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Daydream play:13
自分が何者であるか、本当の意味で自覚したとき、私は永遠を覚悟した。
数えるのすら億劫なほどの日々を、ずっと過ごしてきた。その長い長い日々の生命活動を〝生きてきた〟と言えるのか、そんなことを思って不安になった。たったの数十年前、数百年前、私は確かに〝生きて〟いた。明日があるという確約がないほどの、ひどく残酷な日々だったけれど、だからこそ、私は確かに生きていた。
時が有限だと感じるのは死が見えるからだ。それを自覚してヒトは精一杯の今日を生きる。たったの数十年。私からすれば瞬きする間と言っていいほどの短い有限の生を持つヒトですら、死を自覚することは難しいという。ましてや、この平和を享受する時代では。
人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。ドイツの哲学者はそう言った。
私は今、死を自覚できていないのかもしれない。精一杯生きてきたつもりだった。私の生命活動の維持が国の存続に繋がるのだから。この土地を、民を、護りぬくためにはこの地は日本国でなければならない。それはすなわち、永遠を覚悟することだと思った。遥か昔、私は永遠を覚悟したのだ。この地が日の本である限り、私は生きる。この地を民を失わないために、ありとあらゆる障害にも屈さない。そう誓った。民たちの尽力と運に恵まれ、この国は存続している。これから先もずっと続けばいい。続けなければならない。この地を護り抜いた、かつて生きていた民たちのためにも。この先何があるかなどわからない。様々な不安要素を抱えているのも事実だ。それでも目指すのは永遠だ。この地の繁栄、民の幸福。それが永久に続くように。
――痛いのも辛いのも苦しいのも哀しいのも嫌だって思う。お前は違うのかよ。
いつかの日、あなたはそう言った。その通りだ。それでも彼と私のその幾多の感情への接し方はまるで違う。あなたは強いひとだ。それらの感情を真っ直ぐに受け止めて、それでも前を向けるひと。私は違う。気が触れんばかりの長い世過ぎの中で、自分が苦しまないで済む道をいつの間にか模索していた。それらの感情は、心は、必要ないと思った。あったってなくたって、私の生は私の意思で動くことはないのだから。
いつしか、私の心は麻痺していった。……いや、麻痺している〝ふり〟をしていたのだろう。だってそうでもしなければ、あなたとは違う弱い私は堪えられそうになかった。無様に己の欲のままに崩れてしまうなんて、そんな愚かなことが出来ようはずもない。私は生きていくのだ。この先どれだけの時間があるのかはわからないが、それでも永遠を覚悟して。ひとり、生きていく。そんな中で誰かひとりをひたすらに想うだなんて、そんなことが堪えきれるはずもない。あなたを想う、ただひとりの男としては。
私は弱い男なのだ。恋などという、ひどく不安定で、不確かで、時には人を狂わせてしまうものを抱えて生きていくなど耐えられない。
その感情を認めることは、底が見えないほどの深い穴に落ちるのと同じだと思った。深い深い穴の底、ひとりぼっちでもがく未来。あなたを想う重さで私は穴の底へ落ちてしまうのだ。空さえ見えないほどの深底の穴。必死に出ようともがいたところで意味はない。出られるはずがない。落ちた瞬間に終わりだ。暗く寒いそこで、ひとりぼっちで狂っていく。報われない恋とはそういうものだ。例え想いが通ったとて、ずっと共にいられる未来が確約されないなら同じことだ。私はそんなこと耐えられない。狂ってしまう。
だから必死に誤魔化してきたのに。そんな感情あるはずがないと。国だから、ともっともらしい言い訳で取り繕って。それを認めることから必死に逃げてきたのに。
認めたら最後だとわかっていた。この、あなただけに只管に向かう重い情を認めてしまったら、いつか狂う日が来る。あなたを失う日、私はおかしくなる。もし、あなたが私より先にいなくならないと確定される未来があるのなら、私は躊躇いなく認めたのかもしれない。それでも世界中の誰もが先読みなどできない時間の概念に囚われているのだから、そんなことあり得ないのだ。結局、私は断固として認めてなるものか、と躍起になるしかない。ただ弱い自分を守るために。あなたの意思など、まるで無視して。
