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Daydream play:07
会議終了を告げる低い声に、室内は一気に騒がしさを増した。まあ、会議中ですら騒がしかったけれども。ようやく終わったと伸びをしたとき、視界に入った姿に微かに呼吸が乱れた。今となっては珍しいスーツ姿のその男は、その類稀な色をした瞳を遠くにいる極東の島国へと向けている。けれどそれも一瞬で、男は隣に座る太陽の国が仕掛けた会話に少年のような笑みを浮かべた。
左胸の辺りを押さえる。その辺が痛くて仕方がない。押さえたところで痛みが和らぐことはないが、そうでもしないと変な声でも漏らしてしまいそうだった。
――相談したいことがある。二人きりで話せないか。
そんなことを言った旧友は、およそ似つかわしくない真剣な顔と声音で、その相談内容などまるで想像がつかなかった。結果、思いもしなかった話の内容と聞きたくなどなかった嫌な告白に、俺の心は澱むこととなった。何とかなる、とかそんな簡単な言葉で慰められないような現実に憎しみでも抱いてしまいそうだ。
――俺はただ、あいつを……
あの声が耳にこびりついていて離れない。聞いているこっちが息苦しくなるくらい切々としていて、それでいて最大限の愛情を詰め込んだような声。
恋なんて身勝手なものだ。勝手に惚れて勝手に苦しむんだから。我が儘じゃない恋なんてそうそうあるもんじゃない。俺のこと見て、俺のこと好きになって、俺のこと愛して。そうしてくれないと苦しいから、辛いから、だからお願い、俺のことを見て。そんな風に思うものだろ? そういうものだろ? それなのに、あいつはそんなこと一言も言わなかった。あいつの望みの中にそんな我が儘ひとつもありはしなかった。あいつが望んだのはたった一つだけだった。
やめてよ、と言いたかった。どうせ話すなら、もっとわくわくするような、高鳴るようにドキドキするような、そんな恋の話を聞かせてよ。そうしたら俺は、恋に慣れないお前を揶揄って笑ってやって、そうして愛の国としてアドバイスしてやるのに。
「フランスさん」
突然かけられた声に心臓が跳ねる。思考の波を切り裂いて聞こえた声はあいつの視線の先にいた男だった。
「……日本」
闇色が俺を見上げている。女の子みたいに小柄な身体に鴉みたいな色を纏った男の、その無感動な表情が怖いと昔から思っていた。何を考えているのかわからない、人形みたいなそれが正直気味が悪いと思っていた。だからこそ、彼と話す内容は趣味のことであることが好ましかった。そういう話には、まるで別人のように表情を輝かすから。
「なに? お兄さんに何か用?」
その言葉に目を丸くした日本に首を傾げる。
「漫画、お貸ししますと話していたではないですか」
ブラウンの何の可愛げもない紙袋を持ち上げて日本が言う。
「…ああ」
メッセージアプリでそんな話をしていた。今度アニメ化する作品の原作が読みたいと言った気がする。
「メルシー、日本。あらすじ見た感じ面白そうだったからさ」
「面白いですよ。フランスさんも気に入ると思います。アニメ見てから読むのでもいいですよ。返却はいつでも構いませんので」
「うん、ありがと。お前のおかげで楽しいオタクライフが送れるよ」
「ふふ、私も同じ趣味の仲間がいて楽しい限りですよ」
そうやって笑ってはいるのに、やはり人形みたいに見えるのだ。精妙な人形が微笑んでいるみたいに。もし、この世界を驚かすことをやめない国が精巧なアンドロイドでも開発して、この男そっくりのものが造られでもしたら俺は気付かないのかもしれない。その心なんてない人造人間と会話しても、今まで通りに話してしまうかもしれない。それほどに、この男の心が見えたことなんて今までなかった気さえする。
お前に心はあるの。そんな馬鹿げた質問を投げかけたら何て答えるのだろう。彼は、そんな問いに首を傾げるのだろうか。不思議そうな顔で言うのだろうか。いつかの日、この島国へ想いを寄せようとした男を突き放したみたいに。心など、そんなものないと言い切るだろうか。〝国だから〟と、そんなふうに嘯いて。
