夜の闇の中で無数の星がきらきらと輝いている。それをぴくりとも身動きせずに見上げる細い背中に、プロイセンはゆっくりと近づいた。その子どものような小さい身体はプロイセンとよく似た洋装を纏っている。キモノとやらを着ていたのはついこの間までだというのに、随分様になったなあとぼんやり思った。

「日本」

 隣に立ち、呼びかける。気配に気づいていたのだろう、日本は驚くことなく、緩やかにプロイセンを見上げてきた。どこまでも広がる夜の海のような瞳に星の輝きを映していた。

「師匠」

 心地の良い低音が憧憬を含んでプロイセンを呼ぶ。それはとても嬉しいはずなのに、どうして切なくなるのだろう。純粋に慕う彼をどうして少しばかり憎いなどと思ってしまうのだろう。

「…楽しみにしてるぜ」
「はい?」
「お前が世界に羽搏くのを」

 微かに目を見開いてから、その瞳に鋭さが宿った。日本が夜空を見上げる。鋭い視線、決意を秘めた顔で。その顔が堪らなく好きだ。武人のようなそれに気持ちが昂る。
 日本はプロイセンのもとに来たばかりのときと随分変わったように見えた。そう思いたいプロイセンのただの驕りかもしれないけれど。自分の何かをこの男に刻み込んだと思いたいだけなのかもしれないけれど。

「見ていてください、師匠。貴方たちを追い越してみせます」
「は、追い越すとは聞き捨てならねえな」

 揶揄するように笑いながら言えば、日本も釣られてくすりと笑みを浮かべた。

「ねえ、師匠?」
「あ?」
「私は変わりましたか?」
「そうだな。ちょっと前まで生温い繭の中に引き籠っていた奴とは思えねえくらいには変わったかもな」
「…そうですか」

 日本が少し寂しげに目を伏せる。そして何かを吹っ切るように笑みを浮かべた。

「私は生まれ変わったのです」

 覚悟を秘めたような声音だった。

「我が国は大きな変化を迎えています。何もかもが変わっていく。それまでの〝わたし〟を否定して。私は自分が誰であるかも見失いそうでした。開かれた世界では赤子のように何もわからなかった。右も左も、呼吸の仕方さえわからないような空っぽだった私の中は今、貴方で埋め尽くされています」

 ドクンと鼓動が一際大きく跳ねる。戦場を前にして血が騒いでいるときによく似た昂奮が全身にゆっくりと沁み渡っていくような気がした。

「聞こえますか?」

 日本がプロイセンの手を取って左胸に当てた。とくんとくん、と鼓動を刻む音が掌から伝わってくる。生きている音だ。この男が生を刻む音。命の証。

「これを動かしてくれたのは貴方です」

 瞬間、全身を巡る血が沸騰したかのような感覚が身体を駆け巡った。
 そうなのか。国としては消えゆくだろう俺が、何もかもを愛する弟に捧げている俺が、この男の心臓を動かしたというのか。この世界での呼吸の仕方を。それを知らなければ、生きていけないほどの大事を。生きる力を俺が与えた、と。
 日本の心臓の上に触れている手が震えた。あまりにも大きすぎる歓喜が身体の底から一気に湧き上がる。必要とされていることが堪らなく嬉しかった。この世界への存在を認められているかのような、何もかもを受け入れられているかのような、この男の鼓動が愛しくてしょうがなかった。
 日本の鼓動がドクドクと早鐘を打ち始める。それを感じてようやく気づいた。日本が今、ひどく緊張していて必死に言葉を紡いでいることに。

「…お前さ、自分が何言ってるかわかってんのか?」

 情けなくも声が微かに震えていた。
 貴方で埋め尽くされている、などとんでもないことを言う。
 日本が首を傾げる。

「今のすげえ殺し文句だぜ? 口説かれてるみてえ」

 ケセセ、と揶揄うように笑いながら軽口で衷心を覆った。掴まれたままだった手をするりと抜けて、小さい頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。これは親愛の情であると、そう示すように。あるいは、自分にそう思い込ませるように。
 日本は目を丸くしてから、ふ、と口許を歪めた。小振りな唇が震えたのが近い距離だからこそ見えた。切なげに眉を寄せて、日本は自嘲するように小さく嗤った。

