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君に捧げる詩:08
上司を踏まえた事務的な会話のあと、部屋に残れ、とその化身だけを呼び止めた。少し話をしてみたいというただの好奇心だ。
プロイセン自身は別にその男を劣等人種だと蔑んでいたわけではない。だが、国を開いて間もなく、列強たちに搾取されるだけの哀れな存在であったことには間違いなかった。
豊かな自然に溢れ、活気づく街。幸せそうに笑う好奇心旺盛な人々。海の要塞に守られ、自国の民だけで育んできたそこはまさに楽園であったのだろう。そこが今まさに壊れようとしている。やはり、哀れな存在である。
しかし男は生き残るために教えを請おうと、俺のもとにやってきた。数ある欧米諸国の中、俺のところへ。
男を見下ろす。女のように小さくて細い身体。鋭さなど欠片もないような静かさを湛えた瞳と小ぶりな鼻、薄い唇。まだ庇護を必要とする子どものような姿だ。見下ろした先の夜の海のような瞳とは、なかなか目が合うことはなかった。その態度が少しばかり苛立ちを誘う。
「お前はどうしたいんだ?」
「どう、とは?」
「俺から学ぶ目的は?」
男はきょとんと目を丸くする。それはそうだろう。分かりきった質問だ。
「生き残るため、じゃねぇよ。生き残ってその先だ。お前はどうしたい?」
「あなた方と手を取り合える存在になれたらと思います」
そう言った男の瞳は揺れることなく、ただ純粋に俺を映していた。ついこの間まで、ぬるま湯に浸かっていたこの男は強引に引っ張り出された世界で、そんな甘っちょろい戯言を口にした。
嗚呼、やはりこの男は哀れである。お前の飛び出した世界は手を取り合うなどと云う優しいものではない。そこにあるのは自国のためだけの利益で、永遠に続く友情などでは決してない。
ハッと鼻で嗤う。それに対して男は苛立ちの表情一つすら浮かべなかった。
「それが出来なかったら?」
男は俺の言葉に不思議そうに首を傾げる。お前は本気で思っているのか。手を取り合える、信頼し合える、と。馬鹿な男だ。
「お前がどんなに力をつけても、例え世界の舞台に立つことができても、大国たちが認めなかったら? 違う存在だからと振り払われたら?」
人種、文化、信仰の違いは途方もなく高い壁だった。こちらの世界が創り上げた秩序の中で、極東にぽつんと浮かぶ島国がすんなりと受け入れられるはずはなかった。男が進もうとする道は、彼にとっては途轍もなく苛酷で、舗装など一切されてない道…いや、道ですらないそこを男は一人で切り拓いていくしかない。
男が瞠目する。はく、と何か言いたげに唇が震えたのを冷たい眼差しでただ見つめた。
和を以て貴しとなす。
男が生きてきた世界はそういうものであるという。だが今のこの世界に和などあったものではない。手を取って笑い合えるなど幻想だ。弱者は強者によっていいようにされる。弱肉強食、それがすべてだった。
男がゆっくりと息を吐いて、目を閉じる。諦めたように閉じられたと思ったそこは次の瞬間にはもう一度開かれた。それを見て息を呑む。
「ならば、世界の秩序を変えるまで」
それまでは一切無かった鋭さがその瞳には確かにあった。凜として張り詰めたような空気が男を包む。まるで先とは別人のように様変わりした男に、プロイセンは僅かに目を見開いた。
つい先程子どものようだと思ったそれは、冷酷かと思うほどの鋭さを現した。闇色のそれは底が見えない深い深い海のようだ。その奥底には一体何があるというのだろう。
世界を変える、という。何百年も、当然のようにまかり通ったルールを変えると言う。男は自国のためにそうすると平然と言いのけた。ぞくりと背筋を何とも言えない衝動が駆ける。
ああ、この男は哀れな存在などではない。ましてや庇護を必要とする幼子などでも決してない。
Stille Wasser sind tief.(静水は奥深い)
そんな言葉が脳裏を過ぎった。
無意識に口端が上がる。男はすでに先ほどの鋭さなど欠片もなく、いつも通りの無表情で静かに佇んでいる。
(面白いじゃねぇか)
その深く静かな奥底に俺たちの紡いできたことが吸収されたらどうなるのだろう。この男は、それらをその深淵に持ち続けてくれるだろうか。……俺がいなくなった後の世界でも。
「一つだけ言っとくぜ」
「はい」
「俺はずっと戦って生きてきた。この邪知奸佞の欧州で、信仰も民族も関係なく、ただ強さだけを求めて。無様だと嗤われようが、しぶとく生きてきた。小国はな、なりふり構っていられねぇ。大国の作ったルールに振り回されるからな。だが俺は欧州だ。お前は違う」
