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Daydream play:01
耳を擽るピアノの音色がやけに甘く響いている。それに少しの煩わしさを感じて、意識を別のところに向けた。鼻孔に漂った香りに思わず口を開いた。
「……煙草」
「んあ?」
フィルターから離れた形の整った薄桃の唇を無意識に視線で追いながら零した言葉に返ってきたのは、何とも間抜けな返答だった。意識が逸れていたからだろう。その可愛らしいとも言える音の羅列に、くすりと笑みを漏らすと切れ長の目に不満そうに睥睨される。
「…なんだよ」
「煙草、お好きなんですか」
喫煙している姿を見たことはなかった。
「あー…まあ好きかって聞かれりゃ好きかもな」
「何ですかそれ」
「いや、別に吸えなきゃ吸えなくても構わねえし、ヘビースモーカーってわけじゃねえしよ」
「そうですか」
「お前は?」
「はい?」
「吸わねーの」
「…ここ数年は吸ってないかもしれませんね」
いや、数十年だろうか。
「禁煙でもしてんのか」
「そういうわけではありませんけど」
喫煙することが、まるで悪のような世の風潮に流されたというような。
「ま、喫煙者には厳しい時代になったもんだよな」
「そうですね」
「吸う?」
カウンターの隣同士の席で、互いに向けるでもなく前方や手もとのグラスに向けていた視線が丁度のタイミングで合った。絡み合った視線をどうしてか逸らせないまま、彼の長く男らしい指の間に挟まれたシガレットが視界の隅のほうで揺れるのを捉える。
こてり、と問うように頸を傾ける仕草は女の子がやればさぞ可愛いのだろう。目の前にいるのは程良く筋肉のついた長身の外国人なのに、可愛いなと胸中で漏れた自分の感想に何とも言えない罪悪感のようなものが湧き上がった。
いいです、と断るより先にカウンターの上に無雑作に置かれていた煙草の箱に彼の手が伸びる。あ、と漏れた声と共に男の手によってその箱はぐしゃりと無惨に潰された。
「悪ぃ、これが最後の一本だったわ」
別に欲しかったわけじゃないから構わなかった。それなのに、男は「ん」と言いながら先までその口を行ったり来たりしていた煙草を差し出した。
「え…」
「やるよ」
「い、いえ…いいですよ」
まるで当然の如く差し出されたそれに困惑する。今し方吸っていたそれを隣にいる男に差し出すのは普通のことだろうか。いや、どう考えても普通じゃないだろう。
「いいから」
まったくもってよくない。男は煙草を置いた灰皿を私の前に滑らした。
「久しぶりなんだろ。久々に吸うとすげえ美味く感じるぜ」
「…あなたも久しぶりに吸ったのですか」
「ああ。健康志向の弟がうるせえからな」
「……弟さんですか」
「おう。ドイツを離れてるうちに思う存分味わっとこうと思ってよ」
「…弟さんは浮かばれませんね」
「あ?」
「あなたを思っての健康志向なのではないのですか? こんな風に隠れて喫煙しただなんて知ったら怒りますよ」
「バレなきゃいいんだよ。…それに」
「はい?」
「…健康なんてどうでもいいだろ」
男の手もとのショットグラスの中の氷がカランと軽快な音を立てた。それでも小さくなった彼の言葉を消し去るほどの音ではなく、男の言葉を私の耳は確実に拾い上げていた。どうにも嫌な感情が渦巻いていていけない。どうでもいいなどと、そんな風に言ってほしくはなかった。
「……どうでもいいわけがないじゃないですか」
責めるような響きになってしまった返答に慌てて取り繕う。
「仕事に支障を来したらいけませんし」
ああこれではまるで。
ぶは、と小さく噴き出す声が隣から聞こえた。
「お前ってほんと日本人」
「……そりゃそうですよ」
「仕事仕事仕事…! もっと他に大事なもんがあると思うけどな」
「…働かなければ食べていけないでしょう」
「まあ、そうだけどよ。人生七十…八十年か? あっという間だぜ。好きなことやっとかなきゃ損だって」
「…………」
言い返す言葉が見当たらなかった。そんな風に考えたことなどなかったから。
どうしてそんなことを言うのかと、彼を責め立ててしまいそうなほど胸中が騒騒と煩わしい。このお遊びは何なのだろう。どういう意図があるのだろう。
