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Daydream play:12
「死ぬんだって思ってた。いや…正確には消える、か」
そんな話をするのには随分と場違いなところだと思った。安っぽいホテルの一室。乱れたシーツはそのままで、服すら互いに乱雑に纏っているだけだ。情事の痕を色濃く残したまま話す内容ではない。それでも、今しかなかった。
日の暮れた窓の外をぼんやり眺めながら、プロイセンは慎重に話し始めた。
自分の身勝手な我が儘に巻き込んでしまったからには本音は伝える。けれども、すべてではない。日本が正しい道、あるべき道を歩めるように。纏わりつく愚かな男を振り払えるように。
眼下を眩しく照らすネオンが卑しくも眩しい。それが煩わしくて、乱暴にカーテンを閉める。これまた煩わしい音を大袈裟に立てて、完全に二人きりの空間となった。
「そのことに何の問題もない。まあ、多少は心苦しかったけどよ」
偉大な王の愛した、そして幾多の民たちの愛した国は時代の激流の中、完全に終わりを告げた。そういう宿命だったいえばそれまでだが、統一を目指したのは他でもない俺たちだ。そこに後悔は抱きたくない。
(……まあ正直、まさか存在すべてが無くなる未来が待っているとは思わなかったけどな)
仕方ない。敗けるとは、そういうことだ。
「でも結局、何ともなくて拍子抜けした。新たな時代の駒になったから生き残ったにしても、正直ふざけんなって思ったぜ。俺様だってそれなりの覚悟を決めてたってのに」
明日の天気でも話すような笑声交じりの軽口に、日本はこれっぽちも表情を変えずに聞いていた。はっきり言って話し辛いにも程がある。射貫くような真っ直ぐな視線が痛かった。プロイセンの言葉すべて、表情すべてを逃さない、何ひとつ洩らさない、とでも言うかのような瞳に頬が引き攣りそうだった。
「まあ、それでも幸運にもこうして存在しているわけだが。でもよ、いつその日が訪れるかなんてわかんねーじゃん? だから、やりたいことやっとこうって思った」
これは紛れもない本音だ。それこそ、単なる我が儘でしかない。子どもの欲求と大差ない。
「やりたいことっつってもそんな大仰なことじゃない。ヴェストを気が済むまで甘やかしたいとか、メープルシロップをこれでもかってぶっかけたホットケーキを限界まで食いたいとか、行ったことのない場所に行きたいとか、イタリアちゃんとランデヴーしてえとか、そんなだ」
考えたって、あまり思い浮かびもしなかった。それくらいなら別に世界から咎められることもないだろうな、くらいの些細なことしか。
「自分でもどうかと思ったぜ。案外思いつかねえもんだな。もっとこう…世界征服してー!くらい大ごとでも思い浮かぶかと思ったけど、そんなことなかったわ」
自分の欲求に従おうにも些事しか思い浮かばない。その理由は一つだけだろう。
「ああ、俺たぶん満足なんだなって思ってよ。充分だぜーと思ってた矢先に……あれはいつだったかな…お前が」
真っ直ぐ重なった視線は逸れることはない。瞬きしているのか疑うほど動かない闇色がプロイセンだけを見つめている。
「うちに…ヴェストん家に来たんだよ。あー…例のお泊り会的なやつでさ。イタリアちゃんも一緒の」
何でもない日常。今までだってあったことだ。でも扉を開けた先にお前の姿を見た瞬間に俺は――。
「あなたが出迎えてくださったときですか」
それまで黙り込んでいた男の急な問いかけに僅かに戸惑う。
「あ、ああ。ヴェストはイタリアちゃん迎えに行ってて、お前がやたら早く来て俺が玄関あけたときの」
出迎え、というほどのことじゃない。呼び鈴が鳴ったから出ただけだ。
早くから誰だよ、と開けた先にお前が立っていた。そして俺を見上げる日本を見た瞬間、身を焼くような激情に駆られた。
「…あの日」
「あ?」
「二日前から欧州にいたんです。イギリスさん家でお仕事していて、そのついでにと誘っていただいたんです」
