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Daydream play:06
意識が急激に浮上した。薄く目を開いた先は見知らぬ光景が広がっている。落ちそうになる瞼を何度か瞬きをして、意識が明瞭になるのを待った。長い夢でも見ていたような気分だった。背中が温かい。腹あたりを何かに拘束されている。背から包むそれが冷たい空気から守るように覆っている。足に絡まる素肌も冬とは思えないほど温かった。そこまで思って弾かれたように目を開いた。ぼんやりしていた意識が殴られた衝撃のように一気に鮮明になる。
片肘をつくようにして上体を起こした。腹のあたりに絡まっていた腕は呆気なく離れて、ベッドに上にぽすんと落ちた。恐る恐る振り返る。あ…、と思わず漏れた声は思いの外室内に響いたが寝台に沈む男には届かなかったようだ。
生命を司る血のような、それでいて朝日を運んでくる空のような稀有な瞳は今は見えない。髪と同じ銀の睫毛と共に瞼が覆っている。カーテンの隙間から射し込む陽の光に照らされて煌煌と輝きを放つ白銀は、夜半に降り積もった雪でも見ているかのようだった。抜けるような白い肌は光が当たれば今にも透き通ってしまいそうだ。智の優れた獣のように、はたまた世界の頂点に立つ賢者のように怜悧さを纏う顔の男は、こうして寝台に横になっていると子どものように幼く見える寝顔を晒していた。だが、射し込む光に照らされた類稀な色を纏うその姿は、まるでこの世のものとは思えない神聖さを湛えている気がしてぞっとした。語り継がれるおとぎ話にでも出てきそうだ。硝子の柩に入った白雪姫。たまたま通りかかった王子が死体にも関わらず恋をしてしまうほど美しいひと。
怖かった。震える手を彼の口もとへ持っていく。整った高い鼻梁の鼻からも桃の実のような洗朱の唇からも、確かに呼吸を感じた。生きている。は、と詰めていた息を漏らして安堵した。生きているなんて、そんなこと当たり前だろうと心中で己を嗤いながら。
逞しい胸を飾る鉄十字が呼吸と共に上下した胸もとを滑る。
「……ぷろ……くん…」
呼んではならぬ〝名前〟は、殆ど音になることなく冷えた空気の中に消えていった。
まだ、どこか夢見心地の中にいた。身体に嫌なべたつきなどがないのは、きっと彼が清めてくれたからなのだろう。それでもシャワーを浴びたくて、知らない部屋の中で勝手に浴室に向かった。冷たい水でよかった。こんな冬の日に水を浴びるなど自殺行為だが、そんなもの私には関係ない。危険だと思った。これ以上、〝彼〟の傍にいてはいけない。早く夢から覚めなければ。例え、その先にどんな苦痛が待っていようとも。
身体が麻痺しているかのようだった。冷たい水を浴びても特に何も感じない。あの男に触れられれば、あれほどに一々反応したというのに。浴室の鏡に自分の姿が映っている。身体中につけられていたはずの痕はほとんど消えていた。微かに見えるものはあるものの、それもすぐに跡形もなく消え去るのだろう。無意識に僅かに残った痕の上に爪を立てていたことに自嘲してシャワーを止めた。
寝室で脱いだ服は乱雑にランドリーボックスに放り込まれている。他は玄関から点々と散らばったままだった。それを緩慢な動きで身に着けながら部屋を見渡す。白のカーペットに黒のテーブル。その上には灰皿と、ギルベルトがバーでも嗜んでいた煙草の箱があり、飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルも置いてあった。小さめのテレビまであり、狭いキッチンもここに誰かが住んでいることは明らかなほどの生活感があった。ギルベルトは日本にいる間ここで生活していたのだろうか。ホテルではなく、わざわざ部屋を借りて?