「…あなたは」
「ん?」
「好きなことをやって生きているのですか」
「あー、まあ…そうやって生きようって決めたとこ」
「決めた?」
「ああ。やりたいことやっとこうと思って」
放置されていた煙草の灰が落ちる。
「死ぬ前に」
「――…っ、」
痛い。心臓が急激に痛くなった。
「…なに、言って…まだお若いじゃないですか」
からからに渇いた喉を潤すために、眼前のリキュールグラスに手を伸ばしたかったが出来なかった。指先が震えてしまいそうだったから。
「…終活にはまだ早いですよ」
「なんだそれ」
「それに…あなた仕事で日本に来たのでしょう?」
「ああ」
「好きなことやれないのではないですか」
「そりゃあ手放しでってわけにもいかねえだろ。お前だって言ったじゃねーか。働かなきゃ食っていけねえって」
「それは…そうですが」
「あーなんか勘違いしてるみたいだけどよ。そんな深刻な話じゃないだろ。好きなことやって生きていきてえっていうガキみたいな我が儘の話だろ」
「…我が儘」
「そ、我が儘。で、」
「……?」
「煙草吸えって」
「…なぜそこに繋がるのですか」
「仕事仕事で疲れ切ってるサラリーマンを慰めてやろうっていう俺様の優しさだろ」
「慰めだったのですか」
「ほら、どーぞ。本田さん」
その声がその名を紡ぐのは不思議だった。
灰皿に立てかけられた煙草を手に取る。先まで彼が口をつけていたそこに触れることに跳ねた心臓に気付かない振りをして、躊躇わずに咥えた。上品な紅茶のような香りがする。知らない銘柄──恐らくはドイツのものなのだろう──の当然知らない味なのに、肺を満たすこの感じはやはり懐かしかった。
ちら、と窺い見た彼と視線が合う。薄暗い間接照明の下でも美しい朝焼けの瞳が撓む。少年のように笑って男は言った。
「あーあ、これで本田さんも寿命縮まっちまったかもな」
そんな物騒なことを愉快げに紡ぐのが不似合いだった。
「十四分だっけ」
「……?」
「煙草一本で寿命が短くなる時間」
どんな計算だ。そう思いつつも、手にした煙草に視線を落とした。これがそんな力を持つ毒なのか。寿命。そんなもの私には関係ない。
何も返さず、尚且つ今一度口をつけようとしないまま動かない私に男が唇を歪める。
「怖くなったか?」
「え…?」
「もういらねえなら、もらうぜ」
そうして伸ばされた手から咄嗟に煙草を自分のほうへ引き寄せた。きょとん、と目を丸くした男に内心自嘲する。心は正直だ。今の行動は条件反射みたいなものだった。
「…いただきます。思いの外美味しかったので」
とってつけた言い訳を紡いで今一度口をつけた。
「そりゃ美味えだろ。高級バージニア葉使ったやつだぜ」
高級品なのだろうか。そうであろうとなかろうと、この味を忘れることは出来ない気がした。無意識に滑らせた視線の先の空っぽの煙草の箱から、その銘柄を確認することは出来なかった。当然だ。男が箱を潰していたから。咄嗟に銘柄を覚えようと行動してしまった自分に嫌気が差す。いつかの未来で、この男の知らないところでこの煙草を手にする自分が想像出来てしまって吐き気がする。最悪だ。こんな感情いらない。
「……煙草、やめるべきだと思いますよ」
肺を満たす有害物質。それなのにどうしてか疲れや苦痛が和らぐ気がするのだから不思議だ。薬草と言われていた時代があったのも頷ける。
「はあ? いきなり何だよ」
訝し気に見る男に何でもないような微笑を努めて自然に浮かべた。
「やはり健康は大事ですよ」
「煙草片手に言われても説得力ねーぞ」
「私はいいんです」
「どんな理屈だ」
呆れたように眉を下げる男に笑う。ちょっとした冗談の掛け合いぐらいに思っているのだろう。変な奴、と面白そうに言ってグラスを煽る彼を見てから目を伏せた。
そう、私はいい。これが害になるものだろうと毒だろうと、そんなこと関係ない。この肺がどれだけ有害物質を取り込もうと何事もなかったように明日は来る。
一本で十四分、寿命が縮むと男は言った。嫌だった、どうしようもなく。力を込めてしまったことで手に持つ煙草が僅かに歪む。これが男の肺に取り込まれるのは嫌だ。その身体の中に入ってその血液を汚すのは嫌だ。
