明かりの点いた自宅を見たときの安堵感が仕事で疲れた肩に、ふわりと伸し掛かった。またしても何の言葉もなしにいなくなった兄が帰ってきているらしい。あれほどまでに注意したというのに、人の気も知らないでどこをほっつき歩いていたというのか。

「兄さん、帰っているのか

 リビングのドアを開けつつ問いかけた言葉に、ソファに座った兄が振り返った。

「おう。お帰り、ヴェスト」

 「飯は食ったのか」と続けながら、こちらへ一歩足を進める兄に俺はその場を動けずにいた。何が琴線に触れたのかわからない。けれど、期待のような歓喜のような、よくわからない情動が襲ってきた。
 そこにあるのは何ら変わらない兄の姿なのに、その姿を見た瞬間、ずっと胸の中で燻ぶっていた恐怖とか不安みたいなものが一気に払拭された気がした。
 兄はどこにいたって、存在感を放つひとである。特徴的な笑い声とか、戦場で張り続けていたからか少し掠れた声とか。その類を見ない色彩の容姿、刃の煌めきのような髪も血のような赤と空のような青が鬩ぎ合う瞳も。それなのに、ずっとその存在はどこか心許なくて。彼を見るたびに、どうしようもない不安みたいなものが俺の胸底に滞留していた。
 けれど、今は違う。その姿は何ら変わってなどいないのに、どこか生命力に溢れ、力強い呼吸を感じる。

「ヴェスト? どした

 目の前まで来ていた兄が、固まった俺の顔の前で掌をひらひらと振りながら、不思議そうに首を傾げた。

「……大丈夫だったか

 口から零れた言葉は、自分でもよくわからないものだった。

「うん? 何が
「…怪我とか…病気とか」

 多分俺は何かあったんじゃないか、と聞きたかったのかもしれない。兄の変化みたいのものを自分でも正しく言葉に出来やしないし、何をどう問えば望む答えが返ってくるのかわからなかったため、変な質問になってしまった。
 兄は怪訝そうな顔をしながら、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「どういうことだよ俺が怪我とか病気とかすると思うかー

 怪我、という大袈裟なものではないが、傷を作るのはしょっちゅうじゃないか。そんな返しも胸中でしか出来なくて、半ば固まったままの俺に兄は口角をあげた。

「俺様を誰だと思ってんだよ」

 勝ち気な兄らしい笑みで不遜なまでの態度で言う。

「……Preußen

 それは口を衝いて零れた言葉だった。小さく漏れた俺の声に目を丸くして瞬かせた兄に、夢見心地のまま続ける。

「Du bist Preußen.

 あなたはプロイセンだ。偉大な歴史を持ち、勇壮で威厳に満ちている、国。
 そんなことをどうして口走ったのか自分でもわからなかった。少しの沈黙があった。兄は何か様々な情念が交錯しているような顔をしたあと、ふっと笑った。それは兄がよくする挑戦的なものでも、不敵なものでもなく、絶対王者のように君臨するようなものでもなく。何か過去の情調に想いでも馳せるかのような、けれど決してそれに焦がれているのではない、今のこの世界そのものに慈顔を向けているような、そんな優しい微笑だった。
 「そうだぜ」と誇らしげに頷いた兄は、手を伸ばして俺の頭を撫でた。その動きは幼い頃のそれとまったく同じで、そのあたたかい温もりも何ひとつ変わってなどいない。あの頃は厳しいことを言われることが多かったが、兄の不器用な愛情は幼心にちゃんと届いていた。

「俺様はプロイセンだ。お前の家族だ。世界一格好いいお兄様がいて嬉しいだろ」
「……ちょっと残念ではあるがな」

 そうやって自分で言ってしまうところとか、な。あと少しばかり、いや…結構煩いひとだけれど。
 む、と不満顔になった兄は「可愛くねぇこと言いやがって」と唇を尖らせた。それもすぐに消えて、「…だから、」と続いた言葉は兄にしては随分と小さく、けれどいやに強く意志のあるような声音で届いた。

