君に捧げる詩:06

 

 ドイツは布団に横たわりながらも眠れないでいた。身体はひどく疲れているはずなのに胸の中をじくじくと蝕む感情が寝かせてはくれない。
 隣からはイタリアの寝息が聞こえる。起こさないようにそっと上体を起こして彼の顔をぼんやりと見つめた。
『幸せになろうね』
 幸せになれるだろうか。俺はあの人に全ての罪を背負わせてしまったのだ。解体されたと聞いたときは絶望した。嘘だ、とわめき散らしてしまいたかった。あの人が東ドイツとして生きているとわかったときは安堵した。それと共にいつか来るかもしれない未来にもう一度絶望した。世界的に東側はもう体制が崩れつつある。再統一が叶ったとき、それは再会を意味するのか、それとも。
 怖くて仕方なかった。自分を象る基盤が崩れ去ってしまうような恐怖が、もうずっと己の身体に纏わり付いて離れない。
 ふいに遠くで何か声が聞こえた気がして耳を澄ました。イタリアを起こさないように立ち上がって客間の襖を開けて声のほうへ向かう。
 しん、と静まりかえった夜の帳の中、聞こえた微かな歌声にドクリと心臓が跳ねた。

「Des Preußen Stern soll weithin hell erglänzen,
 Des Preußen Adler schweben wolkenan,
 Des Preußen Fahne frischer Lorbeer kränzen,
 Des Preußen――……」

 この遠く離れた島国で聞くはずのない母国語のそれは。
 その歌は。その歌は…

「駄目だ…

 勢いよく口に出したはずの言葉は、どうしてか絞り出したかのようにか細く掠れていた。
 ドイツの声に驚いたように振り返ったのは縁側で空を見上げていた日本だ。歌声が途切れる。

「ドイツさん 眠れないのですか

 優しく問いかける日本の声。今、その声があの歌を歌っていた。

「…だめだ。その歌は」
「誰にも聴かれていないと思っていましたのに。ドイツさんにばれてしまいましたねえ」

 ドイツの硬い表情、イタリアなら怯え上がるだろう顔に物怖じもせず、日本は微笑った。

「どうです 私、ドイツ語上手くなったでしょう
「…日本」
「ふふ。でも発音はやはりまだまだですね」
「…どうして」

 日本が「こちらへ」と隣を指す。それに従って彼の横に腰を下ろした。

「どうして駄目なのですか

 そんなこと。そんなことわかっているだろうに。
 だってその歌は。
 誰も。誰もあの人のことを口に出そうとはしなかった。すべての罪を背負い、赦されない存在となったその人のことを。
 けれど日本は事も無げにあの人を讃える歌を紡いでいた。
 日本は優しい眼差しでぼんやりと空を見上げている。それを横目に見ながら、月明かりに浮かぶ彼の色にハッとした。重なる、あの御旗に。
 真っ黒の漆黒の髪。月明かりに照らされた白い肌。
 その色はあの人の旗の色だ。
 ドイツはふと鮮明に思い出した。あの人と今目の前にいる彼の二人が親しげに話す様子を。

