目覚ましの音がけたたましく響いて意識が眠りから覚醒する。ぱちぱちと目を瞬かせて伸ばした手で乱暴にアラームを止めた。
 何か夢を見ていた気がする。何だかとても切なくて苦しくて、もやもやとする夢。ただ、どんな内容だったかは全然思い出せなかった。だが、胸を締め付ける切なさと苦しさには覚えがあった。こんな気持ちになるのはきっと、あの人に対してだけだ。
 仰向けだった身体を横にして布団にくるまる。もう少しだけ。いつもの日常に戻る前にあの人を感じていたかった。
 あの異世界での戦いからすでに二年。薄れていく記憶とは反対に脳裏に焼き付いて離れない姿は、この世界のどこにもいない。
(…あんたは俺のことなんか思い出してもいないんだろうな)
 好きだと言えば熱でもあるのかと怪訝な目で俺を見た。何度伝えてもあしらわれるだけで、返事など聞かせてくれなかった。
 わかっていた。戦いが終われば二度と会えなくなるのだから、たとえ気持ちを通じ合わせられたとしても不毛だったのだろう。けど、そんなことなんて考えられないほどの気持ちで俺のことを想ってくれたならと、そんな理想を抱いていた。
(……ありえないな)
 自由に跳ねた蜂蜜色の髪に碧い目。その中性的な顔立ちとは反対に大きい剣を振りかざして戦っていた。冷静でどこか憂いをおびた顔をしていたと思ったら、ふとしたことで子どものような笑みを浮かべた。彼はどこかアンバランスで危うげだった。戦士としてとても強かったから、それは勝手な思い込みかもしれないけれど。
 少しでも近づいて彼を守れたならと思っていた。実際は守らせてもくれなかったが。結局、自分勝手に感情をぶつけて困らせただけだった。

 身体を起こしてベッドから降りる。開いたカーテンの先は雲ひとつない青空が広がっていた。
 ふと唇に指を這わす。一度だけ触れた彼の温もりは当然だがきれいさっぱり消え失せてしまっていた。
 広がる青空に目を向けて、雲がないことに嘆く。嘆いた理由があまりにもしょうもなくて自嘲した。雲と同じ名前のあの人は、今どうしているだろうか。繋がりもしない別の世界で、自分が彼を想って出来ることなど何もないけれど。せめて幸せに過ごしていたらいい。
 そう思ったところで苦笑した。心からそう思ってなんかいないくせに。彼を幸せにするのは自分であってほしかった、なんて。
(最低だな、俺は)
 それでも俺は、今日もあの人を思って世界を渡る術でも捜すのだろう。
 もとの世界へ戻ってきてすぐの頃は必ずその術を見出して再会してやると強く思っていた。けれど、どうやったってそれは途轍もなく難しいことで、途方もないことだと一度思ってしまえば気持ちは沈んでいくばかりだった。
 到底叶わなそうな願いをどうしたら叶えられるのだろう。
 もう誰でもいい。誰か、赤い糸で引き合わせてくれないか。そんな少女みたいなことまで考え始めた自分が可笑しくて仕方なかった。



filo rosso del destino




 クラウドは結果を聞いて瞳を輝かせた。
(やった…
 早く伝えないと。気持ちが焦って早歩きになってた足が次第に走り出す。遠くに見えた見慣れた背中にさらに足を早めた。

「ザックス…

 そう呼びかけた声に振り向いた彼は少し驚いたような顔をした。クラウドの惜しむことのない満面の笑みを見たからだった。
 「クラウド どうしたんだ」と目を瞠ったまま首を傾げる彼を見上げて興奮したままに告げた。ソルジャーの試験に合格したことを。
 本当か!? とザックスは当の本人よりも嬉しそうな声をあげて、クラウドの細い肩に腕をまわした。よかったな、と優しく笑うザックスはおめでとうと言いながらクラウドの髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。いつもは振り払ってしまう手をなんだか振り払う気になれない。自分のことように喜んでくれる彼がとても嬉しかった。

「よかったな、クラウド おめでとう」
「うん、ありがとう」
「じゃあ今日はお祝いパーティーだな 何が食いたい 今日はおにーさんがぱーっと奢ってやんよ」
「え、ザックスそんなお金あるの」
「何をぅ おまえ、俺が貧乏だって馬鹿にしたな
「してない、してない あはは、やめて、くすぐったい」

