TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > エゴ・イテルの愛 > 03
――どこか出かけるか?
出かけようぜ、でもなく、出かけないか、でもないその言葉は、その決定権をすべて日本に委ねていた。どこか恐る恐るといった感じを隠したような声音に、日本は逸らしてしまいそうな視線を必死に美しいルビーに向けながら、努めて自然に微笑んだ。
――出かけましょうか。
彼は安堵したような表情を含ませて笑った。どうしてか、彼がなぜその問いかけをしたのか手にしたようにわかる。こんなことはわかるのに、彼の根本はまったく理解できないことが哀しく虚しかった。
恋人となってひと月も経っていない。彼は恋人らしい何かをしようとしているのだろう。彼がしたいのではない。私のための行動に違いない。自分に恋慕を向ける男への褒美――いや、そんな厭らしいものではない。彼は純粋に私を喜ばせたいだけ。そして恋人という関係を確固たるものにしたいのだ。
なぜなのか。一番知りたいその問いは何度も思惟したけれど謎のままだ。知り得るはずがない。他人の衷心など、およそ理解することなど不可能なのだろう。ましてや、人でもない、そして〝国〟の化身であったはずの彼は、今や〝亡き〟国の化身だ。彼が何をどう思って、どう考えて、どんな心情で今を生きているのか、同じ立場ではない私にわかるはずもない。
あの日。ひどく疲れていたのを覚えている。
世界会議へと向かう足取りはいつだって重たかった。海の繭から飛び出したときから、ずっとだ。ただあの日はいつも以上に足が重く感じた。もういっそ何もかも投げ出せたらとそんなどうしようもないことを思うくらいには疲れていた。
利益。利益。利益。それしか飛び交わない世界会議に意味などあるものか。どうして手を取り合って、はい平和になりましょうと言えないのか。そんな愚かな子どもじみた思考を巡らせては己を罵る。お前こそ。お前こそ、自分が平和ならそれでいいと思っているのだろう、と。激しい自己嫌悪と、この世のすべてへ向かうような苛立ちに苛まれる。
当然のようにまったく纏まらない議題。会議室はあらゆる言葉が放り出されて騒然としていた。それでも何かしら成果を残さなければと、どうしようもないことを思ってメモを取り続ける。
ああもういっそ、国など無くなってしまえばいいのではないだろうか。そんな酷い言葉が脳裏を過ぎると共に顔を上げたとき、映り込んだ姿に息を呑んだ。資料を読むために伏せた瞼から覗く赤紫。窓から射し込む陽の光を受けて白金の髪がきらきらと流星のように瞬いていた。プロイセン。国の化身でありながら、国を亡くした男がそこにはいた。
私は酷い男だ。国など無くなってしまえばいいなどと一瞬でも思ってはいけなかった。自分は不幸であると思っていたほうが楽だった。一歩ひいたところで全体を眺めて嘲笑っているほうが楽だった。そうして自分を守っていた。そんな愚かな私に彼はなんと言うだろう。円形になった机の向こう。彼の愛する弟の隣で騒がしい会議に口を挟むことをしないプロイセンは、日本の心を見たらなんと言うのだろう。叱ってほしかった。喝を入れてほしかった。進むべき道を示してほしかった。この世界の理を教えてほしかった。
どうして。どうして、彼の国はもうないのだろう。日本にとってプロイセンは憧れの国だった。彼のヒロイックな姿はもうきっと二度と見ることは叶わない。文明国の仲間入りを果たすために師を真似た憲法は諸悪の根源かのように悪者となってしまった。変わってしまった。あの頃の日本はきっともういない。半世紀以上前に跡形もなく消え去った。今のほうがよっぽど平和な世界だというのに、どうしてこんなにも哀しくなるのだろう。
美しい赤紫が日本を捉えた。日本の視線に気付いたのだ。目が合う。日本はいつものように曖昧な微笑を浮かべた。彼は目を丸くしたが、すぐに笑った。自分を不幸などとは微塵も考えていないだろう快活な彼らしい笑顔だった。彼は本当に幸せそうに笑う。彼が弱音を吐くことはあるのだろうか。誰にも見せたくないような涙を流すことは? どうしようもできない恐怖に駆られて慄くことは? 日本にはプロイセンのそんな姿は想像も出来なかった。