「無くなっていくんだ…」

 日本の質問には応えないで別の言葉が勝手に漏れた。

「あの人の…兄さんのものが壊されていって」

 無くなっていく。全部、あってはならないと。

「…でも、貴方は覚えているのでしょう

 日本の言葉に鼓動が跳ねた。

「あの方が本当は優しくて、それに…ふふ、貴方と同じように生真面目で、努力家で…貴方にはとても優しい、慈しみの眼差しを向けていることも」
「…ああ」

 煩わしいと思うことはしょっちゅうだったはずなのに。どうしてか会えなくなって思い出すのは、逞しく勇ましい背中と、優しく笑ってくれた兄然とした姿だった。

「覚えているのなら大丈夫ですよ。無くなろうとも壊されようとも」

 大丈夫です。
 そう言った日本の言葉はまるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

「日本…君は、」
「……
「君は兄貴の…兄さんのことをどう思っているんだ

 まだあの日と同じ憧憬の眼差しを向けているのか。そうであってほしいと勝手に思ってしまった。
 日本はしばし沈黙してから、深く呼吸をしたようだった。

「…誰にも言わないと約束してくださいますか
 わかった」

 どういう意味だろう。

「私は…私はあの方のことをお慕い申し上げております」
「え…」

 ドイツはぽかんと口を開けた。漏れた声は間抜けなものだ。
 お慕い… それってつまり。

「……え…

 ドイツにとっては予想外の言葉であった。そんなこと欠片も考えてはいなかったのだ。
 ただ彼か兄に対して他とは違う接し方をするから。師として思ってくれているなら嬉しいと思っていただけなのだ。そして、今しがたあんな歌を歌うほどに兄のことを案じてくれているならと。

「申し訳ありません。貴方にとっては嫌かもしれませんが」
「い、いや、そんなことはない…

 というか想定外すぎて何も考えていない。

「に、日本…慕う、というのは…その、つまり」
「恋い焦がれている、ということです」

 日本が微かに頬を朱く染めた。つられて自分の顔も熱くなる。

「こんな爺が何をと思うかもしれませんが、これだけは譲れない想いなのです。あの方だけ、あの方だけが私を――…」

 日本が言葉を飲むように唇を噛んだ。ゆらり、と彼が手を伸ばす。その手が決して届かない月に伸ばされ、そして撫でたかのように見えた。
 その様を見ていたドイツは確信した。日本の兄に対する想いは真実なのだと、確かな想いなのだと色恋に疎い自分でもわかった。

「あの戦が終わってからもう幾度も季節が巡りました」

 日本がぽつりと溢す。

「私が焦がれているせいなのでしょうか。一年、また一年と巡る季節の中、あの人の幻が見えるのです」

 日本はいつものように微笑んだつもりなのだろう。けれどそれは少し歪んでしまっている。

「春の桜、夏の星空、秋の月、冬の雪。それらにあの人を重ねては、また一年過ぎてゆく」

 もう、と呟いた声が震えていた。

「…気が、触れてしまいそうで」

 不安なのだとその姿が物語っていた。それはそうだろう。そこまで想う人に会うことは叶わず、もしかしたら永遠に叶わなくなる可能性もあって。

「だから覚悟したのです」
「覚悟…」

 それは。あの人ともう会えないかもしれないということに対する覚悟か。その恋心を無くす覚悟か。
 そう考えたら哀しみと微かな苛立ちが浮かんだ。やはり日本もあの人の運命に諦観しているのか、と。諦めているのかと。

「ええ」

 日本が縁側から立ち上がり、今一度空へと手を伸ばす。彼にしては珍しく、少し張った声で静寂を切り裂いた。

「プロイセンの星よ、遥かに燦々と輝け」

 ドイツは目を瞠る。
 違う。違うのだ。日本の言う覚悟とは。

 プロイセンの星よ、
 遥かに燦々と輝け。
 プロイセンの鷲よ、
 雲の彼方に羽搏け。
 プロイセンの旗よ、
 若き月桂樹を冠せよ。
 プロイセンの剣よ、
 勝利への途を切り開け。

 日本が先程、歌っていた歌。
 プロイセンの歌だ。

「私は諦めません。譬え、何も出来なくとも。譬え、赦されなくとも。こんな極東の島国でもあの方を感じられるのです。どうして、いなくなってしまうと思っていられますか…

 目頭が熱くなった。
 嗚呼、兄よ。この声を聴いてほしい。貴方を想うこの男の想いを。

「私は諦めが悪いのです」

 知っているでしょう
 そう言って振り返った日本の瞳が爛々と輝いていた。そこにはきらきらと美しい星空が広がっていた。優しい眼差しが己を包み込む。

「あの方は我が国の桜を見たいと仰ったのです。だから、ぜひ見にいらしてくださいと。その言葉にあの方は笑ってくださいました。けれど決して頷きはしなかった」

 日本が懐かしむように目を細めてから、哀しげに笑った。

「聡い人です。きっと…貴方にすべてを託して、自らは緩やかに消えていくとでも思っていたのでしょうね」
「ッ…
「今の状況はあの方でも想像もしていなかったかもしれませんが」

