TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > 亡国の情調 > 02
「一、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。」
耳に届いた凛とした声音に、プロイセンは開いた目を丸くした。
黒い束帯姿の人々が僅かに頭を下げ、一様に並び座っている。辺りは荘厳さが満ちていて、神聖さすら感じる。前方にある祭壇らしきものの前でひとりの男が何かを読み上げていた。何かの儀式だろうか。声は続く。
「一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。」²
男の右側、屏風らしきものに囲われるような形で白の直衣を着た人がいる。その屏風を隔てた横に見知った男がいた。
「日本…?」
プロイセンはこれが夢であることに気付いていた。当たり前だ。そうでなければ、明らかに場違いである俺の存在に誰かしら疑問を持つものである。零した名前も、その場の空気を壊すことも誰かに届くこともなかった。まるで、幽霊のように彷徨っているかのようだった。あるいは、透明人間か。この光景がどんな意味を持つものかなどわからないが、あたかも歴史の一幕を見ているような、そんな気がしてならなかった。
瞬時に意識が落ちたような感覚が身体を走り、次に目を開けば眼前には違う景色が広がっていた。場面が変わったようである。まるで、古くさい映写機で映画でも見ているかのように、自分が体験したことのない世界を外から眺めているかのようだ。
身体が仰向けに横たわっていることにようやく気付く。己を覗き込んできた顔に瞠目して、ぽつりとその名を呼んだ。
「…日本」
瞬いた闇色がやけに鋭く見えたのは、どうしてだろう。
「普魯西殿」
ひどく懐かしい呼び方だった。
「迷い込んでしまわれたのですか」
「あ…?」
身体を起こしたプロイセンに、見知ったはずの男はとても儚い微笑を浮かべた。泣き出してしまいそうな、消え入ってしまいそうな微笑だった。闇色のそこに諦観が滲んだと思ったのは気のせいだろうか。
「……貴方も亡国になってしまわれたのですね」
――〝貴方も〟…?
「Marsch!!(前へ進め)」
また場面が変わった。
ザッザッと地面を踏み締める幾多もの足音が辺りを覆った。聞き慣れた母国語の号令。この身に刻み込まれているプロイセン式の統率された隊列。何百人もの軍人がそこにはいた。
俺は目を見開いて、眼前の光景を呆然と眺めた。
場面がフィルムが切り替わるように変化する。
「Feuer!!(撃て)」
重々しい発砲音が響いた。何もかもが見覚えのあるものだ。一様に隊列する彼らの持つ銃までも。
「……Dreyse Zündnadelgewehr」
ドライゼ銃。プロイセンで誕生した、当時は最新鋭の兵器だった。世界初のボルトアクション小銃。ドレスデンでの市街戦、普墺戦争、普仏戦争――この目で見てきた光景が脳裏に過ぎる。これが過去の幻影ならば、それは納得のいくものだった。しかし、その銃を扱い、ドイツ語の号令で動き、プロイセン式の隊列を組む彼らは、プロイセン人より大分小柄で、肌の色も髪の色もまるで違う。
「ここは…日本、か?」
「日本ですよ」
背後から突如聞こえた声に肩が大袈裟に跳ねた。一歩後ろに立つ男の気配を感じないほどに眼前の光景に見入っていたか、それとも――。いや、考えるだけ無駄だ。これはどうせ夢なのだから。
「ここは紀州藩です」
「きしゅうはん…?」
日本の化身が微笑んで頷いた。
「あの銃、」
「普魯西式ツンナール銃ですか?」
「ああ…そういう言い方すんのか。専用の弾薬が必要だろ?」
「弾薬製造所もちゃんとありますよ」
「へえ。…今、何年だ?」
「はい?」
「西暦」
「せいれき?えっと…」
「ああ…いや、いい。メイジ何年だ?」
「四年です」
「…嘘だろ? 明治になったばかりか? お前が陸軍をプロイセン式にしたのってもっと後だぜ」
日本は首を傾げた。ああ、こいつにとっては未来のことなのか。
「政府は陸軍兵制を仏蘭西式にすると決めましたよ」