――あいつ言ってた。『あなたもそうでしょう? 国なんですから』って。
はは、と寂しさを伴う苦笑を漏らした男は、くしゃりと剣の煌めきみたいな色の前髪を握りつぶして泣きそうな目で俺を見た。
――なあ、どうすりゃいい? どうすればあいつのこと…
駄目だ。あの男との会話を思い出せば出すほど胸の痛みが増す。思わず、また胸もとに手をやって、ぐしゃりとシャツを握り締めていた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「体調が悪いのでは」
日本が心配そうに俺を見ている。
ねえ、その表情は本物なの? 心配するっていう体を装っているだけじゃないの。そんな酷い感情が湧き上がってきて、慌てて首を振った。
「…いや、うん、大丈夫。…あのさ」
「はい?」
「お前、ぷ――」
「フランス!」
俺の声を遮ったそれに慌てて口を噤む。俺は今何を言おうとしていたのだろう。何を言えば、聞けば、幸せな結末へと辿り着けるというのだろう。
ぐっと肩を抱かれて香った見知った陽だまりの匂いに、俺を呼んだのが誰なのかようやく頭が理解した。
「…なあに、スペイン。お兄さん、日本とお話中だったんだけど」
「ああ、日本いたんや。フランスの後ろからやとちっさくて見えんかったわ」
もの柔らかな声音とは違って随分と酷いことを言う。しかし、驚くことにスペインに悪気など一切ないのだ。日本もそれはわかっているのだろう。僅かに苦笑しただけで何も言わなかった。
「じゃあ日本も行くか?」
「はい?」
「何の話?」
「なにって…会議終わったら飲み行こなって言ってたやん」
「ああ、そういえば」
「忘れとったん? ひどいやっちゃなー! なあ、ぷーちゃん」
当然気付いていたが、スペインの横にはプロイセンがいた。弟の補佐という形で珍しく会議に出席していた男は、ここでようやく会話に入った。
「フランスは俺たちより日本を選ぶってよ。今日は二人寂しく飲もうぜ、スペイン」
「うわー浮気だなんて酷いわ、フランス」
「何だよ、それ」
笑声交じりのなじり合いに、日本がクスクスと笑みを零した。面白そうな表情。それが嘘だとは思えないけれど、それでもやっぱり温度を感じない気がするのは俺の単なる気のせいなのだろうか。
「フランスさんを引き留めてしまい、申し訳ありません」
そう言って去っていこうとする日本を止めたのはスペインだった。
「え、日本行かんの」
飲みの誘いをしたのは確かにスペインであるが、本気だったらしい。俺たち三人プラス日本、というのは珍しい、というか初めてだ。そんなこと考えもしないのだろう、スペインは純粋にそこにいた日本を誘っただけだ。正直やめてほしかった。プロイセンと日本の二人がいる空間で飲むのはしんどい。俺が勝手に胸を痛めるだけのことだが、勘弁してほしい。ちら、と横目で見たプロイセンは普段と何ら変わりない表情で、あの夜の会話で見せた迷い子のような心許無さなど微塵もありはしなかった。
「すみません。アメリカさんと約束がありまして」
そう申し訳なさそうに頭を下げて去っていく日本の背をぼんやり追う。その断り文句が本当か嘘かなどどうでもいいが、日本は一度もプロイセンに視線を向けなかった。俺やスペインには向けていたというのに。
プロイセンを見れば、日本の残像を追うように視線を彷徨わせていた。赤と青の交じった瞳が微かに揺れたのを見て切なくなる。俺の視線に気付いてこちらを見たプロイセンが、困ったような、それでいて寂しそうな切なそうな顔で自嘲するように笑うのを見て、俺は眉を下げた。視線を落として見えた彼の右手に貼られた大きい絆創膏に気管が圧迫されたように息苦しくなる。
「フランス?」
名を呼ばれ顔をあげれば、スペインもプロイセンも「早く行こうぜ」と子どもが秘密基地にでも誘うみたいな顔で笑っていた。
