日本の自宅の玄関の前でプロイセンは深く息を吐いた。男の家を出たとき、すでに日は沈んでいた。電気の灯る家は日本の帰宅を知らせている。インターホンに伸ばした手がいつもの高まりとは違う感情で微かに震えた。ピンポーン、と少し間抜けに鳴った音が夜の闇に溶けていく。パタパタと駆ける音が聞こえて、玄関がカラカラと軽快なリズムを刻んで開かれた。相手を確認もせずに開ける家主に不用心過ぎるだろ、と頭の片隅でぼんやり思う。

「はい、どちら様ですか?」

 顔を覗かせた日本はプロイセンを見て目を見開く。夜の訪問に驚いたのだろう。けれど、すぐにその瞳が撓んで、心地の良い低音がプロイセンの耳に届いた。

「プロイセンくんでしたか。いらっしゃいませ。さあ、中にどうぞ。寒かったでしょう?」

 いつものように日本はプロイセンを迎え入れた。こんな非常識な時間の訪問だというのに。いつだって彼はこうして快く迎え入れるのだ。
 プロイセンは日本の顔をじっと見つめた。その目元が微かに赤く染まっているのは、プロイセンの勘違いではないのだろう。微笑むその顔が貼り付けた微笑ではなく、どこか嬉しさを滲ませているのも見間違いではないはずだ。気付かなかった。今までも、日本はこんな顔をしていたのだろうか。プロイセンが訪れるたびに、こんな顔ではにかんでいたのだろうか。
 動かないプロイセンに日本は首を傾げてから心配そうに眉を下げた。

「どうかされましたか?」
「…いや。邪魔するぜ」
「はい、どうぞ」

 玄関をくぐると、日本の家特有の匂いがした。

「もう夕食は召し上がりましたか?」
「いや、まだだ」
「ちょうどよかった。今、お夕飯を作ろうとしていたところです。ぜひ、召し上がってください」
「おう」

 居間に入ると炬燵の横で丸くなっていたたまが顔を上げる。プロイセンをちら、と見てまた丸くなった。きゅわん、と歓迎するかのように鳴いてくれたぽちの横に脱ぎ捨てられたスーツがあった。珍しい。鞄とともに放置されたそれはきっちりとしている日本にしては乱雑だった。プロイセンの視線に気付いたのだろう、日本は慌ててそれを拾い上げた。

「…お恥ずかしい」
「帰ってきたばっかなのか?」
「ええ」

 頷いた日本の顔には疲労の色が見えた。目の下には隈を作っている。無意識にそこに手を伸ばしていた。すり、と指の背でなぞるように触れる。

「ッ…あ、あの…」

 戸惑うような日本の声にはっとして手を引っ込める。気が付けば日本は頬を色づかせて、困ったような、けれど何かの情を滲ませた瞳でプロイセンを見ていた。何か、などわかっていたけれど、改めて思い知ってひどく動揺した。そうなのか。本当にこいつは俺のことを――