「はあ? じゃあこれは――」
プロイセンの声が掻き消えるほどの聞き慣れた母国語の号令が空気を切り裂くように響いた。それを受けて動く小柄な日本人たちは、洋式の軍服を着て革靴を履いていた。
俺は言葉を続けるより目の前の光景に見入られ、思わずじっと見据えた。
ドイツ語が聞こえる。声を発するのは背広姿の男――見慣れた容姿の西洋人だった。乗馬姿で令笛付きの乗馬用鞭を持っている。
「あいつ…」
「貴方の家の方ですよ。ああでも確か…彼の祖国は、はのうふぁ…?」
「くっ…相変わらずのひでぇ発音だな」
「む…仕方ないでしょう? 日本語では変な舌の動きはしないんですよ」
「Hannoverか? …俺が併合した」
「ええ。あ、でも…しゃうむぶるく? だったような」
「どっちだよ」
「貴方のお家周辺は複雑怪奇でわからないんですよ。とにかく、我が国では普魯西人いうことで来日されている方です」
「俺ん家からか?」
「政府が正式にというわけではなく、紀州藩が彼に軍事教官として指導をお願いしたんです。彼は大阪で商会の倉庫番をされていた方なんですよ。他にも洋式の製靴や製革の技術者の方が貴方の国から招かれて、指導を行ってくれています」
プロイセンはふいに浮かび上がった記憶に目を瞬かせた。
「…思い出した」
確か、このことは駐日公使によって上司に報告されたのではなかったか。教官として雇われた元軍人の男はそれによって進級したはずだ。俺にとっては、特段思い出すこともなかった出来事だった。
これは夢なんだろう。でもこの光景は実際に現実にあった光景なのだろうか。俺はこの頃、日本に滞在していないはず…ならば、この国の化身はどうして違和感なく俺と会話をしているのだろう。
「日本、」
呼びかけによってこちらを見上げた男は、心憂い表情を含ませつつ、またしても儚げに微笑った。見覚えのある表情だ。
――……貴方も亡国になってしまわれたのですね。
男はそう言ってなかったか。
「私は確かに日本ですが、日本ではありませんよ」
意味がわからない。
男は真っ直ぐに俺を見つめて目を細めた。闇色の双眸に浮かぶその感情の色を知っている。それは。
「私、貴方に憧れていたんです」
清いまでの憧憬だ。俺の何に憧れているのか、正直よくわからなかったというのが当時の俺の心証だった。それなりの好意と清い憧憬が湛えられる闇色を見るたび、不思議だった。早急な近代化を求める日本にとって、数ある欧米諸国の中から項目ごとに手本とする国を選んだに過ぎない。法はフランス、海軍はイギリス、医学はドイツ。日本は狡いと言った人間が確かいたはずだ。所謂、好いとこ取りをして日本は近代化を邁進した。そして、憲法と陸軍は俺に。ただ、それだけのことだろう。それなのにどうして、眼前の男はそれほどまでに純粋で清い憧憬を湛えた眸で俺を見るのか。…いや、その瞳でフランスやイギリスのことも見つめていたのかもしれない。
男は、俺から視線を逸らし、彼の愛しき民たちのプロイセン式に統率された軍隊を見つめて笑った。晴れやかな、満足そうな顔だった。
「憧れて、いたのです」
人に聞かせるわけではないような小さい声で、同じ言葉を確かめるように呟いた。
何に。何処に。どうして。そんなことを聞こうと思って、「なあ」と放った呼びかけは風の音に掻き消された。ぶわり。強い風が舞う。咄嗟に閉じた目を開けたとき、日本は踵を返し、去っていこうとしていた。
「っおい!待て――」
聞きたいことがある。これが俺が勝手に創り上げた夢の中だろうと構わない。教えて欲しい。憧れていたと繰り返した真意は。あの儚く心憂い表情の理由は。日本であって、日本ではない。そう言ったお前は、ならば一体誰なんだ。亡国――あの言葉の意味は。
視界が何か風花のようなもので覆われる。
ドイツ語が聞こえた。地を踏む力強い音。気が付けば、目の前に日本人に軍事指導を行っていた先のプロイセン人がいた。その男は眼下に広がる自らが調練した日本人によるプロイセン式の軍隊を見て、ぽつりと零した。
「新しいプロイセンの誕生だ」
――新しい、プロイセン。
