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Daydream play:08
「Liebesträumeかよ」
耳に届いた旋律にギルベルトは苦く歯を噛み締めた。リストの『愛の夢 第3番』のロマンチックで美しい旋律がいやに胸の傷に沁みる。
「『おお、愛しうる限り愛せ』ですね」
コトン、とチムニーグラスをギルベルトの前に置いた男の言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「おや、どうしました?」
「…今は聴きたくねえっつーか」
「それはそれは……同郷の方の詩ではありませんでしたか?」
「ちげえ。正確にはヴェストファーレンだ」
「そうですか」
「……あいつが詩を投稿していた新聞を政府が弾圧したりしたっけな」
「よく覚えておいでで」
「覚えてるぜ、そりゃ。…まあ、事細かには覚えてはいられねえけど」
「皮肉ですよねえ」
「あ?」
「忘れることで苦しまずに済むのか、忘れていくことで苦しむのか…難しいなと思いまして」
「…苦しむくらいなら忘れてくれたほうがいいだろ」
ピアノの旋律が耳に痛かった。強く一筋に想う愛の詩が脳裏を駆ける。
――おお、愛しうる限り愛せ!
その時は来る その時は来るのだ
汝が墓の前で嘆き悲しむその時が
綺麗さっぱり忘れることが出来るならば、そのほうがいい。夜空に瞬く星のように、何年も先まで誰かの瞳の中で未練たらたらに尾を引いて光り続けるより、よっぽど。すべてを懸けて愛した先で、その愛するひとが苦しむというのなら俺は――。
「――…いや」
「はい?」
「そんな出来た奴いて堪るかよ」
ぐいっとグラスの中身を煽って、ギルベルトは忌々しそうに吐き出した。
苦しめばいい。俺を想って。そうしてずっと忘れないでいてほしい。俺という存在がいたことを。
ああ、本当にどうしようもない。矛盾した感情が綯い交ぜになっておかしくなりそうだ。これが正常な恋心だというのか。
――…正常かどうかって聞かれると難しいね。でも……
そういったものに詳しいと自称する旧知の友人は言っていた。
「……恋愛感情の中には狂気が潜んでいる、か」
本当にそうなのかもしれない。俺は狂気を滲ませた笑みであの男を見たのだろう。俺を見て怯えた表情をした姿が脳裏に焼け付いていて離れない。逃げるように駆けていった足音も、夢の終わりを告げるように寂しく鳴ったドアの閉まる音も。
「…今日はお仕事はなかったのですか?」
この店を父から受け継いだと言っていた男が静かな声で聞いた。このバーに通い続けている間に随分と色んな話をしたものだ。それももう終わる。きっと、俺はもうこの店に来ることはない。
「……ああ、そんな設定はやめた。やっぱスーツは堅苦しくていけねえ」
「そうですか」
「お前にも迷惑かけたな。もう終わりにすっからよ」
「迷惑だなんて。あなた様にお会いできたことは我が家の名誉として語り継ぎますよ」
「なんだそれ。馬鹿じゃねえの」
「ひどい言い草ですねえ」
クスクスと笑声を零す男と、その男の祖国そのものである男が重なって目を伏せる。
「祖国が幸せでなければ私も幸せだなんて思えません。協力するのは当然ですよ」
言葉の意味がすぐには理解出来なくて、男を呆然と見遣る。何でそんなことを言うのだろう。だって俺は絶対に――、
「――…あいつを幸せにはできねえよ」
そう、〝絶対〟に、だ。あいつが何を望んでいるか知っている。あいつが何を怖れているか知っている。知っていて、俺は残酷にも求めたのだ。
「おや、弱気ですね。かの偉大なあなた様ともあろうおひとが」
「…うっせ、ばーか。もういいんだよ。たとえ一夜だけでも充分だ。もうそれだけでいい」