「…わりぃ。つい、な」
「……いえ」

 日本が首を振って小さく微笑む。その瞳に切なさを見出してしまって、プロイセンは日本の頭に手を伸ばした。ぐしゃぐしゃと些か乱暴に髪を撫でまわす。

「わ…ちょ、何です、急に」
「目の下に隈なんか作ってる奴が悪い。休息もちゃんと取れない奴にはお仕置きだぜ!」

 ケセセセ、と笑いながらさらに強く撫で回すと、小さな頭がぐらりと揺れる。

「わっ! 強い、乱暴すぎです、プロイセンくん!」

 日本はそう言いつつも楽しげにクスクス笑っていた。強い、乱暴、と言いつつ、抗議はしない日本にプロイセンは何とも言えない気持ちになる。むず痒いような、恥ずかしいような、そんな気持ちだ。
 日本は目元を微かに朱色に染めてプロイセンのされるがままになっている。こんな顔をしていたのか。プロイセンが触れるとき、そのいつも静かな瞳はこんなにも煌めいていたのか。艶やかな睫毛を震わせて、プロイセンに向ける感情を必死に隠していたのか。
 気がつけば、髪を梳くように殊更に優しく撫でていた。堪らなくなったのだ。そんな情を向けられることに。
 強い力で掻き回していたはずのプロイセンの手の変化に戸惑った日本が「もうお夕飯の準備をしますので」と小さく呟いて、プロイセンの手から逃れていった。逃げていってしまうことに少しの寂しさを感じたが、台所に向かう日本の後ろ姿を見て思わず頬が熱くなった。日本の黒髪から微かに覗く耳が真っ赤に染まっていたから。
 プロイセンは熱くなった頬を冷やすように手の甲を当てて、深く息を吐いた。あの爺さんめ、と恨みがましく小さく呟く。佐藤というあの男のせいである。あの男があんなことを言うから。俺に知らしめてしまったから。日本の気持ちを。
 大きすぎる感情が胸に渦巻いている。それを持て余して、どうすればいいのかわからなくて。
 らしくねえ、とその場にしゃがみ込んだプロイセンにぽちがどこか心配そうに近寄ってきた。ぺろ、と慰めるように指を舐めてくるぽちをわしゃわしゃ撫で回して気を逸らす。けれども聞こえてくる料理の音がすべての気を逸らすことを許してくれなかった。それはただ夕食の準備をしている音に過ぎないのだけれど、その音のもとが日本だと思うと何とも言えない気持ちになる。それも俺のために作ってくれて――いや、さすがに自意識過剰か。日本はちょうど夕飯にするところだったと言った。俺が来たことはイレギュラーであり、自分の分のついでに俺の分がおまけされただけである。
 漂ってくる匂いに思い出したようにぐう、とお腹が鳴った。そういや腹減ったなとぼんやり思う。日本の作る飯は美味い。肉じゃがとか最高だよな、といつか食べた料理を思い出し、これから食べる夕飯への楽しみへと無理矢理に気を向けた。


「まじか…」
 プロイセンは食卓に並べられた料理に思わず呟いた。
 自意識過剰なんかではなかった、と…?
「以前お好きだと言っておいしそうに食べてくださったでしょう? ちょうど具材が揃っていましたので」
 大量に盛り付けられた肉じゃがに絶句した。他の料理もプロイセンの舌に合うようなものばかりである。完全に俺のために作られた料理だった。
 ぎこちなくなくも思わず呟いた「美味そう…」という言葉に日本はふふ、とひどく嬉しそうに笑った。そんなに嬉しそうな顔するんじゃねえよ、と心中で毒づきながら、いただきますと手を合わせた日本に倣って同じ仕草をした。
 きっと俺は今までで一番食事中に美味いと口にしたに違いない。言うたびに日本があまりにも喜々としてはにかむから。そんな一言で簡単に喜ぶなら、と何度も呟いた。



 食事を終えて一服していると、日本が「ああ、そういえば」と立ち上がって何かを手にして戻ってきた。何だ、と視線を向けると一瞬俯いてしまう。少し躊躇うような仕草をしたあと、日本はすぐに顔をあげて微笑んだ。

「あなた、もうすぐお誕生日でしょう? 当日は仲の良い方々と過ごされるでしょうから、お先にお祝いさせてください」

 おめでとうございます、と静かに囁かれる。
 あのですね、とやはり躊躇うように逡巡したあと、日本は手にしたものをプロイセンに渡した。

「プレゼントは当日にそちらに届くように手配済みなのですが……あの、ええっと…そうです、ちょうど買い物の最中にこれを見つけたものですから」

 プロイセンの手に渡ったそれはカードだ。二つ折りにされたそれは、日本人女性が好みそうな、可愛いと称されるだろう色彩とデザインだった。誕生日カードとやらだろう。小鳥の描かれたそれを見つめてから日本に視線を向けた。その夜色の瞳が微かに揺れるを見て、おまえ馬鹿じゃねえの、と心中で呟く。プレゼントはすでに当日に届くように手配してあるというのなら、このカードがこの場にあるのはどう考えてもおかしいじゃないか。プレゼントと共に送るはずのものなのだから。
 プロイセンはポケットに入れてあった、佐藤に渡された栞をそっとポケットの外から撫でた。
 このカードは日本が俺に渡そうとして、けれど躊躇って渡すことを諦めて手元に置いておいたものであるに違いない。だが、誕生日の少し前の俺の突然の訪問に渡す決心でもしたのだろう。買い物の最中に見つけたと、そんな杜撰な言い訳をして。
 どんなことを書いたんだよ、と胸の騒ぎを鎮めつつ、ゆっくりとカードを開いた。ポップ調の可愛らしい文字が真っ先に目に飛び込んでくる。この誕生日カードにもともと書かれてあったものだろう。
 それを視線で辿ってプロイセンは目を見開いて息を呑んだ。ただ普通にHappy Birthday! やら、誕生日おめでとう! やら、シンプルに定番に祝っていると思っていたその可愛らしいポップな文字は、別の言葉を綴っていた。

『生まれてきてくれてありがとう』

 つい力を込めてしまった指によってカードが小さく歪む。日本を見ればいつものように微笑んでいた。けれどその瞳はとても切なそうに揺らめいている。

 ――私が本田さんに…いえ。祖国様にお会いしたのは、もう四十年ほど前のことです。

 プロイセンは男の言葉を思い出していた。