TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > 亡国の情調 > 03
「亡国になるってどんな気持ちだ?」
呼び鈴に応え、からからと軽快な音を立てて開けた玄関先で、〝亡国〟は挨拶もなしに開口一番そう言い放った。
言葉の真意を紐解こうと思案した間、ふたりの間には呼吸さえしていないかのような深い沈黙が降りた。交わった二種の双眸は一瞬も逸れることなく、おそらくは瞬きすらもしていなかった。
「…とりあえず、お上がりください」
まるで金縛りから解放されるかの如く、ようやく動いた挙句の果ての返答はそんな何の変哲もない、客人を屋敷に迎える文句であった。
彼の問いかけを、さっぱり分からないと聞き返すには胸中に浮かぶひとつの心当たりがあまりにも強く主張していて、どういう意味かと訊ねるにはもっと大きな勇気が必要だった。そして何より、私を強く射貫いた、血汐を彷彿とさせる、あるいは天道、はたまた曙光の射す空を思わせる二つの眼が明瞭な強い意思を発していて、もはや常習となった微笑で糊塗することすら許してくれはしなかった。
客人をもてなすための行動を普段と変わりなくしている間に、覚悟を決めなければならなかった。霊魂や愛情が宿ると謂われてきた、腹を搔っ捌く――経験が蓄積され、己の精神が詰まる腹を割って見せる覚悟を。今はもう存在などしていない武士が腹を切って死ぬことが名誉の保証であったように。彼には誠心誠意を込めて真摯に胸の裡を明かさなければならない。世界中の他の誰でもない、彼――プロイセンだけには。
誰かに話すつもりはなかった。誰に知られるはずもなかった。己の衷心に秘め、ただ己の中だけに生息する過ぎ来し方の情調を。
「死ぬのだと思っていたんです」
居間には小さい卓袱台がぽつんとあった。挨拶も碌にしなかった非常識な訪問者に、律儀にもおもてなしの心を発揮した男は、その上に急須と湯呑、果てには俺の好みである茶請け――饅頭までをも用意して、口を開くや否やそんなことを言った。
たった一言の問いかけに男は何を聞くわけでもなく、話を始めた。話は長くなるのだろうと思い、遠慮なく緑茶の入った湯呑に手を伸ばして男の話に耳を傾けた。
「あの戦争に敗けて私は死ぬのだと思っていたんです」
ひと口お茶を含み、男は続ける。
「…話は逸れるんですが、明治十四年…一八八一年。ハワイ国王が日本とハワイを連邦化する提案をなされました」
それはまた随分と話が飛んだなと思ったが、口には出さなかった。「へぇ」と打った相槌は興味もなさそうな響きになってしまったが、関心がなかったわけではない。柄にもなく、俺は日本を訪ねることに緊張していたのかもしれなかった。
そして日本も話の手順、あるいは内容の範疇から言葉選び、そういうものをどうにか絞り出しているのかもしれない。話が纏まらないのはその所為だ。それにきっと、誰かに話すために心底に留めておいたわけではない、誰にも触れられることはないだろうと思っていたことなのだろう。
連絡もなしに訪ねた友人の兄の唐突な問いかけに、こんな単なる世間話をするような光景の中ではとても話せないであろう返答をしようとしている。彼は俺のたった一言の問いかけに、誠意を込めて全力で応えようとしているのだ。胸中を晒すのが特段苦手で、本音と建て前なんてものが身に染みている男が真っ直ぐに俺に向き合っていた。
「ハワイさんも大変だったじゃないですか。私なんかよりよっぽど早く憲法制定して、近代国家として承認されていたわけですが」
そうだった。けれど、彼の王国は百年で滅びを迎えることになるのだ。
「アメリカさんへの併合を危惧し、国王は国際親善訪問の旅にお出になられた。そして我が国へいらしたのです」
