TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > Blumen sich, die ewig blüh'n. > 04
「本田さんとはこの家のすぐ近くでお会いしました。ドラマみたいな出会いでしてね。私は急いで勤め先の大学に向かっていたのです。焦って走っていて、道の曲がり角で思いっきり本田さんとぶつかってしまって」
男は目尻の皺を深くして微笑んだ。
「持っていた鞄を落として中身を盛大にばらまいてしまったのです。本田さんは一緒に拾ってくださったのですが、私が落としたある本を手に取ったまま固まってしまって。その本がね、」
するり、と男の皺を深く刻む細い指が鍵に括られたストラップを撫でた。
「プロイセン関連のものだったのです」
その言葉にプロイセンは目を見張る。
「本田さんはその本の表紙に描かれた黒鷲を撫でてね、俯いたまま肩を震わせておりました。体調でも悪いのかと私はあわあわと慌てて、大丈夫ですかと問うても首を振るばかりでした。そして小さい声で言うのです。「この国がお好きですか」と。そりゃあね、私がこの道に進んだきっかけでもあるので、大好きですよと答えると、顔を上げた本田さんが泣き笑いのようなお顔で「私もです」と、そうおっしゃいました。そのときはただそれだけの会話だけでお別れしました。その後も私は本田さんのことが気になってしまって。あんな切なげなお顔をされたら、それは気になってしまうでしょう? けれど再会はすぐでした。家が近所でしたからねえ。それからは徐々にいろんなお話をさせていただくようになりました。私はもちろん国の化身の存在も知らず、ただ本田菊さんという青年と楽しくお話していただけに過ぎないのですけれども、彼は私のプロイセンについての考えをね、ひどく嬉しそうな顔で聞いてくれるのです。子どものように、もっともっと、と急かすようにして私に話を求めるのです。そんなあるとき、彼が講演をしませんか、と言うのです。私はまだ若かったものですから、そんな大それたこと、と恐縮したのですが、会場も何もかも本田さんが自ら用意するとおっしゃるのです。そのとき、ようやっと本田さんがただ者ではないと思ったものです」
男は苦笑して、一口お茶を口に含んだ。
「だってそうでしょう? 本田さんあの容姿ですから、自分よりも若いと思っていた青年が全部ご用意いたしますなんて、一体どういうことやらと不思議でございました。彼はね、プロイセンと日本の関係を講演してほしいと、まるで懇願するかのように必死な瞳でおっしゃいました。どうして、と問えば、出来るだけ多くの日本人に知ってほしいのだと言うのです。プロイセンは学校で学ぶ日本史の教科書では一度出てくるかどうかというくらいですからねえ。本田さんは日本とプロイセンの出会いから、その後師事したこと、学んだこと、事細かに私に教えてくださいました。また随分と詳しいですねえ、とそのときはただただ感心したものですが、それはそうですよね。あの方はあの時代を生きておられたのですから。見たまま感じたままを教えてくださったのでしょう。あまりにも強くお願いされるものですから、私も承諾して講演させていただきました。そしてそれは一回きりではなかった」
男は目を伏せてから、切なさを湛えたような表情でどこか縋るような視線をプロイセンに向けた。
「本田さんは何度も何度も講演してほしいと願いました。そこいらの学校で特別授業なんていって小学生や中学生相手に授業したこともありましたよ。私も講演なんていう中々できないことにやりがいを感じておりましたが、本田さんと出会って数年経てばおかしいことには気づきました。まったく容姿の変わらないお姿は奇妙に思うしかありません。私の不信感に気付いたのでしょう、彼は自ら己の正体を私に告げました。もちろん最初は信じられなかった。けれど十年経てど老いることもないとはさすがに信じるしかありません。それはもう恐縮するしかありませんでした。知らなかったとはいえ、祖国様に気安く話しかけてしまっておりましたから。けれどそんなこと気にもかけないで、本田さんはどうかお願いしますと私に頭を下げるのです。講演を続けてほしい、と。あなた様に対する恩だけであんなに縋るような瞳をしているとは思えませんで、ついに聞いたのです。どうしてそこまで、と」
