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君に捧げる詩:09
ドイツさん、と呼び掛けられた声に振り返れば日本がちょこんと立っていた。
彼は仕事が欧州である度にドイツの自宅へと訪れては、プロイセンの顔を見に来る。忙しいであろうその合間を縫っては足を運んだ。それなのに日本が来るとき、タイミング悪く、プロイセンは殆どの確率で寝ている。というよりはその体調の悪さから気を失っている、と言ったほうがいい。プロイセンは未だほぼベッドの上で過ごす状態で目を開けていることのほうがまだ少ないが、それでもドイツは兄と話す機会はあった。意識が混濁していてもプロイセンは昔のように不敵に笑って、ドイツの頭を撫でては「ごめんな」と言うのだ。その前に入る言葉はきっと、迷惑をかけて、とかそういうことなのだろう。そんな謝罪ならば受け入れたくはなかった。
日本はプロイセンがドイツの自宅で療養してから、会話は一切してないという。彼は眠るプロイセンの顔を少しの間眺めるだけで、いつもすぐに部屋から出てくるのだ。そしてこうして「ドイツさん」と普段と変わらない表情で呼び掛けてくる。
「…もういいのか?」
問いかけた言葉が少し尖ってしまったのを自覚して唇を噛む。
「ええ。仕事もあるのですぐに帰らないといけないので」
いつもお邪魔してすみません、と毎度のように言われる台詞にさらに苛立ちが募った。
日本はこれで満足なのだろうか。ほんの少しだけだ。ほんの少しの間だけプロイセンを眺めて帰ろうとする姿は、ドイツには薄情にも見えた。
兄と再会を果たす前。十五夜という日だった。日本はあれほどの熱情をプロイセンに向けていたというのに。気が触れてしまいそうだとも言っていた彼は、この状況は不安ではないのだろうか。ましてや、いまだちゃんとした再会を果たしていないというのに。
気が気じゃなかった。一向によくならない兄の体調。そうやって苦しんで、痛い思いをして、そしてそのまま――。
ドイツはいつもと何ら変わらない日本の顔を見下ろしながら「どうして」と呟いた。日本がドイツを見る。
「どうしてそんなに普通にしていられる?」
低く紡がれた己の声は確かな苛立ちを孕んでいた。
日本が息を飲む。目を僅かに見開いてから、困ったように眉根を下げた。
「普通、ですか…」
しばしの間、しん、と静まった部屋に落とされた声は小さく紡がれた。続く言葉を待つと、日本の唇が何か言おうと開く。けれどそこは直ぐさま閉じられ、微かに揺れた唇は躊躇うように何度か開いては閉じるという動作を繰り返した。日本がぐ、と拳を握り締めたのを見てドイツは己の間違いに気付く。ひどい言葉を投げかけてしまったのだと。
彼が感情を隠すことが殊更上手なのを今更思い出した。その奥底に触れさせないことなどわかっていた。それこそ、兄と同じように。
すまない、とドイツが言おうしたのを遮って日本が口を開く。
「では、ドイツさん。ご相談があるのですが」
聞いてくださいますか? と日本は寂寞を纏った困ったような微笑を浮かべた。
ドイツの葛藤を彼は瞬時に見抜いていたのだろう。
謝罪などしなくていいのですよ、と言外に優しく誘導されるのはいつものことだった。彼は人にはよく頭を下げるというのに、下げられるのは苦手だといつの日か言っていた。
困ったような笑みは少し壁を感じて哀しくなる。それでもドイツは何でもないように、珍しい日本からの相談の内容に耳を傾けた。
「あら、起きてたんだ? 今日は体調いいみたいだね」
寝ていると思って静かに開けたドアの先、プロイセンは上体を起こし枕元の水差しに手を伸ばしていた。
「あ? ああ。何か用かよ」
「用って…」
ハァ、とフランスは深い溜め息を吐いた。
昔より随分と痩せこけた顔で、何でも無いことのように話すプロイセンに呆れる。
「お見舞いにきただけでしょうが」
「…そうかよ」
「お腹空いてる? 何か作ろうか?」
「いや、腹は減ってねえ」
「そう」
部屋の隅に置かれた椅子を持ち上げて、ベッドの傍に置いて座る。どうせこの男の弟が甲斐甲斐しく看病とかするのだろうからベッドの傍に置いとけばいいのに、いつ来ても椅子は部屋の隅に置かれていた。
……嫌なのだろう。弱りきった姿をこの元軍国は見せたくなどないのだ。けれど、心配なのはわかってほしい。鋭い眼光の面差しもなく、緩慢な動作でグラスを傾ける男を見ながら口を開いた。
最近あった何でも無いただの世間話をつらつらと話す。プロイセンは楽しげにケセセと笑う。むぅっと口を尖らせる。昔と何一つ変わらない仕草で、けれど昔より痩せ細った姿で、フランスの話に応じていた。