ずっとそう思って生きてきた。
自棄になるな、とあなたは言った。けれどあの瞬間の激情は自棄なんかじゃない。あれが本当の――私個人としての――本心だ。すべての殻を取り払った剥き出しの心。あなたを愛したい。愛し続けたい。この命が尽きる、最後の瞬間まで。物語ならばロマンチックで甘やかな、けれど幸せな結末など用意されていない現実ではひどく愚かな望みだった。
「祖国様…!」
焦りを含んだ悲痛な声に目を開ける。ズキ、と頭の後ろのほうが痛んで眉を寄せながら身体を起こした。
「……なに、が…」
状況を咄嗟に理解できなくて、茫とした意識のまま辺りを見渡す。日本の背を支えた男が安堵の息を漏らした。
「……よかった…」
働かない頭で胸を撫で下ろす男を見遣る。部下だ。辛い過去を語り、傷は深いほうがいいとか喪失に嘆く自分が許せないだとか、お節介なことを滔々とまくし立ててみせた部下だった。
「…伊藤さん?」
「ええ」
「何があったのですか?」
「それはこちらの台詞です…! どうしても今日中にサインを頂かなければならない書類があったのですが、まったく連絡が取れないので――当然ですが祖国はいつも必ず連絡が取れるようにしているはずなので――何か…予期せぬ事態に巻き込まれたのかと…。緊急措置でGPSで所在を確認させていただきました。あの…場所的にあの方とおられるのだと思いましたので、外で待機させていただいたのですが…」
「あの方…?」
ありありと蘇り始めた先までの記憶に反応した心は、苛立ちを発していた。
「はい。あの…お一人で去っていく姿を見たので、祖国はまだ中にいると思って失礼を承知でドア越しに声をかけさせていただいたのですが、一向にお返事がなく……不安になってマスターキーで開けてもらいました。そしたら…」
「……私が倒れていた、と」
はい、と不安げに瞳を揺らす伊藤を余所に、日本は苦渋と憤怒の交えた顔で歯噛みした。
(ここまでしますか…)
ひとを気絶させて去っていった男を思って眉を寄せる。まさか、こんな強引な手段に出られるとは思っていなかった。後ろ頸を摩りながら、未だ響く痛みに唇を噛んだ。
現役を退いて長いとはとても思えない身のこなしだった。やはり、彼の男は軍人として、そして国として完璧な男なのだ。直情に駆られて熱くなっていたとはいえ、まったく防げないとは情けない。
「…これも平和の上に胡坐をかいていた障害ですかね」
「え?」
国の実体がどれだけ化身に影響を及ぼすのかそこまで定かではないが、少なからず影響があることは確かだ。それともすべて私自身の鍛錬の甘さ、か。
「……防衛費増やすべきだと思うんですよね」
「はい?」
思わず口を衝いて出た言葉に微苦笑する。
「あの…何のお話で?」
「いえ、何でもありません。とにかく助かりました」
「はあ…何があったのです? まさか、あの方が祖国に危害を加えるとは…」
「その件ですが。いくら亡国とはいえ、あの方は他国のご令兄に当たります。いざとなれば、私を裏切ることなど簡単にしますよ。どういった経緯で協力――と言っていいのかは微妙ですが――をしたのか知りませんが、私と共に仕事をしている身で些か軽率なのではないですか?」
正直言って八つ当たりだった。多少思うところはあったにせよ――おそらく、行きつけの店などを教えたのは彼だ。警護の意味では、それはやはり平和ぼけしているだろうと言わざるをえないが――彼に対して怒りはない。怒りの向く先は、ただ一人だけだ。
気の毒だが、サッと蒼褪めた伊藤を見て溜飲を下げた。
「冗談ですよ」
「え…?」
「というか、お手柄です」
目を丸くする伊藤の背後にあった時計が目に入る。行きつけのバーでのプロイセンとの邂逅のあと、ここに来るまであまり気が確かではなかったため、時間など覚えていない。しかし、伊藤が日本を揺らし起こしたのは、プロイセンがこのホテルを出てすぐらしいので、まだ然程経っていないはずだ。彼が来なければ、明日の朝までこの部屋に転がっていたかもしれないと思うとぞっとする。
「よくぞ来てくれました」
「はい?」
「有功です。相殺ということで、その件は不問にしますよ」
「はあ…」