なあ、知ってるか。俺はお前のそのころころ変わる表情が好ましかった。戦場を駆ける鬼神のような姿じゃなくて、ドイツ軍人らしい厳しい表情じゃなくて、楽しければ誰より大きい声で笑って、寂しいと素直に言えないまま子どもみたいにぶすくれて、弟が可愛いとだらしない笑顔を見せて、ビールが美味いと頬を緩めて、ひでえって目尻に涙を浮かべて、そんな風に人間のように心を表すところが好ましいとずっと思っていた。ああ、こいつは全力で生きているんだなって思えたから。人間のような〝心〟を大事にしているんだなって思ったから。子どもみたいにくるくる変わるその表情は見ているだけで楽しかった。
それでも俺は、お前のあんな息苦しくなるような顔を見たいわけじゃなかった。昔より大分平和になった世界で、変わらずにいられるのならこのままがいい。このままずっと変わらずに。それが夢物語だと知っていて、それでも俺はそれを信じる。
歩き出した二人の背を追いかけて一歩足を踏み出してから、一度だけ振り返った。日本の残像を追うように。誘いを断った言葉通り、アメリカと会話をしていた日本の視線が俺を通り過ぎた辺りに動いたのを見て瞠目する。その目は確かにプロイセンの背を追ったと思ったけれど、やはりその表情は人形のようなままで何の変化もしなかった。
ねえ、お前に心はあるの。
そんな馬鹿げたことを今一度胸中でぽつりと漏らす。あるでしょ。あるに決まっている。そんなの当たり前でしょ。お願いだ。国だから、だなんて突き放してやらないでよ。あいつの望みを叶えてあげてよ。愛してやれ、だなんてそんなこと言わないから。あいつはそんなこと望みやしなかったんだから。お願いだから許してあげてよ、あいつの心を。
「ふーらーんーす! はよせな置いてってまうでー」
「いやスペイン、あいつ置いてったら誰が金払うんだよ」
「あ、そか。じゃあ待つわ」
「……ちょっと待って。何で俺が奢ることになってんの!?」
不本意な立場になることを阻止すべく、慌てて二人のもとへ駆ける。悪戯っぽく笑う男に抗議しながらも、俺はただ只管に願っていた。
プロイセンが言っていた「最後の望み」が叶うことを。俺は願うことしか出来ないから。どうか、その望みが太平洋に浮かぶ島国へと届くようにと。
フランスはそんないつかの光景を思い出しながら、外套を乱雑に羽織って外へ飛び出した。先まで繋がっていたスマートフォン越しに聞こえた言葉に心臓は冷え切っていた。
泣いていた。泣き声だった。敗北などあり得ないというように不敵に笑い、自信に溢れ、血に塗れ、恐ろしいほどの強さを纏うその様を知っている。身をもって知っている。そんな男の悲痛な声はあまりにも切ないものだった。
ごめんね、日本。足を忙しなく動かしながら胸中でそう零す。
俺はお前ともそれなりに仲の良い友人だと思っているんだけど、あいつとお前を比べたら、やっぱりあいつを選んじゃうかな。ご近所だし、長い付き合いだし、さ。だから許してくれない? 俺、お前の顔見たら殴っちゃうかもしれないんだけど。
Daydream play - 愛しうる限り
視線を落とした先の資料の文字が霞んだ。嫌でも瞼の裏に焼け付いて離れない男の姿が、じくじくと胸を刺激する。
「大丈夫ですか? ひどい顔をしてらっしゃいますが」
「え? いえ、あの…ちょっと最新作のゲームを徹夜でやっていて…」
曖昧な微笑を浮かべつつ、心配してくれた部下の顔を見返して口を噤んだ。やけに真剣な眼差しが日本を貫いている。
「…この間のお話なのですが」
「この間、ですか?」
「結婚の話です」
「…………」
「嘘を吐いておりました。お許しください」
「はい?」
「縁がないだなんて言いましたが、私は意図的に避けてきたのです。恋愛事から」
突然の話に、それも聞いてもいないことを話すというのは不自然だったが、寂しげに微笑む伊藤の顔が自分のそれに重なった気がして何も言えなかった。
「昔…高校生のときに好きな女の子がいたんです。好きと言っても、まあ子どものそれです。笑顔が可愛いとか、守ってあげたいとか、そういう…。いつかは告白しよう、きっと彼女は私のことなど何とも思ってないだろうけど卒業する前までにはって、そう思っていました。今は見ているだけで充分だ、見ているだけで元気をもらえるような陽だまりみたいな彼女の笑顔を遠くから見ているだけで……そう思っていました」
