何の光も宿っていない瞳がじっと己の国民を見つめている。戦勝国によって裁かれる国民の姿を。諦観すら浮かべず、無表情で微動だにせず、ただじっと見つめている。
 その表情を見たことがあるとフランスはいつかの日を振り返った。四ヵ国条約を結んだあの日、彼は今と同じように無表情だった。溢れんばかりの激情をその下に隠して、誰にも悟らせることなどしなかった。
 未だ傷の癒えない身体は立っているだけで辛いはずなのに、彼の身体はぴくりとも揺れない。背筋を伸ばして凛とした姿で立っている。瞬きをしているのかと疑うほど、ただじっと愛する民を見つめていた。その姿を焼き付けるように。
 ああ、いっそのこと泣き叫んでくれたらと心底思う。彼は俺たちを罵ることも、恨ましげに見ることもしなかった。だからこそ怖いのだ。追い詰められた彼がどんなふうになるのか知っているから。その結果が今だから。
 ようやく終わった今日の分の裁判のあと、彼は宛がわれた部屋に戻った。医療機器の置かれた真っ白な部屋。彼の纏う軍服も真っ白だった。その白を真っ赤に染めて彼は立っていたのだ。それを着ることは暫くは――…いや、もう永遠に来ないのかもしれない。戦うためのあらゆるものがこの男の手にはもうないのだ。
 アメリカの言葉に「はい」とただ頷くだけの静かな返事をする彼は、一体今どれほどの感情を抑えているのだろう。その場にいた誰もが、事務的に言葉を紡ぐアメリカとそれに頷く日本の姿を黙って眺めるしか出来なかった。
 ぎり、と歯の軋む音が隣から聞こえる。横目で見れば、イギリスが日本を見つめながら歯を噛みしめていた。見たくはないだろう。孤独に生きたお前が相棒と慕った男の末路など。それでも逸らしてはいけないのだと、昔イギリスは言ったのだ。目を逸らしてはいけないと。
 こうならない未来があったのか、俺にはわからない。けれどもう終わったのだ。たった一人で立ち続けた男はようやく膝をついてくれた。あの細い、女の子みたいな身体のどこにあれほどの力があったのか不思議だった。
 アメリカが話を終わらせる。恐らくは、この場にいる誰もが一刻も早くこの部屋を出たいと思っている。ああ、ロシアはそうは思ってなさそうかな。相変わらず、何を考えてるかわからない温度を感じない微笑を浮かべている。
 アメリカが部屋のドアを開けた。それに続くように次々と皆が出ていく。フランスはは部屋の奥にいたため、自然と最後となった。日本を視界に入れないように、前を行くイギリスの背を見ながらまだ鈍い痛みを訴える足を動かした。
 突然、ぐっと服が引っ張られて立ち止まる。思いがけない状況に鼓動が大きく跳ねた。引っ張った力のもとを辿って視線を滑らせれば、小さい手が俺の服を掴んでいた。包帯でほとんど覆われた細い腕。誰か、なんて一人しかいない。日本が俺を引き留めていた。

「フランスさん」

 はっきりと紡がれた己の名。先程まで光すら宿っていなかった瞳が、どこか必死な色を湛えて見つめてくる。

「フランス?」

 ドアを支えているイギリスが訝しげに呼んだ。

「……ちょっと身体が痛くて」
「肩貸そうか?」

 お前がそんなこと言うなんて、と揶揄する言葉は出てこなかった。

「大丈夫、すぐ行く」

 イギリスはさらに不審そうに顔を歪めたが、頼むと声を出さずに唇を動かせば少し目を瞠ってから、日本をちらと見て、わかったと部屋を出ていった。その顔が苦い表情を浮かべていたのを見たが、察してくれたのだろう。あーあ、後で質問責めにあいそう。
 さて、と日本に向き合うとフランスの服を掴む手にぎゅっと力が込められた。縋るようなその仕草に思わず手を取って握る。小さい手だった。子どものようなそれがついこの間まで血に塗れていたなど思いもしない、そんな小さな手だった。

「…お願いが、あります」

 光の届かない深い海の底みたいな闇色の瞳が揺れているのを見て、俺は安堵した。膝をついてからずっと無表情だった彼にもまだ揺れ動かされる感情があるのだと。決して壊れてなどいないのだと。

「プロイセン君に」

 突然出てきた名前に驚く。イタリアやドイツのことで何か「お願い」があるのかと思っていた。しかも親しげな敬称をつけたそれに違和感すら覚える。
 そういえば、開国して間もなく日本はプロイセンを師事していた。プロイセンと日本は思っているより仲が良いのかもしれない。あの二人が気が合うとはとても思えないけれど。
 でも、あれ? とフランスは眉を寄せた。小さな接点しかないはずの彼らを重ねたことがあった気がする。
 好戦的な鋭い視線。不敵に愉快げに歪む唇。色の灯った眼。何より、滴る血のような赤い紅いそれは、すべてプロイセンの――
 ドクドクと嫌なふうに鼓動が早まり、耳の後ろで五月蝿く鳴り響き始めた。