プロイセンは無意識に唾を飲み込んでいた。その先の言葉に身構えるように。
「本田さんはこう言いました。『私の国にもあの方の息吹が根付いている、そして多くの人がそのことを知っていれば…』」
男がそこで言葉を切り、小さく息を吐き出した。日本の瞳と同じ色のそれがゆらゆらと揺れている。
「『あの方はいなくならないのではないか』、と」
瞠目して、咄嗟に唇を噛み締めた。
「そう言って、本田さんは崩れ落ちるように膝をついて顔を両手で覆ってしまわれた。小さな嗚咽が聞こえました。嫌なのだと、あなたがこの世界からいなくなってしまうのはどうしても嫌だと、子どものようにいやいやと首を振って泣いておられました」
プロイセンは呆然とした頭の中でふいに思い出した。
東ドイツが日本と国交を結んだあの日。彼はどんな顔をしていただろう。まさかアメリカよりも早く日本と国交を結ぶとは思っていなかったから少し驚いたのを覚えている。お久しぶりです、と言った日本は上等なスーツに身を包み、控えめに微笑んでいた。経済大国にまでになった男と自分を比べて俺は少しばかり昏い気持ちになった。こんなこと望んでいなかった。すべての罪を背負って弟の幸せを願っていなくなることを俺は望んでいた。そうなるべきだった。そうすることが当然の帰結だと思っていた。自分を不幸せだと思ったことなどない。けれど東ドイツとして生きたあの日々は、きっと幸福とはかけ離れていた。ただただ必死にしがみ付いた。弟の半身を預かっているという感覚だった。だから大事なそれを必死に守った。いつか国の分断が解かれるときがくる。そのときが一刻でも早く来ることを願って歩んでいた。そして、そのときこそが己の消滅だと確信していた。これが最後の己の役目なのだと、そう思っていた。
だから、日本と再会したとき、会うのは最後かもしれないと思っていた。強い感傷があったわけでもない。自分など容易く追い越して世界の第一線で活躍することに感心はしていた。だから、言ったのだ。ヴェストを頼む、と。あの戦争で最後まで裏切らず立ち続けたのは日本だった。国としてじゃない、友人として支えてほしいと、弟を頼むと、そう言った。明らかな別れの言葉だった。聡い日本ならわかっていたはずだ。日本は帰国するとき、お元気で、と言って微笑んだ。じゃあなと言った俺の言葉にさようならとは言わなかった。あのときの声は震えていなかったか。微笑んではいたけれど、あの黒曜は揺らめいてはいなかったか。
「ただの私の我が儘なのですと言っておられました。あの人は覚悟している、それを望んでいる、けれどどうしても嫌だ、あの人がいない世界など堪えられない。言葉を交わすことができなくても、二度と会えなくてもいい。ただ、生きていてほしい。そう言ってね、堪え切れないように涙を流しておられました」
拳を握る。深く息を吐いた唇が震えた。
知らない。そんな日本など俺は知らない。
「少々お待ちください」
男は立ち上がって一端居間を後にした。男が戻ってくる間、プロイセンは身じろぎ一つできないでいた。
日本の姿が脳裏に甦る。遠い関係だ。弟の友人という、ただそれだけの関係だった。会うことも少なかった。男のいうような想いなど微塵も感じさせなかった。いや…気づかないでいただけなのかもしれない。プロイセンくん、と日本が呼ぶ声を思い出す。それはいつだってひどく温かな響きをもって耳に届いた。きっと他の誰とも違う響きで。
男が本田と出会ったのは四十年ほど前のことだと言っていた。まだ西と東が分かたれていた時代である。東ドイツと日本がようやく国交を結んだ、そのすぐあとだ。そんな中、日本はこの佐藤という男と出会った。そして偶然手にしたプロイセン関連の本。その表紙に描かれた黒鷲を撫でながら日本は何を思っていたのだろうか。