その辺に転がったままの外套を引っ手繰って出口に向かう。意味がわからず首を傾げる部下を置いて、扉に手をかけた。
「では、行ってきます」
「え? あ、あの? 祖国様っ!?」
そのまま駆け出す。愛する男のことで頭が一杯で、書類の件など気にする余裕もなかった。ああ、やはり私はどうしようもない。あのひとのように完璧にはなれない。
この瞬間だけは確かに、私は私個人になり得ていた。国ではない、〝私〟。空想の中でも、愚かな人間ごっこの中でもない、現実で個人の心を優先した。これはきっと、気が遠くなるほどの長い歳月の中で初めてのことだった。
「さみぃ」
口を衝いて出た言葉と共に外気が白く染まる。マフラーや手袋をどこに置いてきたか定かではない。あの店か、あのホテルか。もしかしたら、最初からしてなかったのかもしれない。もう思い出せもしなかった。
手を繋いで微笑み合う恋人たちが横を通り過ぎる。両手に息を吹きかけていた頭をあげたときに見えたものに足が止まった。咄嗟に外套のポケットを探る。そこにはちゃんとスマートフォンが入っていた。これまで失くしていたら笑えない。ダブルタップして点いた画面の日付のウィジェットを見て、思わず溜め息が漏れた。
「……まじかよ」
聖夜だ。
遠目に視界に入った大きなクリスマスツリーに頬を引き攣らせた。今一度スマートフォンに視線を落として頭を抱える。日付も頭から外れてしまっていたとは衝撃だ。
「うあー…ヴェスト怒ってんな、こりゃ」
不在着信がすごいことになっている。もしかしたら、フランスにとばっちりがいっているかもしれない。いや、あいつは日本に来てるんだっけ。どうしたものかと考えながら、とぼとぼと巨大なクリスマスツリーに向かって歩いた。
イルミネーションで輝くツリーを仰ぎ見る。明らかに樅の木ではないが、幾多もの光源に彩られたそれはとても美しかった。
遠い日の情調が蘇る。これは、この国にはなかったのだ。あの日、ありあわせで作ったクリスマスツリーを見て目を輝かせた男の姿が鮮明に瞼の裏に見えた。あれは、俺たちからすればほんのちょっとばかし前の話だ。それでも、今イルミネーションを見て微笑む若い恋人たちが生まれるより、ずっと前。この国は歳月を経れば途端に、あのちっぽけなツリーをこうまで美しいものへと昇華する。おそらくは世界でも類稀なほどの美しさを表してみせる。この日を祝うくせに、信心はまったく別のほうを向いているのだから不可思議であるが。
今はもう夜も更け始めている。人口が密集した都会であるからこそ、人はそれなりに結構いる。とはいっても疎らだ。もう少し早ければ見られただろう情景が眼裏に映る。いつもより浮足立つ恋人たち。聖夜であることを煩わしげに早歩くスーツ姿のサラリーマン。サンタクロースの格好でケーキを売る女の子。この国は強い。異文化をこうも巧みに取り入れる。それも他の文化と容易く共存するのだから恐ろしい。全く以てタフな国である。この地を踏むたびに思う。この国の未来は末永いだろう、と。それこそ、千代に八千代に。
パァンッ!――と突然耳に届いた音に弾かれたように意識が向いた。銃声かと思ったことに苦笑する。そんな重々しい音なんかでは決してない。視界の端に酔った大学生らしい集団が映る。祝い事のクラッカーか何かだろう。静かな夜にはやけに響いた。
ふと己の手を見遣る。傷だらけの手。古い傷がたくさんある。その古傷とは別に、何てことのない理由でついた新しい傷も。剣だこのある固い手は、もう必要もないのに剣を握り続けた。必要もないのに鍛錬しない日などなかった。俺はずっとそうやって生きてきたのだ。剣が銃に変わろうと、銃すら――いや、防衛すら――不必要になろうと、変わることは出来なかった。変わったのは世界のほうだ。俺じゃない。この国の在り方は、俺の心臓には悪い。銃声など聞こえないほうがいい。勇ましい号令など聞こえないほうがいい。それでも、俺はそういう世界しか知らない。
たった数十年の平和で戦うことなど微塵も想定しないこの国は、俺には恐ろしい。ぞっとする。国防の何たるかを説論したくなる。それがいかに大事か、と。それでも今は、そんなことこの国には不要だと切り捨てられる些事なのだろう。たった数十年前、必要不可欠だったものが呆気なく不要になるのだ。