 あそこに、あの場にいたのは誰だったか。気分の下がる日だった。戦いの前の予兆を嫌でも感じていた。腐れ縁の男はひどく落ち込んでいた。冷たい風の吹く寒空の下、男が何かを紡いでいた。凛と静かに、けれど力強く。男は笑った。不敵に、何の迷いもなく。血のように赤い眼がいっそ不気味なほどに鮮やかだった。ああ、そんな姿を持つのはひとりしかいないだろう。あのとき、プロイセンが――……いや、違う。あれは。あそこにいたのは日本だ。あいつにそっくりなそれらを持っていたのは日本だ。あの日、フランスにはそう見えた。深い闇色の瞳が鮮血の色を秘めたのを、確かに見たのだ。

「プロイセン君に伝えてくれませんか」

 フランスは弾かれたように日本を見た。 
 「お願いします」と再度紡がれる。どうか、と縋るその様はあの日とはかけ離れていた。それに安堵しつつも容易く頷くことは出来なかった。約束はできない。今でさえ、この部屋から出ていったらアメリカに散々詰め寄られてもおかしくないのだ。イギリスが上手いこと誤魔化してくれているといいのだけれど。
 頷かないと話を進められないというかのように黙り込んでしまった日本に、ごめんねと胸中で呟いて先を促す。

「何て伝えてほしいの?」

 日本は声を出そうと口を開いたが、それはすぐに閉ざされた。
 言おうとして躊躇うその仕草を何度か繰り返して、ようやく言葉が発される。小振りな唇が躊躇いがちに、それでもはっきりと紡いだ。

「さようなら、と」

 ドクンと一際大きく心臓が鳴った。
 日本はフランスの服から手を離し、真っ直ぐ前を向いた。空中を見つめている。そこには何もないはずなのに、何かを求めて視線が動く。きっと日本の目には映っているのだ。そこにいるのだ、あいつが。もう簡単に会えやしない遠くのあの男が。――プロイセンが。

「さようなら、プロイセン君」

 そして、放った。別れの言葉を。
 覚悟を決めているような眼差しにふつふつと苛立ちを含んだ厭忌の情が沸き上がる。

「……なにそれ」

 呟いた言葉はひどく冷たかった。

「あいつが消えるのをお前は簡単に受け入れるわけ?」

 日本が目を丸くしてフランスを見る。
 なにその顔。自分の顔が歪むのがわかった。それと共に日本の顔も歪んだ。嘲るような、冷たい表情。

「貴方がそれを言いますか」

 唇を噛む。もう体裁など構っていられない。ぐ、と日本の襟を掴んだ。腹部に血が滲むのに気付きながらも手を放せなかった。日本は痛みなど感じていないかのように表情を変えない。
 望んでなどいない。俺自身はあいつの解体を望んでなど、いない。
 日本は嘲笑を含んだ表情を一変して眉を下げた。きっと彼は何もかも理解している。すみません、と小さく呟かれたそれが彼の口癖のようなものであったことをふいに思い出した。困ったような微苦笑ですみませんと言う彼を何度も見たことがある。それはいつのことだっただろう。もうそれは遠い昔のような気さえした。

「貴方は勘違いしています。私は決して、プロイセン君の来るかもしれない消失を受け入れてあんなことを言ったのではありません」
「…じゃあどうしてさよならなんて、」
「私がいなくなるからです」

 は? と間抜けな声が出た。
 日本がいなくなる? フランスは眉を寄せて、その言葉の意味を教えろと視線だけで促す。

「大日本帝国は死にますから」
「……………」
「アメリカさんの…そして、他でもない我が国民によって永遠に葬り去られるでしょう。私が私でいられるうちに、プロイセン君に別れを告げたかった」
「……どうしてプロイセンに」
「私は…〝日本〟は一度死んだようなものだったのです。開国して新政府の樹立による抜本的な改革。近代化は勿論…これは必要不可欠なことでしたが、それと一緒くたにあらゆるものを洋風化しました。それらが、新しいものが正しいとされ、それまでに存在したものを…以前の日本を否定した」

 日本は目を伏せた。けれど取り戻せない昔を懐かしむような表情でも、それがいけなかったのだと否定するような表情でもなかった。

「生まれ変わったようなものです。以前の私ではなくなったこの中身は空っぽでした。そこにあらゆるものを詰め込んでくれた…私の根幹は」

 日本が左胸の辺りに手を添えて、ゆっくりと瞬きをした。

「プロイセン君でした」

 この世で一等大切な宝物を愛でるかのように目を細める。彼が手を当てた、その胸の下にあるものは。

「私の心臓のようなものです」

 ――心臓だ。
 聞こえるはずはないのに、日本が鼓動を刻む音が聞こえた気がした。そこに在る命の音が。
 ふわり。日本が笑った。
 笑う姿なんてずっと目にしていなかった。けれど、遠い昔に見知ったはずの笑みとは確実に違う種類の微笑だった。
 美しい。素直にそう思う、綺麗な微笑み。

