君に捧げる詩:10

 

 日本からきた連絡にすぐに行くと返事をし、寝ているようだった兄の様子を見てから家を出ようとしたちょうどそのときだった。軽快な音を立ててチャイムが鳴る。玄関を開ければ、「チャオ!」と片手を上げたイタリアがいた。
 彼の熱烈なハグに答えていると、外套を着て車のキーを手にしたドイツに気づいてどこか出掛けるのかと聞いてきた。以前の日本とのやり取りと共に日本からきた電話の内容を伝えると、イタリアは目を輝かせて「俺も行く!」と元気よく手を挙げる。そう言われることはわかっていたが、思わずちらりと部屋のほうに視線を滑らす。正確にはその先の兄の部屋の方角を。
 イタリアはそれを見て察したのだろう。彼は困ったような顔をして「しょうがないなぁ」と言った。「プロイセンのことは俺が見とくよ」と笑いながら、勝手知ったるといった感じで奥へと入っていく。「おまえってすごいお兄ちゃん子だよね」と普段とはまったく違う静かな声音で、けれど揶揄うように言われて彼から目を逸らした。
 「行ってくる」と言ってイタリアを残し、外に出る。春になり昼間は暖かくなったとはいえ、まだ早いこの時間は肌寒さを感じた。
 本当は出来うる限り、兄の傍にいたかった。仕事だろうが何だろうが投げ出してでも。兄がいなくならないと確信するまでは。それをイタリアは全部お見通しだったのだろう。


 車を走らせて見えてきた光景に息を飲んだ。少しずつ増えていった木のことは勿論知っていた。蕾がついたのも知っていた。いつの間にかそれがこんなにも鮮やかに花開いていたとは。日本で見たことのある光景がそこには確かにあった。いや、俺が日本で見たものより少し色が濃いような。
 車を降りて、この光景を実現してくれた友人を探す。一つ一つは可愛らしい小さな花が一様に咲き誇ったその下で、それを見上げている姿を見つけて呼びかけようとして、思わず開きかけた口を噤んだ。彼があまりにも愛しげに、けれど切なさを湛えた瞳で見上げていたものだから。
 そっと近づいて「日本、」と声をかけた。先までの様子などすぐさまかき消して、日本はいつもと変わらない顔で振り返って会釈をしてくる。

「ドイツさん、急なお呼び立てをして申し訳ありません」

 仕事でイギリスに行っていたという日本はこれを見にドイツに来たらしい。公衆電話からかかってきた彼の声は普段より幾分か弾んでいた。桜が咲きました、と。

「構わない。すぐに帰らなければならないのだろう?」
「ええ」

 互いに忙しい身だった。

「それにしても美しいな」

 ほう、と呟けば日本が微笑む。

「ありがとう、こんなに素敵なものを贈ってくれて」

 日本は首を振って満足げに微笑った。
 ベルリンに桜を、というのは日本の提案だった。兄の体調が一向に良くならず、焦っていたドイツが日本にどうして普通にしていられる、と冷たく当たってしまったあの日。日本が桜を贈らせてください、と言った。私には何も出来ないからどうか、と。
 まだ小ぶりな枝の下、日本が着物でも軍服でもなく、スーツ姿なのが少し可笑しかった。そこまで昔だと振り返る年数が経ったわけではないのに、まるで何世紀も前のことのように思える。日本で桜を見たのが。いっそ、別の世界だと思うほどの、変わった今だった。
 しばらく無言で桜を見上げていると、ぽつりと日本が小さく呟く。風に攫われてしまいそうなほどのささやかな声で。

「桜花 今ぞ盛りと人は言へど 我れは寂しも 君としあらねば」

 咄嗟に日本の顔を見れば、眉根をぎゅっと寄せていた。呟かれた言葉の意味がわからず、その意を問うと日本は苦笑して「何でもないです」と首を振る。
 まただ、と思った。眉根を寄せたのも一瞬で、それは幻覚だった言われてもおかしくないくらい瞬く間にいつも通りの顔に戻る。少しでもその心に近づこうとすれば、その道は瞬時に閉ざされてしまう。
 わからなかった。日本が何を考えているのか。それはいつだってそうだった。その深い海底のような瞳の奥は覗こうとしても全く見えない。気がつけば、すっと自然と遮られているのだ。それは兄とよく似ていた。兄もその胸の内を決して見せてはくれない。

