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Daydream play:02
『実写化決定!』スマートフォンで覗いたニュースサイトの見出しに踊った文字を見て、思わず呟いた。
「アニメ化をしてほしかったですね」
家にも単行本を揃えてあるその少女漫画は、ギャグテイストでありながら女性読者の心を掴むような甘さや切なさがあって、一度読み始めると先が気になってしまったものだった。主人公の青年は社会人になりたてのサラリーマンで、忙しなく過ぎる毎日の中、ある女性と通勤電車の中で出逢う。その女性は主人公の色のない日々に花を咲かせてくれるのだ。なんてことのないラブストーリーであるが、主人公に自分を重ねては様々な空想に耽った。仕事場へ向かう満員電車の中で、草臥れてこのまま寝てしまいたいと思う帰宅の最中で。
「……空想癖も大概にしたほうがいいですね」
「祖国? 何か?」
かかった声に思考の海から意識が弾かれた。
「いえ、何でもありません。すみません、歳を取るとどうにも独り言が多くなって」
苦笑を漏らすと「わかります」と返ってきて、まさかの肯定の返答に目を丸くする。
「家に一人だと、朝のニュース番組のアナウンサーの「おはようございます」に挨拶し返しちゃったりしますよね」
中年期に入っているだろうその男性は苦い顔でそう言ったが、その瞳は寂しげに揺らいでいた。
「伊藤さんは独身でしたっけ」
深く考えず発言してから、寂寥とした情を湛えていた人に言うにしては無神経だったと後悔する。しかし、彼は意に介していないらしく、表情を変えずに頷いた。
「ええ。なかなか縁がないもので」
縁。その言葉に過剰に反応した己の心に自嘲する。
「まあ、結婚とか向いていないと思うのでそこまで積極的に妻が欲しいとは思わないんですけどね。でも冬は堪えますねえ。寒い中帰って、部屋の中まで寒いと」
「わかります。家なんて使わない部屋が多くて…たまに外より寒いんじゃないかって思うんですよね。そういうとき、結婚の文字が浮かびます」
伊藤はきょとんと目を丸くして、ぱちぱちと瞬かせた。意外な発言だ、とでも言うような顔に首を傾げる。
「いやあ…この国も合邦になるかもしれない、と」
勿論本気じゃないだろう。軽い言葉の掛け合いだ。
「ふふ。それはまあ、なきにしも、ですよ」
結婚などということを考えたことは当然なかったが。
「ははあ…どこか狙ってるお国でもおありですか」
「おやおや、それは物騒な言葉ですね」
本当に万が一にでも聞かれたら、説明しろと追及されるような言葉である。結婚という、今の時代では幸せを掴むもの――まあ、墓場と呼ばれることもあるが――の話をしているというのに、〝国〟であるがゆえにこんなやり取りになる。
「でも」と伊藤がどこか温かみのある眼差しで言った。
「内縁関係、ということもありますしね。そういう相手ならいいんじゃないですか」
その言葉を呑み込むのに、僅かながら時間がかかった。私は微苦笑して答える。
「…まさか。あり得ないですよ」
そう答えつつも、頭の中は見知った化身たちの顔を思い浮かべていた。
考えたことなどなかった。いるのだろうか。国の化身同士でそのような関係――内縁関係とまでいかなくても…恋人、とか――を結んでいるひとが。
(…まさか、ですよね)
いるはずがないだろう。だって私たちは――。
「そうですか? いいと思いますけどねえ」
伊藤は柔らかい口調の男だった。少し間延びしたような声音は、温かみがあるように思わせて、彼を優しい人であると認識させる。事実、騙されていないだろうかと心配なるほどの所謂いい人である。その優しくていい人、というのが結婚に至らない理由なのではないだろうか。よく言うだろう。いい人止まりの男は物足りない、と。そんなお節介な、ともすれば失礼に当たることを思いながらも、頭の片隅で結婚生活とやらを思い浮かべていた。
家に帰ると明かりが点いている。カラカラと玄関を開けると、飼い犬が駆けてくる。その盛大なお迎えに応えていると、奥からひとが現れる。『おかえりなさい』『ただいま』手にしていた鞄を手渡す。ご飯にするか先にお風呂にするか問われ、ご飯を選択する。ダイニングテーブルに徐々に用意されていく食事は湯気が出ている。温かいそれに手をつけ――、
