TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > 亡国の情調 > 01
それがこのふたつの眼に映ったとき、魂の震えるような情動が躯を貫くように走った。少しでも何か外から力を加えられれば、その情動は過激に表へと姿を現してしまうだろう。恥も外聞もなく泣き喚いてしまいそうだと、そう思った。
もうどんなに手を伸ばしても届くことのない処へ行ってしまったと、もうこの世界に遺ってすらいないのだと、そう思っていた百年近く前の、あの頃の薫りが漂っていると思ったのは、気のせいなのか。気のせいだと思うにはあまりにも凄烈にこの心を揺らしている。
躯に巡る凡ての血が沸き立つような感覚があった。この太平洋に浮かぶ島に根付く民の意識がひとつの大きな塊になっていくのを感じた。自分が何ものであるか、今この瞬間、この躰に、この躰に巡る凡ての血に、精神に、魂に、刻み込まれた。噫、私は生まれ落ちたのだ。この世界に歴として。
何も見えない真っ暗闇の海に、ぽとりと投げ込まれた浮木だと思った。あるいは、遠くで光を放ち行く先を照らす灯台だと思った。それは慥かな希望であり、眼下に広がっている偉力ある軍隊は、不安に嘖まれていた私を確実に救い上げてくれた。私は遥か遠い異国を想う。訪れたこともないその異国があたかも眼前に広がっているように思えた。
それは白く清められた日のことであった。夜来の雪が降り積もり、一面銀世界の中、この国は新たな強い一歩を踏み出した。時代遅れと、野蛮であると、侮ることなかれ!私は今日を以て世界に参入するのである。いつもより数段騒がしい街の喧噪と、辺り一面を飾った紅や白が華やかに祝している。どこまでも続く行列に日を象った旗の揺らめき。さあ祝おう。国民の誕生を。この国は私たちが創り上げていくのだ。陽の光に照らされて煌煌と輝く辺り一面の銀が遠い異国のひとを彷彿とさせた。貴方も祝してくれているのだと、そう思っていいだろうか。いつまでも続くと思われる祝福の騒ぎは止むことを知らない。これは幾年月経とうが失われることのない祝福だと、そう思っていた。千代に八千代にこの日を祝うだろう。それは私の誇りだった。
脳裏を駆け抜けた過ぎ来し方の情調は、重く衷心に滞留した。それは栄光の欠片もなく、それを誇ることは決して許されないものだった。それでも愚かな私はそれを失くすのはどうしても厭だった。必死に護り抜こうとしたそれは、けれど屹度かたちを亡くして消えたのだ。それらはもう跡形もなく消え去ったのだ。そう思っていた。もうこの世界の何処にもなく、どんなに手を伸ばしたって届かない処へ行ってしまったのだと。その過去の薫りが辺りを漂っている。
噫、本当にあなたはどこまでも師である。その躯ひとつで示してくれるのだから。
周りを見渡す。スーツ姿の幾人もの人間たちが小さな始まりを祝していた。ここは世界の片隅の一角に過ぎない。けれど、私は胸中で世界に向けて言った。私は今一度あなたを愛そうと思う、と。もう後ろを振り返るばかりではない。前を向いて歩いていけると、そう慥かに思えた。
ただの挨拶の握手で触れたその手は慥かに熱を持ち、そこに在った。変貌していく世界の中、変わらぬ姿でそこに存在していた。勇壮で威厳の満ちたそれを、私は太陽でも見るかのように見上げた。
噫、〝プロイセン〟がそこに在る。
私はそのことを世界に感謝した。
亡国の情調
「行ってくる」
「おう。いってらっしゃい」
そう玄関先での挨拶を済ませたにも関わらず、何か思い至ったように今一度振り返った弟の眉間には深い皺が刻まれていた。
「兄さん、」
普段より低く紡がれた声音に微妙な顔になった。朝っぱらから何のお叱りだよ、と内心愚痴を零しつつ、聞く姿勢に入る。
「何度も言うようだが、どこかほっつき歩くなら歩くでメモ書きのひとつくらい残して――」
「わーってるっての!つか、どこにも行かねぇし」
「あなたは…そう言いながら、何日も連絡もなしに帰ってこないではないか」
「わかったわかった。ちゃんと連絡するって」
「本当だな?」
「信用ねぇな」
「普段の行いを鑑みて言ってくれ」
「すみませんでした。…ほら、早く行かねぇと遅刻するぜ?」
「まだ全然大丈夫だ」
「行くまでに何かトラブルがあるかもしんねぇんだから、早いに越したこたぁねーんだよ」
「…それはそうだが」
まだ何か言いたそうな顔にへらりと笑ってやった。
「お兄様はどこにも行きません!ったく、でけぇ図体してるくせによぉ…甘えたか?早く兄離れしてもらわなきゃ困るだろ」
子ども扱いするな、とか顔を真っ赤にして反論してくるだろうと思った弟は、予想に反して黙り込んでしまった。
微かに俯いた弟の彫りの深い精悍な顔に影が出来る。
