――師匠。
 昔、あいつは俺をそう呼んでいた。きっと、もう二度とそう呼ばれることはないのだろう。
 目まぐるしく変わる世界の中、どうしてか日本のことは強く印象に残っていた。不器用なあいつは過去のしがらみに囚われたまま前へ進む。多分俺はそんなお前の気持ちを誰よりも理解している。前へ進むことも、過去へ戻ることも不可能な俺は、進んでいくお前の背を見ては、どうしてかいつも無性に切なくなった。ひとり取り残された世界の中、お前だけは馬鹿みたいに何度も俺を振る返る。いつかの世界会議の最中、お前は泣きそうな微笑で俺を見た。少しでも亀裂が入れば瞬く間に壊れてしまいそうだと思った。どうかお前が壊れてしまわないように、と。俺はきっと昔から何度もそう願っていた。



 真剣な眼差しのフランスが普段より幾分か低い声を発する。
 いつの間にか男女の諍いは収束したらしい。怒鳴り合うような声は身を潜めて、店内は耳に馴染む音楽がゆったりと流れていた。

――なあ、」
「……何だよ」
「お前はどう思った?」

 フランスの顔を見返して、なにが、と問う。

「事実がどうなのかはわかんないけどさ、日本が…もしかしたら浮気してるかもって思ってお前はどう思った?」
「殺してやりてえ」
「は?」
――って思った」

 プロイセンは自分でも口から出た言葉に驚いて、フランス同様瞠目した。

「日本の浮気相手、を」

 付け足すように勝手に言葉が続く。
 奪われるくらいなら。どこの誰かもしれない奴に日本を奪われるくらいなら、そいつを。
 あまりに酷い言葉を発してしまったことにプロイセンが茫然としていると、ふ、と息を漏らした音がして咄嗟に顔をあげる。視界に映ったのは笑みを零すフランスだった。
 プロイセンの物騒な言葉にどうしてフランスが笑うのか。どこか安堵のような情を含ませつつ、泣き出す直前の子どものような顔のまま、それでもフランスはクスクスと一頻り笑った。

「あーよかった!」
「……?」
「お前、ちゃんと日本のこと好きなんじゃない。不安にさせないでよ」

 あー焦った、とフランスはまるで憑き物が落ちたかのような顔をした。

「すき…?」
「ん?」
「俺は日本が好きなのか?」

 フランスは目を丸くしてから、「そうなんじゃない?」とあまりにも軽い口調で返してきた。

「だってお前、嫉妬したんでしょ? いるかどうかもわからない日本の浮気相手に」
「嫉妬?」

 ああ、あの苛立ちは嫉妬だったのか。けれど、それは恋情からくるものとは限らないのではないだろうか。俺は、俺を愛してくれる日本を手放したくなくて、子どもが宝物を取られてしまうかのような焦燥感に駆られただけなのではないだろうか。親の目をひく子どもの幼稚な独占欲と同じなのではないか。
 そのようなことを掻い摘んで問いかけた。フランスは勿論すべてを理解はしていないのだろうが、またしてもプロイセンの重い心情を鼻で笑うかの如く軽く応えた。

「『殺してやりてえ』とまでお前は言ったのよ? お兄さんびっくりしちゃった。お前のソレ、すごい独占欲じゃない。好きじゃないなら何なんだよ」

 プロイセンは目の前が啓けたかのように感じた。実際の自分の感情が正しい恋情なのか愛情なのかはわからない。けれど、愛の国はそうだろう、そうじゃなきゃ何なのだとまで言うのだ。これはもう信じてみるしかない。俺はあの男を好きなのだと、愛しているのだと、そう思いたかった。ずっと。日本と付き合い初めてからずっと思っていた。彼に会うたびに、触れるたびに、こんなろくでもない男に捕まってしまった日本を、あの男をずっと――、

――幸せにしてやりたいって思ってた」
「…お前、それ本気で言ってる?」

 フランスはさも可笑しいというかのように笑い声をあげた。

「〝幸せにしてやりたい〟?」
「……?」
「〝幸せになってほしい〟じゃなくて?」

 意味がわからなくてプロイセンは首を傾げる。フランスはその様子を見て、やはり笑みを浮かべた。

「〝お前が〟幸せにしてやりたいって思ったんでしょ? そんなこと好きな相手に対してしか思わないんだよ。お前馬鹿なの? ああ、おバカさんだったね、ぷーちゃんは。忘れてた」