「…ああ、そうだったのか」
人形みたいな顔でそんなことを言う。関係のない話題としか思えない。
「前日は眠れなかったんですよ」
「仕事で徹夜か?」
「違います。楽しみだったんです。ドイツさんのお家に伺うのが」
「…遠足に行くガキかよ。まあ、そうそう三人の都合がつかねえか。その理由は主にお前だろうけどな。距離が遠いだけの問題じゃねえ。いつだって仕事で断るタイプだろ。ヴェストが電話口で顔を顰める様が思い浮かぶぜ」
すらすらと出る言葉とは裏腹に頬が微かに引き攣る。何でこんな世間話みたいな話を続けているのか。結構重要な話の真っ只中だったはずなんだが。お前が早く来た理由などどうでもいいこと――、
「あなたに会うのが楽しみだったんです」
「――…ああっ?」
思いもよらない告白に動揺して変な声になった。呆気に取られたまま彼を見遣れば、堪えきれなかったというように、くすくすと笑い始めた。
「……おい」
「ふふっ。動揺するあなたなど、いいものが見れました。眠れなかったのはあなたに会えるかもしれないと昂奮したからで、早く訪れたのはドイツさんがイタリア君を迎えに行くのはわかっていましたから、あなたが出迎えてくれると思ったからです。普段なかなか会えませんからね。あなたの顔を見て言葉を交わせられたらいいなと、楽しみだったんです」
最終的に別れしか待っていない話の最中、好意を見せつけるような言葉を投げかけるなど最悪だ。日本は好きだなんて口にしないだろう。そんなことはわかっているし、それでいい。それでも、好きだと確かに言葉にして伝えた男に向かって好意をちらつかせるのは酷だ。否応にも胸が高鳴る羽目になるのだから。
鼓動を速めた心臓に苛立ちが湧く。冷静にならなければならない。冷静でなければ話せない。
「……お前な。嘘でも性質悪ぃぞ」
引き攣った顔のまま睥睨しても、日本は涼しい顔で更なる爆弾を落とし始めた。
「嘘じゃありません。正真正銘、私の本音です」
「んなこと言ったって――」
嘘か本当かなど口ではどうとでも言えるだろう――という言葉は、それを予想した日本によって遮れられた。
「あなたが今いるこの国の民と地とすべての神に誓って、本音です」
「――……、」
強い意思の宿る瞳と真剣な声音と、その内容に絶句する。
握った拳に爪が喰い込んで痛かった。円弧を描いているはずの爪の痛みを感じるくらいだから、相当な力で握りこぶしを作っているのだろう。深く溜め息を吐いて、本気で目の前の男を睨みつける。
「最っ悪だ……お前、性格悪ぃだろ」
「おや、今さら気付いたんですか? 想いを寄せる相手の性格もわからないなど重症ですね」
「よく言うだろ。恋は盲目、痘痕も靨。それくらい想われてるんだぜ、お前。ぞっとするだろ」
「まさか。それほど想われているなら嬉しい限りです。――…本当にそうだというのなら、ですけれど」
「……どういう意味だ」
「恋は盲目――恋におちると理性や常識を失ってしまうこと。ちゃんと意味を理解して言ったんですか?」
「そりゃあ――」
そうだろ、という言葉を紡げずに閉口する。理性や常識を失っていたなら、今こんなふうに話をしていない。我を忘れたまま、お前を地獄に突き落としているに違いない。
「あなたは理性を失ってなんかいない」
ひどく冷たい声音だった。
「なに怒ってんだよ」
「怒ってません」
「怒ってんだろ。どう見たって」
「じゃあ怒ってます」
「じゃあって何だよ」
「わからないんですよ」
「はあ?」
「だからッ!」
椅子に座っていた日本が部屋中に響くくらい大きな音を立てて立ち上がった。
「どうすれば、あなたが本音を言ってくれるかわかんないんですよ!」
「…………」
射殺す気かと思うほどの凄気だった。
(…やっぱり怒ってんじゃねえかよ)
俺に向けてだけじゃない。思い通りにならないことに対する怒りだ。どう足掻いたって自分の望む結末にならない終わりへの、苦しみを振りかけてくる世界への、怒りだ。