ここはあの地より遥か彼方の極東の島国だ。何もかもが違う遠い異国。それなのに。目下に広がる光景がどうにも胸を揺さぶっていけない。遥か彼方――この時代にはまだ在った、けれどこの先幕を閉じる歴史の――その過去の向こうにある、祖国の薫りがした気がした。
「――内以て億兆を保安し外以て万国と対峙せんと欲せば」
(…今度は何だ)
色とりどりの束帯姿の人たちが頭を下げている。最初に見た光景に似ている気がした。
「宜く名実相副い政令一に帰せしむべし」³
部屋の奥、一段上がったその先にさらに段差がある。御簾で囲まれた一角のその右前辺りにいる男が何かを読み上げていた。
「これは…」
「もうすぐ武士が消滅するんです」
「っ――おまえ、また…!」
横に立つ日本の化身――であるかは定かではないが――は、声を張り上げた俺に人差し指を立てて、緩やかに微笑った。静かに、との仕草に思わず口を噤む。微笑んでいるのに、その夜色は寂しげに揺れていた。
日本は俺から顔を逸らし、目下の光景を見つめた。まるで、一度見たことのある情景を今一度その目に焼き付けているかのように。
「二百七十の藩が消える」
小さく呟かれた声と共に、場面が切り替わる。
目の前で見知らぬ男が蹲って苦しげに呻いていた。
思わず、手を伸ばそうとしたそれを阻むように握られる。俺の手を取ったのは、日本だった。咄嗟に彼の手を振り払う。反射的にしてしまったことだった。なぜなら、日本の手は驚くほど冷たかったから。
「おまえ…」
まるで死人のような体温だ。茫然とする俺に日本は曖昧な微笑を浮かべるだけだった。
「うっ」と呻いた声がする。弾かるように視線を向けた先では、男が震える手で刀を大事そうに抱き締めるようにして握っていた。
「おい、日本…!」
このままじゃ、この男は死ぬ。
どうして俺は必死になっているのだろう。これは単なる夢に過ぎないのに。
「彼は〝もうこれで善い〟とおっしゃったそうです」
「これでいい…?」
「武士として生きていけなくなる世と決別する覚悟をなされたのでしょう」
「武士…」
「まこと…武士らしい死に様です」
死んだら元も子もないじゃねぇか。そう思うのはおかしいのか。
「……お前も、武士らしく死にたいのか」
この男のように。
「私は武士ではありません。武士はもうこの世にはいないのです」
「…さっきから、何を言ってるのかわかんねぇよ」
「これは、源の世から七百六十数年続いた――そして、徳川の世で二百数十年続いた制度の解体を意味します。革命とは…なんて心苦しいものなのでしょうね」
示された歴史の長さがあまりにも重かった。
「…それでもしなくちゃならねぇんだろ」
「ええ。〝国〟が生きていくために、彼らはそれを受け入れたのです」
死にゆく男を見る日本の顔は慈愛に溢れていた。けれど、なんて寂しそうな眼をするのだろう、と俺は思わず彼の氷のような手を取ろうと腕を伸ばしたが、それが届く間もなく、意識が不明瞭になった。
喧噪が街を包んでいる。御祭り騒ぎ、といった感じか。そこら中に日章旗がはためいていた。日の丸の描かれた提灯も並んでいて、その横を行列が悠々と進んでいく。赤地の布に「國家万歳」と書かれている旗もあった。即席で造られたような大きい門がある。「奉祝」と書かれた門に二本の大きい日章旗が交差していた。辺り一帯が祝福のムードで包まれているのは容易にわかった。
風に舞った紙が足元に落ちる。
――『明治廿二年二月十一日』
号外か。二月十一日。確か、日本の誕生日だ。
「建国の日を祝っているのか」
「いいえ」
背後から突然かけられた声に振り返る。
「憲法が発布されたんです」
振り返った先にいたこの国の化身は、先ほどの場面とは違い、喜色の浮かぶ顔で彼にしては珍しく弾んだ声音で言った。
「憲法?」
「大日本帝国憲法。皆、それをお祝いしているのですよ。貴方には大変お世話になりました」
そうか。この光景は日本で初めて憲法が公布されたときのものなのか。俺は夢であることも忘れて、ただ今見える景色を目に焼き付けた。感慨深かった。わずかな繋がりしかない日本と俺だが、それでもこれほど祝福されている憲法がプロイセン憲法を参考にしたのだと思えば悪い気はしない。