「俺にはよくわからない。お前が何を考えているのか」

 思わず零れたドイツの声は冷淡というより不安を湛えていた。日本が微かに目を見開いてから困ったように眉を下げる。暫しの沈黙のあと、日本が唇を薄く開いた。

「……立っていられなくなりそうで」
「え…?」
「今、あの状態のあのひとの瞳を見て……名前を呼ばれて。そうしたら…身も世もなく縋りついてしまいそうで」

 大ごとな内容とは裏腹に静かな声だった。
 ぼんやりと開いたばかりの花弁を眺める日本の横顔を見つめて、ドイツは思わず口を開いた。

「それは……俺だって――

 その先はとても言葉に出来なかった。縋りついてしまいそうだと、何度思ったか知れない。寝台に横たわり、ぴくりとも動かない兄の姿に、子どものように喚き散らしてしまいそうだったのを必死に堪えた夜を、もう何度過ごしたことか。
 駄々を捏ねる幼子のように言ってしまいたかった。
 ――いかないで。ひとりにしないで。
 勿論口にすることなど、とても出来なかったけれど。

「違います」

 耳に届いた否定に、思考の海に沈んでいた身体が弾かれたように日本へ向いた。

「連れていってほしい」
「え……」
「と、縋りついてしまいそうで」

 ここでようやく日本がドイツを見た。表情は変わったとは思わなかった。ともすれば無表情とも思える顔で、けれど二つの眸だけが真摯に、そして燃えるような熱情を湛えていた。その言葉が嘘偽りでないことは明らかだった。

「……すべて。この世のすべてを視界から放り出し、ただ己の…本田菊の直情のままに」

 ふ、と日本の表情が緩んだ。苦く微笑った彼は懺悔室へ赴くような顔を一瞬だけ見せた。

「それがすべてではありません。私は〝わたし〟です。私はこのままで在りたい。……できることなら、変わらず。私が私であることが存在意義です。そして、あの人にもそのままで在ってほしい」

 だから、と日本は続ける。

「会いたいけれど、会いたくないんです。縋りつきたくないんです。身も世もなくあの腕にしがみつきたくないんです。だから…」

 日本は微笑った。いつものように。

「会えません」

 そして、きっぱりと言い切った。

「あの人が元の…元気な姿でないと、会えないんです。……わかっています。こんなこと単なる私の我が儘です。でも、私は私を失うわけにはいかない。他でもない、あの人の教えで生き永らえた、わたしを」

 真っ直ぐに見つめてくる日本に、ドイツは思い出したように呼吸をした。
 ドイツは彼の言葉をゆっくりと噛み砕いて、何とか理解して、そして微苦笑した。その何とも言えない笑みに、日本も似たような顔をする。
 自分を失うわけにはいかないと言った。それはわかる。当然だ。その理由を列挙することなど簡単だ。護り続けた地のため、神のため、そして、民のため。それが当たり前の――いや、我々が挙げるべき理由だ。だが、この男はなんと言った。
(……『あの人の教えで生き永らえた私』、か)
 言うに事欠いて、そう言い切ったのだ。勿論、それがすべてだと思っているわけではない。言外に当然の理由も含まれていることはわかっている。けれど、そこと同列にプロイセンが含まれているというのが問題なのだ。もう彼は、民へ注ぐ愛情と同等の――種類に少しの違いがあるとしても――少なくとも同じ量の情をプロイセンへと注いでいるのだ。
 彼はもう失くせない。その大きすぎる情の対象を失くしては生きていけない。それこそ、民がいないと国が亡くなるのと同様に。



 重い身体を引き摺ってリビングに向かった。ずっと自室に篭っているのはさすがに気が滅入る。もとより滅入っているが、少しは身体を動かしたほうがいいだろう。そう思いつつリビングに足を踏み入れたとき、ソファに座る人物にプロイセンは目を丸くした。

「イタリアちゃん?」

 呼び掛けた声にハッとして振り返ったイタリアが驚いたように目を瞬かせてから、にこりと笑った。うん、相変わらず可愛い。

「プロイセン、起きたんだ」
「ああ。てか、ヴェストは?」

 部屋にはイタリアの他に人の気配はなかった。

「ドイツなら、に――

 不自然に言葉が止まる。

「に?」

 イタリアが緩く首を振った。

「…ううん。何か用事があるって。すぐ帰ってくるみたいだけど」
「そか」
「勝手にあがってごめんね」
「イタリアちゃんならいつでも歓迎するぜ」

 イタリアが「何か飲む?」と立ち上がるのに、別にいいのにと制する間もなくキッチンに向かった背を見て、いれてもらうかとソファに座った。
 ああ、やばいと顔を顰める。いつもよりは良好な身体だと思っていたが、そんなことはなかったらしい。ほっといたら下りてきそうな瞼をどうにか開けておく。どうやって自然に自室に戻るかを思案するが、働かない頭は中々良い案を出してはくれなかった。そもそもソファに座ってしまっている時点で、少なくともイタリアが厚意でいれてくれた飲み物を飲み干すまで自室には戻れない気がする。
 そうこうしているうちに、イタリアがキッチンから戻ってきてしまった。カップを手に戻ってきたイタリアに「ダンケ」と言いながら、それを受け取る。
 少しの沈黙のあと、向かい合うように前に座っているイタリアが「ねえ、」といつもの彼らしくない少し硬い声を発した。ん? とイタリアの顔を見れば、アンバーの瞳が強くプロイセンを射貫いていた。

