顔から滴る雫をタオルで拭って顔をあげると、洗面台に設置されている鏡に自分の顔が映った。どこか生気の抜けたような顔に自嘲する。
 どんな夢を見ていたのかは覚えている。とても幸福で満ち足りた夢。願っても決して叶うことない幸せな日々。
 いっそのこと覚めなくてよかった。あんな居心地のいい夢の中で生きていけるなら、なんて幸せだろうか。
 ――と、そんなふうに思ったとき、先程見たティファの顔が脳裏を過ぎった。哀しみに瞳を揺らしてこちらを見た彼女の顔が。
 夢の中では彼女はクラウドの中にはいなかった。給水塔での約束はなかったことにされていた。あるいは、夢の中のクラウドが記憶から消し去ってしまっていた。

『あんたはいらないんだ。共に戦った同じ星の仲間さえ、いらないんだな』

 夢の中でクラウドを責めるように言った男の言葉が耳に響いて、はっとする。
 そうだ。あの男は。
 異世界で出逢った迷いながらも真っ直ぐに進む誇りをもった獅子。



***



 あんたのことが好きだ。
 そう頬を微かに染めながら言った目の前の獅子にクラウドは驚いて、持っていたバスターソードを落としかけた。
 何を言ってるんだ、熱でもあるのか。真っ直ぐに見つめてくる瞳に嘘がないことなんてわかっていたけれど、冗談だと言ってくれることを願って呆れたように言えば、獅子はむっとして反論してきた。
 好きなんだ。何度もそう伝えてきた。どんなにあしらったって彼はあの誇りをもった綺麗な蒼でクラウドを貫いて、言葉を投げかけてきた。

 あるとき、オニオンナイトとティナを庇って怪我をしたクラウドを彼は怒鳴りつけた。どうしてそんな無茶をするんだ、と。あいつらだって立派な戦士だ、守られるだけじゃない。
 怒りに震える彼に何も言えなかった。でも何度同じ場面になろうと、俺は彼らを庇ったのだろう。

 その夜、ふと見上げた星空に故郷を思い出した。最初は忘れてしまっていた記憶も少しずつ思い出して、今でははっきりと自分の歩んだ過去を知った。
 傍らのバスターソードに触れて、自分を守っていなくなってしまった友人を思い出す。もうあんなことは二度とごめんだ。自分の目の前で誰かが、あんな。
 ただただ無力だった自分を呪っては、何度後悔したってどうしようもなくて。だから、せめて戦う力を手に入れた今は誰かに守られるなんて嫌だった。

「それがそんなに大事か…

 聞こえた声のほうへ視線を向ければ獅子が立っていて、クラウドをその強い眼差しで責め立てていた。

「ザックスといったか」
「ッなんで…」
「あんたが寝言で呟いていた」
「………」
「俺はあんたがどんな過去を送ってきたかなんて知らない。だが、そいつがどうなってしまったのかくらい想像はつく」

 強く見つめてくる視線が痛くて目を逸らす。それでも真っ直ぐに自分に向けた眼差しを感じていた。

「あんたは酷い」

 暗く沈んだ声にはっとして彼を見れば、ぐっと唇を噛んでこちらを睨み付けていた。

「そんなに過去に囚われていたいならずっとそうしていればいい。あんたは俺のことを思い出しもしないんだろう 俺だけじゃない、他の奴らのことも、今を生きている奴らのことなんて見ていないんだろ…

 違う。そう言いたくても言葉が出てこなかった。
(ちがう…そんなことはない…俺は……)
 責め立てる顔を見たくなくて思わず俯いた。すると、手を伸ばせば届く距離まで近づいてきた獅子がぐいっとクラウドの顎を掴んで上を向かせる。刹那、重なった唇に息をのんだ。触れ合うだけの、拙い、子どものようなキス。