「――それで日本が……」
この間のいつも通り踊りまくった会議での騒ぎの話の途中。ふいにプロイセンが掛け布団の上に置かれた右手の小指を撫でた。何度も何度も小指を往復するその仕草が目についたのは、プロイセンの表情が急にそれまでとは違う何かに囚われたように見えたからだ。それが何なのか、本心をいとも容易く隠してしまうこの男からは読み取れない。だから、直接聞くことでしか真意は知り得ない。フランスは静かに口を開いた。
「小指がどうかしたの?」
「あ?」
「いや、何かずっと撫でてるから」
「……別に」
プロイセンは指摘されて、その撫でる仕草をすっとやめた。
小指。その言葉を口にしたとき、既視感を覚えた。最近、どこかで小指と口に出した気がする。いつだったか。ああ、あれは。
変に途切れた話題により沈黙が降りていたそこに「そういえば」と口を開いた。
「小指と言えばさ、この間日本に行ったときに面白い話聞いたわ」
「……へえ」
「日本の家行く途中で子どもが小指と小指絡ませて何か歌ってて、それを日本に話したわけ。そしたらそれは指切りって言う約束事を守るときにする行為なんだって」
「…指切り」
「そう。なんで小指なの? って聞いたら、もとは男女が愛情の不変を誓うための行為からきてるって言うのよ」
「は…?」
目を丸くするプロイセンに笑う。
「そうそう、そういう反応するよね」
日本はプロイセンと同じような反応をしたフランスに苦笑して、困ったように眉尻を下げていた。
「他人に対して義理立てをすることを心中立とか言って、特に男女が愛情を守り通すことを指すんだって。で、遊女が客に対して心中立てするその内の一つに指切ってのがあったらしいよ。小指を切って渡すんだってさ」
――小指を第一関節から切って渡すのです。
そう言った日本は自分の小指をゆっくりと撫でて目を細めた。それこそ、つい先ほどのプロイセンの仕草と同じように。
「それ程の激痛を味わってもいいっていうほど貴方を愛してるっていうことだって」
わあ、熱烈! なんて言ったフランスに日本はそうでしょう? と静かに笑った。
――心中っていうのは真心を意味するのです。真の心意がそこには込められているのですよ。
日本はそう言って緩やかに微笑んだ。そこに隠しきれない切なさを見た気がするが、深く問い詰めることはしなかった。信じられないほど長く生きているのだ。指切をしてもいいと思うほどの真心を抱いたことも、彼の過去にはあったのかもしれない。
「日本って慎ましいとか奥ゆかしいなんて言われるけど、案外情熱的だよねえ。お兄さん、ちょっと怖いくらいだよ」
指を切って渡すなんてさ。
そう続けた言葉に返事が返ってこないことを怪訝に思い、思考の波からプロイセンに視線を向ければ、手のひらで顔を覆っていた。
「あれ、どうしたの。ぷーちゃん」
「……いや、何でもねえ」
体調が悪くなったのかと焦ると「違ぇから」と首を振られた。
手のひらを外したそこに現れた顔は目許を微かに染めて、どこかむず痒いとでも言いたいような表情を浮かべていた。そしてその表情が切なげに歪められ、きゅっと唇が引き結ばれていく過程を間近で目撃してしまい、フランスはぽかんと口を開ける。
(なに、その顔……)
思いも寄らない顔に呆けていると、遠くでガチャリと玄関が開いた音と足音と共に「フランス? いるのか?」と問うバリトンが聞こえた。
「あ、帰ってきたね」
「は? お前、ヴェストがいない間に来たのかよ!?」
不法侵入じゃね!? と片眉をあげて睨まられる。
「ちょ、人聞きの悪いこと言わないでよ! ちゃんとドイツに許可取って来たっつーの」
ほら鍵、と目の前でぶら下げると心底嫌そうな顔をされた。
「…ヴェストの奴。無用心すぎんだろ」
「え、何それ。信用なさ過ぎてお兄さん傷つく」
「当たり前だろ。ヴェストは国でお前も国だろーが」
そう簡単にしていいことじゃねえ、と眉間に深く皺を刻むプロイセンにフランスの口許が歪んだ。
フランスは椅子から立ち上がり、部屋のドアに向かいながらドイツに聞こえるように大きめの声で「いるよ」と返事をしてから、プロイセンを振り返った。
「友人として来たつもりだよ、俺は」
「……………」
「……ねえ、昔よりは平和になったと思わない? 心配くらいさせてよね」
ドアを開けて出て行こうとした後ろから、「…Danke」と小さく聞こえたことに笑いながら、ひらひらと手を振ってその場を後にした。
――昔よりは平和になったと思わない?