(だから…いい加減空想に耽るのはやめなさいと)
大概にしたほうがいいと思ったばかりであるというのに、明瞭なまでに脳裏に浮かんだ空想の世界に心中で溜め息を吐く。
「勘違いでしたかねえ」
「はい…?」
「最近、楽しそうにしていらっしゃるので何か良いことでもあったのかなぁと思っていたんですよ。恋人ができたんじゃないかって」
「……まさか。…最近、入手困難だった栗羊羹を手に入れたからですかね」
楽しそうにしていた、と思われるほど何か表情に浮かんでいたらしいことに動揺した。彼の指摘したような恋人など当然いるはずがなかったが、楽しそうに見えたという心当たりは一つだけあった。だが、まさか他人に指摘されるほど表情に出ているとは信じられなかった。
「そうだったんですか? さぞ美味しい羊羹なんでしょうねえ」と返しつつ、伊藤は書類をデスクの上でトントンと整えながら立ち上がった。
「私たちは祖国の幸せを願っていますよ」
唐突なそんな言葉を残して、彼は部屋を出ていった。その背を茫と眺めながら、だからどうしてそんなことを言うのだと不思議に思うしかなかった。会話の流れからして、その〝幸せ〟とやらが恋愛絡みなのはわかる。ただその幸せを願われる意味がわからなかった。
しないだろう、恋なんて。だって私は――国なんだから。
就業時間は大分過ぎていた。冷たい外気が刺すように剥き出しの頬に突き刺さる。早く家に帰って温かい炬燵に入りたいと思うのが常であったが、足は帰路とは違う方向へ向かっていた。
黄金の装飾が美しい銀煤竹色の扉の前で足を止めて、茫とそれを見つめた。行きつけの店だ。そのドアノブを押して入ればいいだけの話だが、足は不自然に止まっていた。この扉の先に一歩踏み込めば、そこには別世界が広がっているのだ。そして、私は〝私〟じゃなくなる。
(…そんな大層なことではないとわかっているけれど)
これはただのお遊びだ。幼女がままごとをするのと同じ。一種の役割的遊びみたいなもの。一度の気まぐれか何かだと思っていたその遊びは、一度で終わることはなかった。さよなら、とこの店で別れたはずの一度目の邂逅のあと、またこの店に足を運べば、その男は前と同じように酒を飲んでいた。そして、言った。『よう、本田さん』何のつもりかなどわからなかった。けれど、私は当然のように返していた。『こんばんは、ギルベルトさん』と。
この扉の先は何のしがらみもない世界が広がっていた。それは、大の大人が耽るにはひどく滑稽なごっこ遊びという名の空想に過ぎないけれど。
ドアノブに手をかける。その手を動かそうとして、何とも言えない罪悪感のようなものが湧いた。
――最近、楽しそうにしていらっしゃるので……
よくないなと思った。嫌悪と焦燥、罪悪、悲哀、そのようなものが綯い交ぜになって胸が苦しかった。この先に広がっているのは空想の世界に過ぎない。それを望んでここへ足を運んでいるとしたら、自分が現実世界から逃げたいと思っているかようで嫌だった。そんなはずはない。私は今の自分の生を誇りに思っているし、この世界を愛している。だから、逃避しているような、そしてそこへ喜々として向かう自分がひどく醜く思えて嫌悪感が沸き立った。それから、頭とは裏腹にこのごっこ遊びに胸を高鳴らせる心が嫌だった。開いてはいけない蓋を開こうとするのが怖い。そう思うのに、ここへ来るのをやめない自分にも嫌悪が湧いた。
今日は帰ろう。そもそも、この扉の先に〝彼〟がいるとは限らないのだ。そう思うのに足は動こうとしてくれなかった。不可解な感情が胸に渦巻いている。気持ち悪いな、と思った。きっと、私は彼の友情を求めているのだ。師として憧憬を抱いたあのひととは繋がりなど希薄だった。時折、家に訪ねてくるけれど、それも多いわけではない。遠い欧州の地で歴史を刻んできたあのひとの周りにはたくさんのひとがいた。あの少年のような笑顔を向ける相手は、それこそ近くにたくさんいるのだろう。ほんの一時交わっただけの親交は、世情と共に瞬く間に疎遠となり、とても友人などと言えるような関係を築き上げることは出来なかった。それが少し寂しかった。きっと、昔にその隣に立ちたいと、立ってみせると願ったから、叶わなかったそれを求めているに過ぎないのだろう。だから、彼が唐突に始めた遊びに参加できるのが嬉しかったのだ。私はそう嘯いて言い訳を重ねた。そうしなければ、彼に会おうとする己の心の理由を正当に扱えなかったから。本当にどうしようもない。
