TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > Wort des letzten Moment > 05
無機質なコンクリートの壁。刺すような冷たい空気。その中に二人分の足音が嫌な音を立てて反響していた。
ロシアの背を見ながら、フランスは深く息を吐いた。なぜこうも緊張しているのだろう。
ぴたりと足を止めたロシアに着いたのかと意を決して顔を上げる。
「よう、フランス」
その辺の酒場で偶然会ったかのような軽い応答に肩から力が抜けた。
薄明かりの下、爛々と光る赤と青の入り交じる瞳も不敵に笑う様も依然と何ら変わらない。ただそれらが牢の鉄格子越しであるだけで。
「なんか用か?」
「…伝言を預かってきた」
プロイセンは目を丸くしてから、フランスの半歩後ろで佇むロシアを窺うようにちらと見た。
「ヴェストが何か言ってたか?」
フランスは緩く首を振る。
「日本から」
は、と息を呑んだプロイセンの赤い瞳が微かに揺れたのをはっきりと見たフランスは、そうだったんだと心中で呟く。日本の片想いなのかと思っていた。この男は恋情とはかけ離れていたから。思いもよらなかった、二人がそんな仲だったなんて。
ロシアですら、俺が何を伝えるか事前に説明したとき、日本からの伝言のためだと聞いて驚いていたくらいだ。そう。誰も知らなかった。彼らの間にある情など、これっぽっちも。
プロイセンの動揺した瞳をじっと見つめて、日本に託された言葉を紡ぐ。
「『さようなら、プロイセン君』」
どうやったってあのときの日本の感情を俺が籠められることは出来ないから淡々と告げた。彼の最期の告白を。
「『永久に愛しております』」
プロイセンの唇が震えた。見開かれた瞳が切なげに細まっていく。
沈黙が下りた。プロイセンが俯く。白金がその顔を覆ってしまい、どんな表情をしているのかわからなかった。
暫くして顔を上げたプロイセンの姿が日本と重なった。真っ直ぐ前を向いて空を見つめているだけなのに、その場にいない誰かを見ているのだと……日本を、見ているのだとわかる。あの日の日本と同じだった。
いつだって煩いくらいの声をあげるプロイセンが静かに紡ぐ。聞いたこともない柔らかな声音で。
「じゃあな、大日本帝国」
俺が、と続いた言葉にフランスは息を殺した。この場にいない遠く離れた日本に届くはずがないのだけれど、そうしなければならないと思った。プロイセンと日本の直接届くことは決してないその声を邪魔してはならないのだと。
「俺が愛した軍国よ」
プロイセンが微笑む。ひどく優しげに愛しさを滲ませて。そんな顔はこの男が心底愛する弟にしか向けないのだと思っていた。そして、その優しげな微笑には滾るような熱い情も含まれている。弟には向けないだろう、恋情が確かにそこにはあった。
ああそうか、とふいに思った。軍国よ、とプロイセンが呼びかけたのを聞いて一つの時代が終わったことを唐突に思い知った。誰よりも軍国らしくあった彼らが、戦うことで世界に存在を示してきた彼らが、その存在を手放さなければもう未来へ進むことも出来ないのだ。
いつか忘れられるに違いない。時の流れの中、幼い頃より剣を振るい続けたプロイセンの勇ましい姿も。そして、そんな男に師事し戦う力を身につけ抗ってみせた日本の恐ろしいまでの姿も。あの日、腹を裂いた軍国はもういないのだ。
『さようなら、プロイセン君』
日本の声がプロイセンの声に応えるように響いた気がした。そんなものただの気のせいだとわかっているけれど。フランスの耳に焼き付いた日本の声が幻聴となって聞こえただけなのだろうけど。それでも届いてほしいと切に願う。プロイセンと日本の声が互いに届いてほしいと。
長く続いた沈黙のあと、フランスはゆっくりと口を開いた。
「心臓だって言ってた。日本がお前のこと」
「…そうか」
プロイセンが目を伏せる。口許には笑みが浮かんでいるのに、どこか寂しげだった。
「なあ、フランス」
「うん?」
「頼めるか?」
「…なによ? お兄さんはお前らの連絡係じゃないんだけど」
揶揄するように言えば、プロイセンが可笑しげに喉を震わす。
「そのときが来たらでいい。伝えてくれねえか?」
「そのときって…」
プロイセンはその問いには答えずに緩やかに笑った。
〝そのとき〟が消失のときだと、わかってしまった。頷くことなど出来るはずがなかった。そんな約束はしたくはなくて。だが、プロイセンはフランスの返事などどうでもいいはずだ。この男はわかっている。俺が頷くことが出来なかろうと、断ることもまた出来ないことを。
「生まれ変わっても愛してるぜ」