国王は港や鉄道など、それらを仕切るのが皆日本人だったことに瞠目したという。自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかった。現実として、世界中の多くの国が帝国主義に屈していたのだから。王は随員のアメリカ人には極秘で帝への会見を申し入れた。そして、西洋の侵略に対して東洋諸国は団結する必要があると言い、アジア共同体の創設を提案、そしてそれを日本主導で行い、アジア諸国連盟の盟主になって欲しいと願い出たのだった。
「しかし、明治政府はこの提案を謝絶した。勝ち目のない戦に挑んだと言われる日本ですが、この頃はちゃんと理解していたんですよ。米国と対立するわけにはいかない、と」
日本は、夢許り自嘲を含ませたような哀しげな微笑を湛えたがそれは瞬く間に消えた。
「他にも王女との縁談や、日本人のハワイへの移民なども提案なされた。当時ハワイは西欧から齎された数々の疫病によって原住民の人口が激減していて…確か百年間で三十万人が五万人になってしまったと…酷い話です。そして、有色人種である日本人の移民を、と。この移民の件に関しては明治政府は受け入れ、日布移民条約が締結されました。そして多くの日本人がハワイへと渡りました」
夜色の瞳が微かに揺れた。その感情の動きは、遥か彼方の情景を思い出しているのか、はたまた海を渡った愛しき民の未来に起きる現実を嘆いているのか。
「王はハワイ民族の失われようとする文化遺産を復興しようと多くの試みを行っていました。それは米国を刺激することとなってしまう。そうした後に、ハワイでは事変が起きてしまった。米国はハワイの併合計画を進めていました。王権を制限し、入植した富裕な欧米系住民に有益となるような新憲法――ベイオネット…銃剣憲法と呼ばれます。武力のもとにそれは強制的に調印された」
欧米の入植者たちは、経済的安定を保障するための政治権力を欲するようになり、その影響は時代を経るにつれて強力なものとなっていた。
その憲法では有色人種に参政権は与えられなかったも同然だった。移民ならまだしも、原住民ですらよほど裕福でなければ。白人であれば、帰化していなくても国法遵守を宣言しさえすれば得られたものなのに、だ。
憲法とは国の骨組みだ。それは内容によって、諸刃の剣となる。それは俺も日本も痛いほどわかっていた。
「ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派は日本に援助を求めた。明治二十六年…一八九三年、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を提案、改正条約が締結されました。私にとってこれは、メキシコさんに次ぐ二つ目の対等条約だった。米国によるハワイ併合の動きを牽制するため、移民条約により海を渡った多くの邦人保護を理由に防護巡洋艦ら他二隻をハワイに派遣しました。ホノルル軍港の米艦の真横に投錨して新政権を牽制したといいます。しかし…かつての政府を復活させるほどの力にはなりはしなかった。米国は一度併合は諦めましたが、暫定政府は新国家としてハワイ共和国となり、王政の廃止を宣言した。果てには…一八九八年、準州として米国に編入…彼の王国は完全に幕を閉じました。そして現在に至るまであそこはアメリカ合衆国として在るのです」
日本は湯呑を両手で抱えたまま、僅かに俯いた。
「これは数多くある私の罪のうちのひとつです」
伏せられた目蓋から覗く夜色の瞳は、星ひとつ瞬くことのない夜空のように混沌と闇を宿していた。
「…おまえの所為じゃないだろうが」
「ですが、もし王の提案を受け入れていたら」
「歴史に仮定は無意味だ」
「…けれど、あの地は軍事上枢要な位置にありました。米国の太平洋進出の要。あの日違えた別の選択肢を選んでいたら、我が国にとっても避けられた〝何か〟はあったかもしれない」
「だが、明治初期の段階で〝日本〟が滅びる可能性もあった」
近代化を邁進しているとはいえ、資源も無ければ財政も苦しい、成立したばかりの明治国家がアメリカと対立して勝てる見込みがあるものか。
「…ええ。そう、ですね」
