言った。男の目には確かに〝過去のプロイセン〟が映っていたのだ。土地も民も何もない、男が言っていたその国をその国たらしめる何かなど勿論一欠けらも在りはしない亡国となったプロイセンではなく、あるいは東ドイツという役目を負ったプロイセンでもなく、「プロイセンが存在する」と言った。明治国家としての日本が師事を仰いだプロイセンだ。土地も民も在った、その国をその国たらしめる何かも間違いなく持ち得ていたプロイセンがいると、男は言ったのだ。
〝プロイセンという国〟がそこに在ると、日本は言ったのだ…!
これを幸甚と言わずして何だという!
俺たち国の化身を一括りにするのなら、そのカテゴリーに含まれる奴は大勢いる。俺も目前の男もそうであるし、ヴェストもイタリアちゃんもフランスもスペインもロシアもアメリカもイギリスも中国も、他にも山ほど存在する。けれど、俺とその他で決定的に違うことは俺が亡国であるということだ。〝プロイセン〟は過去にしかない。あの日、永遠に、そして完全にその歴史の幕を閉じたのだ。俺はあれから時を止めた。ひとり世界から取り残されたかのように。
それは嘆くべきことである。日本が言ったように、空虚だった。生きる目的などあるわけもなく、空っぽの身体でただ亡霊のように世界を彷徨っているかの如く。これは当然嘆くべきことだ。あれは絶望とも言えるだろう。
過去の存在。そうして絶念するしかなく、悲観し、失意の底で漂うしかなかった。だが、〝過去の存在〟でしか持ち得ないものを日本は知らしめてくれたような気がしてならない。彼は名状し難い激情に駆られ、泣き喚くかと思ったという。日本は言った。絶対的な必然な絡みがあったわけではない俺たち。あの頃はいろんな国から何でも取り入れたと言った。俺だけじゃない。けれど、日本は繋がりも深く、師としたことだってあったはずのオランダやイギリスやフランスをその目に映したところで名状し難い激情に駆られはしないだろう。だって、あいつらも〝変わった〟から。今を生きているから。
日本が俺を見て激情に駆られるほどの〝何か〟を感じたのは、俺が他の誰とも違う過去の存在だからだ。〝プロイセン〟は変わらない。あの日決した歴史の波に呑まれ、その姿を完全に亡くし、あの時点で時を止めたから、変わることはない。過去の存在としてその過去の中に変わらない姿のまま、在り続けるのだ。例えそれが、書物の上とか記録でしか遺らないものだとしても。それでも、その国の化身は亡国となってなお、存在していた。
世界の変遷を苦く思う男にとって、変わっていないと思った唯一のもの。それが目の前に在ったという。世界の気まぐれと言っていいような俺の存在。国は完全に亡くし、名実共にすべてこの地球上から姿を消したはずの、その国の化身は生きて存在していた。男の、日本の目に映る姿で。ただひとり取り残された世界に生きていると思っていた。日本もそう言ったも同然だ。彼の眼には過去が映っていたと言ったのだから。しかしそれは、〝俺〟という化身の存在によって、〝今〟在った。あの頃の薫りを纏って、取り残された男は存在していた。日本が殊更に大切にした〝何か〟を、もうこの世界のどこにも遺っていないといった〝何か〟を持ち得る姿で〝プロイセン〟はそこに在った。
例えば、今のこの俺たちのやり取りを聞いて、俺たちの胸中を知った誰かが馬鹿なことを、と言ったとして構わない。そんなものただの勘違いだ、幻想だ、詭弁だ、と思われたとして構いやしない。これが、空虚だと絶望していた日本や俺が傷を舐め合うが如く、ただ己の衷心を慰めるだけの単なるこじつけであったとして構わない。俺にとって大事なのは、日本がそうだと思い、名状し難い激情に駆られたということだ。
感情は素直だ。理性で抑えることは出来るが、それは完璧ではない。理性という能力を駆使してでも抑え難い情念というものがある。