深く溜め息を吐く。今度こそ踵を返そうとしたが、それは眼前の扉が開いたことにより叶わなかった。なんてことはない。店の客が帰るところだったのだ。入り口で鉢合わせしたため、互いに「すみません」と横に避けた。入り口にいたのだ。当然入ると思ったのだろう。扉を支えた女性は「どうぞ」と道を譲った。まさか、いえ入ろうと思っていませんでしたと言えるわけもなく、多少引き攣った曖昧な微笑のまま、結局店の中へ入ることとなった。仕方ないことだ、そんな言い訳を脳内で呟いたのは、頭とは裏腹に胸中が喜色を表していたからだった。
入ってすぐに耳を擽った曲に瞠目した。所謂第九の第四楽章、歓喜の歌の部分である。ピアノ編曲されたそれは力強さをあまり強調せず、もの柔らかで繊細にアレンジされていた。この時期になるとよく耳にするとはいえ、この店で演奏されているのを聞いたのは初めてのことだった。胸の奥がやけに熱くなった。喉元までせりあがってきた感情が、ともすれば涙まで誘発しそうなことに自分でも驚く。歴史の節々で歌われてきたとはいえ、よく耳にするその旋律に泣きそうになるというのは不可思議だった。仕事帰りに寄ったバーで聴いただけのそれに。情緒不安定か、と自嘲するように微苦笑した。
止めていた足を動かす。いつもの席へ視線を滑らせて、高揚していた気持ちが一気に萎んだ。そこには誰の姿もなく、剥き出しのカウンターチェアがあるだけだった。落胆の感情が大きく、そして落胆しているその事実にもまた、心が暗くなった。幾らか遅くなった足取りでカウンターへ向かう。マスターに挨拶しつつ、椅子へ腰かけると、彼は何か意味ありげな笑みを浮かべて注文を窺った。何にしようかと逡巡していると、マスターの視線が店の奥へ向かう。そこから逸らされないのを不思議に思って、その視線を追いかけて目を見開いた。そんな私に気付いたマスターが笑みを浮かべたまま言う。
「ちょっと意外ですよね。ピアノが弾けるのかとか云々より、こんなにも胸を打つ繊細な音を奏でることが」
店の奥でピアノを奏でていたのは、あのひと――ギルベルトだった。いつもと同じ濃紺のスーツに身を包んだ彼は、その長い指先を鍵盤に滑らせている。雄々しくきつい印象を与えるはずの整った顔は、今は春風のように温かみを持ち、見たことのないような優しい表情をしていた。彼が奏でるならば、雄大で力強く、勇壮なものが似合うと思っていた。しかし、今流れるその音色は柔らかく歓喜を讃えている。涙腺が緩んだのは彼がその音色のもとだったからなのかもしれない。東西ドイツの融和をも祝した名曲。だからなのだと、私は他の可能性など考えないようにして、自分の頭を納得させた。
音がやむ。両手を鍵盤から降ろし膝に乗せた状態で、彼は茫と空を見つめていた。きっとその脳裏には何かの情景が描かれているのだろう。柔らかかった表情は、迷子の子どものように寂しげに変わり、薄紅色の桜の花弁のような瞳が瞬くことによって隠れると儚さまで齎す。それを見ると、胸中に何か不安に似た感情が生じ、早くいつものように快活に笑ってほしいと思った。
ふいに顔を動かした彼の視線が遠目に私を捉えた。驚いたように丸くなった瞳が、徐々に輝きを増していくのを呆然と見つめる。明らかに喜色を浮かべたその顔に頬が熱を持った。まるで、ずっと探し求めていた人でも見つけたかのような表情を向けられて、戸惑う心臓が駆け足になる。笑顔になった彼をただただ呆気にとられたまま見つめていると、彼は笑みを刷いたまま今一度ピアノに向き直った。
響いた音色は一直線に自分のもとへ届いた気がした。湧き上がる音が速足で駆けてくる。不思議な音色は渦を巻いて、一種の狂気さえ感じた。しかし、それはあまりにも情熱的な旋律だった。
「これはまた…」
マスターが、ほう、と感嘆を零した。
「クライスレリアーナ」
「え?」
「シューマンが後の妻となるクララを想って作った曲です」
情熱的な音色を奏でる男を見る。微笑を浮かべてはいるが、そこにはやはり寂寞を含んでいる気がした。技巧などわからない。ただ、その音はやけに直情的に聴こえた。真っ直ぐ、何の飾りもなく、剥き出しの情のような。