もしあのとき。もしあの日。そんな後悔は嫌でも頭を巡る。無意味な仮定だと百も承知で、何度だって繰り返すのだ。歴史の選択を違うほうへ進めた未来。考えたってどうしようもない。結果が総てで、そんな思議など何の役に立ちもしない。それでもそれは悪夢のように脳裏を駆け回り、そして己を強く責め嘖む。
目下の男など特にそうだろう。敗けを決した事実の延長線上でまわる世界で生きているのだから。呆れるほど幾つもの仮定を繰り返したに違いない。そうして〝数多くある私の罪〟と自分で言っていたように、その咎を積み上げていくのだ。際限のないかのようなそれを積み上げては己を強く責め立てて、行き場のない哀しみをまたひとつ抱えていく。
「…ハワイという国の過程を己のそれと重ねて見てしまうのです」
微かに震えているように見える男の小さな手がようやく湯呑を置いた。
「移民に国の中枢まで浸透され、憲法によって国王家は弱体……そして国は亡くなった」
「…憲法」
日本は俺に真っ直ぐ視線を向けて、僅かながら微笑った。
憲法。それは、日本と――大陸を隔てた遥かな距離、今や誰も繋がりがあるなんて思っていない――今はもうどこにも無いプロイセンとを繋ぐひとつの事象だった。
「話を戻しますが…私、死ぬのだと思っていたんです」
その言葉を聞くのはもう三回目だった。
「明治の頃より、脱亜入欧なんて掲げてやってきましたが、どんなに近代国家として邁進すれど、入欧など果たせるわけがなかった。愚かながら、それをはっきりと思い知ったのは人種的差別撤廃提案が否決されたときです。私は有色人種だった。だから…敗けることが何に繋がるのか理解していたつもりです。幸運にも私は勝ち続けていた。ロシアさんとの戦争は、それはもう本当に国の存亡がかかっていました。あれに敗けていたら、彼の国の植民地になるのは必然だったでしょう。わかっていました、ずっと。敗けたら最後…国は滅ぶのだと。あの戦いでも敗ければ……ハワイ王国のように、いずれアメリカ合衆国になるのだと、本気でそう思っておりました。死ぬのだと思っていました…死を、覚悟していた」
それがあの頃の“秩序”だった。日本の覚悟は当然のものだ。ましてや、欧米諸国ではないこの国が敗けたら亡くなるというのは瞭然だった。事実、ドイツと日本の戦後処理の様相は随分と違ったらしい。俺はその頃、牢の中で過ごしていたわけだからそれを目の当たりにしたわけではないが、過去のドイツを復興しようとしたのとは違い、日本の場合はあらゆるものを悉く解体する政策が取られた。
目前の男にとってそれは、死に向かっていると確実に思わせる日々だったのかもしれない。
「私はあの日…夏の陽射しが病的なまでに降り注いでいたあの日。生まれて初めて、天籟を聴いた気がしました」⁴
茫とした底のないような闇色が遠くを見ていて、放つ言葉までもがそれまでとは違い、心許なくふわふわと浮遊しているかの様子が、背筋を冷たくした。
「……てんらい?」
それでも、絞り出した声で問い返す。
天のひびき。荘子の斉物論ではそれは、ある種の超越的観念として語られる。それ自体はどんな音でもない、沈黙としての音。
「『形は槁木の如く、心は死灰の如く、』『吾、我を喪ふ』」
伏せられた漆黒の睫毛から覗く闇はどこまでも濁っているように見えた。
「何と言ったらいいのでしょう…簡単にいえば、私はあの日から茫然自失というか…ある種の虚無状態だった」
自嘲するような歪な笑みが僅かに浮かんで、言葉は続く。
「アメリカさんからすれば不思議だったでしょうね…私はそんな状態だったので、何の抵抗もなく唯々諾々と従っているように見えたでしょうから」
男は、その死に向かっている最中、きっと自分で腹を切ってしまいたかったに違いない。でもそれは許されない。武士が罪を問われたとき、切腹は唯一名誉を維持する方法だった。この国に名誉はない。咎は受けなければならない。
「あれは…あの瞬間は…私にとって、日本民族にとって、絶対的な瞬間だった」