違う、と言ったとき、男の瞳が微かに揺れたのを見逃さなかった。
「いいか、お前は負けたときが終わりだと思え。お前の兄みたくなりたくなかったらな」
しばらくの間を置いて「兄ではありません」と男が言った。柔らかさの欠片もないひどく冷たく硬い声。違和感があった。沈黙の長さ、静かではあるが先までと別人かのような冷酷な声音。そして何よりはっきりと〝違う〟と否定した。
お前は手を取り合いたいと言った。西の連中――俺たちと。そんなこと言う男が真っ先に手を取り合いたい相手は、かの国に他ならないのではないのか。東洋で寄り添うあの男ではないのか。こいつはこんなナリをしていながら、二千年以上生きてきたという。世界から切り取られたように浮かぶ島国でたったひとりきり。そんなお前を見つけ、初めて触れた同じ存在。何千年と手を取り合っていたはずの男。お前は、かの国の未来を憂いていたのではないのか。イギリスに大敗したかの国に愕然とし、西洋によって東洋が飲み込まれてしまうと憂い、ならば真っ先に手を組み、共に西へ立ち向かうと、そう考えていたのではないのか。……近しい場所に生まれた大切な家族、ではないのか。
そうかよ、と男の言葉に返しながらも内心穏やかではいられなかった。弟の姿が脳裏を過ぎる。兄ではない、と放ったそれに何故か弟の姿を重ねた。時代が進み、いつしかあいつも俺を兄ではないと言う日が来るのだろうか。
(……それは…嫌だな)
これがこの男の覚悟か。一度だけ訪れた東の果ての情景が瞼の裏に蘇る。あの景色は失われるのだろう。この男はこれから西洋に染まるのだ。
春になったらそこら中で桜が咲くんだよ、と満面の笑みで言った子どもがいた。異人である俺に物怖じせず、話しかけてくる好奇心旺盛な子どもたち。その未来は暗雲が覆う。誇らしげに、そして愛おしそうに、自慢するように語ったサクラを俺は目にすることはなく彼の地を去った。Kirschbl?te。辺り一帯をそれが覆う景色を見ることは叶わなくなるだろうか。一度でいいからこの目で見たかったと、何故かそんなことを思った。この男の国の未来など、俺には関係ないというのに。
「何卒、今後のご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます、プロイセン殿」と深く頭を下げた男は、顔を上げると俺と目を合わせた。ゆらりと揺れる瞳。あまりにぎこちない微笑み。その心許ない態度はやはり、先の秩序を変えるとまで言ったときとは別人のように見えた。
ああ、と応えながら、思わず頭を撫でようと伸ばしてしまった手を引っ込めて男を見据えた。
「手をもがれようが、足が引き千切れようが、這いつくばってでもしがみついてみせろよ」
生き残りたいと望むなら。これっぽっちも優しくないこの世界で。
何ものにも染まらない色の黒がゆっくりと見開かれて、じっと俺を見つめてくる。少しの間を置いたあと、男は「はい」と神妙に頷いた。
*
再会を心待ちにしていた。いつの日かきっと、何のしがらみもなく昔と同じように共に過ごせると。
昔より随分と痩せ細った兄の身体が地面に投げ出されるのを、ドイツは絶望に蒼褪めた顔で見つめた。咄嗟に動いた身体は兄の身体をどうにか受け止めることができた。腕の中に収まった兄はぴくりとも動かない。わずかに上下する胸だけがどうにか生を伝えている。
「……兄さん…」
何かが起きてしまうのではないかという危惧はあった。動かない身体は驚くほど熱い。高熱を出しているようだった。気を失った身体を支え直して、背後にいる友人に振り向かず声をかけた。
「……急いで病院に」
うん、と頷いた声は「もうすぐ会えるね」と再会を夢見て喜んだいつかの日とは正反対に涙声だった。
兄――プロイセンは、その後、数日間目を覚ますことはなかった。そして、ようやく意識を取り戻してなお、ひどい体調不良に苛まれることとなる。
兄の友人であるフランスは、「国の変動に身体がついていかないだけだよ。すぐ治るって」と努めて軽い調子でドイツを慰めたが、その国の変動というのが実質東ドイツの吸収であることは、強大な不安として胸の奥底に滞留し続けた。
化身の身体を医師が容易く治せるはずはなく、一日の大半をほとんどベッドの上で過ごすほどのひどい体調のプロイセンは、ドイツの自宅で療養することとなった。
その話を駆けつけてくれた極東の友人に心苦しくも話すと、彼はいつものように薄く微笑んで「そうですか」と応えただけだった。さざ波すら立てない静かな海のような彼の瞳は、いつの日か聞かせてくれた狂おしいほどの兄への慕情を垣間見せすらしなかった。
(続く)