「私も音楽について詳しいわけではありませんが」
マスターがどこか切なさを含んだ眼差しをギルベルトに向けつつ言う。
「飾りのない…なんというか、多くの人に聴かせようとステージに立っているわけではなく、ひとりきりの部屋で奏でているような、そんな印象を受けます」
曲は序盤とは比べ、やや緩やかな曲調へ変化していた。ゆったりとした暖かさに包まれているような、そんな感じだ。わざとらしくない真っ直ぐな音色はやけに胸の奥へ入り込んでくる。
「ただひとりの人だけを想って奏でているかのようですね」
「…ただひとりの人」
「確か…シューマンのクララへの手紙にはこう書かれています。君への想いが主役だ、他の誰でもなく君に捧げる、きっと曲中にあなた自身の姿を見出して微笑むはずだ……彼にもいるんじゃないですかね、この曲のように感情が細かく揺れ動く、情熱的に想う人が」
ひゅ、と一瞬息が止まった気がした。胸の底にある色のない水へ、ぽつんと黒に塗れた石でも投げ込まれたような感覚に陥る。ぽちゃんと嫌な音を立てて落とされた石が作るゆっくりと円を増していく波紋の振動が痛かった。
いるのだろうか、そんな人が。
いるはずがないだろう、と私の頭はせせら笑いで誤魔化していた。そうだ、今日だって思ったじゃないか。恋などするはずがないだろう、と。そう思うのに、耳を擽る音色は熱い情を確かに訴えている気がした。もしかしたら、彼はもう私とは違う存在なのかもしれない。厚く重い歴史に終止符を打ち、過去の姿のまま今を生きるひと。誰かひとりの人を愛してもおかしくはないのかもしれない。それともこれも演技なのだろうか。〝ギルベルト〟にはそういう相手がいるという。音楽という人の感情を揺さぶるものまで騙せうるのだろうか。私にはわからなかった。
彼の奏でる旋律がまるで夢の中にいるかのような気にさえさせた。どこか憧憬を含んだ幻想的な世界。あたかも、この滑稽なごっこ遊びの空想をロマンチシズムな映画のような世界に書き換えるかのように。
私はただその音色に耳を傾け、逸らすことなく彼の姿を見つめ続けた。
「どうだよ、俺様の演奏はよぉ…!」
あまりのギャップに、ようやく口にした一口目のカクテルを吹き出すところだった。カウンターの向こうからも苦笑が聞こえる。
黙ってればイケメンとは彼みたいのひとを言うのだろう。あるいは、残念なイケメンか。先まであの美しく情熱的、そして幻想的な旋律を奏でていたとは思えないようなその男は、どかりと私の隣に座った。「ちょっと頑張りすぎてビール飲みてぇぜー」と溌剌と言う男を見ていると、やはり先にマスターが言ったことは間違いなのではないかと思う。彼は「バナナヴァイツェンくれよ」と親しい友人にでも言うかような口調でマスターに言った。
「……バナナ」
「おう。バナナうめーよな!」
なるほど。感傷に浸る気はないらしい。そもそも彼はギルベルトであるのだから、感傷を抱く必要はないのかもしれないが。いや、彼が〝ギルベルト〟であるとは限らないか。今日、会話をするのは今が初めてだ。彼はまだ私の名を呼んでない。
「おい、に――…本田サン」
ぼんやりと思考の中にいる私に声をかけたギルベルトは、私を〝本田〟と呼んだ。明らかに違う名を呼ぼうとしたように聞こえたが、まだお遊びは継続するらしい。そうまでして続ける意味は何なのだろう。
「何ですか、ギルベルトさん」
それでも私はその誘いに乗ってしまう。やめましょうとか、何のつもりですかとか、一言いえば済む話なのに。
〝名前〟を呼べば、彼のルビーが輝く。嬉しげに撓む目もと、むずむずと弧を描く唇。どうしてそんな顔をするのかはわからない。ただ、彼はこの遊びに執心しているように見える。嬉しい、とその表情は語っていた。彼のようなひとが現実を生きることに疲弊するとは思えない。少年のような純粋さをなくさずに長い時を生きてきた、憧憬を抱かせるひと。ごっこ遊びに夢中になっているだけなのか、何か意図があるのか、私がどんなに考えたって答えは出なそうだ。なぜ、その相手に私を選んだのかも。
「俺様の演奏どうだったよ?」
「素敵でしたよ。その…あまり音楽に長けていないので、どこがどう、と聞かれると困りますが」