 あまりの言い草に頭にきたがそれどころではなかった。何か言い返そうと口を開いたのに、その口はむずむずと動き、きっと弧を描いてしまったに違いない。

「……Danke, Frankreich」
「Bitte schön.」

 どういたしまして、と律儀にドイツ語で返した愛の国は「なんかビール飲みたくなった」と言って片手をあげて店員に呼びかけた。
 同じものを注文しながら、プロイセンはいっそ快哉を叫びたいような気分だった。



***



 プロイセンは伸ばした手を止めることはなかった。そのまま触れた小さなスイッチは軽快な音を立てて、プロイセンの来客を家主に伝えた。
 今まではインターホンを押す直前に手が不自然に止まった。この玄関から一歩、あの男の世界に踏み込むことに躊躇いを感じたからだ。それは男と恋人になってからずっと胸に巣食い続けた罪悪感の所為だった。持ちもしない恋情を偽って彼を抱き締める。会いたかった、とまるで恋人のように――確かに恋人ではあるのだけれど――男に触れる。会いたかったの言葉に偽りはなかった。会いたいと思ったのは事実で、だからこそ十二時間も空を飛んで男のもとに来るのだ。会いたかった。会って、言ってほしかった。『貴方を愛している』と。愛されていると実感したかった。そうして俺を繋ぎ止めてほしかった。この世界に。独りよがりだ、すべて。
 でも今日は違う。愛されたいがために来たのではない。愛したいから、来たのだ。この胸に宿る今は小さいかもしれない気持ちを、けれどきっと確かな感情――慕情を引っ提げて会いにきた。

「はい、どちら様ですか」

 カラカラと音を立てて開かれた扉。僅かに目を見開いた男の深い瞳をじっと見つめた。この男を愛したいから、会いにきた。
 いつもは来日することを連絡するが今日はしていなかった。フランスと飲んだその日の内に居ても立っても居られなくて、翌日の日本行きの飛行機に乗った。だからだろう。突然のプロイセンの訪問に日本は少し驚いていた。

「よう」

 日本は見開いていた目を細めて微笑った。

「いらっしゃいませ、プロイセンくん」

 その微笑みが哀しげに見えたのは気のせいだろうか。先程までの晴れ晴れとしたような気分に不安が混ざって、プロイセンは微妙な顔で笑い返した。



「日本はもう暑ぃな。まだ夏でもねぇのに」
「そうですね。今日は湿気がひどいですから。余計暑く感じますねぇ」
「あちー。ぽちもぐったりしてるぜー…今からこんなじゃ、本格的な夏とかしんど過ぎるだろ…」
「今年はかなりの猛暑らしいですよ」
「うげ」
「スイカでも食べますか? 夏の風物詩をいただくには早いですけど」
「食う」

 縁側に腰かけて台所へ向かう日本を見送る。その背に「塩はなしなー」と声をかけると無視された。

「おい、ちゃっかり塩持ってくんじゃねぇよ。お前、聞こえてただろ」

 程無くして戻ってきた日本の持つ盆を見て眉を顰める。

「何がです? 爺は耳が遠くて」
「あーこらこら、んな塩かけんな!」
「スイカに塩をかけるなとは薄情な」
「おまえはかけ過ぎなんだよ。またヴェストに締め上げられてもしらねぇぞ」
「あなたは子育てに成功し過ぎなんですよ。あんな厳格に育てられて…」
「おう。もっと褒めろよ」
「…褒めたつもりはなかったのですが」
「なんだよ。ヴェストに文句があんのか? いいぜ、お兄サマが受けて立つ」
「いえいえ。あんなに素敵なドイツさんに文句なんてありませんよ。他人の健康を慮れる心根の優しい方です」
「そーだろ」
「ただ私のことは放っておいてくれて構いませんと、どうかお兄様のお口からお伝えくださいね」
「ぜってー言わねー」

 クスクスと笑いあう。
 ああ、よかった。きっと玄関先で見た彼の哀し気な微笑は俺の見間違えなのだ。だって日本はこんなふうに笑ってくれるじゃないか。
 そう思ったところで、ふと視界に入った日本の腕にスイカを食べる手が止まった。着物の袖で隠れて素肌を見ることは叶わないが、その下にはまだ痕がついているのだろうか。
 湧き上がる悋気の心から思考を逸らすように話を続けた。