「どうか、お伝えください」

 美しい微笑に不釣り合いな雫が黒曜の端から滑り落ちる。
 その様を茫然と見つめることしかできなかった。一筋だけ流れた涙が彼の溢れんばかりの情動を伝えてくるかのようで。

「永久に――

 続いた言葉にフランスは目を見開いた。



 今日も今日とて戦後処理か、と気が重くなるような仕事に深く溜め息を吐いた。そんなフランスの様子を見て、いつもの微笑を浮かべたロシアが「どうしたの?」と首を傾げてくる。お前はいつも楽しそうよね、怖いけど。と胸中で八つ当たりのように呟きながら日本がいる部屋へ入ろうとしたとき、アメリカの大きな叫びが廊下まで響いた。

――ッ、日本…!!」

 何事かと傍にいたイギリスと目を合わせる。慌てて部屋の中に入って視界に映った鮮やかな赤に目を見開いた。
 むせかえるような血の臭いが部屋中に満ちている。
 ベッドの横からアメリカが抱き抱えていたのは血塗れの日本だった。傍に小刀が落ちている。なぜそんなものを手に入れることができたのか。いや、そんなことはどうでもいい。ぴくりとも動かない日本にイギリスも俺も顔面蒼白になった。

「医者を! 早くッ!!」

 イギリスが咄嗟に身体を翻す。
 俺はただ呆然とアメリカの腕の中の日本を見つめていた。

『さようなら』

 日本の声が耳にこびりついて離れない。

『プロイセン君』

 ぐわんぐわんと鳴り響くように反響している。

『永久に――

 邪魔だと突き飛ばされる。
 ああ、とフランスは呻いた。きっと俺はとんでもない伝言を託されたのだ。
 そうだった。前にも思ったじゃないか。開国したばかりの日本。俺の後ろをついて回って仕草を真似、言葉を真似た。戸惑うように眉を下げ、あるいははにかむように微笑んだ。そんな日本と別人のようだといつかの日に思ったのではなかったか。
 冷たい空気を裂いて凛と紡がれた言葉。不適な笑みを浮かべ、何の不安もないのだというように立っていた。柔らかい微笑を浮かべていた、あの頃とは別人のように。

 ――生まれ変わったようなものでした。

 フランスは医師に処置される血塗れの日本をじっと見つめた。俺は多分、〝この日本〟を好きではなかった。嫌いかと問われればそうではない。ただ、恐らく俺は怖かったのだ。鋭く冷たい視線も、悠然と刀を振るう様も。昔のように緩やかに微笑んでいたほうがよっぽどいいと思っていた。

 日本はきっと二度目の死を迎えたのだ。

 ピッピッと無機質な音が響いている。アメリカが信じられないものを見るような目で日本を見下ろしていた。聞き逃してしまいそうな小さな呼吸音。日本はただそこに寝そべっているだけなのに、生まれ変わる前の神聖な儀式のような光景だと、そんなことを思いながらフランスは心中で別れを告げた。壊れた平安の後、たった数十年の生を戦いに捧げた軍国に。

(……Adieu, Empire du Japon.)



 むす、と子どものような拗ねた顔で、アメリカはベッドの傍に置いた椅子に座っていた。

「何であんなことしたんだい」
「すみません、アメリカさん」
「まったく迷惑かけないでくれよ。ただでさえ、君のとこ統治するの大変なんだぞ」

 ぶーぶーと頬を膨らませて文句を言うアメリカにベッドの上で上体を起こした日本が苦笑した。

「こら、アメリカ。日本は無事だったんだからいいだろ」

 イギリスが子どもを宥めるかのような口調で言った。そんな言い方じゃアメリカの反感を買うだけだと、お前はどうして気づけないんだか。案の定、アメリカは嫌そうに眉を寄せてイギリスを睨んだ。

「当たり前だよ、そんなの。国はそう簡単に死なないんだぞ」

 そう。国は簡単に死なない。現に日本は確かに今こうして呼吸をしている。けれど。
 フランスは眉を顰めた。
(なあ、お前らは気づかないのか?)
 日本は微笑んでいる。アメリカさん、イギリスさん、と笑って呼びかけている。ついこの間までとは別人かのように。
 いや気づいてはいるのだろう。けれどそれが何を意味しているかはわかっていないのだ。ただ、以前のように笑いあえる喜びのほうが勝っているのかもしれない。アメリカもイギリスもどこか嬉しげに日本に話しかけている。 

『さようなら、プロイセン君』

 すべてを手放すとはどんな思いなのか。

『永久に――

 それでも、日本が、〝あの日本〟が。戦いにすべてを懸けた日本が、残した最後の言葉がこれだと思うと、フランスは不思議な気持ちだった。

 

「ロシア、ちょっといいか?」
「なあに?」
「プロイセンに会わせてくれ」
「いいけど。僕も立ち合うよ?」
「ああ」
「何で会いたいの?」
「…どうしても伝えなきゃいけないことがあってさ」

 愛の国としては必ず伝えなければならないのだ。日本の最期の告白を。