男が何かを手にして戻ってくる。先程と同じ位置に座った男がそれをそっとプロイセンの前に置いた。縦長の手に収まる程度の大きさ。先につけられた紐は綺麗な紅色を輝かせている。
「栞?」
「はい。本田さんがくださったものです。手作りだそうですよ」
その栞は花が描かれていた。いや、違う。押し花だ。黄色い花弁がその存在を可愛らしく主張している。
「Amur-Adonisroschen?」
「ええ。日本語ではフクジュソウと言います。それは本当はあなたに渡そうとしていたものなのです」
「日本が…?」
「はい。いつかのあなたの誕生日に。もう何十年も前のことです。どうしても渡せなかったと、自嘲するような笑みで言っておられました。ずっと昔に作ったのだけれど、いつかまた会うことができたら渡そうとそう思っていた、けれど駄目でした、と。……その花の花言葉をご存知ですか?」
フクジュソウ。Adonisとつくその名はギリシア神話の少年の名だ。アフロディーテとペルセフォネに愛された美少年。猪に突き殺されたというアドニスの血潮は赤い花を咲かせたという。ヨーロッパのフクジュソウ属には血のように赤い花を咲かせるものがある。
プロイセンは栞の表面を撫でた。その黄金色の花弁を撫でて眉を寄せる。アドニスを追悼する深い悲しみを連想させる、その花言葉は。
「〝悲しい思い出〟」
口に出したら胸の内にわだかまりでもできたような苦しさを感じた。
悲しい思い出。日本が俺との間に紡いだ時間は思い出として封印されたのか。悲しい、思い出として。
男が黙り込んだ。思わずその表情を窺うと目を丸くしている。男は何かに合点がいったのか、小さく笑って頷いた。
「そうですか。西洋ではそのような花言葉で。日本ではフクジュソウはおめでたい花として知られています。元日草や朔日草などとも呼ばれるのです。春を告げる花でございます」
「春を告げる…?」
「はい。フクジュソウはこう書きます」
男は傍に置いてあったメモ帳にさらさらと達筆な字を書く。
「福寿草。幸福の福に、長寿の寿。花言葉は〝永遠の幸福〟」
「ッ、」
咄嗟に唇を噛む。
春を告げる花。永遠の幸福。
「これがあなたを想うあの方の願いでございます」
男が切なそうに目を細めた。
「無邪気に笑うその様が愛おしいとおっしゃっておりました。あなたの屈託のない笑顔を見るのが好きだと。だから陽だまりのように暖かいそれがどうか永久に続くように、と。私はこの四十年、祖国様の……いいえ、本田菊というひとりの男の、大きくなりすぎてどうしようない…歪で、けれど純粋で、燃え滾るような情を、懺悔のように誰かに許しを乞うような告白を聞いてきました。私のような何の取柄もない男に縋って、己の正体まで明かし、あなたが存在していられる確証など何もない些細な事柄に縋って涙を流す彼の胸懐を、どうかその御心の片隅にでも置いておいてもらえないでしょうか」
もう言葉など出せそうになかった。苦しくて仕方ない。息ができないような、大きすぎる感情が胸の中でうごめいている。鳩尾の辺りがきゅうっと何かを訴えるかのように痛む。それなのに胸の奥にじわじわと熱が燈ったようだった。鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなった。思わず掌で口元を覆う。そうしなければ、この込み上げてくる感情が溢れ出してしまいそうで。
男はプロイセンの様子を見て、優しく、そしてひどく嬉しそうに微笑んだ。
「会いにいってあげてくださいな」
ああそれと、と男は続けた。ちらりと男が視線を向けた先にはカレンダーがかけてある。その視線を追って見たカレンダーの日付。そういえば、一月の中旬にさしかかったばかりの今日は例年より暖かいのだとニュースが伝えていた。
「少し早いですが言わせてください」
「……?」
「お誕生日おめでとうございます、プロイセンさん。私はあなたの国のおかげで充実した人生を歩むことができました。これほどの幸福をくださったことに感謝の気持ちでいっぱいでございます。あなたの幸せがいついつまでも続くことを祈っております」
目元に深い皺を刻んで、男は子どものように茶目っ気のある顔で満面の笑みを浮かべた。