「俺ね、プロイセンのそういうところ嫌い」
「へ…?」

 突然の嫌い発言にショックよりも先に驚いて間抜けな声が漏れる。

「体調悪いんでしょ」

 その言葉には疑問符などついてなくて、そうなんだろうと強く断言していた。いつにない力の篭もった眼差しがプロイセンを貫いている。

「でもそうやって何でもないって笑うところ、嫌いだよ」
「はは、辛辣だな。イタリアちゃん」

 今の体調の悪さがイタリアに見抜かれていることが衝撃だった。隠し事は得意なほうだ。今まで幾度も隠し通してきたというのに。そんなプロイセンの内心まで見抜いたのか、イタリアは「俺にバレるくらい酷い体調だってことだよ」と言った。
 笑うところが嫌いと言われたにも関わらず、浮かべてしまったのは苦笑だった。そんな俺を見てイタリアは不満げに眉を寄せる。いつもののほほんとした顔や、可愛らしい笑顔を浮かべない彼の整った顔は怖ろしいくらいだった。
 ああまた、と胸が痛む。今の俺はこんなふうに誰かの顔を歪めることしかできないのだ。この間見舞いに来てくれたフランスも、いつも看病してくれるドイツも。それが嫌で堪らない。ならいっそのこといなくなったほうが楽なのだ。大切な奴らの顔を歪めることしかできないのなら。

「………頑張らなくていいって」

 無表情ともとれる顔をしたイタリアが絞り出すように口を開く。

「頑張らなくていいって言ったんだ、あいつ」
「あいつ?」
「俺、プロイセンや…――日本が」

 不自然な間があった。何かを吐き出すようにゆっくりと続けられる。

「いなくなっちゃうって思ったことがあるんだ。二人とも当たり前のように傷だらけになって、当たり前のように大丈夫って笑うから。大丈夫なんかじゃないよ。みんな、あのときは大丈夫なんかじゃなかった」

 イタリアは今にも泣き出しそうな顔をして俺を見た。

「俺、すっごく怖かったから。怖かったけど、みんなと離れるのも笑いあえなくなるのも嫌だから、頑張んなきゃって思った。だからドイツに言ったんだ。俺、頑張るからって」

 イタリアが真っ直ぐにプロイセンを見つめる。必死に、何か縋るような色を纏った視線が痛いほどに注がれている。

「そしたらあいつ、頑張らなくていいって言った」

 頑張らなくていいって、言ったんだよ。
 イタリアは噛み締めるようにもう一度繰り返して俯いた。

「頑張らなくていいから生きていてくれって、ドイツは言ったんだよ」

 ――生きていてくれ。
 ドクリと心臓が一際強く鳴った。

「…ねえ」

 イタリアが俺を見る。強く、真っ直ぐに。

「それがあいつの願いだよ」

 ドイツがそれを言ったときはイタリアに向けてだったのだろう。だが、それは同時に俺に対してでもあると知っている。俺や、それこそ当時同盟を組んでいた日本にも確かにそう願っていたはずだ。
 あの激動の予感をひしひしと感じていた頃。明るい未来など微塵も思い描けなかったとき。故国を守るためならばこの身がどれだけ壊れても構わないと化身ならば誰もが思っていただろう、その最中。ドイツは言ったという。何をしてほしいとか、そういうのを一切取り払った願いを。ただ、その命の鼓動だけを。
 生きていてほしい。その言葉は純粋に嬉しかった。何が出来なくても、そこにいてさえくれればいいのだと。それは真の愛情だ。けれど、だったらどうすればいいというのだろう。俺はもう亡国だ。こんなふうに身体のあちこちにガタがきているというのに。諦観が過ぎるのは仕方のないことではないか。

「……そういう顔するのが嫌なんだって。何度言ったらわかるの、プロイセン」

 その怒りさえ滲んだ声音にハッとしてイタリアを見る。俺はどんな顔をしていたというのだろう。

「わかってるよ……無茶言ってるって。どうすればいいのかわかんない。わかんないけど」

 イタリアが悲嘆と憂戚に眉を下げて口早に言う。わかんないよ、と。それは皆、そうだ。俺がどうすればいいのかわからないように、誰も彼も俺を、亡国を、どうしたらいいのかなんてわかりゃしない。
 ごめん、とイタリアが小さく呟いた。彼が謝ることなど何もないというのに。哀しげに俯くその顔はやはり見たくはない。どうして俺はこんな顔をさせてしまうことしかできないのだろう。己の不甲斐なさが惨めで仕方なかった。


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「桜花 今ぞ盛りと 人は言へど 我れは寂しも 君としあらねば」
 作:大伴池主 『万葉集』 巻18
(桜の花は今盛りと人は言うけれど、私は寂しいのです。あなたと一緒にいないので)

(続く)