言ってほしかった。こんなもので寿命が変わるはずないと。いや、そもそも寿命だなんて言葉を吐いてほしくなかった。こんなものいくら吸ったって俺たちには関係ねーよ、と鼻で笑ってくれたらよかった。今この瞬間が、嘘でも冗談でもお遊びでも命の終わりを示唆するようなことを、この男の口から聞きたくなどなかった。
「どうした?」
「え…?」
「顔色悪ぃぞ」
カウンターの上に置いていた煙草を持っていないほうの手に男の手が重なる。びく、と跳ねた手を気にすることなく男は包み込むように指先を丸めた。
「大丈夫か?」
熱い。触れている肌が焼け切れてしまうほど熱かった。
「ってか本田さん、やばいくらい手冷てえんだけど」
ああ、熱いのは男の体温のほうなのか。
「…血流障害ですかね。年取って冷え性が加速した気がします」
「年…って、お前何歳だよ」
すぐには返答出来なかった。
「…えーっと…秘密です」
「女みてえなこと言うなし」
くつくつと笑う振動が触れ合った手から伝わる。離してほしい。一秒でも早く、この手を。
「あなたは」
「うん?」
「――…ギ、ルベルトさん…は、おいくつなのですか」
その名を呼ぶのに何か喉に引っかかってしまって、上手く紡げなかった。男は気にすることなく、間髪置かず答える。
「二十七」
それは咄嗟に作った答えなのか、用意していた設定なのかわからないが、目前にいる男がドイツから出張で日本に来た二十七歳の外国人だと認識させるには充分だった。
「…お若いですね」
「本田さんのがよっぽどオワカク見えますよ。絶対年下だろ」
「かなり年上ですよ」
「うーそだー」
男はそんな子どものような切り返しをするくせに、重ねた手の指先でするりと私の手を撫でた。大人の触れ合いを想起してしまったのは絶対に私の所為じゃない。男の緩慢で何かを煽るような動きがいけないのだ。離してほしい。これ以上は堪えられそうにない。
「当ててやるよ。二十…九!」
「違います」
「えー、じゃあ三十二」
「違います」
「三十…四?」
「教えませんよ」
「何でだよ」
年齢などどうでもいい。それでも、この続けられる白々しいやり取りに私は結局付き合ってしまうのだ。
とにかく手を離さねば、と引っ込めようとしたそれを驚くほど強い力で押さえつけられた。カウンターに押し付けられた手はそのまま彼の手によって潰されてしまうのかと思うほどで。びっくりしてその痛みに呻くのも忘れて男を見遣れば、なぜか男も目を丸くして私を見ていた。
「あ…悪ぃ」
「…いえ」
そうして呆気なく離れていった体温に、もとより冷たかった手はより温度を下げた。胸中に隙間風みたいなもの吹き荒んだことに嫌悪感が湧く。あれだけ離して欲しいと思っていたくせに、離れた途端追い求めるような感情が気持ち悪くて仕様がなかった。
落ち着くために飲もうとグラスに手を伸ばしたとき、微かに感じた痛みに手を止める。視線を落とせば、親指の付け根辺りに赤く短い線がついていた。恐らく、彼の手に強く押さえつけられたときにでも傷ついたのだろう。男の爪は綺麗に整えられている。それでも小さな傷をつけてしまうほどの力だっただろうか。驚きで痛みなど碌に感じやしなかった。
小さな、傷と言うほどのものでもないそれ。こんなもの、あと数分も経てば跡形もなく消える。そう思った瞬間、私は無意識にもう一方の手でそこに爪を立てていた。
「やめろ」
低い声だった。せっかく離れたはずの体温が今一度触れた。爪を立てていた手をやんわりと外される。
「悪い」
先も思ったが、謝罪などこの男には似つかわしくない。――いや、私はこの男のことを碌に知らないのだった。
「傷つけたいわけじゃない」
ぽつりと呟かれた言葉は、何か罪でも背負っているかのように重苦しい響きをもって紡がれた。その言葉が指す意味は正しくは理解出来はしなかった。当然だ。他人の衷心など容易くわかるはずもない。それでもそれが、今し方ついたこの小さな傷についてではないことだけはわかった。
だったら、放っておいてくれればいいのに。