会議が終わり、ひとり残された部屋でようやく椅子から立ち上がった。資料を纏めるとか適当な嘘でこの場に残った。卑屈な己の心を正したかった。国へ帰る頃には、彼のように――あんなふうに笑えるようになっておきたかった。
重い足を引きずり、会議場を後にする。荘厳な建物を出たとき、視界に入った人物に足を止めた。
「プロイセンくん…?」
とっくに帰ったと思っていたはずの男は、今しがた日本が出てきた建物を見上げていた。その視線を追う。プロイセンは先程まで会議をしていた部屋の辺りにぼんやりと視線を投げかけていた。その表情を見て息が止まる。
(……なんて顔をされるのですか)
朝焼けを思わせる瞳は揺らめいていた。形の整った薄い唇が何かを堪えるかのように震えている。いつも生色で溢れている顔は愁色を湛えていた。元々白い色である彼の肌が心なしか余計に白く見える。そのまま色を無くして透明になって消えていってしまいそうだと、そんな恐ろしいことを思った。初めて見た彼の憂いを帯びた表情。もの悲しく、けれどどこか愛おしげなものを――世界を――見るような、その表情に日本の心臓は鷲掴みにされた。
「日本?」
気配に気付いたプロイセンがハッとしてこちらを見る。その表情は先までとは一変し、いつもの少年のように朗らかだった。
「――…まだ、帰られていなかったのですね」
五月蠅く響く己の鼓動を聞きながら、縺れたように拙い声を発した。
「お前こそ。何かあったのか?」
貴方こそ。その台詞をそっくりそのまま言い返そうとしたが、その言葉が喉から出てくることはなかった。
「…いえ。資料を纏めがてら反省でもしようかと」
「反省? あんな会議に反省も何もねぇだろ」
ケセセと笑いながら、プロイセンは日本の目の前まで歩みを進めた。
「まったくお前は根詰めすぎだって」
ぐしゃぐしゃと髪を撫で回される。
――焦りたい気持ちは分かるが、休息も大事だって何回言やお前はわかるんだ? ほら、お師匠サマの言うこと聞いて、しかと休め!
遠い昔の記憶が途端に甦った。あの時も彼はこうして日本の髪を少し乱暴な仕草で撫で回してきた。
「し――」
師匠。そう呼ぼうとして、慌てて口を閉ざす。
「……?」
急に止まった言葉に首を傾げるプロイセンに曖昧な笑みを浮かべた。
師と弟子。そうであった時代はとうの昔に過ぎ去ったのだ。彼の弟子であった〝日本〟はもういない。そう思わなければ、昔に焦がれて今を否定してしまいそうだった。未練がましく過去を恋う自分を窘めて、今は亡き国の名を呼ぶ。
「――プロイセンくん」
「…おう」
「今度日本に来ませんか?」
「あ?」
「観光でもいかがです?」
「どういう風の吹き回しだよ? お前から誘ってくるなんてよ」
「お嫌ですか?」
「嫌なわけねぇだろ。だが誘ったからには特別なオモテナシをしてくれるんだろうな?」
「ええ、勿論です。特別に私というガイドをお付けしますので、行きたいところに連れていって差し上げますよ」
「日本国自らとは特別待遇だな」
「ふふ。どこか行きたいところはありますか?」
「んーそうだな…せっかくだし、ちゃんと調べてピックアップしとくぜ!」
「そうですか。ご予定が暇な日をお教えくださいね」
「そんなの俺様より、お前の都合によりきだろ」
そう言ってプロイセンは手帳を取り出し、いつにするかと日本に問う。「ああ、そういえば」と口にした彼に日本が視線を向けると、やけに凪いだ表情で言った。
「ひとつ行きたいと思ってた場所がある」
「どちらですか?」
「どこでもいいからよ、護国神社に連れてってくれ」
その言葉に日本は目を瞬かせて息を呑んだ。
護国神社。明治時代に各地に設立された招魂社のことだ。国家のために殉難した英霊を祀る場所。
どうして、と問おうとしてやめる。気付いてしまった、その理由に。恐らくプロイセンは勘付いたのだ。先程の会議の最中に交わした一時の視線。その前後での日本の表情を見て何かを感じたのだろう。過去へと想いを馳せ、昏く澱んだ日本の胸中を察したのかもしれない。
その鋭い観察眼にはお手上げだ。そうして彼はいとも簡単に他人に心を砕く。
「そんな場所へ行きたいなんて、おかしな人ですね」