よくないな、と思った。理知的に見える日本は、思いの外直情的だ。その所為で泥水啜ったことだってあったろうに、学習しない大馬鹿野郎だ。
「俺は本音で話してるだろ」
静かに紡ぐと、強く睥睨される。
「すべてを話してはくれないじゃないですか」
「話したとこで利があるのか。ねーだろうが、俺にもお前にも」
その先に待つのは、互いに地獄だけだ。
「冷静になれよ。今までみたいに逃げ回ってりゃいいだろ」
「っ、」
冷静になれ、は自分にも向けた言葉だった。胸の奥底に渦巻く、怒りに似た情が沸騰したように音を立てている気がして眉を寄せる。
日本の強く噛み締められた唇から血が滲むのを視界に収めながら、何とか感情を落ち着かせようと深く息を吐いていると、迷子の子どものような頼りない声が小さく耳に届いた。
「……だったら、放っておいてくれればよかったんです」
俯いてしまった頭の所為で表情が見えない。
「どうして構ったりしたんですか。あんなことがなければ、私はあなたの心も自分の心も知らないふりをしたままでいられたのに」
(……そうだな。俺が全部悪い)
「…だから、我慢できなかったってことだろ」
お前が苦しむとわかっていて、行動に移してしまったのは。
「真面に理性が働いていなかったからだ。俺は自分の心を律せなかった。恋は盲目。な、嘘じゃないだろ」
これで納得してくれればいい。
ぴくり、と微かに反応した日本はそれでもプロイセンを見ることはなかった。
「……じゃあ、最後までそのまま…盲目のままで話してください」
ようやっと顔をあげた日本の強い意思で熱情を宿す眼差しが真っ直ぐに俺を見た。
まったくもって冷静になんかなっていない。舌打ちしそうになるのを咄嗟に飲み込む。だから、やめろって言ってんだ。情動のままに進むのを。
「断る」
「……最っ低ですね。あなた言いましたよね。愛させてくれって。自分の願いだけ押し付けて、私の願いは叶えてくれないのですか。何ならもう一回します?」
「ああ?」
「セックスです」
「一番手っ取り早く愛情を伝えられる行為でしょう。いくらでもこの身体差し出しますから、好きなだけ愛してください。あなたの望みなんでしょう? 最後の」
「…………」
面倒くせえ。正直な感想が胸中で漏れる。完全に頭に血が上ってやがる。
それだけが望みで、それがすべてだとしか言わない俺のことをわかっていて、ふっかけてきたのは明瞭だった。俺の本当の望みなんて、すでに見破っている。それを絶対に言わないだろう俺に逆上している。
(……だから、お前のためだってのに)
それを口にしたらお前は地獄に落ちる。わかっているくせに。散々逃げ回っていたくせに。愛されることにすら、怯えていたくせに。
「…俺、言ったよな。お前の幸せが俺の幸せ。つまり、幸せになってほしいってことだ。俺の我が儘で苦しめておいて今さらだけどな……辛い思いをさせたいわけじゃない」
「…………」
「お前の未来は長えぞ」
「ッ、」
「気が遠くなるほどの歳月を邁進していくんだろ。この地のため、民のため」
「…………」
「自棄になるな。直情のまま動いたっていいことなんてない」
「……『理性は要。事の大小や善し悪しを測るには必要不可欠。そうすれば正しい判断を下せる。この奸知に塗れた世界で生きると決めたなら感情は切り離せ。小国が生き残るためには誰よりも邪智を働かせ、佞言を使いこなすしかない。感情のまま真っ直ぐ突き進んだ先に待つのは死だけだ』」
いつの日か、俺が言った言葉だった。すらすらと、あたかもついこの間聞いたかのように紡いだ日本は、苦虫を噛み潰したような顔で俺を見た。
「あなたはいつも正しいことを教えてくれる……いや、〝正しいこと〟だと信じこませる」
不機嫌さを隠さない表情なのに、どこか寂寞を孕んでいた。
「……正しいと思ってるから言ってんだ」
「いいえ。あなただって他国だ。真綿に包んだ甘言で、いくらでも私を騙す」
「…話が逸れてるぜ。外交でもしてるつもりかよ。俺は今、個人としてお前と向き合ってんだろ」