空を仰ぎ見る。そこに星は見えなかった。煌煌と輝く街は、もう星の明かりなど不要なのだろう。ただ幾多の色を輝き放つ光源だけが美しさを主張している。星はそれに取って代わってしまったのだろうと思うと、幾らかの寂寞が胸を過ぎった。
「必要なくなるときが来るよな…何事も」
使い続けたものがいつか壊れるように、何にだって終わりは来る。俺という存在も。俺を想ってのあの男の苦しみも、いつか必ず。星明かりなど、そこになくても平然と時が過ぎていくように。
「星は、目に映らなくてもそこに在るのではないのですか?」
背後から聞こえた嫌というほど馴染んだ声に、プロイセンは勢い良く振り返った。
「肉眼で見えるほどの明るい星は、それでも存在する数の半分ほどしか、こうして私たちの目には映らないとあなたがおっしゃったのではありませんか。残念でしたね。あなたの存在は、例えこの目に見えなくなっても私の中で在り続けます。いつまでも尾を引いて。この吐き気がするほどの苦しみも、ずっと」
冷たい声音で、けれどその闇色だけを爛々と光らせた日本がプロイセンを強く見据えていた。あたかも、敵兵を見つけてこれから猛然と攻めたてんとするかのように。
「……日本」
なぜここに、と雄弁に語る血の双眸の揺れに日本は薄ら笑った。
「意外とすぐ見つかりましたね。私情で全国の警察に指名手配を頼むところでした」
予想外だ。あのときの日本の姿が、そして俺の姿が、互いの目に映る最後だと思っていたのに。壊れた人形みたいに簡単にぶっ倒れたくせに、と矛先のおかしい苛立ちが湧く。
「あんなんじゃ足りなかったか? 手足も縛っとくんだったな」
「それではもれなくあなたは犯罪者になりますよ。日本国を監禁とは、一番大切な愛する弟君に迷惑がかかりますが」
「…………」
ああ言えばこう言うとはこんな感じか。
(…怒り心頭ってか)
そりゃそうだ。気絶させられた挙句、逃げられたのだから。
「お叱りは俺の墓にでも向かって言ってくれねえか」
「墓など作られないと思いますが」
「…それもそうだな。で? 俺様はもうお前と話すことなんかねーんだよ。愛しの弟のもとにさっさと帰りたいんだが」
「おや、それはよかった。ドイツさんも明日にはこちらにお見えになりますから、あちらに行かなくてもすぐに会えますよ」
「……どういうことだよ」
「連絡したのです。あなたの兄上に途轍もなく迷惑をかけられたので回収に来てくださいませんか、と。二つ返事で了承してくださいましたよ。多分に心配されている様子でしたが、まさか大切な弟君に黙っていなくなろうだなんて思ってはいませんよね」
「…………」
随分と厭味ったらしい物言いだ。この男はわかっていて言っているのだ。俺がこのまま姿を眩ますのを良しとしてくれない。ドイツへの連絡とは用意周到だ。それとなく俺の存在のあやうさを伝えて、すぐ来るように仕向けたに違いない。
「俺の人生――国生か――だろ。好きにさせろよ。お前に何か言われる謂れはねえ」
「ええ、そうですね。だから私も勝手にします。勝手に苦しむことにします。例え、それが地獄に落ちるほどの苦しみでも」
「……だから、やめろってんだ。そうやって自棄になるの」
「なってません。私は冷静です」
「うそつけ」
「本当です。あなたはどうせ言わせてくれないのでしょうから、言いません。あなたの本当の望みを叶えるような告白はしません。残念でしたね、叶わなくて」
「…叶わなくて何よりだ。そんじゃあ何しに来たんだよ?」
「文句を言いに」
「……はあ?」
「私、もっとロマンチックな告白を夢見ていたんですよ。あんな喧嘩腰のやり取り、ロマンも何もありません」
「喧嘩腰だったのはお前だけだろうが。まさかやり直せとか言うつもりじゃねえだろうな」
「できればそうして頂けると嬉しいですが」
「充分ロマンチックだったと思うけどな」
「どこがですか」
「今日、何の日か気付いてるか?」
「はい?」
プロイセンは、ちらと背後のツリーを仰いだ。
「聖夜だ。お前ん家じゃ恋人たちの日なんだろ。そんな日に告白。充分だろ」
「……なるほど。でもありきたりですね」
「女みてえなこと言ってんじゃねーよ。とにかくやり直しとかなし。あの一言にどれだけの労力使ったと思ってんだ。こちとら百年越しの恋だったんだぜ」
「それはそれは。では、私はきっと――」