「もういい。勝手にする」
「……
「俺は俺のしたいようにあんたを想う。あんたが俺をどう思おうと関係ない」

 彼は自分の首もとに下げていたシルバーのネックレスを乱暴に引き千切って、クラウドの手に無理矢理に持たせた。その手を無雑作に掴んだまま、彼は言う。

「どうせ、あんたはこの戦いが終わったら俺のことなんて忘れるだろ」
「…そんなことはない」

 彼はふっとどこか蔑むような息をもらした。それはきっとクラウドに対してではない、自分に向けて。自嘲するような歪んだ笑みを浮かべて彼は続ける。

「もとの世界でそれを見るたびに思い出せばいい。あんたのことを好きになった男が別の世界であんたを想って苦しんでることを」
「っ、」
「それでせいぜい悩め。あんたは優しいから、こんな俺のことでも苦しんでくれるんだろう

 違う。違うんだ。
 俺はおまえにそんな顔をしてほしいわけじゃない。そんなふうに哀しく苦しげな顔をしてほしいわけじゃない。
 視界の隅に入った俺の手を掴んでいないほうの彼の手は握り拳をつくり、固く結ばれていた。その拳が小さく震えているのに気づく。
 掴まれた手から伝わる熱に何だか胸が苦しくなって、息が止まりそうになる。
 どうすればいいかなんてわからなくて、助けを求めるように彼を見やれば熱さを孕んだ瞳がこちらをじっと見つめていた。その瞳が何よりも雄弁に語っている。彼の気持ちを真っ直ぐに。
(ああ、俺はこんなにも想われている)

「……でも、俺は」

 獅子が小さく呟く。
 掴まれた手首に力が篭もって、痛いなと頭の片隅でぼんやりと思った。

「俺は…あんたのために何だってしたい。あんたが望むように」

 どこか先の言葉とは矛盾したようなことを言う獅子は悄然として、「悪い」と謝った。
 何を言ってるんだろうな、と眉を寄せて唇を歪めた。

「あんたには迷惑だってわかってるのにこんなことをして…でも、あんたの望むようにしたいとか」

 掴んでいたクラウドの手を離してくしゃりと自分の髪を乱雑に掻き回す。
 そこにはいつもの無愛想な、少し怒りっぽい獅子はいなくて、迷子の子どものように眉を下げる男がいた。その表情の変化を自分がもたらしていることに胸がざわつく。いつもの不遜な態度でこちらのことなんかお構いなしに好きだと言葉を投げかけてほしい。そんなことを思った俺は、きっと誰かに想われていることに歓喜していた。
 ぐちゃぐちゃと言いあらわせられない感情を彼は内に秘めているのだろう。その雄弁な蒼い瞳が貫くたび、クラウドの心は搔き乱される。
 悄然とした彼の頭を撫でようと手を伸ばしかけて、やめた。微かにしか動かなかった自分の手は少しの間宙を彷徨ったあと、傍らの愛剣に触れた。
(……おまえもいなくなってしまうのだろう
 この戦いが終われば二度と会えなくなる。それなのに、おまえはどうしてこんなに真っ直ぐ想いを伝えられるんだ。
 深い沈黙が二人の間に落ちる。目を逸らしたクラウドに何を言うでもなく、真っ直ぐに視線を投げかけてくる獅子がこの沈黙の間、何を思っていたかはわからなかった。

 やがて、二人を呼ぶ明るい声が静寂を裂いた。ここにいたのかと手を大きく振る仲間の声に、獅子はクラウドに背を向けて呼び掛けられた声のほうへ歩いていった。
 ふと、ジャラリと掌の中で鳴ったネックレスの音。
 これがいつも彼の首にかけられ大事にされていたものだと知っていても突き返すことができなかった。掌の中のそれは金属の冷たさを伝えてきているはずなのに、彼の温もりを感じる気がした。そんなことを思った自分の感情に対する答えなどわかっていた。
 触れたいと思った。その哀しげな顔を引き寄せて髪を撫でて安心させたい。確かにそう思ったのだ。
 その深い色の髪はどんなさわり心地なのだろう。遠ざかっていく凛と伸びた背にふらりと一歩近づく。

 もう一度、手を伸ばす。

 その際に離した、立てかけてある愛剣が小さな音を立てた。その微かにしか聞こえなかった音に心臓が跳ねた。ゆらゆらと揺れた視界に過去の情景が広がる。
 憧れていたはずの英雄の嘲笑うような声がどこか遠くで聞こえた気がした。
 抜け出せない。思いを馳せる過去が絡みついて前を向けない。
 結局伸ばしたはずの手は何を掴むこともなく、空をきった。
 ――と思った刹那、ゆらりと脱力したクラウドの手を獅子が掴んでいた。
 はっとして顔をあげると、背を向けていたはずの彼が目の前にいた。
 どうした と不思議そうにクラウドを見ていた。