勝手に口を滑って出た言葉はひどく醜かった。何かに対する当てつけのように、まったく関係ない彼を非難するような、あるいは皮肉げな響きだった。
〝そんな場所〟。そういう風な言い回しをする時代なのだろう、今は。
「ああ。〝そんな場所〟へ行きたいと思うような奴なんだよ、俺は」
日本に言い返すような棘のある言葉とは裏腹に、プロイセンの声はいやに優しい響きを持って返された。ぽん、と頭に手が置かれる。その手の向こうを見上げて瞠目した。
先ほどの会議場を見上げていた表情。プロイセンはあの何とも言い難い、愁色を湛えた、けれど慈顔にも見えるような顔をしていた。
「…――変わったよな」
小さく掠れた声が呟く。
主語すらありもしないその言葉は、彼が放つにしては曖昧なものだった。それは、前向きな〝変わっていく〟なのか、後向きな〝変わってしまった〟なのか、明確に紡がれはしなかったけれど、きっとどちらも含んだ〝変わった〟なのだ。ひとり取り残された世界に彼は存在する。だから、いつもは騒がしい彼が会議では口を挟むことはしないし、あんな表情で会議場を見上げていたのかもしれない。
今のほうがよっぽど平和な世界なのに、どうしてこんなにも哀しくなるのだろう。私はその自分の問いに応えた。変わったからだ。秩序も信念も伝統も美徳も〝変わった〟。あれだけ強く信じていた多くのものが、まるで露のように消えてしまったかのように。
いつか、あなたもそれらと同じように露のように――そこまで考えて日本は首を振った。その思考を振り払い、否定するように。
「――ええ、変わりましたね」
そう応えた日本の声はあまりに機械的に響いた。何の感情も籠めていないかのように。間近にある赤紫の中に映る日本の顔はその声と同様に、生気など感じさせない人形のような微笑を湛えている。外交の場で見せるような、日本にとっての仮面の微笑だった。そんな姿にプロイセンは困ったように笑って、頭に乗せた手で優しく日本の髪を梳いた。
そのあまり見ない表情や触れた指先から伝染した熱が燈ったように、ドクリと鼓動が跳ねる。その理由を唐突に理解して、日本の心はあまりの切なさにひどく痛んだ。
きっと私は彼のこの憂えた姿に恋を自覚したのだ。
――ねえ、プロイセンくん。
(……師匠)
私は貴方に憧れていられる世界で生きていたかった。
憧憬を憧憬のまま抱いていける世界で。そうであったなら、こんな哀しい恋心を抱くことはなかったのに。貴方のあんなに切ない表情を見なくて済む世界ならば、この恋を自覚することはなかったのに。
***
日本、と静かに呼ばれたことに違和感があった。その声が明るくて柔らかい友人のものだったからだ。そんな彼のあまりに不似合いな静かで硬い声に振り返る。友人――イタリアは泣きそうな顔で日本を見ていた。
「どうされたのですか?」
「…話したいことがあるんだ。時間とれる?」
「ええ。会議後でよろしければ」
「うん」
イタリアは今にも泣き出してしまいそうだ。日本はそんな姿に胸を痛め、改めて話したいことがあると言われたその内容を想像するが、一体何の話なのかまるで思い至らなかった。
ごめんね、と席についた途端イタリアが言った。首を傾げると、向かい合うと話せない気がして、と小さく呟かれる。カウンターの席に隣り合って座ったことに対する謝罪かと日本は納得した。謝罪されるようなことではないのだけれど。
イタリアはグラスの水を一口飲んで深く息を吐いた。そして何らかの覚悟をした上で口を開いたようだった。
「日本に聞こうかどうか迷ったんだけど…」
「はい」
「でも…俺たぶん気付いたのに知らないふりとかできないから」
気付いた、とは。何のことだかまだ日本にはわからなかった。
「見ちゃったんだ…。今日、会議場のトイレですれ違ったときに」
日本はこくりと頷く。すれ違った、というかたまたまばったり出くわした。互いに用を足しにきたのだから、別になんてことのない瞬間だ。確か日本が洗面台で手を洗い終えて踵を返したとき、イタリアが入ってきたのだ。「あ、日本!」とつい先程挨拶を交わしたばかりだというのに、イタリアは会えて嬉しいとでもいうような顔で日本に笑顔を向けた。ただそれだけのことだったと記憶しているけれど。何かあっただろうか。