あなたは知らない。私はあなたに会うたびに、あなたと言葉を交わすたびに、あなたを見るたびに、傷を負っている。それは目に映りはしないから、どれだけの数なのかもどのくらいの大きさなのかも治す方法すらわかりゃしない。だから知らない振りをする。気付かない振りをする。だってそれは私には必要のないものだから。
顔をあげた先に映った男に微笑む。「大丈夫ですよ」と言った。こんな傷、なんてことはないのだと伝えるためのその言葉は男に放ったはずなのに、まるで自分に言い聞かせているように感じた。貼り付けただけの仮面の微笑に男も笑みを返す。それはいつか見た笑みと同じだった。何か堪えられない痛みでも懸命に隠しているかのような、そんな歪な笑みだった。
この男――ギルベルト・バイルシュミットは、ドイツから仕事で日本に来たという。彼との出会いは、何てことのない日常の一コマに過ぎない。けれど、あの日から私の胸の中はどうにも落ち着いてくれそうになかった。
***
仕事帰りに行きつけのバーに寄った。よく来るというほどではないが、それでも常連と言っていいほどには訪れていた。それこそ本当に長い時をここで過ごしている。バーのマスターはいい年齢となり、ついに子に店を譲った。彼らは私の正体を知っていて、この容姿を疑問に思わない数少ない知り合いであった。
仄暗い間接照明の中、店内の隅で生演奏されているピアノの音がゆったりと流れている。その音色に耳を傾けながらカウンターの隅っこに座り、余計なことを考えないで喉を潤すのがいつものことだった。
今日もそのつもりで店内に入った。今はシューマンのアベッグ変奏曲が演奏されていた。架空の女性の名を音色に置き換えたそのメロディーは始まったばかりらしく、なんとも甘美な主題が流れている。それが第一変奏に入ると、どこか攻撃的に変わり、追い立てるようになっていくその旋律で耳を潤した。人はまだらだ。これもいつものことだった。マスターに「こんばんは」と挨拶しながら、普段と同じ席を求めて奥へと視線を滑らせて瞠目した。薄く細いストライプの入った濃紺のスーツを着た男性が座っている。体つきは一見細そうに見えなくもないが、それなりの筋肉があるというのは肩幅を見ればわかった。身長も高いのだろう。日本人ではない。それは日本では中々見かけることがないプラチナブロンドが証左している。間接照明の中のそれはまるで月白のように見えて、生まれてこの方何度見上げたか知れない空彼方の衛星を思わせて、何とも幻想的であった。幾度も様々な感情を浮かべて見上げた、どんなに手を伸ばしても決して届くことのない月。過去の情調まで呼び覚ますのは、その男が長い歴史を持っているからなのかもしれない。私はこの男のことを知っている。
斜め後ろからは僅かに見える白皙は己の肌とは全然違う色で、透き通るような美しさを孕んでいた。左手が動いた。その手が持っているのは煙草で、トントン、と灰皿にノックするようにして灰を落としたあと、私の視界からは煙草は見えなくなった。彼は煙草を嗜むのか。それは初めて見た光景だった。だが、初めてでも何ら不思議ではないのかもしれない。かつて教えを請うた男は遠い異国のひとで、会うことなど少なかった。友人の家へお邪魔するときにその兄である彼がいることもあるが、直行でも半日以上かけなければ辿り着かない場所へしょっちゅう行くことはないし、彼がいないことだって多い。それに、今はもう仕事でも会うことは殆どなかった。
そんな彼が、どうしてそのようなビジネススーツを身に纏い、こんな場所にいるのか、まったくわからなかった。隠居した身とは言え、彼の国の兄に当たる男だ。はて、日本で仕事でもあったのだろうか。彼が出張しなければならないほどの仕事…というのは得心がいかない。そうであるなら、私に連絡や何なり来るだろう。私も出席する同じ仕事というのなら納得がいくが、そんな話は一切聞いていなかった。
とにかく、わからなければ聞けばいいだけのことだ。私は驚かせないようにゆっくり彼へと近づき、その名を呼んだ。
「プロイセン君」
振り返った彼は私を見て、類稀なその眸は丸くなった。やはりこれは偶然の遭遇だったのだ。そう思って、こんなところで何を、と聞こうとした私の口は、その前に発された彼の言葉によって声を発することなく閉ざされ、尚且つその内容に理解が行き届かず、喉がぐっと詰まる。
