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君に捧げる詩:03
プロイセンに師事をした日々も今日で終わりとなり、日本は帰国のときを迎えた。船には日の丸がはためいている。故郷へ帰ることのできる安堵の息が漏れたが、幾許かの寂しさが胸を覆った。その理由に自嘲する。
「日本、」
呼びかけた声の主を想っては跳ねる心臓に嫌でもその感情の意味を知ってしまった。知りたくなどなかった。知ってしまったら、焦がれてしまう。焦がれてしまったら、もう戻れない。
「…はい」
振り返り、見上げた師の姿は凜としていて眩しかった。
「怖いか?」
変わってしまうこと。世界へ踏み出すこと。それは。
「…少し」
思わず本音が漏れてしまって唇を噛むと、ぽん、と優しく頭を撫でられた。
「おまえなら大丈夫だ。俺様が教えたんだからな!」
ケセセ、と笑ういつもの姿にこちらまで笑みが浮かぶ。
「大丈夫」
彼の言う言葉にはきっととても強い言霊が宿っているのだ。だってそう言われると大丈夫だと心から思えてしまうのだから。
「…見ててやるから」
その言葉は少し間を置いて静かに紡がれた。
「見ていて…」
くださるのですか。
(私を…?)
「なあ、」
プロイセンが日本の背後を見ていた。その視線の先は国旗だ。
「寂しいか?」
「え…?」
その問いはどういう意味だろう。
「…いや、」
プロイセンは何かを言いかけてやめた。そして、ひどく真剣な眼差しを日本に向ける。
「日本」
「はい」
「日本……ホンダ、キク」
「ッ…!」
ドクン、と一際大きく心臓が跳ねた。
「見ていてやる。俺が…」
頭の上に置かれた手がするりと下へおりて、頬に添えられた。その熱に顔が火照る。
「ギルベルト・バイルシュミットがおまえを、ホンダキクのことを」
「…貴方が、私を」
「ずっと見ていてやるから」
「ずっと…」
そんな未来の約束をしてくれるというのか。それを約束と受け取っていいのか。
「だからおまえはひとりじゃない」
ひとりじゃない。
寂しいか、と彼は聞いた。それは日本の孤独を知っていたからだ。そして、それを祓おうとしてくれている。おそらくは彼の嫌う未来の約束をしてまで。
そうまでされて想わないわけがないではないか。貴方に焦がれないわけがないではないか。
(狡い、ずるいお人)
くしゃりと自分の顔が歪むのがわかった。
「それを忘れるな」
頬を撫でられる。優しい微笑みが見つめてくれていた。
気を抜けば嗚咽が漏れてしまいそうだった。口元を押さえてコクコクと必死に頷く。
彼は頬に触れていた手をもう一度頭に戻して、ひどく優しく撫でた。
優しく気高く勇猛で狡い人。
(けれど私も狡い男なのですよ)
言葉ひとつで安心を与えようとしてくれたのだろう。その言質を取らせていただきます。
「約束、してくれますか?」
視界がぼやけた。だが涙は流すものかと留める。
「本当に見ていてくださるのですか?」
「……ああ」
間の開いた返事。嘘だと肯定したようなものだ。だからそれを私が勝手に真実にしてしまおうと思うのだ。
右手の小指を立てて、プロイセンの前に翳した。
「何だよ?」
「約束するときはこうするんです」
プロイセンの小指に強引に自分のそれを絡ませた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本呑ーます、指切った!」
子どものように歌を紡ぐ。
「これは指切りと言います。約束事を守ると誓う行為です」
私は別の意味も込めてしまったけれど。
繋いでいた小指が熱を持つ。
「嘘ついたら針千本飲むことになりますからね」
「なにそれ怖えな。先に言えよ。指切りしちゃったじゃねえか」
「もう無効にはできませんよ。針千本飲みたくなかったら約束は守ってください」
プロイセンは目を瞬かせてから、思わずといった感じで笑った。笑ってくれたことにほっとすると同時につられたように笑みを浮かべる。
そろそろ行かなければ。
出航間近となった船へ足を向ける。プロイセンには背を向けて。
プロイセンの大きな手がぽん、と力強く日本の背を押した。
まるで、世界へ踏み出せと言うかのように。
***
「祖国…!」
は、と大きく響いた自分の呼吸に目を開ければ、こちらを心配そうに覗く部下がいた。
「突然意識を失ったようで中々目を覚まさなかったのですよ…!」
ぼんやりと自分がどこにいるのか視線を巡らすと、辺りは白に包まれていた。ピッピッと鳴り響く機器の音に、ああ現実に戻ってきてしまったと苦い感情が湧き上がる。
「…ゆめを…見ていました」
「? 夢、ですか?」
「ええ。昔の…年寄りの私からすればほんの短い間のことですけれど」
長い生の中の、瞬く間の出来事ではあろうけれど。
だが、国を開いてから今までがとても長かったような気がする。あまりにも多くのことがあり過ぎた。
「見ていてくださるそうですよ」
「はい?」
「ひとりではないと」
「祖国?」
ひとりではなかった、決して。あの人の言葉がそのとき限りのもであろうと構わないのだ。私にとっては、その言葉を聞いたことが重要なのであって。
視界の端の花瓶に生けた桜が見えた。色が濃く、花弁が重なり合ってふんわりとしたそれは八重桜だ。その花言葉を思い出して、思わず笑みが浮かぶ。
豊かな教養。善良な教育。
さっそく彼は現れてくれたようだ。ここで私が頑張れば、貴方は褒めてくださいますか。よく頑張ったなと笑ってくれますか。
名前を、呼んでくれますか。
「やり遂げましょう」
「……?」
「復興を」
どんなに自国が変わってしまおうと諦めてはいけない。だってこの国はあの動乱の時代を生き存えてきたのだ。搾取されるままでなく、しかと世界の舞台へ立ったではないか。あのとき出来たことが今出来ないはずはないのだ。
部下は突然の言葉に目を丸くしてから、はいと力強く頷いた。
傍にある気配に日本は意識を浮上させた。憎い憎いと恨んでいたはずの若き大国の気配であった。
「…アメリカさん」
久方ぶりにその名を紡いだ気がする。呼ぶのも厭う名だった。
彼がひゅ、と息を飲む音が静かな部屋に響いた。
ベッドに横たわる日本の傍に彼は立ち尽くしている。日本に呼ばれるまでは花瓶に生けた桜を撫でていた。それを持ってきたのはやはり彼だったのか。
「ワシントンの桜は咲きましたか」
「……うん」
彼にしては珍しい小さな返事である。
日本は身体を起こしてアメリカをその目におさめた。久しぶりに真っ直ぐその姿を目に映したものだ。
(…そんな顔をされていたのですか)
迷子の子どものように泣き出す寸前の顔。
「今度一緒にお花見しましょうね」
青空のような澄んだ瞳からぽろちと大きな涙が零れるのをしかと目に焼き付けて、痛む身体を叱咤して微笑んだ。上手く笑えたかどうかはわからないけれど。
くしゃりと顔を歪めてコクコクと頷く姿を見て、ようやっと思い出した。
彼が少し強引に連れ出した世界は、決して嫌なことばかりではなかったということを。
そして思う。繋がれた手がいとも容易く離れてしまう国というものの化身にはどうして感情なんてものがあるのだろう。そんなものがあってはこうして簡単に傷ついてしまうというのに。
(続く)