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君に捧げる詩:07
「いって…!」
やべぇ。うたた寝するところだった。立ったまま寝るなんて器用な真似ができたのか、俺様は。
おそらくはほんの少しの間だけだ。それなのに、何かの夢を見ていたような。懐かしいメロディーが耳を流れたような。声が。そうだ、声が聞こえた気がした。あの声は。
「ヴェスト…?」
あいつは元気だろうか。幼い姿をしていたときの天使のような愛らしさと、自分をよく叱りつけてきた逞しくなった姿を思い出す。
それから、まるで走馬灯のように今まで出逢った奴らの姿が脳裏を巡った。
そして。
ああ、あいつは。
「…頑張ってるじゃねえかよ、馬鹿弟子」
今や経済大国となったその国。世界の真ん中にあいつは立っている。もう面と向かって弟子とは呼べないのだろう。また会えるかどうかもわからない。
懐かしい、と昔を思い出すのが何だか年寄り臭くて思わず笑った。昔、東洋のプロイセンなんて言われるようになったことには鼻高々だった。けれど、そんな俺の傍で本にかじりついて必死になっていた男が今はとても遠いところに行ってしまった。
(なあ、知ってるか?)
今は俺が東欧の日本、なんて言われてるんだぜ?
嬉しくもあり、けれどやはり昔は師だったからか、少し哀しいような、切ないような。もうあの男が追ってくるような自分では無くなったことを意味するのだから。
あいつは変わったのだろうか。あの酷い戦をひとり最後まで戦い抜いたあの男は、敗北から変わってしまっただろうか。
一度目の世界を巻き込んだ戦を思い出す。あのときはあの男は敵だった。敗北した故郷はとても酷い有り様だった。戦いばかりの日々を散々送ってきた昔より、遥かに。戦のあり方が変わったからだ。技術の進歩と共に。けれど、負けるというのはそういうことなのだ。
あのときの絶望を感じるしかない景色をあの男も見たのだろう。あの男がとても優しく、嬉しげに語った自国の景色は無惨に荒れ地と化したのだろう。
あの国が近代化を果たしたあと敵となり、その後、弟と同盟を結んだときに再会したときは安堵した。あの男の本質は何一つ変わってなどいなかったから。
けれど今回はどうだろうか。変わってしまったか? おまえだけの世界はなくなってしまっただろうか。今でも美しい四季を謳歌しているか? その中に。
(……その中に俺はまだいるか…?)
そんなことを考えた自分に自嘲した。それはそうあってほしいというあまりにも自分勝手な願いだ。あの日、あの男が自慢だという景色の中に俺を見出したりなどするから。
もう国はない。罪を背負い果てるはずが、未だ新たな世界のゲームの駒として生き残っている。国ではない国の化身。
俺はもう自分が誰かさえわからなくなってしまいそうだ。
プロイセンはもうないのだ。ならば、俺は。
自分の掌を見つめる。小指を立てて、そこに唇をそっと押し当てた。
『指切りと言います。約束を必ず守るという誓いです』
約束をした。見ていてやると。
国としてではない。一人の自我をもった者としてあいつを、本田菊を。
「……ホンダ、キク」
その男がその名の通り、高潔なままでいてくれることを願った。
ああ、できるならもう一度その姿を見てみたい。俺を尊いと言ってくれたおまえの姿を。
譬え、おまえの中に俺がもういなくても。
ピヨ。ふいに聞こえた鳴き声と額に感じた痛みに呻いた。
「痛ッ…おまえ、いつの間に…つか、額をつつくな」
小鳥がいつの間にか頭に乗っていた。小鳥。その囀りにハッとする。そうだ、あのメロディーは。
「Wenn ich ein Vöglein wär'
Und auch zwei Flüglein hätt',
Flög' ich zu dir.