「夏と言やアレだな」
「何です?」
「オマツリ」
「そうですねぇ」
「去年はあんま行けなかったからよ、今年はいろんなとこ行こうぜ」

 そう言うと、先まで絶え間なく応えていたはずの日本の返答が途切れた。しん、と不自然な間が空いて風が庭の木々を揺らす音がやけに大きく聞こえた。

「日本?」
「……プロイセンくん」

 日本に視線を向ける。縁側で隣に座る彼はプロイセンのほうを見るわけでもなく、ただ庭のほうを眺めていた。静かに紡がれた己の名にドクリと嫌なふうに心臓が音を立てる。日本の言葉の先を聞きたくなくて、さきに口を開いた。

「デート、したくねぇのか?」

 日本の見繕った浴衣を着て、蒸し暑いなか屋台の並ぶ御祭りの最中を歩く。あれやりたい、これ食べたい、互いに言い合って足がくたくたになるまで周る。夜空を彩る花火を穴場スポットから共に見上げて綺麗だなと笑い合う。
 もうそんなことはしたくないのか?
(……もう、お前は俺を愛してくれないのか?)
 そんな胸中の問いが届いたわけではないだろうが、日本はぱちりと瞬くと静かに言葉を紡いだ。

「別れましょう」

 アア。俺は心の中で呻いた。
 いつかは覚悟していた瞬間だったのに、こんなタイミングか。お前はもう俺を愛してくれないのか。俺はお前が――好きなのに。ようやくそう思えたのに。

「他に好きな奴でもできたのか?」
「いいえ」
「不毛だと思ったのか?」
「いいえ」
「俺に…愛想が尽きたのか」

(愛されていないと、気付いたのか…?)

「いいえ」
「…じゃあ、なんでだよ」
「わたしは…」

 視線を落とす。横目に見た日本はいまだプロイセンのほうを見てはいなかった。

「私はひどい男なのです」

 日本は自嘲するようにそう言った。

「あなたに恋情を抱いたのがいつだったのか、正直わかりません。けどきっと…あなたにご教授いただいていたあの頃から、恐らくずっと好きでした」

 そんな昔から、俺のことを…?

「でもこの気持ちに気付いたのはずっと後のことです。私はあなたの…憂えた表情にこの恋を自覚した」
「憂えた?」
「…あなたが〝国〟のままだったなら、あなたはあんな顔はしなかったのでしょう」
「………」
「私はあなたに憧れたままでいたかった。あなたのようになることを夢見て、ずっとその背を追い続けていたかった」

 日本がようやく俺を見た。夜色の瞳が水面のように揺らめいている。

「でもこの世界は〝変わってしまった〟」

 ああ、変わって――しまった。俺たちはずっと変わることを夢見て生きてきたはずだった。愛する民の安寧の未来のため、変わることを求めていた。強く、もっと強く、誰よりも強く。そう願っていたはずだった。自分を――我が祖国を守るために。それなのに変わって〝しまった〟と思うのは酷い話ではないだろうか。
 お前もそんなふうに思うんだな。世界に取り残された俺と同じように。〝変わってしまった〟と。

「私(日本) はもう貴方(プロイセン)に憧れることはない」
「……ああ」

 だから、気づいたのか。俺への感情が何なのか。

「後悔してるのか」

 俺に恋情を向けたことを。気付いてしまったことを。その想いを告げたことを。

「いいえ。私は独りよがりにも幸せを享受してきました。あなたを愛して、あなたの恋人になれて」
「ひとりよがり?」

 それは俺のほうだろう。お前の気持ちを踏みにじって、自分本位にお前の感情を利用した。

「はい。私は知っていましたから」

 日本は自嘲するように、けれどどこか凪いだ表情で言った。

「あなたが私を愛していないことを」

 暫しの間、沈黙が降りる。日本の言葉をどうにか飲み込んで、俺の口からでた返答はあまりにも愚かなものだった。

――…おまえ馬鹿だな」
「ええ、本当に」

 間髪入れずにそう応えた日本は小さく笑った。
 本当、馬鹿だよ。愛されていないと知りながら、お前は俺に愛を囁き、身体を差し出し、恋情を注ぎ続けたというのか。

「あなたの恋人になれてとても幸せでした。あなたがどういうつもりで私の想いを受け入れたのかなんて、わからなかった。そんなこと、どうでもよかったんですよ。だから何も聞かなかったし、言わなかった。あなたが罪悪感に心を痛めていようと、何かしらに苦しんでいようと、私はほっといたんです。それを問い詰めてしまえば、あなたはもう私を恋人の位置に置いてはくれないでしょうから」