その甘酸っぱい思い出を脳裏に描いているのか、優しく微笑を浮かべて話していたのに、それは途端に色を変え、何の情も浮かんでないような冷たい表情に変わった。
「私はその頃の自分を殺してしまいたい」
「え…」
「彼女は卒業を迎える前に命を絶ちました、自分の手で」
息を呑む。
冷たい機械のような声音だった。きっと彼は、そうしなければ真面に話すことなど出来なかったのだろう。
「聞いた話では家庭内で問題を抱えていたといいます。彼女は学校ではそれを微塵も表に出さず、笑っていた…どうして気づいてあげられなかったのか、どうして見ているだけで満足だなんて嘯いてたのか……どんなに後悔したってしきれません。告白をしたからって何かが変わったわけではないかもしれない。それでも、自分を好きだと思う人間がいたってことは教えてあげられたのに」
少なくとも、愛される喜びは知ることが出来たのかもしれない。
「辛いのは…この頭が簡単に彼女を忘れていくことです。時の流れは残酷ですね…。慣れていくんです。あんなに辛かった喪失に慣れていく…容易く、慣れていくんです……あの子の声とか瞳の大きさとか唇の形とか、どれくらいの身長差だったとか…どんどん思い出せなくなっていって」
常ならば温かさに満ちた瞳が冷たく日本を見据えた。
「忘れていくんです」
喉もとに刃でも突き付けられているかのような気持ちだった。ひやりと冷たいものが背筋を駆けるのに、脈は速さを増していく。
「私はそんな自分が許せない。…ねえ、祖国様」
「…………」
「私のことを何百年先までも覚えていると言えますか」
「……当たり前です。忘れるはずが…ないじゃない、ですか…」
語尾が小さくなっていく。
本当にそうだろうか。彼のことを何百年先、私は思い出すことがあるのだろうか。髪の色、顔の形、瞳の色、声、交わした会話。私はこれまで関わった数多の人たちを覚えていると言えるのだろうか。彼は言った。少しずつ忘れていく。あれほど辛かったのに、容易く慣れていくと。
「あなたも忘れていくのでしょう? そうして苦しむんです。喪失に嘆き、己を恨んでしまう」
「……喪失」
「どうして0か100かでいられないんでしょうね。どうせ忘れてしまうのなら、綺麗さっぱり記憶から消えてほしいと、そんな酷いことを何度思ったか…。そうすれば、私はこんなにも胸を痛ませずに済むのにって。ひとつひとつ、あの子の面影を失っていってしまうのに、心からその存在が消え去ることはない。そうやっていつまでも引き摺ってしまうのなら、この苦しみから解放されることがないのなら、どうして…隅から隅まで全部覚えておかせてくれないのか、と…」
悲痛な声音だった。私の知る彼とは別人のようだった。もしかしたら皆、こんなふうに隠し持っているのかもしれない。表面からでは決して見えないけれど、確かに在る癒えない傷を。
「私ですらこれほど辛いのです。あなたはもっと辛いはずだ。いいんですか?」
「え…?」
「あの人を失って…そしてその喪失に慣れていく自分を許せるのですか? どうせ綺麗さっぱり記憶から抜け落ちることがないなら、絶対に忘れないようにその人のすべてを一番近くで見て感じたほうがいい。例えそれが深い傷を負うことになったとしても。傷は深いほうがいいんです……痛むたびに思い出せるから。後悔してからでは遅いと、私は思います」
「あの人…?」
思考がついていかなかった。彼は何の話をしているのだろう。……誰のことを、言っているのだろう。
茫然と呟く日本に、伊藤はハッとして苦い顔で頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました。申し訳ありません」
まだ上手く働かない頭のまま緩く首を振る。彼は気まずそうにしながらも微苦笑して続ける。
「そういえば、ドイツ産のフレーバーティーを頂いたんです。お淹れいたしますね」
「え?」
「お土産にもらったんですよ。知り合いの――ドイツ人に」
ドクンと一際大きく鼓動が鳴った。
「……あなた、」
意味深な顔で微笑む男にいろいろと合点がいった。この間の会話も今の話も、偶然したわけではないのだ。どういう経緯かなどまるでわからないが、彼はあのひとと――。
――バタンッ…!