「そして導くんですよね。かつてあなたが師として私に道を示したくれたように。一番被害のない――…いえ、あなただけが苦しんで私を救う――正しい道を」
「それの何が悪い。現状で最善の道だ」
「……そうとは限らないですよ」
「いや、最善だ。これ以上なんてない。俺の苦しみなんて、あと少しで終わる。この命は――っ…!」
あと少しで尽きるのだから、という言葉を言うことは叶わなかった。
パシンッ、と乾いた音が響いて振動が手のひらに伝わる。まさか平手打ちが飛んでくるとは思わなかったが、長年戦場で培った反射神経が日本の手を捉えて、頬に感じるはずだった痛みを未然に防いだ。
「……殴らせてくれたっていいじゃないですか。防ぐなんて酷いです」
「酷いって…どっちがだよ。防いだ手めちゃくちゃ痺れてるっつーの。全力で平手打ちかます奴があるか。真面にくらってたら真っ赤に腫れて、明日には笑い者じゃねえか」
「あなたが嫌なことばかり言うからじゃないですか」
掴まれた手を振り解いた日本が今一度拳を振り上げる。けれど先までの勢いはなく、それはぽすんと気の抜ける音を立ててプロイセンの胸を力無く叩いただけだった。
「聞きたくないです」
胸を叩いた手が縋り付くようにプロイセンのシャツを握る。
「っ、どうして…! なん、で……」
俯いた顔をあげてプロイセンを仰いだ日本の目尻に雫が溜まっていた。
「…いやです……いなくならないでください…」
息も出来ないような苦しさと、灼熱の炎で焼かれているかのような心臓の痛さと、身が裂かれんばかりの辛さが一気に押し寄せてきて、おかしくなりそうだった。縋りついてくる身体を掻き抱いて、熱くなる目の奥を誤魔化すように瞼を閉じる。
「傍にいてくれなくたっていいんです…ッ言葉が、交わせなくたって……お願いだから、いなくならないでください…」
わかった、って。頼まれなくたって傍にいてやるよ、って。どうして言ってやることが出来ないんだろうな。ああ、やっぱり俺はお前を幸せすることは絶対に不可能なのだ。
「話を続けていいか」と小さく呟かれた声に返事はしなかった。身体中を支配していた怒りのような情動は一気に萎んで、代わりに蝕むのはひどい痛みだった。
「どこまで話したっけ……ああ、お前が家に来て」
この話の終わりは、別れの言葉だとわかっている。だから聞きたくないし、終わらせたくない。でもどんなに阻止しようとしたところで、彼は話すのをやめないのだろうし、別れの言葉を紡ぐのだろう。
「お前の顔見た瞬間、やりたいこと、もういっこあったなって…雷が落ちたみてえな衝撃で思い知らされた。お前を――愛することだ」
「…………」
彼は本音で話していると言った。嘘ではないのだろう。それがすべてじゃないというだけで。愛すること――言い換えれば愛情を示すこと、か。お前が好きだ、と私に知らしめること。
「お前が俺の告白を聞いてくれないのはわかってた。そんな感情あるわけねえって突き放されるのはわかってた。だから、愛の国――自称だけどよ――に相談した」
冗談交じりに軽く紡がれる言葉が嫌だった。そうやって軽口で覆い隠して、重要なところを見せないようにされるのが。
「まあ、そんであんなこと始めたわけだが」
他人と偽って声をかけた。人間のふりをするために。
「お前はお得意の曖昧さで〝ギルベルト〟に接していた。俺の空想に乗っかったくせに逃げようとする。そのまま手の届かないところへ行っちまえばいいのに…こっちは鎖で縛りつけてるわけじゃねえのによ…お前は〝ギルベルト〟から離れなかった」
「…………」
「…正直言えば、告白を受け入れられたら万々歳で…それ以上は…あー、その、口づけとか抱き合うとか…そういうことまですることになるとは思わなかった。…あの瞬間は確実に理性なんてなかったんだろうな。すべての欲がお前だけに向いていた」
ふ、と小さく笑声を漏らして、プロイセンは続ける。
「フランスのアドバイスは功を奏したってわけだ。伊達に愛の国かたってるわけじゃなかったんだな」
(……彼はあなたが好きだったのではないですか?)