マスターは切なそうに眉を下げたが、来客を告げた店の扉の先を見遣って笑った。
「まだ終わりにするには早いみたいですよ」
「あ?」
やけに優しく響いた声が鼓膜を揺らして、そんな声を発した男の視線を追って振り返る。そこにいた人物にギルベルトは目を見開いた。
「――っ、」
何かを言おうとして開いた口からは、碌な音が漏れなかった。俺は多分、その名を呼ぼうとしたのだろうに。
真っ直ぐにこちらに向かってきた男は少し息を切らせていた。急いで来たのだろうか。……俺のもとへ? ドクンドクンと速まっていく鼓動がうるさい。眼前に佇む男を呆然と見上げて呟いた。
「…きく」
その小さなギルベルトの声が空気を揺らした瞬間、息を切らした男の夜色の瞳から零れた雫を放心状態のまま見遣る。ぼたぼた、と絶え間なく落ち続けるそれが何なのか、すぐには理解出来なかった。この男の快楽に滲むそれは知っている。けれども、それは決して流れることはなかった。この男の強さを知っている。頑丈な精神力で幾度もの困難を乗り越えてきた強さを知っている。だから、信じられなかった。こんなふうに泣く姿なんて。
声は漏らしていない。ただただ、その頬に大きい雫を垂らしていた。子どものように泣き喚くことはないのに、幼子のようにぼたぼたと顔がぐちゃぐちゃになるほど涙を流すその様は、ひどい矛盾を孕んでいて現実の光景ではないような錯覚に陥った。
「よかった…」
小振りな唇が小さくそう漏らしたあとに、撓んだ。笑ったのだ。俺を見て。
その言葉が何を指してのことなのか、まるでわかりはしなかったが、涙の奥で揺らめいた夜色に滲む熱情を確かに見つけた瞬間、俺は男の手を取って駆け出していた。追いかけてくるように聞こえるピアノの旋律さえもが背を押してくれている気がした。
愛しうる限り愛せ。心を尽くせ。
あとほんの少しだけでもそれをお前が許してくれるのなら、俺はお前を愛したい。一日でも、一分でも、一秒でも、多く。
――やっぱりちゃんと伝えるべきだよ。
自分を愛の国だとのたまう男の電話口から聞こえた言葉が脳裏を掠める。
――〝 〟として。
俺は友人の声を振り払った。聞こえないふりをして。聞き慣れたその名前を知らないふりをして。
俺はギルベルト・バイルシュミット。もうすぐ呆気なく死ぬ一人の人間だ。
そう思い込まなければ、不様にも縋り付いてしまいそうだった。引っ張られるままに俺についてくる男に。そうして俺は情けないことに言ってしまうのだろう。ひとりのただの男として一等大切で、誰よりも幸せにしたくて、何よりも愛しい男に、「 」と。無様に、弱りきった姿で、縋り付いて。
――世界一幸せになってほしい男を地獄に突き落とす言葉を。
***
「やっぱりお前は…愛させてもくれないんだな」
ぽつりと呟いた声は誰に聞かれることもなく、冷たい空気の中に消えていった。怯えた表情で駆けていったあいつの足音はもう聞こえなかった。昨夜、あれほどに熱かった身体は今ではもう嘘みたいに冷え切っている。ひとときの夢だったのだと、そう俺に知らしめるかの如く。
「いてっ」
俯いた上体を起こしたときに背中がチェストに当たった。その拍子に降ってきた物体が当たって、反射的に声が漏れる。落ちてきたのは、チェストの上で倒れていたフォトフレームだった。それを手にしてぼんやりと眺める。写真の中央に写る自分の姿。それは確かに自分そのものなのに、まるで別人のように見えた。そして、自分の隣に映る老夫婦の微笑に胸がきゅっと締まるように痛むのはどうしてなのだろう。そこに写るのは所詮偽りでしかないというのに。
ブー、ブー、とバイブ音が響いた。音の出所に目をやればスマートフォンが光っている。きっと昨夜、熱に浮かされながら服を脱ぎ捨てたときに落としたままだったのだろう。無視しようとしたが、画面に表示された名前に緩慢な動きでスマートフォンを手に取った。