ヴェストの不安はわかっていた。隠し事が下手なこいつの考えてることなんてわかっている。わかっていて、素知らぬ振りをしていた。ヴェストの不安は少なからず、俺の言動とか表情とかに影響されているのだろう。俺は普段と何ら変わってないつもりだが、家族なんだ。明確な言葉では表せない何かを感じているに違いない。
「…どうして」
「あ?」
「どうして困るんだ?」
暫しの沈黙のあとの問いかけに、俺は思わず表情を消してしまった。動揺に揺れたスカイブルーに瞬時に笑みを浮かべる。
わかるだろ、そんなこと。なんて残酷なこと、とてもじゃないが言えなかった。
「弟の成長を見守るのは兄の喜びだろ?お前がもっと大きくなっていくのを俺は見たいんだよ。兄離れも出来ない奴を大きくなったなんて言えねぇぜ?」
右手が疼いた気がしたのは、いつの日か中々治らなかった傷を思い出したからなのだろう。
意図的に口角を上げたことで不敵に笑えていることを願った。ヴェストは閉口したままで、俺の揶揄っぽい言葉に何も返してくれない。
わかっていた。弟が望む言葉などわかりきっていた。でもそれはどうしても言えそうになかった。
――いつまでも一緒にいてやる。
…なんて、そんな不確かな約束を安易に口にすることはとても出来なかった。
ようやく仕事へ向かった弟の背を見送って踵を返す。自分しかいない家はやけに広く感じて、見知ったはずの景色の中にいるのに、まるで袋小路に迷い込んだかのようだった。そんな感覚もあながち間違っていないことに思い至って、自嘲の笑みが勝手に浮かんだ。
袋道だ。前方へ広がる道の先は俺の目には見えはしなかった。俺の生は、いつの日か袋小路に入っていった。
見慣れた自室へ足を踏み入れる。何かをする気力などなく、ゆらゆらとだらしない足取りで寝台へと身を投げた。
空虚だった。俺の身体の中は伽藍洞に違いない。目的がない、ある日唐突にそう思った。東ドイツとして日々過ごしているときはそんなこと思わなかった。目的は確実にあった。弟の半身を維持することだ。それは決して失くすわけにはいかないものだった。強くなれ、とよく念じていた気がする。誰よりもどこよりも強く。今一度、大いなるDeutschlandの再興を。今思えば、もうそれは古くさい考えだったのかもしれない。強くあれ、と驀進する時代は終わりを迎えようとしていたのだから。でも俺はずっとそうやって生きてきたから、もう何が正解かなんてわかりゃしなかった。異常なほどの気持ち悪さを感じていた。自分の身体の中に、他人の魂を無理矢理入れ込んだかのようだった。割れるような頭痛に、治まらない嘔吐感、身躯が引き裂かれんばかりの苦痛。東ドイツとしての意思がヴェスト――西ドイツを敵視したことも多々あった。それでも“俺”の精神を保てたのは、愛する弟へこの半身を返すのだという明瞭で強い目的故だった。
そしてその目的は失われた。叶った、と言い換えてもいい。俺は役目を終えたのだ。新たな目的は芽生えることはない。生きる目的。どうしてそんなものを持ち得るというのだ。〝プロイセン〟はこの世界に亡いと云うのに。
茫洋と眺めていた何の変哲もない天井へ伸ばすように手を掲げる。無数の傷が刻まれた生白い手は透けるだなんて馬鹿なこともなく、当たり前のようにそこに存在し、己の目に映っていた。どうして〝俺〟は在るのだろう。誰も答えられないだろう問いかけをもう幾度己に投げかけたことか。
ひどく空虚だった。亡霊のように足もなく、触れられる手もなく、誰の目にも映らないかのようだと、そんな烏滸がましい想像があまりにも現実味を帯びていた。
なあ、誰か教えてくれよ。袋道に迷い込み、前進も後退も出来ず、ひとりぼっちで閉ざされて、取り残された世界の果て。俺はどうやって生きていけばいい。重く厚い歴史を過去に置き去り、空っぽの身体ひとつ抱えた俺はどうすればいい。こんな空虚な思いのまま、生きていけと言うのか。誰か、誰でもいい。伽藍洞のここを埋めてくれよ。こんなにも虚しいままじゃ、俺は歩くことすら儘ならない。俺に生きている意味はあるのか。俺という存在の意味を、誰か教えてくれ。
己の身体を抱き締めるように丸め込んで横を向く。視界に入ったサイドテーブルの上に置いてあった本を見て、おもむろに上体を起こした。手に取って読破済みのそれをぱらぱらと捲った。
本を読むのは好きだ。学びを得られるというのは大きい。どれだけ長く生きていたって、この世界のすべてを知ることは叶わない。知性が齎す力は無限だ。視野が広がり、考え方や見方を変えることだって出来る。本は遊び相手にもなるが、師にもなる。それがもたらす疑似体験は一生では得られないはずのものを与えてくれる。静寂の中で僅かに響く紙を捲る音や、捲るたびに微かに香る紙の匂いはどれだけの歳月が経とうと変わらない。変わらないそれが安堵感を生み、愛しいとさえ感じるのだ。