祝福の嵐の中、日本の化身が手を広げてくるりと回った。ダンスでも踊るように軽やかに。そんな姿見たことなどないと俺が目を丸くしていても、男はお構いなしに笑った。晴れやかに、ずっと欲しかったクリスマスプレゼントでも貰った子どものように。
「見てください! 〝国民〟が誕生したんですよ…!」
「国民…?」
「嗚呼…私は、今日という日を忘れはしません」
男は俺の疑問符付きの反芻など聞こえないかのように、喜々として言葉を紡ぐ。はしゃいでいるようなそれは俺の知る日本の化身ではないかのように思えた。
「私だけじゃない。日本国民ならば、今日という日を忘れるはずはありません。百年先、千年先…千代に八千代に今日という日を祝うでしょう」
俺は閉口して、笑みを浮かべる目前の男から目を逸らした。
そんなことはないのだと、俺は知っている。大日本帝国憲法。明治憲法。それは新しい世で強く否定され、悪と罵られるときが来る。
「師匠?」
その呼び方もひどく懐かしい。
濁りなく輝く双眸に見上げられて、俺は思わず手を伸ばした。すべての色を内包したような漆黒の髪を撫でる。そんなこと一度たりともしたことなどなかった。実際、驚いたように目を見開いた日本は微かに困惑しているようだった。
おめでとう。ドイツ語で紡いだそれに目を丸くしてから日本は笑った。それは、俺には満面の笑みのように見えた。胸中に滲む苦い思いが痛かった。その笑顔が失われることを知っている。
お前はいつしか後悔したのだろうか。俺を師としたことを。
「後悔なんてしませんよ」
「――え…?」
太陽でも見上げたように眩しそうに目を細めた日本の顔を最後に視界が反転した。
次に目を開けて飛び込んできたのは、先の男の顔だった。仰向けになった俺を覗き込んでいる。
「…日本」
「ええ、私は確かに日本ですけれど…私は明治国家です」
「メイジ…――Reich?」
「貴方と同じ亡国ですよ」
「亡国…?」
馬鹿なことを言うな。日本は存在してる。地図の上に、この世界の中に。
「ええ。でも失くしてしまったんです。あんなにも大切にしていたはずなのに」
胸中で放ったはずの言葉まで男は拾い上げて応える。
男の細い指先が頬に触れる。まるで宝物にでも触れるように繊細に触れたそれは、異常なほどに冷たく、生気など感じさせはしなかった。俺の身体は鉛のように重く、起き上がることすら出来ない。対する男の身体は羽のように軽く動き、何故だかその身体は今にも消えてしまいそうだと思った。
「何を失くしたんだ」
男は寂しく微笑むだけで答えない。
「私、貴方を師としたことに僥倖を感じます」
僥倖――思いがけない幸い。偶然に得る幸運。
「僥倖?思いがけないって?」
「はい。だって貴方…生きてるんですもの」
「…でも俺は亡国だ」
「だからこそですよ」
「意味わかんねぇ」
ふふ、と男が小さく笑う。どこか晴れやかな顔だった。その顔は視界を遮られたことにより、すぐに見えなくなる。男の凍えるような手のひらが俺の両の眼を塞いだ。俺が不満を口にするより先に、男が言う。
「貴方はここにいてはいけない」
「なに、」
「どうか生きて、あの世界に在り続けてください。Herr. Preußen」
ドイツ語で流暢に紡がれた俺の〝名前〟。
おかしなことを言う。〝プロイセン〟はもうどこにもない。どうやって生きていけと言うんだ。あんなにも空虚のまま、亡国で、過去の存在のままで。
「もう二度と、こんなところに迷い込んではいけませんよ」
待て。もう少し話をさせてくれ。お前は日本じゃないのか。日本は何を失くしたんだ。あいつは元気に生きてるだろ。俺なんか容易く追い越して、背中も見えないくらい遠くにいる。世界の中心に近いところに存在してるじゃないか。
「…師匠。どうぞ、過去に追い縋るどうしようもない未来の〝私〟を叱ってやってください」
意識が遠のく。冷たい指先の間から僅かに覗いた男の瞳が血のように紅く見えた気がして、息を呑む。寂しげな表情だと思ったのは一瞬で、男は次の瞬間には不敵な笑みを浮かべていた。その表情も、その眸の色も、鏡越しの自分のそれとよく似ていた。
「待っ――」