『Allo, ジルベール』
「……なんだよ」
『ちょっとあからさまに嫌そうな声出さないでよ。電話切りたくなるでしょ』
「じゃあ切れよ」
『おまえね…ったく、時差考えてこっちは仕事終わりの疲れた身体で電話してるってのに』
「…何の用だよ」
『そろそろ帰ってこない? お兄さん、もうお前の弟に睨まれるの耐えきれない』
「はあ? 何があったんだよ? この間電話で話したばっかだぜ?」
『お前さ、あいつに何て言って出てったわけ?』
「ちょっと旅に出てくる」
『……はあ。お前ってほんっと…』
「なんだよ」
『それで数ヶ月帰らないんだから心配してるんだろうが』
「でも電話で話してんだから、心配も何も…」
『あのね…顔が見られないし、どこにいるかも教えてくれないんだから不安にもなるでしょうよ。お前が甘やかして育てんじゃないの? 「兄貴の居場所を吐け」って殺されそうな顔で家に突撃される身にもなってよ』
「なんでお前のとこに行ったんだ、あいつ」
『お前、サラリーマンやってるうちにボケた? あいつとの電話で俺の話でもしたんじゃないの? そんで俺が絡んでると思ったんじゃない、お前の可愛い可愛い甘ったれの弟君は』
「…迷惑かけたみてーだな。すぐに帰るわ」
『ちょっとどしたの。お前が謝るとか気持ち悪い』
「うっせえな。人がせっかく下手に出てんだから、素直に受け取れよ」
『はいはい。…それで? もういいの?』
「お前が帰れっつったんだろ」
『大切な家族をないがしろにするなって言ったの。一端顔見せるとか、もっとマシな嘘つくとかさ。俺はお前が気の済むまでやればいいと思って――』
「もういい」
『え?』
「もう充分だ」
『…そう。まあ、こっち戻ってきたら慰めてやるって』
「……まだ何も言ってねえだろ。…なあ」
『うん?』
「俺のせいで傷つけばいいって思うのは正常なのか?」
『…正常かどうかって聞かれると難しいね。でも、お前んとこの哲学者も言ってるじゃない』
「あ?」
『〝恋愛感情の中には、いつも若干の狂気が潜んでいる〟』
「……でも俺はただあいつを――」
『お前は知らないだけだよ』
「え?」
『物語の世界みたいに綺麗なだけじゃないんだよ。お前は知らなかっただけだ。綺麗な愛しか』
「……そうか」
『まあ、白ウサギを捕まえられない子も現実にはいるってことよ』
「誰がアリスだ、誰が」
『傷心なかわい子ちゃんのためにお茶会でも開いてやるよ』
「余計なお世話だ」
『ねえ、ジル』
「うん?」
『傷つけばいいって言ったけど、お前だって傷つく覚悟だったんでしょ。辛いなら辛いって言えば? お兄さんは別に言い触らしたりしないから』
「…うそつけ。明日には世界中に広まってんだろ」
『ちょ、どんだけ信用ないわけー? ずうっと相談乗ってあげてたのに。誰にもひとっことも漏らしてねーだろうが』
「…ああそうだったな」
視線を落とした先で左手についた傷が目に入る。そこに唇を寄せていくと視界が歪んだ。
「……俺はよ、ただ…」
『ん?』
「……あいつを」
『うん』
「ッ…一度でいいから愛してみたくて…」
『…うん』
「それ、で…満足だって…っ、おれ、」
『うん』
「でも…だめだ、全然満たされねえッ…もっともっとって…」
俺は幸せだった。これまで歩んだ道に後悔はない。これが俺の運命なら受け入れる。そう思っていたのに。何でこんなにも胸が痛いのだろう。どうしてこんなに馬鹿みたいに欲が滲むのだろう。どうして、愛する男ひとり救えやしないのだろう。
「……おれ、おまえになりたい」
『ッ、』
「領地がほしい」
『…ジル』
「民がほしい」
『ねえ』
「…いやだ、死にたくない」
『っ…ジルベール、』
