おめでとう、と至るところから発される祝福の言葉。その中心には二人の兄弟がいた。ドイツは涙ぐみながらプロイセンの手を握っている。プロイセンはそれを困ったような、けれど嬉しさを滲ませて笑っていた。ドイツ再統一を記念したパーティーで、出席したどの国もどこか安堵の表情を浮かべている。長く続いた分断の時代がようやく終わったのだ。未来が明るいとはとても言えやしないが、それでもこの再会は祝されるべきものだった。
 フランスは部屋の隅っこでぽつんと佇む一人の男に視線を向けた。ワインを手に持ってはいるが飲み進めた形跡はない。彼はただひたすらに見つめている。プロイセンの姿を。
 フランスはそっと彼の傍に近寄った。

「ねえ」

 びくりと跳ねた肩に笑う。

「プロイセンのとこに行かないの? 日本」
「フランスさん」

 日本は困ったように眉を下げた。

「…ここから見ているだけで充分です」
「何で? やっと会えたんでしょ」
「わたしは……」

 唇が震えている。日本は何かを吹っ切るように目を閉じた。そうして次に開かれた瞳には、しっかりとした意思が宿っていた。

「私はもうあの人が愛した私ではないですから」
「…そっか」

 絞り出したような情けない声でそう返すことしかできなかった。
 もう随分と前のことだ。約半世紀も前か、とぼんやり思う。国の化身からしたらたかがしれた歳月だ。ましてや、優に二千年を超えてきた日本からしたら一瞬のようなのかもしれない。生まれ変わったと日本は言った。けれどそれは勿論、実際に日本が死んで新たに別の日本が生まれたわけではない。爺ですから、と口にする日本は確かに三千年近く生きてきたのだ。
 けれど、日本にとっての戦後の五十年、もっと言えば開国してからの百年は心情的にはどれほどの長さだったのだろう。生まれ変わると言うほどの変化をその一身に受けるというのは、どれほどの苦痛を伴ったのだろう。二度もの死を受け入れた日本の心中を知ることなど到底叶わないけれど。長く続くはずもない、未来のない恋はその心のよりどころだったのだろうか。
 祝福のその中心にいるプロイセンに視線を向ける。あの日、日本の言葉を伝えにいった日。戦いしか知らないと思っていた男の愛しさを滲ませた表情を思い出す。そうか、とふいにフランスは気付いた。

 ――生まれ変わっても……

 プロイセンは己の消失を受け入れ、あの言葉を残したのかと思っていた。〝俺が〟生まれ変わっても。そういう意味だと思っていた。
 俺はずっとプロイセンが日本に残した言葉の意味を履き違えていたらしい。

『私はもうあの人が愛した私ではないですから』

 ちら、と横目で日本を見る。愛しい愛しいと恋い焦がれる視線をプロイセンに向けている。優しく微笑んでいるのに、切なげで儚くて。
 どうしてこの男を怖いなどと思ったことがあったのだろう。人を射殺しそうな鋭い視線も、真っ赤に染まる刀を持った手も、歪んだ笑顔も、もうそこにはない。
 確かに変わったのかもしれない。あの日、それらを持っていた日本は死んだのだ。他でもない日本自身の手で。どんな気持ちだったのか。過去の自分を否定するかのように変化するのは。想い人が愛してくれた自分を殺すというのは。愛されなくなることを覚悟するというのは。プロイセンが愛してくれた自分ではなくなることを、きっと日本は昔から覚悟していたに違いない。恐らくは彼らが想いを通じ合わせたときから、ずっと。だってそのときすでに日本は一度生まれ変わっていたのだから。プロイセンの鼓動を色濃く己の心臓に宿して。
 それでも。それでもプロイセンに対する恋情はあの日と何ら変わらない。永久に愛していると言ったあの日と同じ熱量を秘めた瞳が確かにそこにはあった。
 プロイセンは恐らく知っていた。日本がどんな覚悟を持って腹を裂いたのか。「さようなら」と言ったあの言葉の意味を正しく理解していた。だからこそ、あの言葉を残した。生まれ変わっても。――〝お前が〟生まれ変わっても。
 そういう意味だったのか。

「そのときが来たらって言われてたんだけどさ」
「はい?」
「あいつ、しぶとく生き残りそうじゃない?」
「……?」
「お兄さんもそろそろ、お前たちの連絡係という任務から解放されたいわけよ」
「何です、それ」