その好意が友情か恋情かは本人にしかわからないけれど。あなたの望みを叶えようと、彼は必死だった。自分が恨まれようと嫌われようと構わないとばかりに、私に必死に言葉を投げかけていた。彼の表情が痛ましかった。ごめんね、と口に言わずとも語っていた。お前を傷つけてもあいつの願いを叶えたい、と。
「……フランスさんには、あなたのもとへ来る前にお会いしましたよ」
「え?」
「私を叱りつけに来られました」
「は? 日本を? つか、こっちに来てのか、あいつ」
なんで、と不思議そうに丸くなった瞳に小さく微笑う。
「あなたがよっぽど大切なのでしょうね。あなたの心を…そして私の心を知らしめるために来たのです。あなたの望みを叶えるために」
プロイセンは微妙な顔で笑った。くすぐったいような、それでいて寂しさを含んでいるような、自嘲するような。
そう、そんな友だち想いの彼にもあなたは本音を晒していない。それは自分の胸にだけ留めて、決して表には出さないのだ。
「……あいつにも悪いことをした。余計なもん背負わしたかもな」
「そうでしょうね」
きっぱり言い放つと、プロイセンは驚いたように瞠目したあと僅かな間を置いて苦い表情で言う。
「辛辣だな」
「事実ですよ。彼は苦しむでしょうね。私とあなたが幸せにならない限り」
「……最悪だ」
「可哀想に。全部あなたの所為です」
「…わかってるっての」
「あなたの存在がいつまでも尾を引いて光り続けることになりますね」
――…だって嫌じゃねえか。とっくに寿命をなくしたものが、いつまでも尾を引いて光ってるみてーでさ。
一瞬がいい、と言っていた。なくなるなら跡形もなく綺麗さっぱり消えてしまったほうがいい、と。そんなことはあり得ないのだと、あなたは思い知ったほうがいい。
忌々しそうに溜め息を吐いたプロイセンが不機嫌な顔で日本を見る。
「嫌味か」
「ええ」
「…………」
「あなたの思い通りにはなりませんよ」
それこそ記憶喪失にでもならない限り、もう手遅れだ。
「知らなかった頃には戻れないんです。絶対に」
「じゃあ、お前は忘れる努力をしろ」
「無理です。記憶は消えない。例え、思い出せなくなっても」
くそ、と悪態をついたプロイセンが、がしがしと頭を掻く。苛立ちの感情を滲ますプロイセンに日本は笑った。もう何が正しいとか、どの道が被害を最小限に抑えられるだとか、幸せだとか、苦しみだとか、どうでもよくなっていた。今はとにかく、彼の思い通りになることが癪だ。散々引っ掻き回した挙句、未練なんてありませんと嘯いていなくなられるなんてご免だ。
「なら思い出せなくなっちまえ、早く。今すぐにでも」
「そんなことが可能だと言うのなら具体的に示してくださいよ。私は忘れる方法なんて知りません」
「……そりゃそうだろうよ。…じゃあ、お願いだ。忘れてくれ」
「お願い、ですか。そう言えば私が何でも許すとでも思っているんですか? 嫌です。あなたの願いなど聞きません。私は忘れません、あなたのことを。……傷は深いほうがいいんです。忘れられないまま、その傷に苦しむことにします」
「…日本」
子どもを宥めるような呼びかけに、再三頭に血が上る。
直情的になり過ぎるな、と彼の冷静な瞳が語っているが、私はあなたみたいに完璧ではないし、こんなふうに激情に駆られるのが私という個人の性格なのだ。普段は鳴りを潜めている烈しい情が、彼の所為で表に出ているに過ぎない。
「俺が悪かった」
素直に謝る彼の姿など、見たくない。彼は絶対王者のように不敵に笑っていればいいのだ。
「俺が始めたことだ。お前の言った通り、変わらない距離のままいればよかったことだ。今お前が苦しんでいるのは俺の所為だ」
すべての罪を抱えるその様に、怒りで頭の中が白んでいく気がした。
そうだ。あなたが「初めまして」だなんて言わなければ、こうまで拗れていない。こうならなければ、あなたは私の知らないところで、いつの間にかこの世界からいなくなっているのだろう。はたして私はそのことに耐えられるのだろうか。もうこの世にいないことを後から知って、何でもない日常を送れるのだろうか。