「早く行くぞ。あんたに見せたいものがあるらしい」

 あいつが、と首で示した先にいたティーダは「早く来るっスよ、クラウド」と元気な声で呼びかけていた。
 獅子は無雑作に掴んだクラウドの手を一端放してから手首を掴み直した。そのまま、ぐっと引っ張って歩みを進める。
 掴んだまま離さない獅子の手にぎゅっと力が篭められた。痛いくらいに掴まれた手首にじんじんと熱がともる。
(……痕になるだろ)
 手加減などしていないのではないかと思うくらい強く掴まれた手首はティーダの傍に行くまで離されることはなかった。

「遅いっスよ、もう 見てみて、これ 珍しいアイテム見つけたっス

 クラウドは離された手首に視線を落とす。そこには彼の指の痕が真っ赤に残っていた。

「何だこれは。使えるアイテムなのか
「あ、まーたそういうこと言う スコールってば子どもには優しくするもんっスよ」
「…いや、同い年だろ」

 痕の残った手首を擦りつつ、二人のやり取りを聞いて思わず笑みが零れた。

「クラウド どーしたっスか
「いや…」

 きょとん、とこちらを見た二人にくすりと笑って、会話に参加しようと口を開いた。

 俺の望みは叶えてくれる、か。
 伸ばしきれない臆病な手を掴んだ熱が胸の奥深くを刺激した。
 こんなんじゃ、信じてしまうだろう。
(俺が会いたいと思ったら、おまえは会いにきてくれるのか



***



 そんな夢物語のような幻想を抱いて、今度こそ自ら触れたいとあのとき確かに思った。激化する戦いにそれどころではなく、別れはすぐに訪れてしまったけれど。
 夢の中の彼は記憶の中の姿のままで、夢では幾分か幼い自分の手をひいて現実へと引き戻した。
(おまえ、だったんだな…) 

「…スコール」

 一度だけ触れたあのときの熱を確かめるように自分の唇を指でなぞる。
 別の世界に生きているくせに、彼は夢の中でクラウドのもとへ駆けつけてくれたのだろうか。そんなことを思ったが、それは自分の勝手な幻想だ。
 それでも救われた。夢の中から現実へと戻してくれた。過去の人への想いも抱えて、現実を生きる人をしっかり見ろと。
 夢の中で振り返ったときに見た彼の顔は、異世界で見たあの顔と同じ表情だった。どこか哀しげに眉を下げて、気管を圧迫されたかのように苦しげだった。そこにはきっと諦観があった。彼は思っていたのだろう。俺が想いを寄せることなどないと。想い合うことなどないのだと。
(馬鹿だな…)
 彼に対してではなく、自分に呟いた。
 俺はいつだって、失ってから気づくんだ。
(たぶん俺は…おまえが好きだった)
 惹かれていた。誇りをもって突き進むその姿に。真っ直ぐに生きるその強さに。
 今さら、遅いのに。
 あのとき触れた手首を撫でる。あのときあったはずの赤い痕はもちろんないけれど。
 夢で抱きしめられたはずなのに、その感触は所詮夢でしかないから体感できなかった。思い出そうとしてもこれっぽっちも感じられない。
 だから、少しでもあの日触れた熱を感じることはできないかと手首を握る。

 おまえは今、どんなふうに過ごしている 幸せなのか
 ――まだ、俺のことを想ってくれているのか。
 なぁ、スコール。

 ふと視界に入った洗面所の小さな窓を開ける。彼の世界と繋がりもしない空を小さな枠から見上げた。見えた空には雲ひとつない快晴が広がっている。
(…雨は降らないか)
 哀しく辛い記憶を呼び起こすはずの雨を望んだのは初めてだった。
 どこかに彼を感じていたい、なんて女々しい思考に苦笑する。
 さらに残るはずのない温もりを求めて彼に渡されたネックレスを取りに自室へ足を進める俺はもうどうしようもない。
 夢なんかに現れるからだ。仕方のないことだと諦めて考えようともしていなかったことを願ってしまった。