さすがだろ、などの自画自賛が返ってくると思ったが返事はなかった。訝しげな視線を向けると、そこにあるのは不満顔だ。
「あの…何か?」
「他には」
「え?」
「それだけ?」
感想の短さを不満に思っているらしい。確かに、素敵だっただけでは酷いと思うが、他にどう言えばいいのかわからなかった。感情が細かく揺れ動くかのような旋律。情熱的で、夢の世界をも思わせる幻想的な音色。ただひたむきに、誰かに向かう音。マスターの言ったように、ひとりきりの部屋で誰かを想って奏でているかのような、飾りげのない音色。最初の音がズトンと胸の奥底に突き刺さって、それが波紋を広げるようにじわじわと沁み渡り、身体中へと流れていくかのようだった。本当に、誰かを想っているかのように胸を衝く音色だった。
そんなふうに言えばいいのか。それでも私はそれを言いたくなかったし、聞きたくなかった。本当に彼に想う人がいたとしても、それを知りたくなかった。彼の恋路にけちをつけたいわけじゃない。ただ、嫌だった。聞かなくても、知らなくてもいいことなら、知らないままでよかった。
「……第九」
「あ?」
「あのような繊細でもの柔らかな第九は初めて聞きました」
糊塗した貼り付いた微笑で言う。
「日本ではこの時期よく流れるんですよ」
ギルベルトは目前に置かれたヴァイツェングラスを指先で撫でている。その顔に感情は表れてなく、無表情に近いことに胸が冷えた。
「…ああ、そういえば長野オリンピックの開会式でも歌われましたねえ」
取り繕うように滑る口先からはそんな話題が漏れる。へえ、とあまり興味もなさそうな相槌のあと、彼はグラスの中身を一気に煽った。
「知ってるか? 第九を最初に日本で演奏したのはドイツ兵俘虜だって」
「え、ええ。板東の」
「そ。声が響くからって風呂場で練習したらしいぜ」
彼はそれまでの表情から一変して楽しそうに話し始めた。それに安堵はしたものの、きっと取り繕わせてしまっているだろうことをやるせなく感じた。
「それにしても、ピアノ弾けるんですね」
「まあな。練習はしたけど」
「練習、ですか。誰かに披露する予定でもあるのですか」
「あーまあ、うん。聴かせたい奴はいたな」
「…そうですか」
あの演奏を聴かせたい人がいた。じくじくと胸が痛むを知らないふりで無視した。やはり、彼にはいるのだろうか。ただ只管に想う相手が。
「坊ちゃ…いとこに恥を忍んで特訓頼んだんだけどよー、あいつ容赦なさすぎて指もげるかと思ったぜ。馬鹿馬鹿めちゃくちゃ罵倒してきやがって」
「ふふ、それはそれは。苦労なさったのですね」
そこまでしても聴いてほしい人がいるのだろうか。あの情熱を。
「まあ、俺様にできねえことはねーから、あんなの余裕だけどな! ピアノ弾く俺様もかっこよかっただろ!」
勝ち気な自信の溢れる笑顔を見て、ほっとする。彼にはそういう顔が似合う。
「ええ、とても」
肯定の返事を返せば、みるみるうちに喜色が浮かび、頬を薄桃色にして特徴的な犬歯を見せた。
「なあ、本田さん」
懐から煙草の箱を取り出しながら、ギルベルトが問う。やはり煙草はやめてはくれないのか。それを奪い取ってしまいそうなのを抑えて、彼の言葉に耳を傾ける。
「今度の休みいつ?」
「今週末は休みですよ」
「じゃあ、どっか出かけねえ?」
「え?」
「予定あんのか?」
「い、いえ」
「じゃあいいだろ。時間決めて、待ち合わせして、どっか行こうぜ」
それはどこかへ遊びに行こうというただのお誘いなのだろうか。ただ、〝本田菊〟に言ったということは、その設定でお出かけをするということなのだろう。
この場所だけだと思っていた。この店の中だけに空想の世界はあった。それを広げたくはなかった。楽しいと、確かに思っている。けれど同時に幾許かの寂寞を齎していた。この遊びが継続されていくたびに、どう処理すればいいかわからない感情が増えていっている気がした。これ以上はよくないと思う。それなのに。
「…ええ。どこか出かけましょうか」
私の口は肯定を紡ぎ出していた。火をつけようと咥えていた煙草を一端離して、ギルベルトは笑った。その少年のような純粋な笑顔を見れば、返答は正解だったのだと思えてしまった。
喜々として予定を立て始めたギルベルトと会話を続ける。彼が奏でていた旋律が離れないでずっと耳に残っているのが辛かった。
(続く)