「……口説いているのですよ」

 は、と間抜けな声が漏れる。予想外の言葉にようやく静まりつつあった鼓動が一気にまた速まり出した。耳の奥で反響するような心臓の音が煩い。

「貴方の一番になれないことはわかっています」

 でも、と続けられる。その先の言葉を聞き逃さないように息を殺した。

「プロイセン君」

 ずっと〝師匠〟と呼んでいた日本が名前を紡いだ。優しく、隠しきれない恋情を滲ませて。大切な宝物のように呼んだ。

「Schau mich an.(私を見て)」

 ゆらりと黒耀が揺れる。微かに潤んだそこに引き込まれそうだった。
 頬に手が添えられる。触れた指先が驚くほど熱い。日本の細い指がさらりと焦がれるように頬を撫で付けた。

――…そりゃねえよ」

 必死に絞り出した声は情けないほど小さく掠れている。
 日本はプロイセンの言葉を否定的に受け取ったのだろう、はっと息を呑み哀しげに目を伏せた。
 頬から離れていく手を咄嗟に掴む。ぎゅうっと強く握り締めて、少し自分のほうに引き寄せた。元々近かった距離がさらに近づく。こつんと額を合わせると、日本は驚いたように目を見開いた。そうしてやっと今の状況を飲み込んだのか、頬が赤く色づくのを見て喉の奥で笑う。

「お前、そんな素振り一度も見せなかったくせに」

 話した拍子に息がかかる。それにびくりと肩を震わせて、さらに頬の色を鮮やかにする様がどうしようもなく愛しかった。

「最後の夜に言うなんてずりぃだろ。明日にはお別れじゃねえか」
「…あなたに」
「ん?」
「貴方に少しでも気にかけてもらいたくて」
「ばーか」

 屈めていた背を少し起こして、ちゅ、と額に口付けた。

「少しどころじゃねえ。今、お前のことしか頭にねえよ。どうしてくれんだ」
「ふふっ、嬉しいです」

 離れた体温を追い求めるように、今度は日本から頬に口付けられた。突然の日本からの口付けにうっかり顔が熱くなる。日本はそんなプロイセンを見て、きょとんと目を丸くしてから笑って小さく呟いた。

「可愛い」
「やめろ、見んな」

 咄嗟に日本の頭を抱き込んむ。胸に押しつけて見えないようにしてやるとすぐさま抗議の声があがった。

「ひどいです、プロイセン君。貴方のお顔、見せてください」
「やだ」

 ぎゅうっと抱き締めると、「苦しいです」と言葉とは裏腹に喜悦を孕むくぐもった声が聞こえる。バシバシと遠慮なく腕を叩かれて、くつくつと堪えきれなかった笑い声をあげれば、つられて日本も楽しそうな笑声を響かせた。

「にほんー? どこだ?」

 突然聞こえた第三者の声に、思わず二人して息を殺す。
 どうやら愛する弟が日本を探しているらしい。この短期間で随分仲良くなったよなあ、と二人一緒に机に向かっていた姿を思い出して笑った。
 日本から身体を離すと、む、と少し不満げな顔をしていた。何だよそれ。可愛い。だが弟を無視することはできないのだ。

「ヴェスト!」

 大きめに呼び掛ければ、部屋からテラスへと小走りにドイツが走ってきた。

「兄さん!」

 駆け寄ってきたまだ幼い弟の頭をぽんと叩く。

「日本もここにいたのか」
「こんばんは、ドイツさん」
「お別れを言いに来たのか?」
「…うん」

 ドイツは少し寂しげにこくりと頷いた。

「にほん」
「はい」

 日本がドイツの目線に合わせるように膝をつく。

「また会えるか?」
「勿論です。今度はぜひ、我が国へいらしてください」
「ああ! 絶対行く!」

 プロイセンは微笑み合う二人を見ながら、少しばかり苦い思いでいた。
 〝また〟会う次の機会はどんな状況なのだろう。いつかの日を待ち望んで嬉しそうに笑うドイツとは違い、日本は微笑には微かに寂寥が含まれていた。日本はいつか俺たちの脅威になる。それを日本も望んでいる。けれど。
(…ひとりか)
 道なき道を、ひとりぼっちで必死に駆ける姿が脳裏を過ぎった。
 世界全部欲しいと思うくらい強気でないと生き残れねえよ、といつの日かプロイセンは言った。
 ――私は、私を認めてくれる世界が欲しい。
 日本はそう返した。強い意志と欲を孕むその眼差しに、ぞくりと背が戦慄いたのを覚えている。日本は立ち止まることなく突き進むのだろう。そういう男だ。その果てに破滅が待っているような、そんな不安がどうしても拭いきれない。