「プロイセン? 誰のことだ?」
丸くなっていた眼が怪訝そうなそれに変わっていくのを呆然と見遣ってから、ようやく声を出すことの伝達が脳から届いた。
「……なにを言ってるんです…? プロイセン君ですよね?」
見間違えるはずなどなかった。ともすればきつい印象を与える整った顔立ちも、彼しか持ち得ない朝焼けを閉じ込めたような稀有な瞳も、薄い唇から発される戦場焼けしたような独特な声音も、私の知っている彼そのものだ。そして何より、言葉では言い表せられないような感覚――勘、と言っていいかもしれない──が彼をプロイセンだと認識している。きっとこれは、何か化身同士でしかわからないような気配のようなものだ。この男はプロイセンだ。それ以外ありえない。
「お前こそ何言ってんだよ? 誰と勘違いしてるか知らねえが、俺はギルベルト」
「ギルベルト…?」
「ギルベルト・バイルシュミット」
初めて聞いた名前だった。
「…なにを、……からかってるんですか?」
最早常習となっている糊塗するような微笑のまま、表情が固まる。急激に乾いた喉を酷使して言葉を放つと、彼は瞳を眇めた。
「だから、人違いだっての」
「……うそ」
「あ? 嘘なわけあるか。つーか、初対面の奴に否定されるなんて驚きだぜ」
「…初対面」
嘘だ。そんなわけがない。出会ったのはもう百五十年以上前だ。仲が良いだなんて言える関係では決してなかったが、忘れ去られてしまうほどとは思えない。それとも彼自身が〝自分〟を忘れてしまったのだろうか…? そんなことあり得るだろうか? あり得ないとは言い切れない。だって彼は他の誰とも違う存在――亡国だ。店内は心地良い温度に調整されているはずなのに、身体は急速に冷えていく。頭の中は彼が言ったことが処理し切れないまま、浮かんでしまった嫌な予感に半ばパニック状態だった。
それにおかしいことがもう一つある。私は『プロイセン君』と呼びかけた。彼は言った。『誰のことだ?』『誰と勘違いしてるか――』〝プロイセン〟は今は無いとしても、国の名、あるいは地名である。〝誰〟とそれが誰かの名前、呼び名だと認識しているのは少し不可思議だ。〝プロイセン〟という言葉に聞き覚えがなく、その知識を持たないという可能性もあるが、それは考えにくい。一般知識のレベルだろう。いや、敬称を用いたことでそれが誰かを呼んでいると思った、という可能性もあるか。しかし、彼曰く初対面である人に突然話しかけられてそこまで考えるだろうか。
指先が震えていた。かつて見ないふりをして、なかったものと認識するために解けない鎖で雁字搦めにして沈めた感情が、今になって蓋を開きそうだった。だめだ。それは不必要なものなのだ。
「大丈夫か?」
「え…?」
思考に海に沈んでいたらしい。私を見る彼の顔は、不審そうなそれから心配げに変わり、困ったように続けた。
「とりあえず、座れよ」
隣の席を指して言われ、正直何が取り敢えずなのだろうと思いつつも従った。今はとにかく彼が何者なのか、彼の身に何が起きたのか知らなければならない。
「えーっと、コンバンハ」
突然の挨拶。戸惑いながらも、同じように返す。
「俺、最近日本に来たばっかでよ」
「来たばかり…?」
「おう。仕事でな。ドイツの本社からの出張」
私は、からからに渇いた喉で絞り出すように問うた。
「……どのようなお仕事で…?」
「医療機器メーカー」
「…医療機器」
「ああ。…まあ、いろんな事業手がける複合企業だけどな」
「……日本で事業展開したのはいつですか?」
「え? あー…確か、明治時代?くらいじゃねえ?」
「そんなに前ですか」
「…ああ、最初は電信機の会社でよ」
「…本社がミュンヘンにある?」
「あーそうそう。よく知ってんな」
「徳川将軍家に献上されたのが初めですか」
「え…? あーそんなことあったか?」
彼はショットグラスを傾け、中の琥珀の液体をゆらゆらとさせながら、茫とそこを眺めている。話している最中、一つも変化を見逃してなるものかと、彼の表情をさりげなく見つめていた。その強いだろう視線に気づかず――あるいは気づかない振りか――に、残り少ない酒を眺めているだけだった。私の問いにも、ほぼ間を置かずに返している。