――あいつがどうなろうと、お前はこの先簡単に生きていけるだろ。…それに、プロイセンはもういないだろ。
フランスがそう嘯いたときの絶望は、彼と口づけを交わさなくても身体を合わせなくても告白されていなくても変わらないのではないか。結局どっちに転んだって、私は彼を失っておかしくなるのではないか。
彼は知らないのだ。私はあなたが思うよりずっと、あなたを想っている。
「……だから」
プロイセンが静かに言葉を続ける。
「これ以上は嫌だ。これ以上、お前を苦しめるのは」
私だって嫌だ。これ以上、あなたを苦しめるのは。そう思うのとは裏腹に傷つけてしまいたい。これ以上の苦しみを投げかけてしまいたい。きっと、この矛盾と同じような感情を彼も抱いている。
「これは紛れもなく本心だ。信じてくれ」
「……ええ」
でも私の苦しみは、深い傷は、癒えることはない。どっちにしろ壊れてしまうのなら、覚悟を決めてしまえばいい。あなたが私を地獄へ突き落さないというのなら、私自ら地獄に飛び込めばいいのだ。
もうすぐだ。あなたは別れを告げるだろう。あなたの思い通りにはさせない。最後くらい、一矢報いる。
「ずっと、言いたかったことがある。……本当はこれが…これだけ言えればよかったんだ。今度は人間ごっこだなんてせこい真似はしねえ」
曙光が射すような双眸が真っ直ぐに日本を見る。
「日本」
「…はい」
「愛してる」
魂が揺さぶられるような告白だった。何の飾りもない、けれど最大限の慕情が確かに詰まっていた。
「Ich liebe dich, Japan」
彼の母国語で大事そうに紡がれて、目の奥が熱くなる。本田菊ではない、呼ばれた私の名前。確かに胸の奥底が熱く喜色を示しているのに、気管が圧迫されたかのように苦しい。
彼は私からの言葉を求めてはいない。その望みは絶対に口にしない。ならば、私から言う。
(……わたしも、)
「私もあなたを――…っ、」
プロイセンの人差し指が内緒話をするように日本の言葉を止めた。
「ふってくれ」
「……え?」
つい先ほどの愛していると言ったときの滾るような熱情はもう消えていた。どこまでも冷静な色が日本を貫いている。
「あの女に言ったみたいに」
「あの女?」
「ひでえ奴だな。忘れちまったのか? アラベラだ。お前を愛した、可哀想なプロイセン人だ」
――私は生涯懸けてあなたを愛することはありません。
異国の娘に冷たく言い放った言葉を思い出す。
日本はぐっと拳を握り締めて、プロイセンを睨む。その烈しい眼差しを受けても涼しい顔で、プロイセンは笑っていた。
この男は自らの本当の望みを私によって切り捨てようとしている。
逆上と言っていいような激流が身体を巡った。ここまできて何でもないように笑っていられる男の鉄の理性や、どうやったって思い通りにならない世界、そして激情のままに無様を晒す自分。そういうすべてが頭に来た。
生涯懸けて愛する。それを口にした途端、それを覚悟した途端、私は地獄へ落ちるのだろう。気が触れんばかりの歳月の中、記憶の中で薄れていく男を想って苦しみ続ける。だからプロイセンはそれを決して言わせない。ましてや、そんなことは絶対にないのだという言質を取ろうとすらする。
気に食わない。それが正直な感想だった。わかっている。冷静じゃない頭では碌な思考は巡らない。彼の示す道が正しいだなんてことはわかっている。このまま直情に従って動いたら、遠い未来で後悔するかもしれない。それでも、私だって彼の望みを叶えたいのだ。愛するひとの本当の望みを。これから先の長い未来の苦しみと引き換えにしても。
何かが詰まったような喉で声を振り絞る。
「……わたしは、あなたを…」
――痛いのも辛いのも苦しいのも哀しいのも嫌だって思う。お前は違うのかよ。
いつかのプロイセンの言葉が脳裏を過ぎる。
(……ええ、本当に…嫌ですね)