「ずっと傍にいてやる」

 それが心の奥底まで届いて、頭がようやくその意味を呑み込んだとき、情けないことに目の奥が熱くなった。
 駄々を捏ねる子どものようで恥ずかしいことこの上ないが、俺はきっとその言葉を求めていたのだろう。決してそれが兄の口から放たれることはないと知っていながら。
 そう思っていたのに、それは与えられた。与えられるばかりで何も返せはしないのに、兄はまたそうやって惜しみなく与えてくれるのだ。
 何があったのか、どういう心境の変化なのか、聞きたいことは山ほどあったが、そんなことを話す機会はこれからいくらでもある。時間は、たくさんある。俺は取り敢えず、衝動のままに目の前の家族の温もりを抱き締めた。とくんとくん、と穏やかに刻まれる音は命があることの証明に他ならない。それはともすれば消え入りそうに小さく、耳を澄まさなければ聞こえないというのに、どうしてか力強くその存在を主張しているように感じた。
 背に回った手が、ぽんぽんと昔と何ら変わらないリズムを刻む。

「お前が望んでも望まなくても、でろっでろに甘やかしてやることに決めたぜ

 そんなよくわからない宣言を高らかに発した兄は、特徴的な笑い声を大きくあげた。
 彼が、今まで以上に煩くなりそうな予感に僅かながら頬が引き攣ったが、それでも心はひどく晴れ渡っていた。





 ベルリンで開かれた世界会議に参加する国の化身たちは、続々と会議室に集まり始めていた。弟の手伝いという形で久方振りに出席する会議は、どこか清々しい気持ちで参加することとなった。分厚い資料から覗いた視線の先で、太平洋に浮かぶ島国と視線が合った。自分を見られるとは思わなかったのだろう、驚いたようにきょとんと丸くなった夜色に笑う。合った視線は恥ずかしそうに少しだけ外されたが、今一度重なった。何か眩しいようなものでも見るその視線は変わっていない。相変わらずだ。その理由もそこに含まれる幾多の情動も俺は知っている。いくらでも見やがれと思う。俺をその双眸に映し、あの抑え難い情動に振り回されてしまえばいい。なあ、俺は存在するだろう。お前の目の前に。この世界に。切なさとか寂しさとか歓喜とか感喜とか、いろんなものを綯い交ぜにした表情で、男は笑った。俺もきっとそっくりな顔で笑い返しているに違いない。
 俺は内心で、この場にいるすべての国に投げ掛けた。なあ、お前らは知らないだろう。お前らが持っていないものを俺は持っている。この先隆盛を誇ることは決してない。けれど、だからこそ、それは変わらないまま存在する。お前らがどんなに望んだって、欲したって、もう二度と手に入らないものを、俺は、俺だけは持ってるんだぜ。
 挨拶とともに隣に座った旧知の友人が、ハニーブロンドを靡かせながら首を傾げた。「なーに笑ってんの」可笑しそうに問うそれに俺は高揚したまま答える。

「ひとり楽しすぎんなーって思ってな

 はあ? と目を瞬かせた友人は、脱力したように身体をぐにゃりと曲げながら、呆れとも憐憫とも取れる眸を俺に向けた。見せ付けるように大きく溜め息を吐く友人と小突き合いながら、俺は今なお鼓動を刻むこの身体を堪らなく愛おしく思った。



 なあ、明治国家。聞こえているか。
 お前は言ったな。俺を師としたことを僥倖に思うと。俺はお前に師とされたことを僥倖に思う。そうでなければ、俺は今在る幸福に気付けなかった。だから、お前を東洋のプロイセンと認めてやってもいいぜ。嬉しいだろ。憧れの俺様に近づけて。例え、お前の存在がの日本の中から跡形もなく消え去っていたとしても、お前の生きた時代にいた俺様が変わらずに、この世界に存在する。それでいいだろだから、もうひとりぼっちで嘆くなよ。わかったか。お師匠さまの言うことは聞くもんだぜ。

 亡国の、心憂い、寂しい表情と痛ましい泣き顔が払拭された気がして、プロイセンは満足気に笑った。

 

 

End.
2016.11.16