Daydream play:03

 

 外出許可はもらっていた。閉じ篭って本ばかり読んでねえで外に出ろ、と言ったのは師であった。百聞は一見に如かずとの言葉通り、学ぶべきものが多様にあるのならこの目に焼き付けるのも正しい勉学の仕方だろう。西洋の発展を目の当たりにして、自国との差異に嘆いて鬱々とした人もいたが、発展の様相が異なるだけであるとも思う。しかし、その差異の先にあるこれが目指すべき姿であり、このように変わらなければ未来は望めないのだ。
 自国とはかけ離れた光景、思想、文化。早い変化を、と焦燥感に駆られるのは勿論だったが、それとは裏腹に見たこともない景色は高揚感を齎した。まるで異世界に迷い込んだかのようだと、肌も髪も目もまったく違う色に囲まれて、この世界に自分を知る者はいないのだという錯覚を起こさせた。
 空想癖というものがあると思っている。癖、というほど深刻なものではないが、気が触れんばかりの長い時をひとり生きていると、現実離れした空想に旅立つことがあるのだ。昔から物語を読むのが好きだった。自分では経験していない、そしてこの先経験することなどありはしないだろうことを疑似体験出来る。登場人物に心情を重ねて、どうしようもない空想に耽ることをやめられなかった。
 好きに使え、とお貸し頂いた書架の中から、ある小説を借りていた。勿論、読むのは就寝前などの少しの間だった。そんなものに時間をかけている暇はないとわかっていながらも読むことをやめられないのは、そこに描かれた男女の物語が自国のものとは違ったからだ。そこに描かれていたのは市民の恋だった。江戸の人情本に描かれる恋は遊里を場とすることが殆どである。廓という隔絶された非日常の世界で男は恋をする。結婚は日常の中、未来の安定のためになされるのであって、そこに恋は必要なかった。
 借りた小説の中の男女は甘酸っぱい日々を送り、幾多の困難に見舞われながらも最後には結婚を果たした。未来の安定のためなんかじゃない。恋い慕い、愛を捧げたゆえに、一生を寄り添うことを誓ったのだ。甘く、なんともロマンチズムに溢れた話ではあったが、男女の掛け合う言葉の数々がどうにも胸を揺さぶった。

「キクさん」

 呼びかけられてトクンと鼓動が跳ねたのは、その呼び名の所為だ。
 振り返った先には、蜂蜜色の髪に瑠璃のような美しい瞳を持った娘がいた。

「おや、アラベラさん。こんにちは」

 彼女と出逢ったのは、外出した先で柄の悪い数人の男に絡まれているところを助けたのが最初だった。聞いた話では身寄りもないらしく、貧しい暮らしをしている健気な女性である。
 手に抱えた籠にあった薄桃の小さな花を差し出される。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 受け取れば、ふわりとその頬を染めてはにかんだ。お金を渡そうと懐に手を入れると、哀しげに目を伏せてふるふると首を振られる。いらないとの意思表示に困ったなと眉を下げた。彼女の感情には気づいている。けれど、私はそれに応えることは出来ない。
 ――わたし、あなたと初めてお会いした気がしません。
 最初、大丈夫ですかと手を差し伸べたときに彼女はそう言った。
 『あなたと巡り合えたのは運命なのです』甘ったるい恋愛小説の中の女の台詞が脳裏を駆けた。その所為か、彼女を強く拒絶することが出来なかった。まるで、自分がこの異世界のような景色の中に住むキクという人間であるかのような空想に襲われて。どこまでも自分勝手な白日夢の中に私は浸っていた。

「キクさん」

 そう呼ぶからいけない。甘い吐息で包み込んだかのように名前を呼ばれる。

「あなたがお国へ帰られるならば何を捨ててもついていきます。生涯懸けて、あなたを愛することを誓います。だからどうか…」

 遠く極東の果てにある故郷へ帰らなければならないのです。そう言って、彼女の気持ちを断っていた。一途なその瞳が美しく、けれど腹の底から逆巻くような羨望が湧き上がる所為で、冷たい感情も抱かせられる。私はあなたとは違う世界に生きているのだ。