プロイセンは歯を見せて笑った。不敵で好戦的ないつもの笑み。けれど、薄汚れた牢の中でも綺麗に輝くルビーの瞳から、つーっと流れた一筋の雫に俺は声をあげて笑ってしまいたかった。
(……そんなとこまで一緒なの)
日本も美しく微笑みながら一筋の雫を溢していた。確かに日本の心臓の中にお前がいたのかもしれない。だってお前ら、そっくりじゃない。
「って伝えてくれねえ?」
フランスは今度こそ声を立てて笑った。泣き笑いのようなそれにプロイセンは何も言わない。揶揄ってくれたらよかったのに。何泣きそうになってんだよって笑い飛ばしてほしかった。日本の、大日本帝国の最後の言葉やプロイセンが日本に贈る最後の言葉を聞いたのが自分だというのは荷が重い。困るでしょ、そんなの。
プロイセンがこれ以上何も言うことはないと黙り込んだのを見て、フランスはすぐに背を向けた。またね、と呟く。悪足掻きのような別れの言葉に返事はなかったけれど、フランスはすぐに歩き出した。溢れる涙を見られたくなくて。どうしようもなく切なかった。二人の笑みを浮かべながらの泣き顔を、不器用で歪な顔を、それなのに堪らなく美しい顔を、俺は一生忘れられそうにない。
フランスが足早に去っていくのを暫く見つめてから、ロシアは牢の中に視線をずらした。
「知らなかったな。君と日本君がそんな仲だったなんて」
「誰も知らねえよ」
「君の弟君も?」
ぴくりとプロイセンが微かに身体を揺らした。
「…ああ」
「今の日本君はね、アメリカ君に従う従順な犬だよ。不思議だったんだー。あんなに矜持高くて凛としていた彼が、ニコニコしながら「アメリカさん、アメリカさん」って。一人で最後まで立ち続けたあの日本君とは別人みたいで、正直気持ち悪いし、アメリカ君に付き従うの頭に来てたんだけど…そういうことだったんだね」
「………?」
「彼は生まれ変わったんだ。だからあのときハラキリした」
「…どういうことだ」
「それまでそんな素振りみせもせずに無表情で僕たちの言うことを聞いてた彼がね、突然ハラキリしたんだよ。戦いが終結して一年以上も経ってから」
プロイセンが息を呑む。
「ベッドの上で血塗れになってる彼を見て焦ってたアメリカ君の顔、君にも見せてあげたかったなあ」
ふふ、とロシアは愉しげに笑った。
「そういえば、あれからだった。無表情の彼が僕たちに微笑むようになったの。あのとき、日本君は生まれ変わったんだね」
ロシアががちゃりと牢の鍵を開ける。キィ、と嫌な音を立てて開かれた扉から一人分の間を空けて横にずれたロシアにプロイセンが軽く目を瞠った。眉を寄せて、ロシアを仰ぎ見る。
「……どういうつもりだよ」
「君も生まれ変わるんだよ。〝東ドイツ〟として」
ほら、来なよ。
そう続けたロシアにプロイセンは掠れた声を小さくあげる。
「…なんで」
「みんなと一緒に暮らすのが僕の夢だから。君も欲しいなあって思って」
ふわふわと笑うロシアの真意などわかるはずもなかった。いや、もしかしたら本気でそう言っているのかもしれない。
ゆっくりと立ち上がって、一歩一歩足を進める。牢の扉の外まで来たプロイセンにロシアは愉快げに口角をあげた。
プロイセンに背を向けて歩き出したロシアの後についていく。カツンカツンとロシアの履く軍靴がいやに辺りに響いていた。
「安心しなよ。そのうち日本君も僕ん家の子になるんだから、一緒に暮らせるよ」
その言葉に前を行く背中をまじまじと見る。く、と堪えきれなかった声が思わず漏れた。
「っはは!」
プロイセンの笑い声にロシアが不思議そうに振り返る。
声を立てて笑ったのは久しぶりだな、と思いながらプロイセンはケセセセとなおも笑声をあげた。
「それもいいな、とかうっかり思っちまったじゃねえか」
以前より少しばかり痩せ細った身体を揺らしながら、快活に笑うプロイセンにロシアもまた笑みを浮かべたが少し寂しくなって目を伏せた。
(君もいつかいなくなっちゃうのかなあ)
いつだってこの手からは離れていってしまう。
羨ましい、と思った自分に少しの衝撃を受けていた。彼らの手は他人の介入で、あるいは世界が振る賽の前で、いとも容易く離れていくというのに。家族ではない。友人と気安く呼べる仲でもなければ、今はもう仲間ですらない。傍にはいない。会うことも儘ならない。それなのに、彼らの表面的ではない見えない奥深くの繋がりは簡単に切れやしないのだと、そう思えてしまった。離れているのに、互いを理解しているような、いっそ離れていたってそんな距離など些細なことだというような、深い繋がりが羨ましかった。
ならば、もういっそ。みんなロシアになっちゃえばいいのに。
そう思いながらも、きっと今日の晩食はこの男がいるから賑やかになるのだろうな、とロシアは微笑んだ。