かつて感じたこのない、他の何ものにも比べようがない、瞬間。
「…どうして明日が来るのかわからなかった」
その言葉を聞いた刹那、ドクリ、と心臓を一突きされたかのような感情が爆発した。当然の時間の概念を覆すようなその言葉は聞き覚えがあった。俺もそう思った日があったから。日が沈めば、明くる日に昇るのは自明の理だ。明日が来るは当たり前で、男の放った言葉は実に愚かである。けれど、そう思うときがある。俺がそう思ったのは、二月二十五日の翌日のことだった。
「どうして…当たり前のように明日が来るのか、私には理解できなかった」
そう、理解できなかった。
「……どうして、」
微かに震えた小さな声だった。
「当たり前のように世界は続くのか」
俺が続けた言葉に日本は瞠目してから、すぐに曖昧な微笑を浮かべた。聡い男だ。今の一瞬で俺がそう思った日のことを理解したのだろう。
「こんなにも変わってしまったのに…私には、この目に映るものはそれまでとはまったく違う世界に見えた。それでも、あんなにも単純に明日が来るんです」
絶対的な瞬間を迎えようとも、当然のように明日は来る。そうだ。自分にとって、どんなに大きなことがあったって、そんなもの世界にとっては些末事なのだ。そう思い知らされた日があった。自分がいてもいなくても、この世界はどうせ変わりはしないのだろう。それを知らしめられて、俺はもうこの世界を――、
「私はもうこの世界を…愛せないと思った」
心中とシンクロするように日本の言葉が重なった。
「あたかも…亡霊のように彷徨っているかのようでした。自分という存在の実体をまるで感じなかった」
同じだった。男の心情の吐露は俺の心情とあまりにも重なった。
「機械になってしまいたかった。壊れたら代えがきく機械にでもなって…心も精神も魂もなければいいのに、と。あるいは、簡単に取り替えのきくものであったら、と」
俺は〝国〟を失くした。国を持つこの男は何を失くしたのだろう。それほどまで、機械にでもなってしまいたいと思うほどの何を失くしたのか。
「あの頃は…まるで膜ひとつ隔てたところから世界を俯瞰しているような、そんな感じでした。そうこうしている内にこの国の存続が現実味を帯びてきた」
アメリカとロシアの睨み合いが始まったからだ。アメリカの上司は政策を転換した。この国は防波堤の役割を担うことになった。二度と持つことはないと思っていただろう武器も、今一度その手に持つこととなっただろう。新しい秩序の幕開けだった。
「そしてようやっと、主権も回復した。国体の維持は成されたのです。それはもう当然感極まったものですが…私はこの国が本当に〝日本〟なのか信用できなかったのです」
虚無的な瞳が痛ましかった。自分のことすら信用出来ないと、そう思うほどまでにこの国は変わったのか。
「国が維持するにしても、国が亡び新たに建国するにしても、この地は〝私たち〟のものです。私たちが創らなくてはならない。けれど、創ったのは…もしかしたら……」
日本はそこで口を閉ざした。
アメリカだろうな、と安易に口を挟むことは出来ず、日本は〝もしかしたら〟と前置きしたわけだが、それは認めたくないことで、あるいはそうではないとも思えることで、尚且つそう単純なことでもなく、この地に星条旗が掲揚されることなく〝日本国〟としてこの地球上に存続し、平和を謳歌しているのだからと納得させればいいことでもある。
俺は合わない視線を、それでも彼に向けながら、馬鹿な男だなと内心揶揄っぽく苦笑した。考えなければいいことだ。そんなことは。それでも、この男にとってそれは無視できることでなく、かと言って声高に主張できることでもないのだろう。
日本は結局、先の言葉の続きを口にすることはなかった。「一度考えてしまえば、泥沼ですね」と無理矢理に苦く笑う。
「私の心は晴れることはありませんでした…それまでと同様に〝ただ生きていた〟それだけでした。今一度この世界を愛せることはなかった。この国にはもう、この国たらしめる〝何か〟など存在していないのだと、そう思ってしまったから」