「申し訳ありません。私はあなたを生涯懸けて愛することはありません」

 口から零れた拒絶は、何の色も含まない無感情な声音だった。瑠璃色が水面のように揺らめくのを見て罪悪感が湧くが、それは紛れもない本音だった。
 生涯を懸けることは出来ない。そんなことはにとって当たり前だった。
 この私にとっては愚かな空想は終わりにしなければならないのだ。私はキクではない。あなたが愛したキクは存在しない。
 彼女の目から光が消えた。俯いた際に長い横髪が垂れた所為で表情は見えなくなった。もう会うこともないだろうと踵を返そうとしたとき、視界の端にキラリと光る銀が映った。

「……わたしのものにならないのなら…」

 光った銀がこちらに向けられた。ナイフだ。
 あなたを殺して私も死ぬ。使い古された安っぽい芝居で聞くような言葉が脳裏を過ぎって苦笑した。刃先が近づく。それを茫と眺めてから瞼を閉じた。どうせ死にはしないのだ。その小さなナイフで刺されたくらいの傷ならすぐに再生するに違いない。私を刺すことで彼女が満足するならそれでいい。関わるべきではなかった。もっと早くから拒絶しておくべきだった。これが、私の愚かな夢に巻き込んでしまったことの償いに少しでもなるのなら。

――日本ッ!!

 痛みを感じるより先に届いた声に思わず瞼を開けた。私の名前を呼ぶ声。
 突然の第三者の登場に驚いたのか、僅かにナイフが止まった。しかし、それは今一度動き出す。今度こそ来るであろう痛みを覚悟したが、それが日本を傷つけることはなかった。

「っプロイセン殿…

 傷ついたのは節くれ立った大きな手だった。滴った鮮血は、師の手のひらから滑り落ちていく。流れ出る血に恐怖を浮かべたアラベラは「ああ…」と言葉にならない声をあげてナイフを落とし、一歩、二歩と後退ってから座り込んだ。
 駆けてきたプロイセンが、ナイフが日本に届くより先に自らの手で止めたのだ。

「何してんだッ…!!

 プロイセンの怒号が皮膚を突き破るのではないかと思う勢いで叩きつけられる。太陽のように燃え、強い感情で揺らめく双眸が睨みつけたのは、他人を傷つけようとしたアラベラではなく、その刃を向けられた日本のほうだった。
 訓練の最中の罵倒でも強い叱責でもない。彼自身の煮え滾るような怒りを向けられたのは初めてのことだった。呆然とその様を見るしか出来ない日本に、歯がみしたプロイセンはさらに怒号を叩きつけた。

「死にてえのかよ!?

 答えは否だ。生き抜くために、あなたのもとへ来たのだから。
 しかし、なぜそんなことを怒鳴るのだろうと不思議だった。そう簡単に私たちは死なないのだ。あの小さなナイフに刺されたくらいの傷はすぐに塞がる。そんなこと、プロイセンだってわかっているはずなのに。

「……もういい。とにかく帰るぞ」

 何も伝わっていないと思ったのか、プロイセンは未だ怒り冷めやらぬ顔でそう言って、鮮血で濡れる手で日本の腕を掴んだ。熱い。彼の手のひらも、ぬるつく液体も異様に熱く感じた。

「屋敷の周りをうろつく不審な女の報告があった。こいつは国賓レベルの要人だ。一生を檻の中で過ごしたくなかったら、二度と近づくな」

 座り込んだアラベラを冷たい眼で見下ろしたプロイセンが、普段より数段低い声で去り際に言う。引っ張られるままに足を進める中、ほんの少しの時だけを共に過ごし、そして想ってくれた彼女を振り返ると、それを咎めるように腕を掴む手に力が入った。指の痕でもついてしまいそうなほどの強い力に抗議したくても、その手のひらを汚す真っ赤な血に対する罪悪感で何も言うことなど出来なかった。



 屋敷に着いて引っ張られた先は、プロイセンが使用している部屋だった。初めて入った部屋を思わず見渡していると、ようやく腕が離される。離されたそこは彼の血と指の痕で赤く染まっていた。

