――生まれてきてくれてありがとう。

 その文字の下に達筆な字が書かれている。

『あなたがいなければ今の私はいませんでした。あなたの存在に心より感謝しております。千代に八千代に続くあなたの幸せを祈っております。Mogen all Deine Wunsche in Erfullung gehen. Alles Gute zum Geburtstag!(たくさんの幸せが訪れますように。誕生日おめでとう)』

「ッ、」

 喉元まで込み上げてきた感情のせいで言葉が出なかった。目の奥が熱い。視界がぼやけそうで咄嗟に唇を噛んだ。
 しばらく続いた沈黙をどう思ったのか、日本が絞り出したかのような小さな声を発した。

「……お湯がきれていましたね」

 ポットと湯呑を見てそんなことを言う。入れてきます、と立ち上がった日本がプロイセンの横を通ったとき、堪らずその腕を掴んだ。日本が驚く間もなくその腕を力加減もせずに引っ張った。倒れ込んできた身体を己の腕の中に閉じ込めた。掻き抱くように引き寄せた身体はぴしりと固まってしまって、プロイセンにされるがままになっている。

「あ、ああああのッ…! これ、は…っ」

 ひどく動揺したように紡がれる言葉にぎゅうっと更に抱く力を強くすると、息を呑んだような音が聞こえた。抱きしめた身体の熱が上がっていくのがわかった。驚くほど熱い。その熱が伝染して、プロイセンの心を溶かしていくかのようだった。黒髪に鼻先を埋めるように寄せれば、腕の中の身体がびく、と小さく震える。
 堪らなかった。喉元までせり上がってきた感情が行き場を求めるようにうごめいている。どうすればいいなかわからなくて、ますます腕に力が篭る。息をつめたような音が聞こえる。あまりにも強く抱きしめた力は痛いのだろう。けれど日本は抗議することもなく、行き場のない手を彷徨わせている。黒髪から覗く耳が真っ赤に染まっていた。
 何だろう、この感情は。胸の奥深くでくすぶるように湧き上がるものは、一体何だろう。プロイセンはきっと理解していて、けれどわからない振りをした。だって唐突すぎる。この男をそんな目で見たことなど一度としてなかった。それなのに、今プロイセンの心臓は異常なほどの早鐘を打っている。腕の中のこの存在がそうさせているのだ。だって仕方ないだろう。プロイセンは誰かに言い訳するように胸中で一人ごちる。こんなにも想われていて何とも思わないほど薄情ではない。この男の重すぎるといって言いほどの情が嫌じゃないというだけで答えは出ているようなものである。
 どうすればいいのかわからないというように彷徨っていた手が躊躇いつつもプロイセンの背に回った。そっと、羽が触れるほどのささやかさで添えられた手。たったこれだけの行動にこの男はどれほどの勇気を用いたのだろう。微かに震える身体を安心させるように背を撫でた。あ…、と小さく漏れたような声に耳を傾ける。日本が必死に何かを言おうとしているのが顔を見ていなくてもわかった。

「お誕生日おめでとうございます、プロイセンくん。あなたのおかげで今の私はいるのです。生まれてきてくれてありがとう。出会ってくださってありがとうございます。どうかずっと…ずうっと、幸せに生きてくださいね」

 一度だけ背に回った腕がぎゅっと服を握りしめた。一瞬、ほんの一時だけだ。神に祈るようにささやかに紡がれた言葉。震える声は懇願していた。それはただプロイセンの幸せだけを願って。
 ああ、やばい。そう思ったときにはすでに前が見えなくなっていた。ぼやけた視界で日本の薄い肩に顔を埋めた。肩の濡れた感触に驚いたのか、びく、と一度日本の身体が揺れる。そして、まるで幼子をあやすかのようにぽんぽんと背を優しく叩かれた。
 どうされたのですか、と心配を含んだ声が掠れていた。
 どうしたもこうもない。俺は今、生きていてよかったと、そう思ったのだ。そんな大それたことを思ったことはきっと今までなかった。弟を再会したとき、ああようやく預かっていた半身を返すことができたと、安堵の気持ちが大きかった。逞しく育った弟は俺がいなくたって大丈夫だと思ったし、それがとても誇らしかった。これでようやく己の役目を果たしたと、そう思ったのに。どいうことか、消えることなく今まで生きてきた。勿論、幸せだった。不幸だなんて思ったことなどない。愛すべき弟がいて、それを支えてくれる友人がいて、馬鹿騒ぎできる悪友がいて。とても幸せだった。たとえ〝プロイセン〟がどんなに過去のものとなっていけど、その残酷な時の流れに身を置けど、偽りなく幸せだった。けれど、生きていてよかったなどと、そんな大仰なことを思ったことはなかった。そんなことを思い知らされることなんてなかった。だけど、俺は今はっきりとそう思ったのだ。生きていてよかった、と。
 ぐり、と擦り付けるように額を肩に押し付けた。どれだけ強く抱いても足りない。苦しそうな呻きが聞こえても離してやることなんか出来なかった。
 ばかやろう、と愚痴る。こいつのせいだ。この男のせいだ。俺は今、執着を抱いてしまった。俺がいない世界など嫌だと泣き崩れたというこの男のために、生きたいと思ってしまった。この世界にしがみ付いてやろうなどと馬鹿なことを思ってしまった。だってこいつは苦しみの渦に簡単にその身を放り投げる奴なのだ。大丈夫、まだ大丈夫、そう嘯いてひとりきりで生きていく奴なのだ。支えてやりたい。俺の存在が、もう何も持っていない空っぽの俺が存在するだけで、その支えとなるならば。必死に、どんなに無様でも、この世界にしがみ付くのも悪くない。
 どれだけそうしていただろう。抱き合うような体勢のまま、結構な時間を経ていたように思う。ようやく溢れることを止めたらしい雫に小さく息を吐くと、腕の中の身体がむずかるように身を捩った。