「…私はもうそれだけでよかった。あの頃…目指したものが、まだこの世界に在るのなら…もうそれだけで……前を向ける、今一度この世界を愛せると……」
日本と視線が絡んだ。
「ッ、」
ともすれば聞き逃してしまうほどの小さな嗚咽が聞こえて、ぎょっとした。
日本が泣いている。大粒の涙をその頬に滑らして泣いている。唇を噛み締め、必死に声を漏らさないように泣いている。それをすり抜けた微かな嗚咽だけが部屋の空気を小さく揺らした。遠い昔のいつか、泣くことは恥だと目の前の男は言っていた。その男が泣いている。他人の目がある目前で次から次へと涙を溢している。
日本は泣いているのだ。今こうして実際に抑え難い情念に駆られている。日本が思ったことや、俺が思ったことが例え事実でなかったとしても、日本にとっては真実なのだ。それは最早疑いようのないことだった。
泣き顔なんて見られたくないだろうに、日本は俺から目を逸らさなかった。その瞳に俺を映したくて堪らないのだと、その行為が伝えている。乱雑に手の甲で涙を拭うが、その頬はすぐに新たな雫で濡れた。
「…わたし、」
絞り出した、涙で濡れる声音だった。
「あなたに伝えたいと思っていたことがあるんです」
身構える間もなく、次の瞬間には強い衝動が襲った。
「生きていてくださって…っ、ありがとうございます…」
魂が震えた気がした。
それは焼き印のように強烈な痛みと灼熱の熱さをもって刻み込まれた。
ずっと抱いていた索漠とした心に、迎撃する間もなく強大な衝撃が撃ちつけられ、大きな火花をあげたあと、ゆっくりとその場を塗り変えていく。それがじわりじわりと沁み渡って、名状し難い感情に呑み込まれたとき、頬に熱いものが伝った。
――生きていてくれてありがとう。
それは、俺が存在している意味はあったのだと、そう思わせるには充分な重い言葉だった。
ああ、情けねえ。視界が滲む。トクトクと幾分か早い鼓動が、命を刻む音が、ここぞとばかりに主張していて、それがどうしようもなく痛くて、俺はシャツの上から胸もとをぐしゃりと握った。
本当に不様な光景だろう。大のおとなが二人して大粒の涙を流しているなんて。噛み殺せない嗚咽が、さらにその光景に拍車をかけている。
日本が立ち上がった。横に立った日本がゆらりと手を伸ばしたとき、俺は待ちきれず、その細い腕をとって引き寄せた。上に伸し掛かってきた身体は軽かったが、男が抱く揺らめく情念があまりにも重く感じた。
男の温もりは当たり前のようにあたたかった。熱を持って男は存在する。夢の中の、この男とそっくりなあいつとは全く違った。当然のことなのに、それを寂しく思ってしまうだから、俺はどうしようもない。まるで、あいつは、明治国家は、その未来であるはずのこの男の中には本当に一欠けらも存在しないかのようだと、そう思えてしまったから。
馬鹿みたいだ。俺も、この男も。背に回った手がシャツを皺くちゃにするほど強く掴んできたが、男も俺と同じことを思っているに違いない。微かに漏れた息が自嘲とか呆れの笑みを含んでいるように思えた。馬鹿みたいだろう。過去の存在である俺は、手の届かない〝未来〟とか〝現在〟を欲していた。男は、遠くに行ってしまった、あるいは消え去ってしまった〝過去〟を欲していた。俺たちは時流に逆らっているようなものだ。どうやったって、もう手に入らないものに恋い焦がれている愚か者だった。名実ともに亡国である俺が恋うならまだしも、この男は本当に馬鹿だ。〝今〟を生きているくせに、俺みたいな〝過去〟に魂を震わすんだから、本当に愚かで、馬鹿で、どうしようもない。
「……おまえ、ばかだよな」
涙声の無様なものだったが、男は同じような声音で「わかってますよ、そんなこと」と返した。
「…ばかついでに我が儘を言ってもいいですか」
馬鹿ついでにって何だよ。