「…あの…手当てを――

 もとより鋭い眼光がさらに鋭さを増す。彼の手のひらを汚す血のような双眸に強く射貫かれて、口を噤んだ。

「どういうつもりだ」
「……どう、とは」
「死ぬつもりだったのか」

 だから、何でそんなことを言うのだろう。

「そんな、死ぬつもりなど…」
「ならなぜ抵抗しなかった」
「…わかっているでしょう あれくらいの傷、刺されたとてすぐに治ります。死ぬなんてことはありません。だから、ッ…

 バンッ…――と強い音が響いて反射的に肩が跳ねる。プロイセンが壁を拳で叩きつけた音だった。傷ついたほうの手で叩きつけたために、止まろうとしていた血が再度流れ出していた。

「っ…なにしてるんですか!?

 さらにその傷を深めるように指を突き立てたのを見て、急いでその手を取る。傷を広げようとするような仕草にぞっとした。

「痛ぇよ」
「ぁ…すみませ――
「痛ぇんだよ」

 強く握り過ぎたかと手を離そうとすると、再度同じ言葉がかけられた。

「切られたら痛ぇだろ。刺されたらもっと痛ぇんだよ」

 見上げた先の師の瞳は怒りに塗れたものではなく、何か別の感情で揺れていた。

「例えすぐ治るとしても、俺たちにだって痛覚はあんだろ。俺は…痛えのも辛いのも苦しいのも哀しいのも嫌だって思う。お前は違うのかよ」

 喉もとをぐっと掴まれたような苦しさに見舞われた。痛いのも辛いのも苦しいのも哀しいのも、それは当然嫌だ。でもそんなことを、嫌なのだと、感じる必要などないのだ。国はただ人間の営みのままに生きていくだけだ。この心の臓の奥がどれほど痛んだって、これっぽっちも関係なく時計の針は進むのだから。

「……俺は」

 躊躇うように瞳を揺らしてから、彼は静かに言った。

「…お前が傷つくのは嫌だって思うぜ」

 絶対王者のように不敵に笑い、戦の中に身を置いて生きてきたはずの男は、痛いのも辛いのも苦しいのも哀しいのも嫌だと言った。果てには他人が傷つくのも嫌だと言い放った。私よりもよっぽど、傷つけ、そして傷つけられてきたひとなのに。
 ああ、このひとは私が長い歳月の間で忘れてしまったものを持っているのだ。まるで人間のような心を。純粋で強いひと。その純粋さがあまりにも眩しかった。

「……申し訳ありませんでした」

 確かに心の篭った謝罪を受け取って、プロイセンは笑った。その人の子のような少年じみた笑顔に、胸の奥底がきゅっと痛んだことには気づかないふりをした。



「……好きだったのか

 寝台に腰かけたプロイセンの傷ついた手のひらを手当てしていると、ぽつりと小さく呟かれた。

「え
「あの女」

 問われた意味を理解するより、なぜそんなことを問いかけるのかと戸惑って少し反応が遅れた。

「いいえ」

 そうして己の口から零れた否定の声は、天気でも聞かれて晴れですねと答えるかのように、何のしがらみもなく放たれた。その何でもないような色の乗らない声音を己の耳で聞き取って自嘲の念が浮かぶ。
 プロイセンも、はっきりと、そして無感情な返答に戸惑ったのか、ぱちぱちと大きな眼を瞬かせてから不思議そうに日本を見た。

「…じゃあ、なんで刺されようだなんて思ったんだよ」
「あの子、言ったんです。初対面のときに。初めてお会いした気がしません、と」
「…だから んなの、ありきたりな安っぽい口説き文句じゃねえか」
「ええ。でも、いいなあと思ったんですよ」
「はあ
「我が国には縁という言葉があります。物事はすべて繋がって成り立っていると考える仏教の教えを因縁生起…縁起と言います。原因に縁が作用して結果が起こる。日本人はこの縁というものを大切にします。縁とは出会いや機会、関係を意味しますが、それらに何か違うはたらきが作用しているように感じるということです。不可思議な…運命のようなものですかね」

 今さらであるが、勉学に関係ない話を自らし出すなんて殆ど初めてのことかもしれない。忙しい合間を縫って、きちんと師の務めを果たすプロイセンとの会話は、忙しいからこそ勉学が中心であり、世間話に花を咲かすなんてことは勿論ない。けれど、時折プロイセンが妙なことを言い出して、それに付き合うということならあった。そしてそれが私の身を休ませるためであることも今は気づいている。