 ――会いたい。スコール、おまえに。





「いたッ はんちょ~ いきなり止まんないでよ」
「いま…」
「え
「今何か言ったか、セルフィ」
「ええ だから急に立ち止まんないでよって」
「そうじゃなくて」

 あの人の声が聞こえた気がした。
(まさか、な)
 あの人は今どうしているだろうか。俺のことを少しでも思い出してくれているだろうか。
(……いや、)
 そんなことはないのだろう。あの人はきっと、もとの世界の仲間に囲われて何ら変わらない日常を過ごしているのだろう。
 ふいに胸もとに手をやって、この世界に戻ってきて新しく購入したネックレスに触れた。あのとき触れた彼の手は少し冷たくて、それでも伝わる温もりに離したくなくなった。
 こちらを見る彼の表情は戸惑っていたり、苦しげだったり、辛そうな顔をしていた。あのとき、明るい同い年の仲間の声にちょうど良かったと彼に背を向けた。苦しく歪む情けない顔を見せたくはなかった。もう散々晒していたかもしれないけれど。息苦しさから涙腺まで緩んで下手すれば泣くかもしれないと思った。
 ティーダのもとに足を進めると後ろに続くと思っていた足音が聞こえず、不審に思って振り返った。中途半端な位置で宙を彷徨う手を脱力させたクラウドの瞳が濁っているように見えた。少し不思議な色を放つ、けれどとても綺麗な瞳が暗く翳っていて。その整った美しい顔が無表情に見えた。まるで、精巧に造られた人形のようだと、そう思って彼がどこかへ消えてしまうのではないかと。わけのわからない不安が押し寄せて少し離れた距離を急いで駆け戻り、その手を無雑作に掴んだ。
 まだだ。まだ別れのときではないだろう、と。こちらに引き寄せるように強く掴んだ手に、クラウドは弾かれたようにスコールを見た。ちゃんと自分を見ていることに安堵しながら、どうしたんだと彼を見やれば、どこか驚いたような顔をしていた。不思議に思いつつも、遠目に呼びかける明るい声に足を動かした。彼の手を離すのが嫌で手首を掴み直し、引っ張るように歩みを進めた。
 今は。今だけは俺を感じていてほしい。掴んだ手に力を込める。このまま強く握れば痕になって、残ってくれないだろうか。碌に力加減もしないで強く握ったのに、クラウドは痛いとも放せとも言わなかった。それが彼の優しさだったのか同情だったのかわからないけれど、あのときの俺には有難かった。
 わかっていた。あの人が振り向いてくれることなんてないことくらい。それでも気持ちが溢れることは止められなかった。
 どうしてだろうな。どうしてこんなにあんたのことが好きなんだろう。
 ――なぁ、クラウド。

「……嫌だな」

 小さく聞こえた声に顔を向ければ、いつもうるさく騒ぐセルフィがどこか悄然とした面持ちでスコールを見ていた。

「そんな顔してるはんちょう見たくない」
「なに、」

 セルフィのいつもの明るい顔が少し困ったような表情をしていて、それがあの人と重なった。ひどく息苦しく感じて誤魔化すようにセルフィから顔を逸らす。

「…戻るぞ」

 そう踵を返したとき、モンスターの唸るような声が突然背後から聞こえた。咄嗟に振り向いてガンブレードを構える。それをセルフィが不思議そうに見ていた。

「はんちょ どうしたの
「…いや、今モンスターの声が聞こえなかったか
「え

 ――危ない…

 セルフィとは別の女性の声が響いたと思ったとき、ぐらりと視界が歪んで次の瞬間には目前に牙を剥くモンスターが迫っていた。





 ない。 スコールから受け取ったはずのネックレスがない。部屋のどこを探しても見当たらなかった。
(なんで…)
 失ってしまうのだろう。

「クラウド 今日はお仕事お休みなんでしょ
「マリン」
「一緒に遊ぼう

 クラウドの部屋を覗いていたマリンが中に入ってきて、ぐいぐいと腕を引っ張っていく。身長の低いマリンに引っ張られながら転ばないように階段を降りた。
 最近こんなことがあったとか、どこどこに行きたいとか楽しそうに話すマリンに言葉を返しながらも、スコールのことが頭から離れなかった。