この本は別に何か目的があって手に入れたものではない。単なる暇つぶしに買ったと言っていい。今朝方ヴェストに怒られたように、ふらふらとこの身ひとつでいろんな場所に行った。この本は日本に行ったときに買ったものだった。中国に行ったついでに、日本にも行くかーくらいのノリであの島国へ降り立った。日本の化身には会ってない。どうせ仕事で忙しいだろうし、話したいことだって特段あるわけじゃなかったし。この本は街中にある小さな寂れた古書店で目に付いて買ったものだった。売る気ないだろ、と言いたいほど整頓なんかされてない小さい店だった。よぼよぼの爺さんが適当に積み上げられた本の間から覗くカウンターらしき場所に座っていた。客ひとりいない狭い店内を身体を小さくして周っていると、背表紙のある文字に目が留まった。〝明治〟――The State of Meiji。そのときは何か深く思ったわけでも、感情を揺さぶられたわけでもない。ただの少しの知識欲でそれを買った。
「……『そんな国家、いまの地球上にはありません。』」
ぱらぱらと捲っていた手を止めて見えた文字を意識せずに口に出していた。
――『一八六八年から一九一二年まで四十四年間つづいた国家です。極東の海上に弧をえがいている日本列島の上に存在した国家でした。』¹
本にはそう綴られている。
極東の海上に弧をえがいている島国――日本。深い繋がりがあるわけでもなく、よく会うわけでもない、遠い存在だった。
彼の国の化身のことで強く印象づいていることがある。あいつが俺を師にすると遥々海を渡ってきたときのことだった。いつか使節団に同随していた彼が着ていた不似合いだと思った洋装をそのときも着ていたが、やっぱ似合わねぇな、と揶揄することは出来なかった。あまりにも真摯な眼差しが俺を見上げていて、揶揄うなんてことは俺自身が許せなかった。思慮深く底のないような闇色の瞳がすべてを容易に受け入れてしまいそうだと思うのに、その双眸は強い熱情を秘めて爛々としていた。紅潮した頬は、彼を表する美しい旗のように力強い意志と存在感を放っている。初めてこの化身と会ったときとは、まるで別人のようだと思った。いつの日か、「それが武士の佇まいか」と軽い戯言のように言ったことがある。彼は「武士はもうこの世に存在しませんよ」と超然と言い放った。嘆くでも哀しむでもないような声音に、この男の覚悟を見た気がした。過去の遺産をひとつひとつ捨てていく男。そうしなければ、イギリスやロシアの脅威に飲み込まれるとわかっているが、その急激な変化は男の身体にもそれなりの苦痛を齎していたのだろう。男に貸した客室から響く呻きがそれを示していた。けれど、男は決して俺の前で身体の不調など悟らせはしなかった。
勤勉、自律、倹約、自助。男の態度や精神は、どこか俺が信仰してきたものと類似していて、遠い異国の男の印象は悪くはなかった。
あの烈しい意思を持ち、強い熱情を秘め、血色を紅潮させ、真摯に貫く眼差し。戦後、久方ぶりに再会したあと、そんな姿を見たことは一度としてなかった。時代の変化を思えば当然のことだが、男もあの頃より随分と大きく変わったのだろうなと思う。
それなりの好意と清いまでの憧憬を滲ませた瞳を知っている。時代が下って、ごくたまに会うあいつが俺を見る視線には不思議な色があった。過去のそれらとは違う、けれど何か眩しいものでも見るかのような不思議な視線。太陽とか月とか、そんな手を伸ばしても届かないものでも見るような眼差しだった。それは意味を問うほど気になることではなかったが、例えば、弟の手伝いで稀に参加する世界会議で、日本の視線を何度も感じることがある。「スーツ姿の格好良すぎる俺様に見惚れたか」と揶揄い混じりに言えば、「ええ、格好良いですよ。惚れ惚れする厨二カラーです。今度コスプレを――」などと恍けた返事が返る。それが真意だと受け入れたわけではないが、強く問いただすほど気にもならなかったのだ。彼は、碌に関係を持たない弟の友人だった。穏やかな黒曜も、色の変わらない頬も、なまっちろく細い身体も、何を考えているのだかわからない意思の垣間見えない双眸も、あの頃とはまるで違って、きっと俺はどこか胸の片隅で落胆していたのだと思う。世界は変わる。俺だけを置いてけぼりに。皆、変わっていくのだと。
(……ああ、本当に、)
「――ひとり楽しすぎるぜ…」
俺は本を閉じて、今一度寝台にぽすりと身を投げた。瞼を下ろし、闇色に閉ざされた視界の中、遠い過去の情調に思いを馳せた。
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¹ 司馬遼太郎『「明治」という国家』(日本放送出版協会,1989)