 ほら、私はひどい男でしょう?
 そう言って日本はまた笑った。

「こんなんじゃ、あなたにはつり合いませんねぇ」

 お前がひどい男なら、俺はもっとひどい男だろう。俺のほうこそつり合わねぇよ。あんなにも愛情を注いでくれたのに、それと同じ気持ちのほんの少しも返すことが出来ない俺なんて。

「……だから、『別れましょう』なのか? お前はもう俺を好きじゃないのか?」

 自分を愛すことをしない男なんて、好きじゃなくなるに決まっている。
 日本は俺の言葉にきょとんと目を丸くした。その反応にこっちが驚く。

「あなたから恋情を向けられなくても、愛されていなくても、私は構いませんよ」
「は…?」
「別れましょうというのは、もとの普通の状態に戻るということです。今までが異常だったのです。一方通行なのに恋人だなんていう関係が」
「………」
「あなたはどうにも私が愛想を尽かしたかのように思うみたいですが」

 日本が真っ直ぐに俺を見る。

「あなたが私を愛していなくても、私はあなたを愛していますよ」

 息を呑んで瞠目した。鳩尾の辺りがきゅうっと痛んで胸が苦しくて仕方ない。
 ぴくりとも動かなくなったプロイセンに、日本は何かプロイセンの心を読み解くように窺っている。日本はゆるりと微笑んで、さらに言葉を続けた。

「何もしなくていいんです。お祭りも…あなたと行けたらそれは嬉しいですけれど、デートができなくてもね…口づけも…そういうことができなくてもいいんです。例え、あなたと会うことができなくても、言葉を交わすことが叶わなくても」

 胸が痛い。締め付けられて息もできない。

「私はあなたを愛していますよ」

 目の奥が熱くなって、無様にも涙が溢れそうだった。

「だから、あなたはただ私に愛されていればいいんです」

 身体が、心が、顫えた。

「何もしなくていいんですよ」

 一人の男として、こんなに幸せなことがあるだろうか。
 誰でもいいと思っていた。俺のことを愛してくれるなら、俺は誰であろうと喜ぶのだと。お慕いしていますと日本に告げられたとき、確かにそう思っていた。けれど、俺を愛したのがこの男――日本でなければ、今この瞬間のこんな気持ちになることは絶対になかった。これほどまでに幸せを感じることは、きっとなかった。

――だから、別れましょう?」

 俺は緩く首を振って、はっきりと否定した。

「いやだ」
「…はい?」

 日本が目を丸くする。どうして、と小さく呟かれた。今までの会話は何だったのかと困ったように眉を下げる日本に苦笑して言い返した。

「俺は確かにおまえを愛してなんかいなかった――いや、愛していないとずっと思っていた」
「………」
「俺は今のこの現状のすべてを後悔なんてしていない。するつもりはない」
「…はい」
「〝今〟が最善で、それがすべてだ」
「……はい」
「でもふとした瞬間、あまりにも――昔が恋しい」

 日本が息を呑む。

「ひでぇだろ? 先人たちが必死こいて創り上げてきたものを否定するようなもんじゃねーか。でも思っちまうんだ。だって俺たちにもヒトと同じように〝心〟があるから」

 なあ、と改めて呼びかける。日本の唇が震えている。

――おまえも、そうだろう?」

 俺と同じようなことを思ってしまうのだろう?
 変わってしまったと嘆いてしまうのだろう? あんなにも残酷で悲惨だった時代に想いを寄せてしまうのだろう? 昔に恋い焦がれてしまうのだろう? そうして、そんな酷いことを思ってしまう自分が嫌で仕方がないのだろう?