最後の問いには、一言返してから僅かな間があった。間接照明の中で独特な色を孕む瞳が微かに細められる。
「わりぃ、そこまで詳しく知らねえわ」
グラスに向いていた顔をあげ、こちらを向いた男は少年じみた顔で笑った。その表情は記憶にあるプロイセンの表情と何ら変わらない。
〝覚えていない〟ではなく、〝知らない〟と答えたことに落胆した。おかしい受け答えではなかった。少し気になるところと言えば、『そんなことあったか?』だが、そこに意味を含ませようとするのは、自分も〝プロイセン〟もその遥か昔の時代を生きていたからだろう。もし、彼が本当にプロイセンではなく、先の会話で辿り着いたとある企業に勤める一介の人間であったとしても、変な受け答えではない。それでも信じられなかった。
もう一つの可能性は、彼が演技をしているというものだ。自分はプロイセンではなく、ギルベルトという人間である、と。何のためにかなどまったくわからないが、プロイセンの突拍子もないお遊びという可能性だってある。しかし、ただの遊びでわざわざ来日までして、弟の友人と呼ぶべきような浅い関係の私に悪戯を仕掛けるというのもおかしな話だった。
「そういや、まだ何も頼んでねえじゃんか。何飲む?」
「え? あ…では、ニコラシカを」
マスターのほうへ顔を向けて注文すると、ふっ、と小さい笑声が隣から聞こえた。何ですか、と視線を向ける。
「いや…最初から飲みづれぇやつ選ぶなって思ってよ」
「…ドイツから出張、などと話していたので連想しただけですよ。確か、ドイツ発祥ですよね?」
「そ。ハンブルク」
「ドイツ生まれなのに、なぜロシアさん風の名前なのでしょうか」
「さあ? 帝政ロシアの皇帝がいつもレモンと一緒にウォッカを一気飲みしてたとかで、それがいつの間にかコニャックをベースにするようになったとか聞いたことあるけど。真偽は知らねえが」
そんな話をしていると、目前にリキュールグラスが置かれた。グラスの上に輪切りのレモン、その上にグラニュー糖が小さな山を作っているのを見て内心苦笑した。確かに最初に頼むんじゃなかった。過去、一、二度しか飲んだことのないそれは久しぶりに見てもそれなりの衝撃である。
「さすが、口の中で作るカクテルだな」
くく、と喉で笑った男が手もとのショットグラスを持ち上げた。
「最初は人違いだったが、ここで逢ったのも何かの縁だろ? 日本人は縁を大切にするって聞いた。袖振り合うも――」
男が何か複雑な情を湛えた瞳で私を見た。トクトク、と己の鼓動が加速をし始めたのが聞こえる。
『袖振り合うも多生の縁、という言葉があります』
いつの日か交わした会話は色褪せることなく、鮮明に脳裏に蘇った。私は、喉奥に突っかかっているような声を絞り出して男の声を遮った。
「多生の縁」
その諺を〝プロイセン〟に教えたのは私だ。
男が微笑う。どこか切なさを湛えた、けれど真摯な眼差しで静かに微笑う。その表情は彼にはおよそ似つかわしくない。絶対王者のように不敵に、あるいは少年のように悪戯っぽく笑うのが似合うひとだった。けれど、その何とも名状し難い、心憂わしげな表情を知っている。
『いつかの世で彼女とは袖が触れ合ったのかもしれないと、そんな馬鹿なことを思ったのですよ。そんなことはあり得ないというのに』
遠い異国で出逢った一人の娘の残像が脳裏を掠めた。記憶にはしかと刻まれているというのに、思い出すことなんて殆どなかった。非道い男だと自分でも思う。けれど、不要だったのだ。それに苦しむとか痛めるとかいう心など、私には必要なかった。
「俺はギルベルト・バイルシュミット。お前は?」
静かな声音だった。記憶にある男はもっと騒がしく、目まぐるしく表情を変えるというのに。
私は、どこか夢見心地のまま答えた。
「……ほんだ、」
その名を口にするのには抵抗があったはずだった。それでも己の喉は躊躇することなく発した。まるで、魔法にでもかかったみたいに。
「本田菊です」
男は、「…ホンダキク」と確かめるように小さく呟いた。
「……お前とは」
オーロラのような不思議な色合いの瞳が私を見る。そこに鋭さのないもの柔かな視線は、どこか居た堪れないようなくすぐったさを齎す。