「日本、手洗ったから袖を少しだけまくってて」
「はい」
「ほんのちょっとだけしか見えなかったけど、……手首に」
ああ、と日本はようやっとイタリアが何を言おうとしているのかに気付く。
「赤い痕…ううん、ちょっと変色してたかな……紫がかった痕がついてた」
「………」
手首から腕にかけて服の上から撫でた。イタリアはその様子を見て、どこか痛々しいような表情を浮かべてから俯く。沈黙が続く。何をどう言えばいいのか日本はわからなかった。ただ、イタリアにそんな顔をさせてしまう己が不甲斐なかった。
潮時なのかもしれない。そんなことをふいに思った。いつまでも続く関係だとは思っていなかった。日本はあの男を──プロイセンを縛り付けていた。独りよがりにも、自分のもとに。これが一つのきっかけになるならそれでもいい。いつか壊れてしまう……いや、きっと初めから形を成してはいなかった日本とプロイセンの関係を今、清算するときなのかもしれない。
「……ねえ、その痕ってプロイセンが――」
沈黙を破って、恐らくは決死の覚悟で問おうと思ったのであろうイタリアは顔をあげたところで口を噤んだ。日本が笑ったからだ。驚いたように目を見開くイタリアを視界に収めつつ、けれど日本は笑みを消すことができなかった。それが清々しい笑みなのか、自嘲を含んでいたのか、あるいは昏く澱んでいたのか自分でもわからなかった。
「あの人は私に何も残してはくれないのです」
プロイセンは恋人という立場に日本を置いてくれている。日本、と優しく呼びかけ、深く甘やかして、まるで宝物のように扱ってくれる。でもそれだけだ。……そう、それだけなのだ。
「優しく、甘く、それはもう大切に接してくれます。口づけも、それこそ身体を重ねるときも」
イタリアが戸惑ったような表情を浮かべる。
「彼は一度として私に何か痕をつけたことなどないのですよ。情事の際の鬱血とか、噛み痕とか、そのようなものは、あの人は一切つけることをしない」
「……そういうことが愛情を示す全てではないよ」
「ええ、勿論です。ですが…イタリアくん」
「…うん」
「あの人が私に恋情を向けたことはありません。ましてや愛してなどいません」
あまりにも強くはっきりとした日本の口調にイタリアが瞠目する。彼は何か焦るようにふるふると首を振った。
「で、でも、恋人なんだよね? だってプロイセンもそう言ってたし、日本だって幸せだって…」
「ええ、恋人です。私が告白しました。お慕いしております、と。プロイセンくんは抱き締めて口づけてくれました。受け入れてくれたのです。恋人ですよ、紛れもなく。もちろん私は幸せです。好きな方と恋人になれたのですから」
あの日。日本はプロイセンに言った。――お慕いしております。その先の関係を求めるつもりなどなかった。わかっていた。彼の眼に自分がそういう対象で映っていないことなど承知の上だった。ただ、知っておいてほしかったのだ。貴方を慕うものがいるのだということを。だから、伝えた。
単純そうに振る舞うくせに、きっとあの男の中身はとても複雑に出来ている。亡国と容易く自分をそう称して、まるでこの世界になにひとつ未練なんてありませんというかのような清々しいほどの笑顔で幸せだと宣う。ふざけるなと思う。もちろん、そんなの日本の勝手な感情だ。けれど簡単に手放してほしくはなかった。プロイセンに固執する己の重い恋情を持て余しながら、彼の心に少しでも何かしらの証を残す術を探していた。あの誠実な男なら、告白されたことに真剣に向き合ってくれると思った。もう弟子でもない、ただの弟の友人の哀れな恋を真面目に聞いてくれると思った。けれどまさか、抱き締められ、なおかつ口づけまでされるとは思わなかった。正直に言えば、意味がわからなかった。「Danke.」そう呟かれた。受け入れられたのか。日本の心は纏まらない思考とは裏腹に勝手に歓喜して勝手に幸せを謳歌した。
あの人が日本を愛していないことを知りながら、あの人が日本に手を伸ばした理由もわからないまま、けれどそこに縋り付いたのだ。愛されていると思っている振りをして、時折何かしらの罪悪感――きっと、愛してもいないのに恋人のように振る舞い、日本を騙しているという――に苦しむプロイセンに付け入り、恋人という立場に甘んじたのは日本のほうなのだ。