「袖振り合うも多生の縁、という言葉があります」
「…袖振り合うも多生の縁」
「人との縁は偶然なんかではなく、すべて深い因縁によって起こるもの。だから、知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも前世からの深い因縁である、という意味です」

 巡り合わせだと、芝居小屋の男女が眸を輝かせる。物語ではありきたりなその情動を、私はきっと夢想の中で愚かにも羨望したのだ。

「いつかの世で彼女とは袖が触れ合ったのかもしれないと、そんな馬鹿なことを思ったのですよ。そんなことはあり得ないというのに」

 可能性があるとすれば、彼女が昔日本人として生まれ、多少なりとも私と関わったということであるが、そんな考えのない、思想も宗教もまるで違う国で本当に馬鹿なことを思ったものだ。

「もし私が人の子であったなら、言ったのかもしれませんね。私もそう思います、と」

 気が触れんばかりの長い歳月の記憶など持っていなければ。たった数十年の生を全うし、生まれ変わっていたのならば。

「……それって、好きだったってことじゃねえの
「はい
「お前が人間だったら、告白を受け入れたってことだろ」

 不機嫌そうな顔でそう言われて首を傾げる。

「なぜですか ただの空想ですよ」
「空想
「そもそも誰かをそういった意味で好きになるわけがないじゃないですか」
「あ…

 彼の苛ついていたような表情が怪訝そうなそれに変わった。どうしてそんな顔をするのか、こっちのほうが不可解だった。

「あなたもそうでしょう

 誰かをそういう意味で愛することなんてないはずだ。だって私たちは、

なんですから」

 生涯を懸けて愛するとか、そんな感情を抱くわけがないのだ。
 しん、と落ちた沈黙の中、時計の秒針だけが響く。徐々に見開かれていく目の動作がやけにゆっくり見えた。どうしてそんな顔をするのだろう。重なっていた視線が逸らされた。彼が自ら視線を逸らすことなど初めてのことかもしれない。目を合わすことが苦手な私に何度も注意していたというのに。

「……そうだな」

 プロイセンの薄桃の唇から漏れた返答は、日本に返したというより独り言のように呟かれた。その口許がいびつに歪むのを茫と見る。自嘲するようなそれは、彼にはいとも似つかわしくなく、戸惑いが生じた。
 どうして。どうしてそんな顔をするのだろう。悪夢でも見ているかのように苦しげで、息が詰まるかのように切なげで、憂悶のような感情を湛えている。そしてなぜ、私はその表情を見て、ちくちくと胸を刺すような痛みを感じているのだろう。
 手当てしつつ話し込んでいたために、忘れたように触れ合っていた彼の手が動いた。反射的に手を引っ込めようとすると、簡単に解けるほどの弱い力で掴まれる。長い指先がするりと撫でるような仕草をするのに身体が跳ねた。
 これ、と手当てされた手を少し持ちあげるようにして、プロイセンが言う。

「ありがとな」

 それまでの表情とは一変して、彼は特徴的な犬歯を見せて子どものような顔で笑った。感謝をされるようなことではなかった。そもそも、その傷は私の所為なのに。
 ちくちくとした刺すようだった痛みが、瘡蓋になる前の傷のようにじくじくとしたそれに変わり、果てには壊れた玩具がギシギシと不快な音を立てているかのようにまで変貌し、日本は戸惑いつつも痛みを発する胸を己の手でそっと抑えた。
 その痛みのわけを勘付いていて、知らないふりをした。まだ大丈夫。気付かないふりをしている間に無くしてしまえばいい。これは私には必要ないものだから。
 日本はプロイセンを見て微笑った。貼り付けただけの仮面の微笑は、今や常習となっていた。プロイセンもそんな日本に笑みを返す。初めて見たその笑みに、日本の感情は大きく揺らいだ。耐え難い痛みにでも堪えるような歪なそれを正視できなくて視線を逸らした。
 心臓が痛みを声高に訴えているのが煩わしくて仕様がなかった。

 

(続く)