「お前とは初めて会った気がしねえな」
弾かれたように男の顔を見た。
男の意図のすべてなどわからなかった。わからなかったが、それでもどこか夢想の中にでも飛び込んだかのような気分でいた私は思わず答えていた。
『もし私が人の子であったなら、言ったのかもしれませんね』
「……わたしも…」
――『私もそう思います、と』
「…私もそう思います」
驚いたように僅かに目を見開いた顔は、一拍置いて悪戯っぽいものに変わった。
「袖が触れ合ったことでもあったか?」
揶揄するように笑うその様は子どものように純粋だった。
コツ、とグラスを重ねて男は続ける。
「はじめまして、本田さん」
私を貫く、その強い眼差しを知っている。
――お前、わかりやすいな。
何を考えているかわからないと言われることが多かった私にそんなことを言った男がいた。理由と問うと、男は高慢で得意げに笑って言う。
――瞳を見りゃわかる。
不安などという役にも立ちもしないものが次から次へと湧いてくるのが堪らなく嫌だった。必要ないのに、そんなもの。人の営みのまま、私は歩むだけなのだ。
上司は彼の国に未来を見出した。この国のように成り得ると、そう言った。変化は悪か。気の遠くなるほどの長い歳月、移ろいゆく己の世界をこの目で見てきた。今は正直明るい未来など見えはしないが、好い変化というのも必ずあるはずだ。この先、それを掴み取ればいい。私は覚悟を決めて男を見上げた。強い意思を孕み、真摯に烈しい熱情を湛えた眼差し。師は瞬く間に表情を変えた。冷たく、ともすれば恐ろしく感じるような厳しい表情が、少年のような純粋さを孕んで笑みを浮かべた。くしゃりと些か乱暴に髪を撫でられる。
――お前なら出来る。なんたって俺様の弟子なんだからな!
不思議なひとだと思った。
ひとたび戦場に出れば、いち軍人として期待以上の能力を発揮するだろう師の国の軍隊は偉力に溢れ、その強さは疑う余地もなかった。怜悧な頭脳、屈強な肉体と精神。彼は誰よりも軍人然としていた。感情を切り離し、どこまでも理知的に振る舞える。理想を掲げ、それが高潔であることを疑わせない。このひとは、他人を簡単に騙すようなひとなのだろう。調子のいい佞言で己の――故国の利となる道を示す。そんなことは彼にとっては造作もないことなのだ。
純粋さなど失われた世界で、騙し騙され、幾多もの陰謀を掻い潜って、小国から成り上がった大国。そんな怖ろしい国そのものである男への警戒が薄れてしまったのは、一重に彼の意外性の所為に他ならない。
奸佞邪智の生死の近い世界で生きてきたはずの師は、明敏な頭脳と屈強な肉体を持ち、軍神のように戦場を駆けるひとなのに、人の子のように表情を変え、純粋な心を持っていた。ひとたび戦場から離れれば、無邪気に屈託なく笑う。子どものように唇を尖らせ、不満に地団駄を踏む。そんな二面性に驚いたのは束の間で、いつの間にか絆されていた。
師の指導はただ朴訥と事実を突き付けるような、そんな教え方だった。真綿で包んだ蔑視でもなく、建て前の称賛でもなく、邪智深い甘言でもなかった。だから、私は彼の言うことを信じることが出来た。信じてしまっていた。信頼を捧げることが出来た。捧げてしまっていた。その背を追えば、未来を作れるはずだと信じ込んでいた。彼は憧れだ。私は彼が作る理想の国家を見てみたいと、敵になるかもしれない相手を前に、そんな愚かなことを思っていた。
この過去の思い出を今だけは捨てようと思う。
瞳を見ればわかる。私にとって彼の言葉は真実だった。衷心など、容易く隠し切れるはずの男の瞳は何かを訴えて揺れていた。千重咲きの気高い椿のような瞳が主張している。私はそれをじっと見つめて微笑った。
「はじめまして、ギルベルトさん」
〝初対面〟の男に言う。
瞬間、花咲くように輝いた表情に一際大きく心臓は跳ねる。よろしくな、と言った男――ギルベルトは静かに続けた。
「何を話そうか……本田、菊」
火をつけたまま忘れ去られたように灰皿に置かれた煙草の匂いが、眼前の男と記憶にある男の姿を剥離させた。
本田菊――私は今ここで生を享けた人間に生まれ変わった。
Daydream play - 他人ごっこ
(続く)