ドクドクと心臓が嫌なふうに鳴り始める。
――ドイツの本社からの出張で…
いや、あれはそういう設定だ。彼だって言っていた。ここは空想の世界なのだから、と。
テーブルの上にネックストラップのついたカードホルダーが無雑作に置かれていた。それが何か気になって手を伸ばしたとき、背後から掻き抱くように逞しい腕が菊の身体に絡まった。
「ッ…!」
思考が完全に他所へ飛んでいたからか、まったく気づかなった気配に背後から突然襲われて心臓が一瞬止まった気がした。ぎゅうっと強い力で腹に回る手はもちろんギルベルトのものだ。
「帰っちまったかと思った」
耳もとに寄せられた唇が紡ぐ寝起きの掠れた声はやけにセクシュアルに響いて、それだけで腰に甘い痺れが駆ける。
「…まさか。黙って帰ったりしませんよ」
「うそつき」
「っん…」
冷たい返答と共に首もとに小さな痛みが走った。
彼の言う通りだ。こうして彼自身の腕で拘束されなければ、私は何も言わずにこの部屋を出ていっていただろう。私の誤魔化しなど嘲笑うように、男は消え去ったはずの昨夜の痕跡を上書きするように鬱血の痕を刻んだ。
絡まる腕の強さが増して息が詰まる。身長差の所為で覆いかぶさるようにして背後から襲う熱の強さに押されて数歩足が動いた。逃げるなとでも言うように、さらに抱く力が強くなる。力加減なんてされていない腕の枷に、さすがに身体が限界を訴え始めた。抗議するために腹に回された手に触れる。そこで己の指先が感じた微かな凹凸に、びくりと反射的に手を離した。恐る恐る視線を下に向ける。男の左手にははっきりと傷がついていた。獣にでも噛み付かれたような痕。歯列の形で点在した傷。その周りは流れた出た液体をそのままにしたように、血が赤黒くこびりついていた。それは紛れもなく昨夜菊がつけた傷だ。
(……どうして…)
それが薄まった痕なら何の問題もなかった。しかし、その傷痕は今し方つけられたかのように色濃く残っていた。なんで、という言葉だけが脳裏を駆けて頭は混乱して碌に何も考えられなかった。痕がまざまざと残るほど強く噛んでしまったとしても、それは成人男性ひとりが出せるほどの力に過ぎない。ナイフで刺したわけでも、刀を振り翳したわけでもない。噛み傷だ。血は流れたとしても深く突き刺さったわけではない。〝私たち〟の治癒能力は人間のそれを遥かに上回る。ましてやこんな〝国〟とは関係なしについた傷など、すぐに癒えるはずなのに。男の左手には、まるで痕になるのを躊躇っているかのような傷がくっきりと刻まれていた。
ぁ…、と怯えたような声が漏れた。腹に絡まっていた腕が上昇する。その武骨な手が小さな音を漏らした唇をなぞった。
「菊」
耳に直接吹き込むように〝名前〟を呼ばれる。
視界の端に黒のテーブルと正反対に存在を主張するカードホルダーが映った。数歩進んでいたためにその中身が目に見えた。
IDENTIFICATION CARDと書かれた左下に彼の顔写真がある。その横には桁数の多いナンバーがあり、その下には。
『俺、最近日本に来たばっかでよ』
『来たばかり…?』
『おう。仕事でな。ドイツの本社からの出張』
『……どのようなお仕事で…?』
『医療機器メーカー』
最初に会った日の会話が蘇る。
カードの「氏名 ギルベルト・バイルシュミット」の文字とその下に見知った医療機器メーカーの社名のロゴが記されているのを見て、弾かれたように男の腕の拘束から逃れた。
振り返る。急に強い力で押された男が少しよろけた状態で目を丸くして私を見ていた。そこにいるのは紛れもなく私の知る容姿の男なのに、屈強な肉体を持つ彼が簡単によろけた姿に動揺して後ずさる。
「菊? どうしたんだよ」
不思議そうに首を傾げて近寄る男から逃げるように、足は下がっていく一方だった。背中に冷たい感触が当たる。ベランダに続く窓だ。逃げ場を失った私は簡単に男に追い詰められた。さらり、と横髪を梳かれる。その手には今にも再び流血しそうな傷があった。呼吸が乱れる。得体の知れない大きな恐怖に襲われているような気分だった。情けなくも足が震えそうで、立っている場所が揺らめいている気さえした。
「菊?」と今一度呼ばれてびくりと肩が跳ねる。視界の端に映る社員証から逃れるように俯いた。視界が白い肌で埋まる。上には何も纏っていない男の露わになっている胸あたりに視線を漂わせた瞬間、息が止まった。そこに鉄十字はなかった。
「………れ…」
「? なに?」
ぐっと顎を持たれて上を向かされる。目に映るのは、昨夜一緒に熱に溺れた男の姿。感じたことのないほどの情念の数々に襲われた。苦しかった。痛かった。辛かった。そして。
幸せだった。なぜならそれは、この男が私の――愛したひとだったから。
断じて認めたくなかったそれを心は呆気なく認知した。