『私は生まれ変わったのです』

 そうだというなら、生まれ変わる前のお前を愛した奴はどう思うのだろう。今のお前を見て。そして生まれ変わったお前もいつか、変わってしまうことがあるのだろうか。俺が愛した日本ではなくなるのだろうか。

「ドイツさん。夜も深いですし、そろそろお休みになってはどうですか?」
「やだ。もっと日本と話す。…最後、だから」
「……またすぐに会えますよ。でもそうですねえ。少しだけ夜更かししてお話しましょうか」

 師匠も一緒に、と言って手を繋いで先を行く二人の背を見ながら、プロイセンは思わず口を開いた。

「日本…!」

 振り返った日本は自然な微笑みを浮かべていた。
 嬉しいはずなのに、鳩尾の辺りがきゅうっと何かを訴えるような痛みを発していた。どうしようもなく切ない。そんな気分だった。

「あいしてる」

 片言の日本語でそう告げた。
 日本は目を大きく見開いてから、嬉しそうに、けれど切なげに微笑んだ。


「さっき兄さんは何て言ったんだ?」

 用があるから後で行く、と言ったプロイセンに背を向けて、ドイツとふたり廊下を歩く。純粋で青空のように綺麗な瞳が日本を見上げて問いかけた。

「……秘密です」
「どうして」

 む、と唇を尖らせるドイツに日本は微苦笑した。
 純粋な好奇心に水を差されたからか、はたまた大好きな兄と日本の間に秘密があるのが嫌なのか。後者かな、と思いつつ胸に広がる黒い感情に日本は自嘲する。プロイセンが弟至上主義でいたく可愛がっているのは勿論なのだが、ドイツも存外お兄ちゃんっ子だ。仲睦まじい兄弟の姿を見て、何度無足な嫉妬を抱いたことだか。

「すみません、ドイツさん。私ずっと貴方に嫉妬していたのです。だから、これくらいのことは許してくださいな」

 ドイツはきょとんと目を丸くした。

「しっとって何だ?」
「大きくなったらわかりますよ」

 大きくになったら。その言葉が嫌だったのだろう。むぅ、とさらに不満げな表情をするドイツが可愛らしかった。
 純粋で清らかな子。プロイセンのすべてを引き継ぐ希望の子。私はもう純粋など、欠片も持ち合わせてはいないだろう。この先、プロイセンとの繋がりも容易く無くなるのだ。
 ふとした拍子に昔に戻りたいと思ってしまう心が嫌で堪らなかった。だからこそ、もう昔の自分はいないのだと、そう思う覚悟をした。この世界で生き残るために。
 次に会うとき、ドイツは逞しく成長しているに違いない。プロイセンがすべてを託して育てているのだから。そうして再会を果たすとき、敵か味方か。味方であってほしいと思う。甘い考えは捨てろ、と何度も聞いたプロイセンの言葉を思い出して目を伏せた。
 けれど、いつか。心を通わせる友人になれたなら。この今はまだ幼い彼と。その中には日本の愛する男のすべてが詰まっているのだ。私はそれだけでこの世界を愛せるのだと思う。

 譬えそこにプロイセンがいなくても。私が私でなくなっていても。


***


  ――私は貴方の愛する私でいたいのです。

 ふ、と意識が浮上して目を開ける。暗い灰色の天井と横目に見えた柵のような扉に、深く息を吐いて身体を起こした。その拍子に身体のあちこちが痛みを訴えて、思わず漏らしてしまった無様な声を咄嗟に唇を噛んで掻き消した。
 声が聞こえた気がした。愛しい男の声。夢でも見ていたのだろうか。だとしたらどうして覚えていない。夢の中くらい会わせてくれたっていいだろ、と誰に訴えるでもない愚痴を溢す。
(……日本、)
 痛い思いをしているだろう。辛い思いをしているだろう。誇りも何もかも粉々に砕かれているだろう。死んだほうがマシだと思うくらいの恥を晒しているだろう。無様だと悔しがっているだろう。
 助けてやりたい。少しでも悲しみを癒してやりたい。そう思うのに。日本を思い浮かべて真っ先に思うのは、どうしようもない身勝手な欲求だった。プロイセンは自嘲するように嗤った。