この期に及んで、自分の保身を願う心も確かにあった。苦しみたくないからこそ、ずっと逃げてきたのだ。恋心すら認めずに。それでも。
「生涯懸けて…愛することを――」
プロイセンの目の色が変わった。怜悧な男は〝は〟ではなく、〝を〟と言ったことに気付いた。その先の言葉を予期して、プロイセンが手を振りあげる。
(……誓います、とは言わせてくれないのですね…)
「っ、ぐ…!」
口にするはずだった続きは痛みに呻く声に遮られた。背中が少し硬めのベッドの横に強く当たった。そのまま安っぽい絨毯の上に尻餅をつく。力加減などされないまま突き飛ばされて咳き込んだ。ベッドに手をつき、覆い被さるような形で私を見下ろした男がそんなに動いてもいないくせに息を弾ませている。歯を食いしばり、睥睨するような恐ろしい表情のはずなのに、朝焼けの瞳だけが泣きそうに揺らめいていた。
「馬鹿野郎」
小さく呟かれた罵倒が胸を締め付ける。
「……もう何も言うな」
近づいてきた端正な顔は、息がかかるくらい近くまで来たと思ったら上に反れた。額に微かに熱が触れる。紛れもなく親愛を示すキスだった。触れられなかった唇が熱を求めて微かに震える。
「悪かった。こんなことに付き合わせて」
嫌だ。彼はもう去るつもりだ。この部屋から。私の前から。そうして二度と現れない。
「ごめんな。やっぱ格好つけたいからよ。愛するひとの幸せを願うカッコイイ俺様でいさせてくれ」
そんなことを言って快活に笑った。歯を見せて無邪気に――のつもりであろう歪な笑み。
「……いや…」
あなたがそんな顔をするくらいなら、私などどうなったっていい。恋は二人で愚かになることだという。愚かでいい。この瞬間くらい理性など取っ払って、あらゆるしがらみから逃げて、そうして求め合いたい。後悔なら後でいくらでもするから。もう壊れたって構いやしないから。
「ッ、いやです…!」
手を伸ばしたはずなのに届かない。
「私はあなたを――…っ、!!」
言ってしまおうと思った。彼が立ち去る前に。――あなたを生涯懸けて愛する、と。
けれど、その言葉が喉を震わすことはなかった。急に電池でも抜かれた機械人形のように、私の身体は崩れ落ちた。落ちていく意識の寸前、傾いていく視界の中で立つあなたは泣いているように見えた。
壊れた人形のように崩れ落ちた日本の横髪を梳く。続く言葉を言わせないために強制的に意識を失わせた身体は、当然だが温もりがあった。
ごめん、と心中で呟く。ひどいやり方だが、直情的になっている彼に何を言っても無駄だと思った。あとで後悔するのは目に見えているのだ。本当に自分は酷い奴だと思う。勝手に振り回して、こうして苦しめて。だからこそ、これ以上は傷つけたくない。これは紛れもない本心だ。消えない傷を残して、ずっと苦しめばいいという残酷な情も本心なのだろうけれど。それでもやっぱり願いたい。幸せになってくれ、と。
「……ありがとうな、日本」
嬉しかった。自らの苦しみを犠牲にしてまで、俺の願いを叶えようと思ってくれたことが。そうまで想ってくれていると知って、俺は世界で一番幸せだって本気で思った。
視界がぼやける。情けないと思うのに、ひくりと喉が不様に揺れる。目の奥が熱い。鼻がつんとする。心臓が焼けるように痛い。
日本に触れていた指先に濡れた感触がして息を呑む。閉ざされた瞼の端から、つーっと零れた雫に息が止まった気がした。
「Ich liebe dich, Japan」
今一度、愛の言葉を送る。届いていなくたっていい。これはすべて俺の我が儘だ。
でもどうか、俺の愛するこの男が幸せになる未来を、と世界に向けて祈った。平和であればいい。この男の世界が。心が。そしていつか本当の幸せを掴んでほしい。
これもまた、紛れもない本心だった。複雑な情念の入り乱れる恋の苦しみも、もうじき呆気なく終わるのだろう。置いていくことしか出来ないことも大きな罪だろう。許してくれとは言わない。手っ取り早く忘れて、幸せを謳歌してくれ。
(続く)