 日本は不思議そうに首を傾げている。
 もういっそ本人が言えばいいことなんだけどさ。俺も一応ちゃんと果たしたいんだ。友人の願いを。

「ぷーちゃんからの伝言」

 可笑しげにフランスを見上げていた日本の瞳がゆっくりと見開かれていく。その吸い込まれそうな夜色を見つめながら、あの日託された言葉を紡ぐ。

「『生まれ変わっても愛してるぜ』」

 カシャンッ…――。日本が手にしていたワイングラスが粉々に砕けた。注がれていた赤い液体が床に広がる。昔なら、日本の足下に広がった赤いそれを血のようだと思ったに違いない。けれど今はそんなこと欠片も思わなかった。その赤と似た瞳を持つ男の、あるいはその男を愛する男の情熱の色だった。
 日本は両手で顔を覆ってしまった。グラスの割れた音で周囲が一瞬静まったがすぐにざわめく。両手の隙間から零れる嗚咽に信じられないような思いで日本を見つめた。泣いている。ぼろぼろと次から次へと溢れているのか、細い指を伝う雫がフランスの目にもはっきり見えた。
 部屋の隅。中心からは遠いはずなのに視線を感じて思わず笑った。その持ち主を辿れば、案の定プロイセンがこちらをじっと見つめていた。何か言おうとしているのか、口を開いては躊躇って閉じる。それを何度も繰り返している。遠目に見える紅玉がどこか怯えたような感情を覗かせていた。可笑しかった。あの男でも怖いものがあるのかと。何かに怯えることがあるのかと。

「っ…日本ッ!!」

 ようやく発された言葉は思いの外大きくて、辺りに響きわたる。パーティーの主役の一人が張り上げた声に今度こそ、会場は静まり返った。
 プロイセンの呼びかけに日本はびくりと肩を震わせて、恐る恐ると言った感じで両手を下ろした。溢れる涙をそのままにプロイセンを見る日本。その泣き顔に近くにいた者たちが驚いたように息を呑んだ。フランスはそっと日本の傍から距離を取る。ようやく幸せを掴むだろう二人の邪魔にはなりたくない。
 駆け寄ってきたプロイセンが日本の身体を勢いよく掻き抱いた。もう二度と離れたくないというかのように、きつく熱く交わされる抱擁。日本の手が縋るようにプロイセンの背に回される。ぎゅうっと背広を掴んできつく握り締めた。
 黒髪に顔を寄せるプロイセンの表情がフランスの位置からは見えていた。赤い瞳は潤んでいて、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。きゅ、と眉を寄せた表情は、切なさでいっぱいだ。
 しばらく抱き合ったままだった二人が少しだけ身体を離して、互いの顔を見つめる。にほん、日本、とプロイセンが何度も名を紡いでいる。それに応えるように、はい、と呼ばれた分だけ日本は何度も応える。言いたいことがたくさんあるのに言葉にならないのかもしれない。互いの存在を確かめるように必死に名を呼んでいた。
 ちゅ、とプロイセンの唇が髪に、額に、瞼に、目尻に、頬に落ちていく。溢れる涙を掬うように目許には何度も唇が落とされた。日本が堪らないといった表情で頬を染めて、ぐっとプロイセンの頭を引き寄せた。
 日本は下から突き上げるようにプロイセンの唇を塞いだ。唇に触れるのが待ちきれなかったというように、日本はプロイセンの唇に己のそれを押し付けている。少し驚いたのか、一瞬動きの止まったプロイセンだったが、すぐに日本に応え始めた。
 へえ、日本って意外と情熱的なんだ。とフランスは頭の片隅で思いつつ、熱い口付けを交わしあう二人を不躾にも眺め続けた。ここが多くの人の前で、プロイセンの愛する弟も、日本が大事にする友人もこの場にいるのだということにいつ気付くのか。我に帰ったあとの二人の反応が楽しみだ。
 そうかもしれないと薄々気づいていたが、この二人の仲は誰も知らなかったらしい。恐らくは伝言を託された俺と、それを聞いたロシアしか知らなかったようだ。ドイツはぽかんと口を開けていたが、ようやく理解が追いついたのか顔を真っ赤にしている。そりゃ身内と友人が交わす恋愛映画さながらのお熱いキスシーンなんて、想像もつかなかっただろうよ。イタリアですら驚いたように目を丸くしていた。けれど流石と言ったところか、今はもうくるんをハートにして微笑んでいる。
 ああ、存分に感動の再会を果たしたあとの二人を揶揄うのが楽しみだ。フランスは込み上げてきた雫を気のせいだと軽く拭って、幸せそうに笑いあう二人の顔を脳裏に焼き付けた。いつかの泣き顔を払拭するように。
 フランスはグラスを掲げて、おめでとう、と快活に笑った。



End.
兵隊は皇威を~とか、誠心を本とし忠節を~というやつは軍人読法というものです。
(旧字体→新字体、片仮名→平仮名、濁点など変更しています)

「明治5年正月、兵部省乙16号で布告された。もともとは中世ドイツの騎士の誓詞に倣ったものであった。明治15年3月9日、改正を見た(陸軍省達乙16)。」
(Wikipedia「軍人読法」)

2015.12.21