 肩を組んだザックスが仕返しとばかりにくすぐってきた。お互い目が合うとさらに笑声が大きくなる。幼い子どものような笑い声が響いた。

「騒がしいな、ザックス」

 凜とした声に振り向けば神羅の英雄が何をやってるんだと呆れたような顔で立っている。

「せ、セフィロスさん

 クラウドは咄嗟に敬礼した。

「聞いてくれよ、旦那 クラウドがソルジャーになったんだ
「クラウドが

 セフィロスは驚いたような顔をしてから、ふっと微笑んだ。誰もが見惚れるような美しい微笑にクラウドの頬がも桃色に染まる。それを見たザックスがからかうように笑った。

「そうか、よかったな」

 近づいたセフィロスは、ぽんっと軽くクラウドの頭を叩いた。

「一緒の任務になったときはよろしく頼むぞ」
「はいっ

 恥ずかしそうに、それでもはにかんで威勢のいい返事をしたクラウドにザックスとセフィロスは微笑んだ。
 そんな二人を見てクラウドは胸が熱くなった。
 夢が叶った。英雄になるにはまだまだだけれど、やっと一歩踏み出せた。そしてそれを憧れの人たちに祝ってもらえる。嬉しくて嬉しくて堪らなかった。



「そっか ソルジャーになれたんだね

 きらきらと差し込む光が少女を照らしている。さながら聖母像のような姿にクラウドは頬を熱くした。
 優しく笑う彼女は持っていた花をクラウドに差し出して微笑む。

「じゃあ、お祝いしなくちゃ」

 あげる、そう言って差し出された綺麗な花を受け取った。

「よかった。でも忙しくなっちゃうのかな ソルジャーになった途端、ここに来なくなったりしたら怒るから、ね」

 ちょっと悪戯っぽくそう言う彼女に笑う。

「また来るよ、エアリス」

 そう言えばエアリスは嬉しそうに笑って頷いた。

「そういえばザックスが今度ゴールドソーサーに行こうって言ってた」
「ほんと!? 楽しみだね みんなで行けるといいな」

 ザックスが紹介してくれたエアリスという少女は、真っ直ぐな綺麗な瞳で夢を追いかけるクラウドをいつだって支えてくれた。
 ふと花を握っている手にエアリスの両手が包み込むように触れる。クラウドの夢が叶って本当に嬉しい。彼女はそう言って花が綻ぶように笑った。その手を握り返してずっと言いたくて、でも恥ずかしくて言えなかった感謝を口にした。

「ありがとう」

 彼女が笑ってこちらを見て頷いてくれる。それだけで嬉しかった。



 久しぶりに訪れた故郷は自分が出て行ったときと何ら変わっていなかった。懐かしい気持ちに、つい頬が緩むのを引き締めて実家の戸を叩く。開いた玄関の先にいた母親はクラウドの姿を見て、どこかほっとしたような顔をした。
 ただいま。そう言えば「おかえり」と返ってきた声になんだか少し泣きそうになった。
 ソルジャーになったんだ。そう伝えると母は涙ぐんだ。どうしたんだよと背中をさすれば嬉しくてと泣き笑いのような顔をした。
 夕飯に出されたシチューを食べると、なんだかとても懐かしくてありがたくて堪らなくなった。
 どんな危険な任務に行っても必ず戻ってくるから。そう言うと、母は必ずだからねと念をおす。あんたが幸せならそれでいいんだよ。そんなことを言った母に自分が少しでも幸せを返せたらいい。そんなことを思った。



 給水塔の上で見上げた夜空は幼い頃と何一つ変わらず美しかった。きらきらと瞬く空いっぱいの星を見上げながら思う。幸せだ、と。とても幸せ。この村を出ていく前より何十倍、何百倍も。湧き起こる幸福感で胸が満ちている。それが永遠に続くと疑わずにいられるほど。
 ふと、幼い頃にここで誰かと話した気がして首を捻る。誰だったか。何も思い出せなくて、どうにか記憶を呼び起こそうと目を閉じた。それでもやっぱり思い出せない。
 まぁいいか。思い出せないのだから、きっと大したことじゃない。そう思って目を開くとぐにゃりと視界が揺らいだ。
 はっとして顔をあげると、そこは真っ暗で何も見えなかった。美しい星空も家々の明かりも何もなかった。すべてが闇に包まれている。
 怖い。光の見えない場所でぽつりと独り佇むしかない。息が苦しくなって胸もとの服をぎゅっと握った。なんでこんなに苦しいの。あんなに幸せだったのに、どうして。
 ねぇ、どうして。息が詰まりそう。助けて、誰か。ねぇ、エアリス、ザックス
 身も世もなく叫ぶと、ふわりと灯りがともった。その光のほうへ、ふらふら向かう。きっとこの光の先に俺を救ってくれる人たちがいる。あの幸せな場所へ導いてくれる。
 あともう少し。早くあの幸せの場所へ。
 あと一歩、というところで突然背後からぐいっと腕を引っ張られた。振り向くとダークブラウンの髪を靡かせた男がクラウドの腕を掴んでいた。澄み渡るような蒼の瞳が瞬いて形のいい薄い唇がクラウドの名前を呼んだ。
 耳に馴染む低い声はこっちに来るんだと、そう言ってクラウドを光から遠ざけるように引っ張っていく。
 嫌だよ。あんたは誰なの。俺はまだここにいたい。皆と一緒に。何で幸せから遠ざけるの。皆はあっちにいるんだよ。
 引っ張っていた腕を掴んだまま、男は足を止めた。
 そんなにあっちに行きたいのか
 そう問うた男の声はどこか非難めいていた。どうして自分が責められているのかわからず、む、と唇を尖らせる。そんな当たり前の質問にわざわざ答えなくちゃならないのが不思議だった。
 光の向こう。幸せの場所。そこはあたたかさだけが溢れている。
 行きたいよ。憧れの英雄がいて、友達がいて、好きな女の子がいて、家族がいる。
 そうか、男は小さくそう呟いてクラウドを振り返った。