「この国たらしめる〝何か〟…?」
それをこの男は失くしたのか。
「あなたは国として生まれたわけではなく、幾度も名を変えて生きてきた方ですから、自分が何ものであるか、深く考えたのは一度や二度じゃないでしょう」
「そりゃあな。それなりに考えもするぜ」
「私は…自分が何ものであるかと深く考えたのは、それこそ十九世紀に入ってからでした」
は…? と間抜けな声をあげれば、日本は微苦笑した。
「ご存知の通り、私は島国ですし、昔から外国の脅威というのが少なかったのです。ですから、外と比べて相対的に自分を知るということをしなくても生きてこられた。例えば、近代に入ってこの島国には異質なものが一気に流れ込んできました。「洋」と名付けられるものです。「洋」を知って、対となる「和」の概念を考えるようになったのです。この国は長らく封建制の中にありましたから、ひとつの国家意識があったわけじゃなかった。二百七十以上の藩が各々自治し、民はその〝故国〟の民だった。日本国の〝国民〟は当然存在してはいませんでした」
〝国民〟は近代市民国家の成立によって形成されるものだ。フランス革命をイメージするだろう。〝国民〟は共通の意識を持つ集団で、尚且つそれを自分たちが自覚していなければならない。だから、その頃の日本に日本国の〝国民〟がいないというのは当然だった。外国の脅威に晒されることのなかった二百年の平安の中で国家意識は生まれない。
「しかし、幕末の頃よりそれは生まれ始めた。外国の脅威を目の当たりにし、侵略される、植民地になる、亡びる…そういった感情を民たちは抱いた。日本人がそのような危機意識を共有し始めたのです。この身体に巡るすべての血が沸き立つような、そんな感覚があったのを覚えています」
この島国に生きる人間たちの意識がひとつになる感覚だ。日本にとって、それは大きな瞬間だったに違いない。
「私は己が〝日本〟であることを痛烈に自覚しました」
少しの間瞼を閉ざした日本は、過去のその瞬間を思い出しているようだった。そうして今一度開いた先の双眸を細めて続ける。
「もしかしたら私はあの瞬間、本当の意味で生まれ落ちたのかもしれませんね」
「…だとしたら、お前のこと爺だなんて呼べねぇな。ちっせーガキだぜ」
揶揄うように笑いながら言えば、日本も釣られて「そうですねぇ」と笑声を小さく漏らした。
日本にとって、〝生まれた〟と思うほどの大きな瞬間だったということだろう。しかし、この男は事実二千年以上この世界に存在し、その双眸を彩る闇色は長く生きてきたことを思わせる神秘さを纏っている。
「〝国〟とは何か…私もようやく、そんなことを考えるくらい大人になったのでしょう」
「爺が白々しいんだよ」
「おや、先ほどガキとおっしゃったではないですか」
「ガキ扱いをご所望か? 生憎、でろでろに甘やかす相手には困っちゃいねぇんだよ」
「あなたは甘やかすだけじゃないでしょう?幼い頃のドイツさんを思うと、鬼のようなあなたに酷い目に遭わされたのではないかと心苦しくなります」
「ヴェストで変な想像すんじぇねぇっての!」
口許に手を当てて、くすくすと笑う日本に俺も笑う。話を始めてからずっとあった重苦しい空気が多少和らいだのを感じた。
「俺様、んな怖くねーし」
「怖いですよ。あなたの下で学んだ私が言うのですから確かです。アメリカさんもきっと賛同してくださいますよ」
「あいつは怖かったなんて認めねぇだろ」
「ふふ、確かにそうですね。〝ヒーローに怖いものなんてないんだぞ!〟ですものね」
「おい、その上手すぎる声真似やめろ。あいつの憎たらしい不満顔が目に浮かぶだろ」
「〝愛らしい〟の間違いでは?」
真面目な顔でそんなことを言う男に、こっちは微妙な顔になる。
「ったく、お前は何でそういう…ああ、甘やかしすぎたかもな。お前も、アメリカも……ヴェストも、な」