「なぜなのか、その理由は私にもわかりません。けれど、あの人は私の告白を受け入れ、私を恋人として扱った」
「…プロイセンが日本を愛してないなんてわからないよ。人の気持ちなんて、」
「わかりますよ。自覚したのはずっと後のことですけど、もう百年以上あの人を見つめてきたんです」
「でも、」
「イタリアくん。私は別に傷ついているわけでも、辛いと思っているわけでもないのです」
そうだ。とても幸せなのだ。
イタリアは怪訝そうに、あるいは何かを恐れるような顔をした。
「だって……でもそれじゃ日本の一方通行ってことだよ? そんなの…」
辛いに決まってるよ。
ああ、泣き出してしまいそうだ。日本は決してイタリアにそんな顔をさせたいわけではないのに。
手持ち無沙汰の腕を微かに動かしたとき、鈍い痛みが走って思い出した。本題から逸れていることに今更気付く。
「この痕は…確かにプロイセンくんがつけたものです」
「え…でもさっき、」
プロイセンは痕をつけない、と日本は言ったのだ。
「プロイセンくんは意識して私に痕をつけるようなことは決してしないということです。だから、これは彼が無意識につけた痕です」
日本は袖を出来るだけ捲った。イタリアが見た手首には細い痕が四つ、いや、五つだろうか…並ぶようにしてついている。
「何の痕だかわかりますよね?」
「指…?」
「はい。彼が私の手首を強く握った痕です」
「そんな痕が残るほど強く…?」
「ええ。彼は…何かしらに苦しんでいる。……悪夢を見るようです」
「悪夢?」
「どんな内容かはわかりません。よくドイツさんを呼ぶことが多いです。「ヴェスト」と。低く呻いて、とても苦しげで、それでいて悲痛さを伴っていて……隣で眠る私に手を伸ばす。何かに縋り付くように。そうして強く握ってくる。それがこの痕です。彼は目を覚ますと、勢いよく身体を起こし荒い呼吸を吐きながら、意識を明瞭にしていく。だから、私の手首を握ったことも覚えてはいないのでしょう」
「その夢の内容を聞いたことはないの…?」
「ありません。私はただ寝たふりをして…あの人の苦しみから目を背ける。今起きたとでもいうように眠い目を擦る仕草などを意図してやりつつ、声をかけて……。いつも、彼が悪夢に魘されたときは今度こそ問いかけようと思うのです。けれど私が何か言おうと口を開くと、あの人は怯えたような目をする。踏み込んでこないでくれと、まるで懇願するかのような、そんな眼を見てしまえば私は何も聞くことなどできません」
「……なにに苦しんでるのかな」
「何でしょうね…きっと私たちには知り得ないことですよ」
イタリアが瞳を揺らして哀しげに目を伏せた。
「この痕は…」
手首の痕をなぞるように触れた。ふ、と吐息のような笑みを思わず零す。
「何も残してはくれない…なにも話してはくれないあの人が、唯一私に残してくれる痕なのです。愛おしく思わないはずがないでしょう?」
眉を下げるイタリアに軽い口調で言った。けれどイタリアは益々悲しそうに顔を歪めてしまう。
「きっと、あの人は何かを求めて私の想いを受け入れたのでしょうね。けれどその何かが私にはまるでわからない。私は酷い男なのです。あの人の苦しみに付け込んで、恋人という立場に幸せを感じているような、そんな奴なのです」
「それは…」
「ちゃんと話すべきなのでしょう…このまま平行線を辿っていても何も解決はしないのですから」
「日本…俺、おれ…ごめ――」
関係を壊したいわけじゃなかった。ただ幸せになってほしかっただけなのだ。
イタリアが謝罪の言葉を言い切る前に日本はその唇に指を当てた。その先を紡がせないように。
「ありがとうございます、イタリアくん。貴方のおかげで私も決心がつきました」
ふるふると首を振ったイタリアの目尻からは今にも涙が溢れてしまいそうだった。
ああ、泣かせてしまった。あの人が知ったら叱られてしまいそうだ。『イタリアちゃんを泣かせんじゃねえ!』ありありと思い浮かぶ非難の声に日本は思わず笑ってしまった。
ああやはり、私は独りよがりにも幸せを享受してきたのだ。想い人は苦しんでいたというのに。
日本は自嘲して、そんな自分の幸せを願ってくれている友人から目を逸らした。