彼の手を取ったのは、滑稽なごっこ遊びの空想でも、関係が嘘でも偽りでも、間違いなくこのひとが彼の国だったからだ。そうでなければあんなことにはならなかった。何があろうと、手を伸ばすことなんて絶対になかった。
髪を梳き頬を撫でる指先は昨日あれほどの熱を生んだはずなのに、今背を駆けるのは恐怖や怯臆からくる悪寒だった。ちゅ、と挨拶のような可愛らしいキスが額に落ちる。それが眦、鼻先、頬と降りて到頭唇が重なるという直前、男の唇が何かを紡ぐ。それはほんの微かに空気を揺らしただけで音にはなっていなかった。それでもそれが、きっと恋人にでも囁くような台詞であることはわかった。
重苦しい言葉。聞いてはならない言葉だ。音にはなっていない。この耳には届いていない。それなのに、身体中の細胞一つ一つが熱を持ったかのように沸き立った。「きく」名前を呼ばれた。今度はちゃんと音になって耳に届いた。心臓が痛い。このままこの肉体が張り裂けると思うほどに。自分という存在が瓦解していくようだった。壊れてしまう。このままでは。私は一体誰なのだろう。この男は一体――。
優しく唇が触れ合った瞬間、横目に見えたものに弾かれたように男を突き飛ばした。男は簡単に数歩後ろに下がった。その横にあるチェストの上に写真立てがある。目の前の男を挟んで年配の男女が写っている。それは絵に描いたような家族写真そのものだった。
ドクドクと鳴る心臓の音が耳の奥で木霊している。そこにいる男がまるで知らない人に見えた。私が熱を共有した男は、眼前にいる男は――。
『誰と勘違いしてるか知らねえが、俺はギルベルト』
『だから、人違いだっての』
『あ? 嘘なわけあるか。つーか、初対面の男に否定されるなんて驚きだぜ』
「……あなた…誰なんです…」
瞬いた瞼の向こうの赤が丸くなる。鋭さなど欠片もない穏やかな瞳、表情。違う。そんな凪いだ顔をしない。違う。あのひとは――。
「何言ってんだよ? ずっと一緒にいたじゃねえか。あんなに強く求め合ったっていうのに忘れちまったのか?」
唇が震える。もう男に噛み付かれて切れた傷痕なんてなくなっているはずなのに、痛みが走った気がした。化膿して余計に痛みが増しているかのように。
「俺はギルベルト・バイルシュミット。終生お前を――」
痛い。苦しい。このままでは気が触れてしまう。
「――愛する男だ」
(……終生……一生を…?)
それはなんて甘美で、そして残酷な言葉だろう。
深さを増した赤が恐ろしいまでの熱を孕んで私を貫いた。薄い笑みをかたどった赤い唇が歪みを増す。
怖かった。気が触れそうだった。混乱で濁った思考は真面に働いていなかった。
「お前が望むなら日本人に帰化したっていい。こっちに永住して――」
男の言葉は続いている。けれど耳に入ってくる言葉は理解できない。
(生涯懸けて愛す…? そんなこと…)
ギルベルト・バイルシュミット。あなたは私を置いていくのでしょう? だって私は――。
そんな愛を捧げて、そうして男のいなくなった世界でひとり、想い続けろとでもいうのか。孤独の苦しみに身を裂かれながら。
男は私の心を粉々に砕く気だ。嫌だ。出口の見当たらない暗闇でひとり生きていくなんて耐えられない。そんな辛い思いをするくらいなら、私は心なんていらない。だって私は――〝国〟だから。
狂気を孕んでいるような重い空気を裂いて私は駆けだした。男の横を通り過ぎる。ぶつかって触れ合った肩が恐ろしいくらい熱くなった。履ききれていない靴のまま部屋を飛び出す。
逃げなければ。早く。早く醒めなければ。空高くから降り注ぐ陽の光に目を眩ませながら私は駆けた。これは白日夢だ。醒めろ、早く目を覚ませ。本田菊などという人間は存在しやしないのだから。あのひとを愛すことも愛されることもあるはずがない。私は日本国。この国そのものなのだから。
*
駆けていく足音をドア越しに聞きながら俯く。よろけた体勢のままぐらりと揺れた身体がチェストに当たった。カタン、と音を立てて倒れたフォトフレームに寂しく笑う。俺はお前の心を守ってやれたのだろうか。苦しめたいわけじゃなかった。本当はもっと上手く――。いや、結局ただの我が儘だろう。自分勝手な欲を押し付けたに過ぎない。本当に苦しめたいわけじゃなかった。それなのに。俺は酷薄な笑みであいつを見据えていたのだろう。怯えたように後ずさり、ついには駆けていった姿が焼き付いて離れない。
――傷つけたいわけじゃない。
本気でそう思っていた。それなのに、舌の根の乾かぬうちにその言葉は嘘になった。
傷つけようだなんて思っていなかった。それなのに、傷つけばいいのにと確かに思った。傷ついて傷ついて、その傷が痕になる前にまた思い出して、そうしてずっと苦しめばいいと思った。この先ずっと俺を忘れないように。
最低だ。そのままずるずると腰を下ろした。はは、と乾いた笑声が小さく漏れる。喉に何かが詰まってしまったかのように苦しい。
「やっぱりお前は…愛させてもくれないんだな」
(続く)