待て、と動かないはずの手を伸ばしたつもりだったが、熱風が身体を包んで視界は闇に閉ざされた。
暑かった。急激に滲む汗が眦に沁みて痛い。揺らめく蜻蛉が自分の立つ場所ですらあやふやにさせていた。ゆらゆらと視界が揺らめく中、小さい人影が見えた。鈍い歩みで近づいていく内に見えてきたその姿に声にならない声をあげる。辺りを覆う死の臭いがあまりにも身に覚えがあって、拳を強く握り締めた。
「――ッ…!」
咄嗟に口を覆った。そうしなければ、不様な嗚咽でも漏らしてしまうかと思った。俺は何度もこういう残酷な光景は見てきたはずなのに。戦場で生きてきた俺には見慣れたはずの景色。ただ平凡に暮らしたこの数十年間で俺は随分と平和に染まっていたのかもしれない。
視界を鈍らせる蜻蛉から解放されて見えた姿。逸らしてしまいそうなその姿を、けれど俺は瞬きすら封じて、その姿を目に映した。
「……にほん」
声は届かないだろう。振り向いてほしいと思ったわけじゃない。ただ、この目に映るその姿に嘘だと言ってほしいとすら思った。
それは、地べたに這い蹲った無様な体勢だった。しかし、仕方がない。だって彼の脚は――無かったから。お前が着ていた軍服は白かったはずなのに、どうしてそんなに赤黒いんだ。破けて、肉まで見えてるだろ。早く、病院にでも行けよ。馬鹿げた言葉を心中で投げかける。そうでもしないと、目を逸らしてしまいそうだった。
血だらけの、穴すら空いた腕が必死に何かに手を伸ばしていた。欠けた指先が刀に触れる。馬鹿野郎と言ってやりたかった。この男はこんなになってまでまだ、戦おうとしている。お前はもうひとりなんだぞ。お前の味方なんて、この世界にひとりもいないのに。そんなになってまでどうして――。
「――…あんなになってまでも」
辺りに小さく響いた低い声に息を呑んだ。日本の…いや、明治国家の声だ。
「あんなになってまでも、失くしてしまったのですね」
振り返る。今、無惨な状態でいる男とそっくりの男が立っていた。その頬は濡れている。止め処なく流れる雫が、ぽたぽたと乾いた地面を濡らしていて、その視界は滲んで碌に見えないはずなのに、男は自分とそっくりな――いや、自分自身でもあるはずの男から少しも目を逸らさなかった。
しん、と静まり返っていた。辺りを埋め尽くす静寂の中、雑音混じりのラジオが響く。蝉の声が聞こえた。一匹が鳴き始めたと思ったら、それは瞬く間に合唱となって辺りを覆い尽くす。短い生を声高に主張するように鳴いている。それは数多の魂が発する悲鳴のようにも聞こえた。降りつづける蝉時雨が鼓膜を痛いほどに揺らす。狂ったように燃える太陽の下、目の眩みそうな夏の陽射しが光の束になって天から降り注いでいた。
***
俺はベッドから飛び起きた。荒い呼吸が静寂に包まれた室内に響く。何に対してなのかわからないが、鼓動が異常なほどに早鐘を打っていた。
「……日本…」
ただの夢だ。何てことのない、すぐに忘れてしまう単なる夢。
あれが現実の光景であるはずがないだろう。だって俺は夢で見たどの光景も目にしたことがなかったはずなのだから。俺が勝手に創り上げた幻想に過ぎない。それなのに。そう思うにしてはあまりにもリアルで、あまりにも感情を揺さぶった。
スマートフォンに手を伸ばす。着信履歴にも発信履歴にも、メールの受信ボックスにも送信ボックスにも、通話アプリにすら、彼の名前はない。当然だ。それほどに連絡すら取らない、弟の友人。あんなにもリアルな夢を見るほどに会っていないはずの男。電話帳を開いて、日本の名のところで手を止めた。電話をかけようとしてやめる。あの男と何をどう話そうとしているのか自分でもわからない。でもひとつ、どうしても聞きたい。夢の中の〝お前〟が言ったことが頭から離れない。ひとりぼっちの俺が聞く相手などいなかった問いかけ。
もういっそ、馬鹿げた夢を見ましたね、と呆れた顔をしてくれとも思う。それなのに、どうしてか微かな期待が蠢いていていけない。
俺はパソコンを開いて、日本行きのチケットを購入した。
________________________________________
² 五ヶ條ノ御誓文より。
³ 廢藩置縣ノ詔書より。