「笑う? どうやって?」

 少年はそんなことを真顔で言い放った。
 今回の出撃は苛酷を極めた。住民の死体で溢れる集落の小さい教会に逃げ込んだ生き残りの数人をやっと救えただけだった。ギアの猛撃のおかげで部隊は散り散りになり、天井の一部が抜け落ちている教会にたどり着いた聖騎士はソルとカイだけだった。
 助かった子どもたちが天才剣士を囲んでいる。
 ――母さまはね。辛いときも笑いなさいと言ってたわ。
 少女が涙に濡れた頬をそのままに笑った。
 ――お兄さん、ずっと怖い顔してる。ご本に出てくる王子様みたいにきれいなのに。ねぇ、笑ってよ。
 確かに、とソルは無に近い表情の少年を見やった。出会ったときから、ピーチク喚くだけの煩わしいひよこだったが、その顔は怒気ですらろくに表すことはなかった。
 だから、ただ単に揶揄っただけだ。
 ――確かに、テメェもちったぁ笑えば可愛げもあるのによ。
 負傷した住民に治癒を施しながら、何気なく放った言葉に返ってきたのがあんな台詞だった。

「笑う? どうやって?」

 いっそ無垢なほどの蒼碧がソルを貫いた。
 ミシミシと何かが悲鳴をあげる音が聞こえる。
 笑ってよ、と言った少女が何か得体のしれないものでも見るような目で少年を見上げていた。あんな小さな子どもさえ、化け物が跋扈するこの世界当たり前の日常を知っている。しかし、あの少年は戦うことしか知らなかった。化け物を屠り、人類を救済することしか知らない子どもの歪さに吐き気がする。
 何の、誰の罪だ。これは。
 旧時代の業? 人間の欲深さ? それとも――
 ズキズキと、ヘッドギアに隠れた化け物の刻印が痛んだ。思わず喉元を手で覆う。いつかの日の熱さが蘇った気がした。
 責め苛む。頽れた天井、落ちた十字架、血まみれの子どもたち、化け物を殺すことしか知らない少年。
 何がこの世界を狂わせた。こんな地獄に。
ソルの視界に映るすべてが責め苛んでくる。贖罪を求めるように視線が瓦礫に埋もれる十字に向いたことにさえ、凄まじい罪悪が湧いた。
 熱い。無意識のうちに喉もとに手をやっていた。
 あついあついあつい……!
 喉を掻きむしり、責め苛むすべてのものから逃げるように視界を閉ざし、そうして今一度瞼を開けたとき、それは起こった。



「ソル……!」

 ハッとして瞼を開けると視界が一変していた。

「聞いていますか? メダルが繋がらない。相当な被害のようです。とりあえず、ここから二キロ先のC地点まで行きます。情報がわかればいいですが……あなたは勝手な行動をせず、私についてきてください」

 短い金糸が土埃が舞う風に靡く。戦士とは思えない細い首が燦燦と照る太陽の下で白さを浮き出していた。
 首、が。
 ――断頭台の上で転がったあの首が。

「ソル? 聞いてますか?」
「……カイ」

 無表情の上に若干の不満を表していた花顔に、驚いたような表情が浮かんだ。大きい蒼碧が丸くなる。あの日とは違う、美しい色が。

「……名前を呼ばれたのは初めてです」

 頬を微かに紅潮させて、少年はおそらく――微笑ったようだった。
 その微々たる変化に気づいた瞬間、細い腕を取っていた。

「いッ……ちょっとソル……!」

 腕を取り、早足で進んでいくソルに引きずられるカイが声を張り上げる。

「行くぞ」
「行くって……向かう場所はこっちじゃありません!」
「違ぇ。抜けるんだ」
「え? なに、」
「テメェはこんなところにいちゃいけない」

 ぴた、と足を止めて振り返る。真っ直ぐ見据えた先の少年は確かにそこに存在し、生きていた。
 ――ここは過去だ。
 信じ難い状況を、けれどソルはあっさりと信じた。そうすることで、失ったものを取り戻せるというのならば。

「騎士団を抜ける」
「……何を言ってるんです? 私は聖騎士としてギアを滅し、人類のために戦います。あなたが騎士団を抜けたいというのなら……非常に残念ですが、私が止められることではありません」
「だめだ」
「……だめって……どうしたんですか、ソル。急にそんなことを……。私は最期まで戦場に立ちます」
「だめだ。テメェは俺と一緒に来い」

 にべもないソルの返しに、驚いたように丸くなっていた蒼碧がだんだんと歪んで怒りを浮かべた。

「私は人々のために戦いたい。こんな……惨たらしい戦争は誰かが終わらせなければならないんです」
「テメェじゃなくてもいいだろ」
「ええ。私でなくてもいい。でもその手伝いをしたい。この力を人類のために使い、人々に災厄を齎したギアたちをこの手で葬ります。それが私の使命なんです」
「そうまでして人類に捧げた人生を、人類に奪われることになってもか」
「……え?」
「テメェの都合なんざどうでもいい。お前はこんなところにいるべきじゃない。行くぞ」
「っ、あなたに指図される謂れはない!」

 乾いた音とともに痛いほどに強く腕を振り払われたときだった。
 生きている少年の鼓動をこの戦場から引き離すことに必死で焦燥感に駆られていた所為か、反応が遅れた。
 細胞が沸き立つ気持ちの悪い感覚を認識したときには、身体が細い腕に突き飛ばされていた。