玄関先での弟とのやり取りを思い出してしまって、声が段々と小さくなってしまった。本当はヴェストのことを甘やかしたなんて思っていない。あいつには厳しく接した。あいつは俺たちの希望だった。あの小さかった手は誰よりも強い剣を握らなければならないし、あの小さかった足は止まることなく歩みを進めなければならなかった。誰よりも強くなれ。お前は俺たちの悲願なのだから。ヴェストがどんな気持ちで俺に接していたかは知らないが、甘やかしてなんてやれなかった。だから今は甘やかしたくもなる。いつまでも傍にいて支えてやると、言えるものなら言っている。それが出来ないのは俺が――。
俺の突然の沈黙に日本は何か覚ったのだろう、それ以上軽いやり取りは鳴りを潜めて、日本は「お茶のお替りはいかがですか」と急須に手を伸ばした。
湯呑は熱い。もう少し冷めてから飲むかと、ちらりと向かいの男を見遣れば、熱いそれを涼しい顔で飲んでいた。男の湯呑を持つ、黄色人種にしては白く見える手をぼんやり眺める。あの手にはちゃんと温もりがあるのだろうか。夢の中みたいに、死人のように冷たく、体温なんてないのではないか。俺は無性に確かめたくなって思わず手を伸ばそうと動かしたが、それは目下の男が言葉を放ったためにそれ以上動くことはなかった。
「国とは何か」
話の続きはそう始まった。
「領域があり、人民が存在し、権力、主権がある…それだけでしょうか」
「…お前はその答えを知っているのか?」
「いいえ。…それを知り得るのは、全知全能の神様くらいではないですか?」
そうなのだろうか。わからないことだらけだ。この世界は。亡国でありながら生きている自分の存在さえ、理解できやしないのだから。
「…でも私は」
重い声音だなと思った。それこそ、この男が長く生きてきたと、そう思わせる重みだった。
「国には必ず、その国をその国たらしめる〝何か〟があると思っています」
「…その国たらしめる何か」
この男が失くしたと思うもの。
「どう説明したらいいのか、上手く言えませんが……例えば…」
説明の難しいそれ。それは、当然かたちのないものなのだろう。日本は少し困ったように戸惑いながらも、話を続けた。
「国の意思のような…何て言えばいいんでしょう。端的に言えば、アイデンティティですけれど。…あるじゃないですか。目には見えない、名状しがたい…言葉で表せられるほど曖昧でもない〝何か〟例えば、お隣にある中国さんと私の中身がまるで違うように、その国にしかない、その国に根付いた何か。国が千あれば千通りある何かです。手に取ることも、言葉で綴ることも、視界に入れることも不可能な、何かしらの存在ってあるとは思いませんか。先に言ったような、その国の国民だけが持ち得る意識といいますか…時間の変化に関わらず、ずっとそこに同一に在るもの。その国を他のどれとも違う、地球上のたったひとつの国とたらしめる何かがあると、私は思うのです」
日本の説明はひどく拙い。けれど、それは拙いそれでしか説明し得ない――いや、説明などおよそ出来る代物ではないのだろう。彼の言っていることは痛いほど分かった。例えば、〝精神〟〝意識〟〝空気〟、そのような〝何か〟だ。例えでそれが何かを無理矢理当て嵌めるしか出来ない。きっと、その〝何か〟を一括する言葉は地球上に存在してはいないのだ。幾度も議論が交わされるような、幾多もの人が筆で認めるような、国の定義じゃない。言葉に出来ないほどの、その国をその国たらしめるもの。国の化身である俺たちの身体に例えるなら、髪の一本一本の毛先から足の爪先まで満遍なく流れ、染み込んでいるもの。
「そのものから滲み出る、特別の趣のような…――情調、とでも言うべきものですかね。そういったものが国をかたち作っていると、私はそう思っていたのです。でもあの日から、あまりにもこの国は変わってしまって……ともかく…先に言ったように、私は私を信用できなかったのです。それは、この国は〝かたち〟を失くしたと、そう思わせるには充分でした」
〝かたち〟を失くした、か。