「……あの、」
「ん」
「そろそろ離していただけませんか…」

 その言葉は嬉しくない。何でだよとむっとして、少しだけ身体を離してその顔を覗く。そうして見えた顔に目を見張った。茹で上がってしまうのではないかというほど真っ赤に染まった顔。瞳はみ、唇は小さく開かれて震えていた。日本は見られたくないとばかりにさっと俯いてしまう。さらりと重力に従った前髪が顔を隠してしまった。
 離して…、ともう一度小さく呟かれた声に咄嗟に出てきた俺の言葉は。

「無理」

 え、と困惑した声が聞こえたが有無を言わせず、もう一度その身体を抱き寄せた。

「は、離してくださいよ…!」
「だから無理」
「そんな…なんで、」
「あーだめだわ。しばらく離せないから覚悟決めろ」
「はい!?」
「無理なもんは無理!」
「なっ…横暴です! わ、私のほうが無理なんですよ!」
「何でだよ!?」
「だって心臓が痛いんです! 動悸が激しすぎて倒れそうなんですってば!」
「おまっ…!」

 抱き合う(というかプロイセンが一方的に抱き寄せている)体勢で、互いの顔すら見えない状態で叫ぶようにして言い合う。傍から見たらおかしな光景に違いない。
 おまえなあ、と言おうとして声が詰まった。
 おまえ、本当に俺のこと好きなんだな。うん、そうか。そうなのか。もう何て言うか恥ずかしい。むずがゆい。

「あー…ソウデスカ」

 思わず片言で返してしまう。日本の熱が移ったかのように顔が熱い。

「そうなんです! だから離して、」

 何と言おうと無理だ。存分にその身体を抱きしめたいという欲求に抗えそうにない。

「もう無理。絶対無理。離れらんねえ。ホントしばらくは無理だから。寝るときも一緒な」
「はあっ!?」

 かつて日本のこんな声を聞いたことがあっただろうか。戸惑いの声はやたら大きかった。

「おまえサイズ的にもちょうどいいし、特別に俺様の抱き枕にしてやるぜ!」
「ええ!? 結構です!」
「何でだよ。嬉しくねえの?」
「うれっ!?…そ、それはもちろん嬉しいですけど! 無理です、本当に呼吸困難に陥りそうですから!」
「……嬉しいのかよ」

 日本はパニックのようだ。八つ橋が正常に機能していない。
 だめだ。何て言うか俺様も頭が沸いてきたらしい。可愛いとか、そんなこと思っちまうなんて。重症だ。

「そ、そうです! お風呂! そろそろお風呂の時間です。離してください、ね?」
「んー…一緒に入るか」
「なっ…!?」

 一瞬の間をおいて、うう、ともはや半泣き状態の日本が絞り出したようなか細い声で言う。

「……もう本当に勘弁してください」

 その情けないような声音にくつくつと喉の奥で笑って首筋に顔を寄せた。そこに息がかかるとびくりと大袈裟に日本の身体が揺れる。寄せた首筋は本当に異常なほどの早さの鼓動がドクドクと熱を発していた。これでは、おまえのこと好きになっちまったかもしれねえ、なんて言ってしまえば本当に倒れてしまいそうである。ただでさえ、高血圧の爺さんなのに。
 ああでもこれだけは言わないと、と少しだけ身体を離した。可哀想なくらい真っ赤な頬で動揺している日本の前髪を避けるように優しく梳く。見えた額にそっと唇を落とした。福音をもたらすように。

「Danke auch.」

 こちらこそ、ありがとう。
 生まれてきてくれてありがとう、と言った。その言葉にそれはこちらの台詞だと、そう思う。
 日本は額への口付けにさらに頬を染め瞳をうるわせたが、プロイセンの突然の言葉に目を丸くして首を傾げた。
 想ってくれてありがとう。幸せを願ってくれてありがとう。生きていることの喜びを教えてくれてありがとう。何度言ったって伝えきれないほどの感謝だ。
 もう一度身体を引き寄せる。簡単に腕の中に収まった日本の首筋に、ちゅ、と音を立てて口付けた。執着を示すように。きっと、日本がもうすぐ二千何回目かの誕生日を迎える頃にはもう俺はこいつを手放せなくなっているに違いない。
 震える身体を宥めるようによしよしと撫でて、愛しい男の顔を真っ直ぐ見つめて笑った。

「ダンケ、菊!」

 見開かれた夜色の瞳には、日本が堪らなく大好きな陽だまりのような笑顔のプロイセンが映っている。