「この先ずっとあいつを愛してやりたい」
『ねえ、』
「あいつが死ぬまでずっと」
『ねえ聞いて、ジル』
「いやだ、おれ、おれッ」
『――プロイセンッ…!!』
「っ、ふらんす…」
『……生きてるでしょ』
「でも…傷、が」
『だから何』
「…………」
『やめてよ。お前らしくない』
「…俺らしいってなんだよ。プロイセンはもうどこにもね――」
『お前だよ。お前がいる。お前はプロイセンだよ』
「っ…」
『みんな知ってる、お前のこと。俺になりたいって? 馬鹿なこと言うなよ。散々お兄さんのこと冷めた目で見てきた奴が何言ってんの。お前がプロイセンじゃなきゃ、あいつを愛したりしなかったよ。それでもいいの』
「……やだ」
『そうでしょ。大丈夫だから泣くなって』
「なに言ってやがる…っ、俺様が泣いたりするわけねーだろ!」
『はいはい。そうだよね。偉大なプロイセン様が子どもみたいにぴーぴー泣いたりしないよね』
「うっせー髭! 変態!」
『…あのね…もう! 可愛くないんだから』
「ああ゛っ?」
『凄まないでよ、ったく……ねえ、』
「あ?」
『諦めるの?』
「……あいつを傷つけたいわけじゃねえし」
『ふーん? 諦めるんだ?』
「だからッ、」
『欲しいものは奪ってきたんじゃないの、お前。血塗れになって、世界中から嫌われて、そうやって生きてきたんじゃなかったっけ』
「……それとこれとはちが――」
『どう違うの。何度も言わせるな。お前はプロイセンだろ』
「…………」
『…ごめん。俺が間違ってたかもしれない』
「あ?」
『お前がさ、俺に相談してきて…こんなこと提案したわけだけど』
「…ああ」
『やっぱりちゃんと伝えるべきだよ。〝プロイセン〟として』
毅然とした強い声音が鼓膜を貫く。情けないことに、その強さが怖ろしかった。だってそんなことやったって無意味なのだ。〝俺〟の告白はあいつに届きやしない。
「……あいつは聞いてくれやしないだろ。〝プロイセン〟の告白なんて」
『…うん。俺もお前の話聞いてそう思ったから、お前の望みを叶えるならこれしかないって思った。でもさ…何度も言うけどお前はプロイセンだ。ギルベルトとしてあいつを愛すだけで満足なの』
「…でも」
『もう少しだけ勇気振り絞ってくんない。あと一日…ううん、あと三日!』
「は?」
『帰国遅らせて』
「…こっちでどうしろって言うんだよ」
『あのバーにでも通ってろよ』
「はあ?」
『とにかくまだ帰ってくんなよ』
「は? ちょ、おいフランス?」
プツッと呆気なく切れた電話にぽかんと口を開けて呆然とした。
「……何なんだよ」
繋がらなくなったスマートフォンを放り投げて上を仰ぐ。これ以上どうしろって言うんだ。あいつは俺から逃げていったというのに。
――あなたもそうでしょう?
――〝国〟なんですから。
いつかの日、あの男はそう言った。踏み込ませまいとする頑丈な壁の前で俺はただ立ち尽くし、誤魔化して笑うことしか出来なかった。欲が滲んだのは、あれから百年近く経ってからだった。国じゃなくなった俺なら許されるんじゃないか。お前は許されなくても俺は。
先までの電話の相手が脳裏を過ぎる。あの愛の国ならもっと上手にやれたのだろうか。もっと上手くあいつを愛してやれただろうか。く、と自嘲に喉が鳴る。
ほらな。俺にはできやしないんだ。あいつの言った通り、戦って奪って壊して、そうやって生きてきたから。上手く愛してやることすら出来やしない。
本当の望みは叶わなくたってよかった。叶えたいとは思っていない。ならばせめて、と理性からはみ出した欲が勝手気ままにお前へ向かった。
「…あいつは愛させてもくれないんだぜ?」
ほんと、ひでえ奴。自分を差し置いてそう罵った。そうしなければ張り裂けそうな胸の痛みを知らないふりなど出来そうになかったから。
(続く)