「…俺はいらないんだな」

 振り向いた男は哀しげに掠れた声でそう言った。その表情はクラウドを責めるような顔に変わり、掴んでいた腕を離した。男の熱い体温が離れて、急激に寒気を感じた。

「あんたはいらないんだ。共に戦った同じ星の仲間さえ、いらないんだな」

 共に戦った
 ――…そうだ。共に戦った仲間がいた。星の命運をかけた、壮絶な戦いだった。何度も壊れて、狂って、どうにかなりそうだった。そんな俺を支えてくれたのは。
 クラウドの脳裏に次々と仲間の顔が思い浮かぶ。

「皆、あんたを待ってる」

 ほら、あんたを呼んでる。
 男はそう言って指を指した方向へクラウドの背を押した。早く行けと力強く。
 待って。あんたは誰。
 振り返ろうとすると振り返るなと強く言われて立ち竦む。
 ふわりと後ろから包み込むように抱きしめられた。無意識に腹に回された腕に触れると、逞しいそれがびくりと微かに震えた。

「あんたの幸せを祈ってる」

 耳もとで告げられたその言葉になぜかひどく胸が締め付けられた。振り返るなと言われようと知ったことか。拘束を逃れて無理矢理に振り返る。
 振り返って男を目に映した瞬間、男は幻のようにふっと消えてしまった。見渡しても男の姿はない。ひどい焦燥感に襲われて真っ暗闇のなか男を探す。けれど、遠く自分を呼ぶ声に引き寄せられて世界は急に暗転した。





「クラウド いつまで寝てるのよ」

 瞼を開くとティファが呆れたようにこちらを覗き込んでいた。

「仕事が休みだからってだらけすぎじゃない
「………」
「たまにはあの子たちの相手でもしてあげて。私は今からちょっと出かけてくるから。ほら、早く起きて」
「…ああ」

 取り敢えず上体を起こして、寝起きの茫とする頭を軽く振る。

「どうしたの
「え…
「どんな夢見てたの」

 ティファが一瞬だけ哀しげな表情をする。けれどそれは瞬く間にいつもの表情に戻ってしまって、その表情の真意を問うことができなかった。

「ゆめ…
「覚えてないの

 わからない、と言いながらふらりと立ち上がって部屋を出て行くクラウドの背をティファは呆れながら見送った。

「まったく…朝に弱いんだから」

 クラウドはとても幸せそうな顔をして眠っていた。子どものようなあどけない顔で。
 エアリス、と小さく呟かれた寝言に胸が苦しくなった。幸せそうな表情で眠っていた彼は、起きるように呼びかけると苦しげに呻いて、起きるとまるで別人のように大人びた顔をした。
 聖痕の苦しみによって過去の自分を責めて落ち込んでいた彼は、セフィロス再臨の脅威を退け立ち直った。昔のように優しく明るい顔をするようになった。けれど、やはりきれいさっぱりには拭い去れないのだろう。それは自分だってそうだ。何度も過去を繰り返し思い出し、もっと最善の道を歩めたのではないかと後悔する。クラウドはこの先、ずっと彼らへの思いを胸に抱き続けるのだろう。それは仕方ないことだった。でも、それでも。
 夢のほうが幸せだった 現実ではあんなふうに笑ってくれないの
 暗い思考にとらわれそうになって急いで振り払う。自分がこんなんじゃだめだ。優しすぎて壊れやすい彼を支えるのは、今存在している私たちなのだから。
 ふぅ、と深く息を吐いて部屋を出ようとしたとき、何かが床の上に転がっているのを見つけた。

「何かしら、これ」

 何か獣のような形をしたシルバーアクセサリーだった。チェーンの部分が引きちぎれていて使えそうにない。今から出かけるついでに修理してもらおうと思い立ってポケットにしまう。クラウドには後で言えばいいかと思い、取り敢えず部屋を出た。