「ッ、ソル……!」

 突き飛ばされていく視界の中で、悪魔が天使に噛みつくのが見えた。
 白い首が鋭利な牙で欠ける。首、が。
 視界が赤く染まった。
 咆哮があがる。バケモノらしい聞くに堪えない絶叫が周囲のギアが発したのか、自分が発したのか、ソルにはもうわからなかった。
 ギアの大群に囲まれた中でぴくりとも動かなくなった赤に濡れた少年を抱えたソルは、そのまま時を止めたかのように冷えていく幼い身体を抱きしめていた。
 大量のギアがソルと少年に襲いかかる。折り重なるように命を奪わんと群がった悪魔たちは、しばらくの沈黙のあと、立ち昇る炎の凄気に吹っ飛ばされた。
 ゆらりと立ちあがる影は陽炎のように揺らめいている。肉塊と化した少年を抱えたまま、それは吼えた。

「………殺してやる」

 地を這うような、黒い声音だった。炯々と金色に光る眼が憎しみを宿し、バケモノ然としてその場の魔獣をすべて灰と化した。

 もうこれが夢か現実かわからない。夢であればいい。そうすれば、腕の中の冷たい肉塊は鼓動を刻むはずだから。……いや、現実に醒めてもこの首は切り離されたままなのか。どうすればいい。どうすれば、俺が守りたかった三つは戻ってくる。
 ――この子どもが人類の希望になど、ならなければ。
 刹那、世界が頽れた。



 二年だ。二年かかった。
 やっと探し出した子どもはまだ九歳だった。教会の運営する孤児院でその子どもは痩せ細った肢体を動かし、敬虔に生きていた。身元を証明できない自分が里親になって連れ出せるわけがないため、さてどうするかと悩んでいたときだった。近場の宿に荷物を置き、硬い寝台に腰を落とそうというところで、それは起きた。
 細胞が沸き立ち、共鳴する。咄嗟に窓から飛び降りたときには街は悲鳴をあげて逃げ惑う人でいっぱいだった。
 教会へと駆ける。立てつけの悪い木造の扉を開け放つと、十字の下でシスターがブロンドの子どもを腕の中に抱きしめるところだった。化け物の鋭利な爪がシスターの背へと向く。周囲はすでに血まみれで、人間だったものが幾つも転がっていた。
 ソルの攻撃は間に合わない。瞬間、青白い光が迸った。
 ギアは聞くに堪えない咆哮をあげて雷光の中で崩れ落ちた。呆然と見やった先でシスターが化け物から庇うように抱いていたはずの子どもから、ふらふらと後ずさる。子どもは自分が何をしたかわかっていないような顔をしていた。
 シスターの目が得体の知れないものでも見るように子どもを見ている。ソルは咄嗟に身廊を駆け、子どもをその視線から遮って抱きあげた。
 ああ、あたたかい。

「あなたはだれですか……?」

 そのまま歩き出すソルを見て首を傾げる。

「……通りすがりだ。ここは危ねぇから、さっさと逃げるぞ」
「でもみんなを助けなきゃ」
「それはテメェがしなくてもいい」
「どうして? 慈しみをもって他を助ければ、その義は永遠にとどまると神さまはいいますよ?」
「……神なんか、」

 いてたまるか。
 そう言ったらあの残酷な現実へ戻ってしまう気がして、気管が詰まったかのように音になることはなかった。

「……行くぞ」

 骨の浮き出た幼い身体は子どもとは思えないほど柔らかくなどなかった。それでもその体温は幼子らしく熱いほどだ。その温かさに溺れながら、ソルは化け物まみれの街から抜け出した。

 あとはさっさとこの戦争を終わらせるだけだ。一刻でもはやく。平和な世になれば、この子どももこの新たな土地で当たり前の日常を刻んでいけるだろう。

「あなたの名前をおしえてください」

 ギアの猛威から逃げ出し故郷をなくした人たちの住む共同住宅の前で、子どもが幼い顔を上向かせてそう言った。
 きゅっと控えめに裾を握ってくる手を離すことに躊躇が生まれるが、俺にはやならなければならないことがある。少しでも早く、この戦いに終止符を打たなければならない。
 知らなくていい、と答えるはずだったのに、どうしてかこの口は身勝手に名を紡いだ。

「……ソルだ」

 裾を掴む小さい手をそっと離し、ソルは振り返ることなく戦場へと向かった。背中に「そる……」と言いなれない呼びかけを感じながら。

 もう呼ばれることも会うこともない。そう思っていたのに。


「……そる」

 いくらか成長した子どもは聖騎士の装束に身を包んでいた。驚いたように丸くなった蒼碧がソルを貫く。

「なんじゃ、知り合いだったのか」

 クリフの驚きの声は耳を素通りした。
 ――これじゃ何も変わらない。
 絶望に打ちひしがれたとき、視界が暗転した。



 教会の運営する孤児院に九歳の子どもがいた。
 ソルは時間はかかったが、郊外にある中流家庭の老夫婦へ接触し、彼らにその子どもを引き取ってもらうことにした。それなりの期間を監視し、人間性に問題のない夫婦だとわかったうえで、だ。
 教会から夫婦に手を繋がれた子どもが出てくる。子どもは笑うことも泣くこともなかったが、ぎゅうっと手に握っているところを見ると嫌だというわけではないのだろう。やや不安げな表情はいかにも子どもらしく、これで家族を得て当たり前の日常を過ごしていくはずだと、ソルは踵を返した。

 そろそろギアが襲来する。知っていた。知っていたのに、どうして。
間に合わなかった。ソルの目の前で、その子どもは夫婦もろともギアの餌食となった。
 血まみれの骸を抱き、絶望する。またこの命を失った。
 刹那、世界は瓦解した。