そうだ。日本国という名前の国を維持したって、その〝名前〟などいくらでも変わるのだ。それは名称に過ぎない。実際、重要なのはその中身で、この男がそう思ったなら、そう思うなりの拠はあったのだろう。
「失くしたと思ったんです。世界はあまりにも変わって見えたし、私は〝日本〟だと、どうしてか胸を張って言うことが出来なかった。もう何も無くなったのだと思いました。過去のそれは跡形もなく消え去って、失われて……失ったそれはもう二度と手に入らないと…」
一度壊れたものを手に入れることは可能なのだろうか。刻々と確実に時を進める世界の中で、元通りのものを。
「もしかしたら、そんなもの…絶望に打ちひしがれるための言い訳に過ぎなかったかもしれないですが」
そうかもしれないなとも思う。俺もそうだ。本当に強い意思の持ち主ならきっと、こうやって悩みやしないのだろう。勝手に理由を探して、勝手に落ち込んでいるようなものだ。そうしないと、割り切れないから。どうしようもなく索漠とした心の理由が必要なのだ。そうしなければ、本当に屍になってしまいそうだから。
「虚ろだった。幽霊にでもなってただ辺りを彷徨っているかのような…実体を感じなくて……ただ生きていた。情けないと思いますが、本当に〝ただ生きている〟だけなのだと思いました。意思も何もなく、虚無的に…ただ……」
自嘲の滲んだ顔で寂しく続いた言葉は段々と小さくなって、余韻を残して音を無くした。
同じだと思った。生きる目的もなく、亡霊のように彷徨って、ただ存在している。俺はそう思っていた。
「ただの詭弁だとも思います。考えなければいいことなのです。国が維持され、国民の努力と、世界情勢の流れの運に恵まれ、経済大国にまでなれた。それを幸運と受け入れ、どうにか将来への不安と折り合いをつけながら、笑って生きていけばいいことで……」
それでも、そう出来ないのがこの男なのだろう。日本は考えてしまえば泥沼だと言った。その通りで、一度思い至ってしまったらそれを無くすことは難しい。答えの出ることのない疑問を繰り返し、己に問うては悩み、嘆き、哀しみ、ときには恨んで、そして結局結論の出ない中で堂々巡りをするしかない。
この男がそんな苦しみの渦の中にいたことは、誰も知らないことなのだろう。そう思うと同時に些か疑念が湧いてきた。日本は普段から無表情がデフォルトであるが、虚無的に〝ただ生きていた〟と表するまでのそれを周りに一切感知させないものだろうか。日本がヴェストやイタリアちゃんと仲睦まじく話しているのを見たことは戦後、尚且つ俺が自由になってから何度もある。この能面みたいな顔に浮かんでいたのは嘘の笑顔なんかではなかった。彼は、機械になってしまいたいと言ったほど疎んだ心を確実に持ち得ていたのではないか。
そんな今までの話に不信さを投げ込んでいた俺に応えるかのように、日本は話を続けた。
「実体などないかのように、ただこの愛すことすら出来ない世界で彷徨っていたつもりでしたが、それは覆されたのです」
「…覆された?」
胸を針のような小さい棘が刺さった気がした。同じような気持ちを抱いていたと思っていた同士に裏切られたかのような、そんな馬鹿げた感情だ。日本はもう、意思も何もなく、この世界を愛することもなく〝ただ生きている〟なんていう状態は解決したと言っているのだから。日本の前を向けた幸福を祝うどころか、虚しい気持ちが湧き上がってしまった自己嫌悪に苛まれていた俺に、彼が続けた言葉によってまったく別の衝撃が襲う。
「ええ。あなたのおかげで」
一瞬にして胸を痛みが駆けた。何の感情によって痛みを訴えたかわからないが、それが全身に広がり、張り巡らされた身体中の血が活発になっていくのを感じた。
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⁴ 桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』(文春文庫,2003)