Weil's aber nicht kann sein,
Weil's aber nicht kann sein,
Bleib' ich allhier.」
もしも俺が小鳥ならば
そして翼があるのならば
おまえの元へ飛んでいけるのに
でもそれは叶わない
俺はここにひとり
ひとり。独りなど慣れている。それなのにどうしてこんなに寒いと感じるのか。
俺は変わっていない。変わったのは世界のほうだ。時代が俺ひとりを置いていく。
あの男の寂しげに、そして自分を嗤うような表情を思い出した。
『まるで世界にひとり取り残されたかのようで』
「…おまえはこんな気持ちだったのかよ」
進んでいく世界と取り残された自分。それは百年以上も前にあの男が感じただろう孤独。
「日本…キク、菊」
本田菊、とあいつの名を呼んだとき、彼は瞠目して、それから泣きそうな顔で笑った。
師匠、と。あの柔らかい声が聞こえた気がした。それはきっと俺が望んだ幻聴なのだろうけれど。
もし叶うことなら、あの柔らかい声に呼んでもらいたかった。一度だけで構わないから。俺自身の名を。
呼んでくれないか、俺の名を。
おまえが呼んでくれるなら、俺が今ここに確かに存在していると信じられるから。
「Dass du mir viel tausendmal,
Dein Herz geschenkt.
(思い起こすは
君の贈り給いし数多の心)」
「歌なんて珍しいね」
ふいに聞こえた声に振り返る。
「哀しいの?」
その長躯から紡がれるには少し高い、子どもみたいな声音。けれど、その大国はいつも冷たい微笑を浮かべている。
「…嬉しいんだよ」
「へえ」
男は理解できないというような顔をした。
「じきに夜が明ける」
長く続いた夜が明ける。
男の瞳が揺れたのを見て俺は少し驚いた。彼もまた、未来を悲観しているのだと今更知った。
そうか。崩れていく世界、それをこの男こそしかと感じているのだろう。
「…太陽が昇るんだね」
嘲笑うようなその笑みとは裏腹に静かに紡がれた声はやけに哀しげに響いた。
太陽。そうだ。太陽が昇るのだ。長く続いた夜がようやく明ける。そしてそのとき俺は。
*
壁が壊れた。
その国の民たちの姿を日本は画面越しにじっと見つめた。
祈りの形に合わせた手が震えていた。気を抜けば叫びだしてしまいそうだった。
どうか。どうかあの人を連れていかないで。誰に対して願えばいいのかわからない。けれど只管に願った。どうか、どうか。お願いですから。
見つめ続けた無機質なブラウン管の向こう。あの人はどこにいる。
ああもう駄目だ。いてもたってもいられない。
日本は必要最低限のものだけを持って家を飛び出した。
空港へ向かうタクシーの中、窓の外に微かに色づき始めた紅葉が見えた。それを見て思わず小さく口ずさむ。
「両手を挙げて声上げて
万歳唱うる我々の
この真心は山々の
赤い紅葉が知っておろ」
「お客さん? どうかしましたか?」
タクシーの運転手の訝る声にハッとして苦笑いを浮かべた。
「…いえ、すみません。何でもないです」
外を眺める。ひらひらと色のついた葉が舞っていた。
(貴方が初めて我が国へ参られた季節ですよ)
降り立った地は肌寒かった。その冷たさが不安を掻き立てる。
「プロイセンさん」
祈りのように名を紡ぐ。
不敵に笑う姿が思い浮かぶ。力強い軍国の姿。
「師匠」
彼は時折、びっくりするくらい優しく微笑む。その不器用な優しさに触れたとき、強い憧憬を抱いた。
そして。
『ホンダキク』
名前を呼んでくれた。不慣れな日本語がその唇から紡がれたときの歓喜を忘れはしない。
それから約束をしてくれた。無理矢理紡いだ指切り。我ながら、ひどく女々しい感情を抱いたと思う。
(小指を貴方に、だなんて)
右手の小指に唇を寄せる。あのときのあの人の体温が残っていたらいいのに、と愚かにも思った。
国がなくとも、ただ貴方が、貴方自身がいてくれれば。それでいいのに。それだけでいいのに。それすら許さない世界なら、そんな世界など嫌いになってしまいそうだった。
「ぎる…、」
その名は。輝ける――、
「ギルベルト」
どうか。
貴方が凱旋する勇姿を見せてください。
(続く)