「……はは、会いてえなあ…」

 姿が見たい。声を聞きたい。その熱に触れたい。そして。
 伝えたいことがあるのだ。どうしても言いたいことがある。あのときは気づけなかった。間違った言葉を与えてしまった。あのとき言えなかった言葉をどうしても伝えたい。

「なあ、日本。俺は――




「どうした。珍しく不安そうな顔してんじゃねえか」
「…そんな顔してましたか」

 情けない、と呟く日本の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。そんなことはないと慰めるように。

「どうした?」
「……勝たなければ、と思って」

 日本は不安げな表情を隠しきれないまま、そんな当たり前のことを言った。勝つために戦うのだ。負けていい戦いではない。
 日本はプロイセンの微妙な表情に気づいて小さく首を振った。自分を嘲るような笑みを浮かべて。

「いえ、そうではなくて。私の…個人的な感情で」
「個人的?」
――わたしは」

 躊躇いがちに日本は言う。

「私は貴方の愛する私でいたいのです」

 ぎゅ、と日本の手が何かに耐えるように拳を握る。

「…負けてしまったら、きっと私は」
「日本」

 聞きたくなかった。気が付けば遮るように名を呼んでいた。
 日本が縋るような眼差しでプロイセンを見上げる。そんな顔をしないでほしい。いつものように凛と前だけを見据えた強い眼差しを向けてほしい。

「そのときがきたらどうか――

 どうか。それに続く言葉は何だろう。プロイセンは理解していて、でもわかりたくなくて、ふいと日本から目を逸らした。日本がハッと息を呑む。自分がいかに残酷な願いを口にしようとしたのか、気づいたのだろう。

「ッいえ、すみません……。何でもありません」

 口早にそう言って日本は歩き出した。その背を見つめながら逡巡する。新しい時代にそれまでのものをかなぐり捨てた空っぽの日本の中に詰め込んだのが俺のものならば。

 ――『これを動かしてくれたのは貴方です』

 いつの日か、そう言って心臓に手を当てた。その鼓動を動かしたのが俺であったならば。
 日本、とその背に静かに呼びかけた。
 俺を模ったお前を最期のときまで俺で満たすということか。それは何て甘美な誘惑だろう。この男の最初から最後までが俺のものなのか。

「……そのときは、」

 振り返った日本に唇を歪めて言う。笑みを浮かべたのか、哀切を滲ませたのか、己への嗤笑を浮かべたのか。自分がどんな表情をしているのかわからなかった。

「そのときは俺が殺してやるよ」

 目を見開いた日本が、長い時間をかけてプロイセンの言葉を飲み込んで、そして。
 壊顔した。目を輝かせて。無垢な子どもがクリスマスプレゼントでも貰ったかのような、そんな瞳で。ひどく嬉しげに笑った。
 嬉しいのか。こんな物騒な言葉が嬉しいのか。
 日本が喜ぶ言葉をかけられたことに安堵しながらも、そうじゃないだろうと頭の片隅が訴えている。殺してやる、などと到底叶うはずのない約束をしたいわけではなかった。愛しい男の死を願うなんてことは、決して。
 俺の愛するお前でいたいと言った。だとしたら、生まれ変わった先のお前はプロイセンを愛した大日本帝国の気持ちを忘れるのか。俺を愛することはなくなるのか。あの滾るような恋情は真っ新にリセットされるのか。
 生まれ変わったと言った。もしこの戦いの果てにもう一度お前が生まれ変わったとして。そうしたら、俺はお前を愛さないのだろうか。新しいお前はいらないと簡単に捨てるのだろうか。
 花が綻んだような笑みで陶酔を滲ませてプロイセンを見つめる日本に、そんなことはないと、違うのだと、はっきりと否定することはできなかった。




 柔らかさの欠片もない、とってつけたような簡素なベッドの上でプロイセンは切なく微笑った。眼裏に愛する男の姿を描いて。
 彼は変わってしまっただろうか。ぼろぼろに打ちのめされて。これからも当たり前のように続く世界で生きていくために、それまでのものをかなぐり捨てなければならない現実にぶち当たってしまっただろうか。
 彼の変化への恐怖が湧き上がる。胸を締め付ける苦しさに苛まれ、足元が崩れていくような不安を抱く。けれど。
 俺はきっとお前を愛する。たとえ、生まれ変わったお前が俺を愛していなくても。愛した事実さえ忘れていようとも。俺が刻んだ鼓動の先にお前が立っているのなら。

 ――お前が、お前であるのなら。