 日本は顔を歪めた。

「だから、何が何でもその願いを叶えてやろうと…そう思ったのです」

 日本は苦く笑った。

「愚かだと嗤ってください。烏滸がましいと罵ってください。貴方の愛する御令兄を想ってしまった…恋と呼ぶには醜く浅ましい、私の執着を」

 嗤うなど。

「そんなこと」

 ドイツは立ち上がって、身長差のある日本を見下ろした。出来うる限り優しい眼差しで、と心懸けて。

「そんなこと思わない。俺は嬉しい」

 弾かれたように日本がドイツに視線を合わせる。

「ありがとう」

 ドイツは泣き出したいような気持ちだった。

「兄さんを想ってくれて」

 ドイツの心情と比例するように、日本がくしゃりと顔を歪めた。この男はこの大きすぎる想いを独り抱えて過ごしてきたのか。
 諦めが悪いと言った。けれど、違うのではないかとドイツは思う。何度倒れても立ち上がる、それは強さだ。
 今一度、この男をたった独り残してしまったことを悔いた。独りで世界と戦うこととなってしまった、その姿を想像して泣きたくなった。
 顔を歪め、それでも彼は涙を流さない。あの人なら、兄さんなら、流させてやることは出来るのだろうか。
 その腕を掴んで抱き寄せた。親愛の抱擁をどうしても交わしたかった。すっぽりと腕の中に収まってしまうその小さい身体が、いつか兄を抱き締めてくれることを強く願って。



 ふと、グスッと泣きべそをかいたような声が聞こえた。まさか日本が と思ったが、声が聞こえたのは背後からだ。

「うっ…ぐすッ、ヴェ…」

 ハッとして日本を離してから振り返れば、イタリアが号泣しながら立ち尽くしていた。
 思わず日本と顔を見合わす。日本はきょとんとしてから、くすりと笑った。

「おやおや。イタリア君も起きてしまわれたのですか

 その言葉にイタリアが勢いよくドイツと日本に飛びかかるようにして抱きついてくる。うぇ~と顔をぐちゃぐちゃにしているイタリアを二人して抱きとめた。

「そんなに泣かないでください。目が溶けてしまいますよ」

 きっと全て聞いていたのだろう。そしてイタリアは恐らく――

「…私たちの分まで泣いてくださるのですね」

 その通りなのだろう。
 泣けない俺たちの代わりに。
 ぐすぐす、と泣き続けるイタリアにドイツと日本は困ったような、けれど微笑ましいような顔をした。

「今日は三人で夜更かししましょうか」

 そう言った日本の笑顔を早く兄に見せてあげたいと、きっとイタリアも思っただろう。

 「そんな恰好では寒いでしょう 中に入りましょう」と言う日本に付き添われていたイタリアが口を開いた。

「うっ…ヴェ、俺、俺ね」
「……
「歌、聴きたい」
「歌ですか
「日本が歌うと優しい気持ちになるんだ。今聴いたら大丈夫だって、何とかなるって思える」
「俺も聴きたい」
「ドイツさんまで…恥ずかしいじゃないですか」
「コトダマ、でしょ
「…よくご存知で」

 日本は困ったように眉根を下げてから振り返って夜空を見上げた。彼は先ほどから幾度も星空を見上げている。彼にはその先に何が見えるのだろう。

「いつもいつもとおる夜汽車
 静かなひびききけば
 遠い町を思い出す」

 ドイツが息を飲む。

「そのメロディーは…」
「日本語の歌詞がつけられたのです。内容はまったく違うんですけどね」

 日本は微苦笑した。
 内容が違うと彼は言った。つまり、元の歌詞の意味を知っているのだ。
 イタリアはきょとんして泣き腫らした目を瞬かせた。

「Wenn ich ein Vöglein wär'――…」

 もしも私が小鳥であるならば。

 この宵が明ければ小鳥は囀るのだろうか。
 兄さん。聞こえているか。 貴方を想う彼の歌声が。

 

(続く)