「おまえはたまにひでぇ顔をする。多分…おまえが言ってた俺の〝憂えた表情〟ってやつだよ。俺と同じ顔を、おまえはするんだよ」

 いつかの会議の日。日本は俺を見て泣きそうな顔をした。似ていると思った。その顔がまるで、鏡越しの自分であるかのように。

「昔に焦がれて今を否定しちまいそうになる。そんなもの怖くて仕方がねぇよな。おまえはこれから必死に生きていかなきゃなんねぇのによ」

 日本の眦から雫が僅かに零れた。

「全部…無くなっちまったな? 昔、俺たちがあんなにも強く信じていたもんがよ。もう昔の俺たちは跡形もなく消えちまったみてぇでよ……哀しいよな」
「…ッ…は、い」
「俺はおまえが心配だった。あの戦いに負けて、会えなくなって…ずっと心配だった。壊れてしまわないか――おまえの〝心〟が――壊れてしまわないか、心配だった」

 師弟でなくなっても、戦友じゃなくなっても、俺は確かに日本のことを気にかけていた。

「……もしかしたら俺は一度壊れたのかもしれない」

 日本がハッとして弾かれたように勢いよくプロイセンを見た。それを困ったように笑って見返す。

「あれからずっと夢を見るんだ」
「……ゆめ」
「俺がいなくなった世界の夢だ」
「ッ…!」
「誰も俺に気付いてくれない。俺を見てくれない。俺の声を聞いてくれない。そりゃそうだ。俺はそこに存在してねぇんだからよ」

 日本は今にも世界が崩壊してしまうような、そんな絶望に染まった顔をした。

「……怖ぇよ。馬鹿みてーに怖ぇ。その恐怖から逃れるようにいつも必死に何かにしがみつく。でもな…その悪夢の中におまえが登場することはないんだぜ」

 なぜだか、ずっとそうだった。一度たりとも日本が出てくることはなかった。

「だから目が覚めておまえが隣で寝ていると、ああここが、この世界が現実なんだって思える。おまえは俺をあの悪夢からすくいあげてくれる。だから――手放したくなかった。恋人として、近しい距離で傍にいてほしいと思っていた。俺を…ずっと愛してほしかった」

 プロイセンは日本を真っ直ぐに見つめた。

「だから、おまえの告白を受け入れたんだ。……独りよがりにも」

 先に日本が言った〝ひとりよがり〟という言葉を付け足すようにして言った。
 日本がゆらりとプロイセンに手を伸ばした。両の手のひらが頬を包み、細い指先が目袋を撫でる。プロイセンは涙なんか流してはいないのに、日本は見えないそれを拭うような仕草をした。
 手を伸ばしたことによって日本の袖が捲れた。露わになった腕に赤紫の痕が見えた。プロイセンはハッとして、日本の手首を掴んだ。

「これ…」

 その痕は指の形のようだった。その痕はプロイセンの手とぴったりと合わさった。
 ――まるで俺がつけたかのように。

「……俺がつけたのか」

 この痛々しい痕を。
 俺がしがみついていたのはお前だったのか。
 あの悪夢の果て。どうしようもできない恐怖の中、俺は必死に何かにしがみつく。存在しないはずの手を必死に伸ばして、誰かに俺の存在を認めてほしくて。繋ぎ止めてほしくて。

「…あなたはずっと助けを求めていたのですね。気づかなかった……わたしは…知らないふりをしていた。あなたの苦しみから目を背けて……今の幸福を手放したくなくて…寝ているふりをしていた」

 ごめんなさい、と日本が震えた声で言った。
 ばかやろう、と思う。どうしてお前が謝るんだ、と。

「…謝んなよ、ばか」

 ずっと救ってくれていたのはおまえじゃないか。
 日本の手を取った。互いの指を折り重ねるようにして、きゅっと握る。
 一方通行はお終いだ。俺は今日、お前にどうしても伝えたいことがあって会いにきたんだ。それをようやく思い出す。

――なあ、日本」
「…はい」
「俺が今日おまえに会いに来たのは、おまえから別れを告げられるためじゃない」
「……はい」
「おまえに愛してもらうためでもない」
「………」
「おまえを…愛したいから来た」