日本が少し身体を離した。そうして向き合った俺たちは、互いの顔を見て目を泳がせた。当然だ。互いに泣き顔なんて初めて見るのだ。少しくらい動揺もする。それを揶揄して指摘すれば墓穴を掘ることは分かり切っていたため、動揺した情けない顔をそのままに、話は続いた。
「…言っていいですか?」
今一度、わざわざ確認するそれに眉を寄せる。
「何だよ…早く言え」
「生きていてください、私のために」
それなりの時間をかけて日本の言葉を呑み込んでから、俺は笑ってしまいそうだった。きっとそれも泣き笑いのようなものだろうけれど。
早く言えと催促したからか、何でもないことのようにすんなり紡がれたそれは、奇しくも俺に生きる目的を与えるものだった。
なんて傲慢な男だと、そう思った。この男を慎ましいとか、謙虚であるとか、誰が言ったんだか。人の、他人の生を私に捧げろと言っているようなものだ。ただ自分が前を向いて歩いていきたいから、この世界を愛していたいから、だから存在していろと言う。本当に、とんだ我が儘だ。俺の都合など何ひとつ慮らずに自分の欲求を押し付けた、酷い我が儘。まだその辺のガキのほうがよっぽど可愛い我が儘を言うぜ。こんなひどい欲求は初めて聞いた。けれど、どうにも胸を衝く我が儘だった。この、特に関係を持たない、ただの弟の友人に言われたということが大きかった。家族でもなく、友人と強く主張するでもなく、繋がりなんて希薄な、そんな男がすべての都合を無視して発した我が儘。それが、まるで世界からまだ必要とされていると錯覚させる。役に立つのだと、こんな俺でも。家族とか友人とか、そういう情によって生き残って欲しいと願われるより、それは世界がまだ俺が役立つとでも思っているかのような、そんな思いにさせる我が儘だった。
――『どうか生きて、あの世界に在り続けてください。Herr. Preußen』
あいつのあの言葉も究極の我が儘じゃねぇか。
「……なーにがお前のためだよ。馬鹿なこと言ってんじゃねえっての!」
ぎゅむ、と低い鼻を抓んでやる。
「あにするんえすか」
鼻が詰まったために上手く紡がれない言葉に、ぷっすーと笑ってやった。
「当たり前のことを我が儘にして欲求すんなよ」
解放された鼻を摩りながら、首を傾げた男に言う。
「俺様を誰だと思ってやがる。東の果てのうじうじしたどうしようもねぇジジイですら憧れる男だぜ?誰も成し遂げたことのねーことでも偉大なる俺様には出来るに決まってんだろ。生きるなんて当たり前のこと、言われなくてもやるっての!」
幼い子どもの強がりのような言葉だった。
そんな返答を聞いて目を瞬かせて丸くした目前の男は、一拍置いてくすくすと笑声を零した。
「ええ、そうでしたね。あなたは〝私〟が憧れた偉大な国ですもの」
ああ、そうだ。〝私〟――過去のお前が、〝明治国家〟が憧れた国だ。
噫本当に、この男には〝プロイセン王国〟が〝今〟その目に映っているのか。手の届かない眩しいものでも見上げたような視線は、相変わらずそこに湛えられていた。
俺はもうそれで充分だった。たったひとりきり、ひとりぼっちで取り残された世界。どんなに望んだって未来は手に入らないだろう。プロイセンは完全に幕を閉じ、過去の中にしか存在しない。しかしそれは、刻々と変化し、様変わりしていく世界で、貴くも変わらずに在るのだ。俺という化身が亡国として生きている限り、今を生きる他の誰もが持ち得ないものを俺は確かに持っているのだ。栄光が今一度輝くことも、隆盛を誇ることも、この先決してないけれど、今を生きる誰もが失ったものを俺はたったひとり持っている。他の誰も持ち得ない、あの頃の薫りを纏って、俺は生きている。それで充分だ。それだけで充分だった。
眼前の男のようやく乾いたらしい涙の跡を強引に指先で拭って、温もりのある、今を生きている男の頬に唇を寄せた。「ありがとな」と無意識にも零れたそれに、「こちらこそ」と返される。顔を見合わせた俺たちは、今までの索漠とした心などなかったかのように、満ち足りた顔で笑っていた。