突如響いた音に驚いて二人して振り返る。
「困ります! 祖国はまだ仕事中で――」
「はいはい、わかってますよ。俺もね、仕事ストライキして遥々空を飛んできたの。ってか、ここセキュリティやばくない? 平和ボケも大概に――あ、いた」
視界に入ったハニーブロンドに目を見開く。
「フランスさん!?」
「よお、日本」
唇を撓ませて片手をあげて応じるフランスは普段と変わらないが、チャロアイトのような瞳だけが少しも笑っていなかった。
「ちょっと顔貸せよ」
「え…」
どこぞの不良少年のように言い放ったフランスを日本は呆然と見返した。
有無を言わせない雰囲気を纏うフランスと、「これから丁度休憩なのでご存分にどうぞ」と言った、これまた目の笑っていない部下に見送られて部屋を出た。ここでいいや、とフランスが立ち止まったのは自販機と簡易的なソファの置かれた休憩スペースだった。
振り返ったフランスが強い眼差しで日本を見遣る。怒気のような空気が辺りに渦巻いていた。
「ねえ」
「…はい」
「あいつと会ったんでしょ」
「あいつ…?」
「ジル…――ギルベルト・バイルシュミット」
「っ、」
喉が息を吸うのを一瞬やめた。その名が齎す様々な情と、フランスがわざわざそのような言い回しをすることに対しての恐怖で身が竦む。
「……ぎる、べると…」
「そう。ポツダムの小さい家に生まれて、家族は父母、それから弟の四人家族。母親は専業主婦、父親はギムナジウムの教師。溺愛している弟は…何歳だって言ってたっけ。ギルベルトは今二十七。医療機器メーカーの結構有名な企業に勤めていて、今はこっちに出張中。知ってるでしょ?」
極度に冷えた冷たい水でもぶっかけられたかのようだった。足の爪先から髪の先までが一気に熱を失くした気さえする。
ギルベルト・バイルシュミット。行きつけのバーで知り合ったドイツ人。高級バージニア葉を使用した煙草を嗜み、カクテルを口にしながらもやっぱりビールがいいと言う。弟の話を愛おしそうに紡ぎ、その振る舞いからは想像つかないような繊細で情熱的なピアノを奏でて…――違う。
違うだろう。彼は、あのひとは。
日本は色を無くした顔でフランスを見た。
「……ろ……く…は…」
「なに?」
「っ、プロイセン君はッ…!」
ぐ、とフランスが息を詰めた。日本が彼の胸元のシャツを強く掴んだからだ。
「プロイセン君はどこにいるんですッ!?」
フランスが歪に唇をゆがめ、日本を冷めた目で見る。
「プロイセン? なに急に」
「…なに、言って……だってあのひとは…」
「プロイセンが何? あいつのことなんてお前に関係ないでしょ。別に仲良くなかったよね? 俺はお前ともあいつともよく会ってたけど、お前がプロイセンの話題を出したことなんて一度もなかったもんね」
「ッ…でも、あのひとは私の師で――」
「昔の話でしょ。たった一瞬の交わりしかなかったんじゃないの。あいつがどうなろうと、お前はこの先簡単に生きていけるだろ。…それに、」
胸に渦巻く怒りとも苦しみともつかない感情をフランスは抑えることが出来そうになかった。わかっている、本当は。こんなふうに日本を責め立てることが間違っているなんてことは。それでも勝手に口は動いた。理性からはみ出した情念が身勝手に動く。ほら、心は確かにあるよ、俺の中に。制御なんて不可能なそれは確かに在る。だってこんなにも切ない気持ちになる。苦しい思いに駆られる。お前だってそうだろう?
「プロイセンは」
言っていいことではないとわかっていた。それでも口は止まらなかった。俺は最低だ。俺は今、お前を傷つけたくてしょうがない。お前の本当の心が見たくて。
「……――もういないだろ」
周囲の温度が一気に下がり、色すら失くした気がした。しん、と降りた沈黙の中、壁にかかったやけに文字盤の大きい時計の秒針だけが響いていた。それが鬱陶しく感じて眉を寄せる。息を詰めたような、今にも呼吸をやめてしまいそうな日本の声なき声を邪魔している気がして。
フランスは胸もとを掴む日本の手を外した。日本の手は力をなくして、だらりと重力に従う。数歩後ずさった日本は俯いた。その身体が震えているのを見て眉を下げる。日本の肩にそっと触れる。びくりと肩を揺らし、ゆっくりとあがった日本の顔が絶望に染まっているのを見て深く息を吐いた。
「……それがお前の本心?」
見下ろす日本の瞳は光ひとつない闇色に染まっている。その様は今までよりよっぽど人形のように機械のように温度がなく見えるのに、そこには確かに心が見えた。今にも〝心〟を失くそうとしている男の姿が。
「…だからか」
頑なに、あいつの心を、そして自分自身の心を否定し続けたのは。
「失くしてしまうと思ったんだね」
大切な心を。長い長い歳月を生きていく力を。それこそ本当に情のない機械にでもなってしまうように。お前はそこまであいつのことを――。
ああ、この男は簡単には生きていけないのだ。あいつのいなくなった世界でなんて。
「……いやです…プロイセンくんに会わせてください…」
外れたはずの手が今一度フランスのシャツを掴む。先よりよっぽど弱々しい力で、縋り付くように。
フランスの言葉は日本の耳には届いていなかった。日本はただ、色を失った世界でたった一人だけを只管に求めていた。
(続く)