ああ、思うよ。
戦いに明け暮れていた俺は平和でなかった昔に置き去りにされたままだ。戦って戦って戦って。戦うことしか知らない俺を必要としなくなった世界。今さらどうやって生きていけと言うんだ。この俺に。
ぐらり、と揺らいだ視界に身を任せて、ベッドに背中からぼすんと身体を投げ出した。寒気が身体を包む。また熱でも出たのかもしれない。
右手を眼前に翳して、小指を立てて他の指をゆっくりと握った。
「指切りげんまん……嘘ついたら………」
――嘘ついたら針千本飲むことになりますからね。
はは、と力無い笑声が漏れた。
「針千本は怖いよなあ…」
――それ程の激痛を味わってもいいってほど貴方を愛してるっていうことだって。
フランスの言葉が頭の中をぐるぐると巡る。
いや、あれはただの約束を守ることを誓う指切りだったのだろう。けれど、フランスの言葉を聞いたときに心臓がやけに煩く高鳴ったことに動揺した。それほどまでの愛情を向けられるのというのはどんな気持ちなのだろう。
フランスは日本が意外と情熱的だと言った。そうだ。そんなこと、俺はもっと昔から知ってる。あいつはその能面みたいな顔とは裏腹に厚く深い情に溢れていて、些細なことに心を痛める。些細なことで歓喜する。そんなこと、
(俺だけが知ってればいいとか…)
そんなふうに思ってしまったことが嫌だった。
「…情けねえ」
忌々しげに漏らしたあと、ドアの向こうから「兄さん、入るぞ?」と問う弟の声が聞こえて、慌てて上半身を起こした。
部屋に入ってきた弟が俺の顔を見て安堵の表情を浮かべるのをただ茫洋と見つめる。
「今日は体調が良いみたいだな」
「ああ、絶好調だぜ!」
ぐわんぐわんと煩わしく響く頭を叱咤していつものように笑うと、ドイツはよかったとほっとして笑みを浮かべた。
愛しい弟。先までフランスが座っていた椅子に腰を下ろしたその弟の頭を撫でる。昔ならやめろとすぐに制したはずの弟は、俺がこんな状態になってからはされるがままだ。そのことにちくりとした胸の痛みが生じたことを無視しながら、愛する弟の撫で心地を堪能した。
本当はこの場所から離れたかった。心配されるのも、お見舞いと称して顔を見せにこられるのも、甲斐甲斐しく世話をされるのも嫌で堪らなかった。煩わしいわけではない。心配されれば嬉しいとも思う。
けれど情けなくて仕方がないのだ。こんな弱い姿など誰にも見られたくなかった。
自分と同じ存在の健康で元気な姿を見ると、己との対比が際立って心臓がきりきり痛んだ。そんなつもりはないとわかっていても、どうしてお前は生きているんだと何か、責め立てられている気になった。
この世界に俺の居場所など既に無いというのなら、いっそ潔くいなくなってしまいたかった。こんな風に未練たらしく重い身体を引き摺っていたら、何も出来ない自分が情けなくて、嫌で嫌で堪らなくなる。
思うように動かない身体を酷使して、ありとあらゆるものを壊してしまいたい衝動が湧き上がってきて自嘲の笑みを浮かべた。
ああ、そういえばあいつは俺のところへ来ない。ヴェストも日本が来たとは言わないのだから、来ていないのだろう。よかった。こんな姿見られたくなかった。あいつに哀れみの視線を向けられるのはご免だ。
そう思うのに、あの約束は覚えていてほしいなんて思うのだからどうしようもない。会いたいけど会いたくない。もう頭の中も心の中もぐちゃぐちゃだ。こんなのはもう嫌だ。こんな状態がいつまでも続くなら、いっそ一思いに――。
「兄さん?」と不思議そうに問われ、ヴェストの頭を撫でていた手が止まっていたことに気づいた。
やはり体調が、と徐々に心配さを増していく顔を見ながら、昔に思いを馳せた。弟ができて、何よりも愛しい存在を得た。その弟の存在により、プロイセンという名が国ではなくなった。それを哀しんだことはない。たとえ、いつか消える運命だとしてもこの総てを受け継ぐ愛しい弟がいるということに感謝した。世界一、幸せな兄だと思った。だから、こいつの邪魔になるくらいならいなくなったほうがマシだ。
「愛してる、ヴェスト」
思わずそう口にしていた。こぼれ落ちそうなくらい開かれた青空色の瞳を見て、ああ失敗した、と思った。すんなり口を衝いた愛情は、長らく言葉にしていなかったものだ。まるで別れの挨拶みたくなってしまったことに苦笑する。ヴェストもそう思ったのだろう、ぎゅうっと握ってくる手に力加減くらいしろよと笑う。
まったく、そろそろ兄離れしろよ。いくら俺様が小鳥のように格好良くて素晴らしい兄貴だからってよ。
俺の手を握りながら、顔を青くしている弟をもう片方の手で撫でていると、弟を膝の間に抱えていろんな話をした昔のことを思い出す。
木漏れ日が降り注ぐ中庭。視線を感じて気づかれないように見上げた先にいたのは、そういえば日本だった。部屋の窓からこちらを見ていた彼がどんな表情を浮かべていたのかは知らない。あいつはあの頃のように一人で思い詰めているのだろうか。碌に休まないで体調を崩していないだろうか。
(……――あいつが、)
あいつが愛する桜のように潔く散ることができたなら、千年先まで覚えていてもらえるだろうか。あの男の深い黒曜の海の底に、こんな男がいたと仕舞っておいてもらえるだろうか。そうであるのならば、それは。
(………なんて幸せなことだろう)
(続く)