覚悟を決めた、決意のある声音だった。
「――何千年の恋にしてみせます」
冷たい怒りの乗った日本の表情が、ふっと和らいで微笑が浮かんだ。もう何もかも覚悟しきってしまったと思わせるには十分な表情の変化に息が詰まる。
言葉の真意を聞くより先に冷たい外気とは真逆の熱が口を塞いできた。何度目かしれない口づけは、今までのどの口づけより熱く、灼熱の業火を浴びせられているような気分だった。きっと彼の怒りも含めた、罪を責める熱だ。
「Come back to me.」
離れた唇が吐息のかかるくらい間近で紡いだ言葉に胸が熱くなる。ふたりで見た映画のヒロインの台詞だ。
――私のところへ帰ってきて。
映画の中では、男はその言葉通り彼女のもとへ行く。時空さえも越えて。
「……無茶を、言うな…」
掠れた、無様な声だった。時を越えて会いにこいと言うつもりか。
「あなたなら叶えてくれるのでしょう?」
今にも泣きそうな微笑みを湛え、日本はプロイセンの肩越しのツリーを横目で見遣る。
「マリア様」
「……は、はっ」
泣きたいのに、男がおかしなことを口走るから変な笑声が漏れた。
「かつてマリアの名を冠したのなら、奇跡くらい起こしてみせなさい」
奇跡〝くらい〟とは、とんでもないことを言いやがる。
揺らめいていた黒曜の端から、雫が溢れて滑り落ちるのが段々と滲んでいく。
「あなたの本当の望みは…今度会ったときにでも言ってください」
ああ、こいつはもう覚悟を決めてしまった。この頑固な男の決意を変えることは、もう不可能だ。
美しいイルミネーションに彩られた大きなクリスマスツリーの前。心揺さぶる映画の台詞を引用した告白。最高にロマンチックだ。ただ一つ文句があるとすれば、英語であることだけれど。まあ、もうこいつはドイツ語なんて話せないだろう。必要ないものは、忘れていくのだ。この男なら、必要のあるものは意地でも覚えていそうだ。
返事を返すことも頷くこともしないプロイセンに日本は何も言わない。互いにわかっている。頑固なのだ。おいそれと追従したりはしない。互いに勝手に望んで、勝手に苦しむ。それだけだ。
「…プロイセン君」
縋るようにもう一度触れた唇はしょっぱかった。
この男はどうしようもなく愚かだ。理知的な頭脳を持ち合わせているくせに、自ら苦難の道を行く。行き過ぎた忍耐は美徳じゃない、と教えたってどうせ聞きやしないのだ。プロイセンは意趣返しのように口を開いた。
「俺は正直…もう二度とこんなことに血道を上げるのはご免だ」
恋などという狂った情に。
そんな言葉とは裏腹に二本の腕は男の背を掻き抱いていた。
「よく言いますね。あなたは血道を上げるというほど、分別をなくしているようには見えませんでしたよ。…今だって」
「……それが〝俺〟だからな」
理性を失ったら、敗けてしまう。この性分は変わりそうにない。ずっとそうやって生きてきたのだから。それなのに。
身体を離す。灼けるようだった熱は、冷たい空気の所為ですぐに消え去った。愛する男を目に焼き付けるために真っ直ぐ見据える。なかなか動かない口と足を必死に理性で説き伏せて動かした。
「じゃあ、俺行くわ」
「……ええ。ドイツさんによろしくお伝えください」
言うに事欠いて、最後に言うことがそれかよ、と苦く笑う。頬を滑降する冷たさが煩わしい。視界不良なのも、また。
「…ああ。じゃあ――」
ここでそのまま踵を返す。それだけのことがどうしてこんなに難しい。最悪だ。気持ちが悪い。吐き気がする。理に従わない情動が鬱陶しい。
「――…また、な」
到頭理性からあぶれて零れてしまった言葉は、男の告白に首肯しているも同然だった。
男の言う〝今度〟も、俺の言う〝また〟もないはずだというのに。それこそ、映画のような都合のいい展開でもない限り。
それでも踵を返す直前に見えた、イルミネーションで照らされた男の顔に自然と笑みが浮かんだ。一掬の幸福にでもようやく手が届いたかのような、愛する男の表情に。
戦に勝って勝負に負けたとはこんな気分なのかもしれない。
(……いや、戦いにすら負けたか)
結局、あの男は勝手にするのだ。勝手に辛苦の道を選んで、勝手に嘆く。そんなもの他人である限り当たり前のことなのに、俺たちは自分の思い通りにしようと躍起になっていた。その感情の発露は、一重に相手を愛しているに他ならない。