 バッと日本が顔を上げる。信じられないような顔でプロイセンを見た。

「日本。俺はおまえが好きだよ」

「……嘘」
「嘘じゃねえ」
「だって…」
「だってでもねぇよ。俺様の一世一代の告白を嘘にしてんじゃねえよ」

 ぐっと繋いだ手を引き寄せて顔を寄せる。

「遅くなって悪かった」

 唇を重ねる。何度も深く重ねてきたそこに、ささやかに触れるだけのキスを落とした。

「Ich liebe dich, Japan」

 日本の黒曜から静かに流れ続ける涙の味が唇から伝わる。
 こつん、と額同士を当てて目を合わせると、日本が目を細めて恨ましげにプロイセンを睨んだ。

「散々ひとを振り回して…ひどいですよ、プロイセンくん」

 そんな頬を染めながら言われても怖くねえよ。
 プロイセンは微かに笑いながら言い返す。

「悪かった。許してくれ」
「何です、その顔。本当に反省してるんですか」
「おーしてるしてる」
「軽いですよ、もう……本当に…好き、なんですか…わたしのこと」

 日本が怒った表情を一変して不安そうに問う。

「好きだぜ…おまえの気持ちの大きさには負けるかもしんねーけど。待っててくれ。これからもっと、おまえのこと好きになるから」
「本当ですか?」
「ああ、ほんと」
「本当の本当に?」
「疑り深ぇな」
「…だって」
「ほんとのほんと! 俺のこの恋心はな、愛の国のお墨付きなんだからな」
「そうなのですか?」
「おう」
「じゃあ信じます」
「…おい。おまえは俺様よりあいつを信じるのかよ」
「はい」
「はいじゃねーよ! 頷くな!」

 日本がクスクスと笑みを零す。それにつられてプロイセンも笑みを浮かべる。
 あまりの多幸感に胸が苦しかった。

「あー…スイカがやべぇことになってんぞ」
「あなたの所為ですよ。残さず食べてください」
「え、俺様のせいじゃなくね?」
「どの口が言う」
「このくちー」
「頭きますね、本当」
「怒んなって。可愛い顔が台無しだぜ?」
「可愛いと言われて喜ぶとお思いですか」
「思わねぇけど」
「なるほど、嫌がらせということですね」
「拗ねんな。仕方ねーな、譲歩してやる。おまえはイタリアちゃんの次に可愛いよ」
「おや、弟さんをお忘れですよ」
「馬鹿か、てめぇは。ヴェストは違う次元にいんだよ」
「可愛いの上位互換って何ですかね」
「天使とか?」
「ブラコンすぎて結構ひきます」
「嫉妬すんなよ、可愛い奴だな」
「……その能天気な思考回路、少し分けていただきたいものですね」
「褒めんなって。照れるだろ」
「ではもう、二、度、と! 褒めません」
「え、やだ。もっと俺様を褒めろ讃えろ敬いたまえ」
「ぽちくん、どうしました? ブラッシングしてほしいのですか?」
「無視すんなよ、哀しくなるだろ」
「もっと素敵な言葉を放ってくだされば、あなたから目を離したりしませんよ」
「世界で一番君が愛おしいよ、ハニー」
「ぶっ! ちょっとやめてください。私の腹筋返して」
「恋人の愛の言葉になんで爆笑すんだよ」
「らしくなさすぎて笑いますよ。誰ですか、あなた」
「愛の言葉とかわかんねーからフランス参照」
「あの人を参考にするのはやめてください、お腹がよじれます」
「ひでぇな、おい」

 顔を見合わせて吹き出すようにして笑う。
 日本がよっこらしょ、と声を出して腰をあげた。盆を片付けようとしているらしい。立ち上がり、背を向けた日本を呼ぶ。

「日本」
「はい?」

 振り返った日本に俺は頬を緩めた。こんなにも胸は温かさで満ちているのに、どうしてか少しだけ切なかった。あまりの感情に胸が張り裂けそうで呼吸もままならない。

「俺はおまえに愛されて、」

 掠れた声で告げる。

――すげえ幸せ」

 泣きそうなほどに。

「それ、は…勿体ないお言葉です…」

 返された声は震えていた。日本の夜の海のような瞳が膜を張って揺れている。
 その泣きそうな表情が堪らなく愛おしいと、俺は確かにそう思った。

 「もうあなたから目を離すことなどできませんねぇ」「そりゃ万々歳だな」そんなふうに不器用な愛を囁き合う俺たちは、きっと似たような表情をしているに違いない。俺は細い身体を引き寄せて、痕が残るほど強く抱き締めた。
 あまりある清福に身を委ねて。

 

 

End.
2016.6.11