――何千年の恋にしてみせます。
あの男の長期的な戦略だ。プロイセンが命を終えたあと未来に持ちこすという、あの男にとっては長い戦いの幕開けでもあるのかもしれない。
「…ほんと…馬鹿だな」
ぽつりと落ちた呟きは宵闇の冷たい空気に紛れてすぐに消えた。
本当の望みは、理に反して勝手に叶ってしまうらしい。それは確かに望みではあったが、叶うことは望んでいなかった。そんな、矛盾に満ちた葛藤に終止符が打たれたといっていいのだろう。自らの苦しみを犠牲に、それを頑として譲らなかった男の所為で。本当にとんでもない馬鹿野郎だ。
(…最期まで想い続けるのは俺だけでいいだろうに)
どうせ、その苦しみはすぐに終わるのだ。これから先、長い未来が待っているお前とは違って。それでも胸底からは歓呼の声が湧き続けていた。それが醜くて浅ましくて嫌になる。自分を嫌ったことはないが、ずっと持ち続けていた自信をなくしてしまいそうだった。国を亡くすばかりか、愛する男ひとり幸せにできないとは情けない男がいたものだ。どう足掻いたって、愛する男の望みは叶えられやしないのだから。
――ずっと傍にいてやる。
などと、嘘でもいいから言えばよかったのだろうか。それが嘘でも幸福に笑ってくれるのだろうか。いや、結局待ち構えている現実に苦しむだけだろう。
聖夜の夜は更けていく。何度も振り返りそうだった身体を制して、どこに向かうわけでもなく足を動かしていた。人は疎らだ。
視界の片隅で女性の前で跪く男が見えた。騎士が武運を祈り、剣の鍔際に口づけを――なんてことは決してなく、小さな箱を手に乗せて何かを言っている。プロポーズだ。両手で口もとを覆った女性が感極まって涙を滑らすのまで、夜でも馬鹿みたいに明るい都会では明瞭に見えた。なるほど、ロマンチックである。
――Come back to me.
もしも、本当にお前のもとへ帰ることが出来るというのなら。
――あなたの本当の望みは…今度会ったときにでも言ってください。
言ってもいいかもしれない。置いていかれる側にとって酷く残酷な、地獄に突き落とす言葉を。
――『愛してくれ』と。
生涯を懸けて。俺だけを。
「……ま、そんなことあり得ねえか」
それこそ、映画のように都合よく物語が進んで、おとぎ話の決まり文句と同じくらい現実離れした、空想のような世界でない限り。もう一度会うことは決してないだろう。
冷たい強い風に晒されて、左手がつきりと痛んだ。男の噛み痕はまだ消えていない。そこに唇を落とす間際、己の手が光に溶けていくような錯覚が見えた。いや、もしかしたら錯覚などではなかったかもしれない。
「…ヴェストに会わねえと」
どうせ、あの男が乞うた夢物語のような約束を守れないというのなら、最後に言ったことくらいは守ってやろう。
プロイセンは小さく笑って再び歩き出した。その背を眩ますように、六花が街中を覆い始めた。
*
「結局、この身の存在の責務からは逃れられませんねえ」
理性が打ち勝つのが正しいことであれ、少し恨めしい。
「あっ、祖国様! 雪が降り始めましたよ」
「……何が哀しくてイブの夜に仕事場にいるのでしょうね」
「戻って来ていただいて何よりです。その書類で最後ですよ」
「それに雪ですか…。余計に星を眩ましてくれるとは…ひどいものです」
「星が見たいので?」
「…いえ。見えなくても在るとわかっているので、見えなくてもいいのですけれど」
「はい?」
最後の書類を部下に手渡して、そのまま窓際へ行く。はらはらと舞う雪はとても儚く、窓についたそれは呆気なく溶けて消える。
手を窓につけて外を覗き込む。そこにあのひとはいないのに、無意識に探してしまう自分に自嘲した。
「……プロイセン君。私、今さら気付いたのですが」
ぽつりと、届くはずのない言葉を紡ぐ。
「どう足掻いたって結果は変わらなかったんじゃないでしょうか。結局、愛しうる限り愛してしまうんです。その感情には理性なんて役立たずなんですよ」
私は生涯、あなたを愛するのでしょう。
「……まあ、あなた以上の人が現れない限りは、ですけど」
ひとを置いてさっさと消えてしまう残酷な男へ向けて、当てつけのように付け足した。
「それでも…待っていますからね」
幾年月、経とうとも。
(続く)