4.分岐点は残刻なほど無数にある

 

「ソル……っ!」

 何度目か知れない呼びかけはあまりにも痛ましく響いた。
 カイはついに頭を抱えて蹲ってしまった。レオは隣に座る医者を見たが、彼は首を振るだけだ。カイの症状は一向に良くならない。
 医師の誘導のもと、過去のあらゆる出来事をカイは話した。「ソル」という男と過ごした日々のことを。そのどれもが詳細極まりなく、明瞭とした光景が浮かぶかのようだった。しかし、そこに登場する男の姿だけはレオは思い浮かべることができなかった。いくら細かい描写でカイが過去を振り返っても、その男は現実にはいない。ぞっとしない心地でレオはカイの話を聞いていた。
 そしてついに、医者が核心へと迫る。まるで妖精を見たとはしゃぐ幼子を導くかのように、それは幻なのだとゆっくりと言い聞かせた。カイは絶望に表情を凍らせ、発狂した。
 ソルソルソルソル……!
 知らぬ男の名前を叫び続け、そして最後にあまりにも痛ましい哀哭の滲む呼びかけをし、頭を抱えて蹲ってしまった。
 レオは信じられないような気持ちで茫然とカイを見下ろすしかできなかった。その憎たらしいほど美しい顔に絶望が乗ることも、ずっと男の名前を叫び続けた所為で聞き苦しいほど掠れてしまった声も、気の触れたように鬼の形相で俺を見る目も、ついぞ見たことのない姿だった。まるで別人だ。
 医者もレオを絶句している中、ふいに頭を抱えたカイが驚いたように顔をあげた。そして、何かを探すように周囲を見渡す。充血した蒼碧と目が合った。親とはぐれた迷い子のような顔がレオに焦点を当て、その存在を認知するとハッとして瞬き――笑ってみせた。
 ぞくり、と言い様のない悪寒が走る。あまりの薄気味悪さに顔が引き攣る。カイの花顔に乗るのは、見たこともないほど無邪気で無垢な笑顔だった。

「聞いただろう? 今」

 何のことかわからない。

「ソルが私を呼んだ」

 戦慄が走る。

「カイって呼んでくれた!」
「っ……」

 今からスキップでもし出しそうな少女のような顔で、カイがそんなことを言う。

「………俺には聞こえなかった」

 カイの表情が無邪気な笑みのまま凍りついたように固まる。
 もう耐えきれなかった。

「いい加減にしてくれッ……! 呼ぶ声が聞こえた? この狭い部屋にはお前と俺とドクターしかいない!! どこから誰が呼んだっていうんだ!?」
「レオ様、おやめください……! それ以上患者を刺激してしまったら――
「………出てけ」

 地を這うようなおどろおどろしい声だった。

「出ていけッ……!!」

 とてもあのカイ=キスクが発したとは思えない声音だった。随分と痩せ細ってしまった顔には憎しみすら浮かべている気がした。
 どうしてこうなってしまったのか。レオはカイが言うことなら、やることなら、何だって信じられた。それほどに信頼を置いていた。その秀才ぶりは憎らしいほどだし、時折嫌味にしか聞こえないことを言われるが、それでも彼の澄んだ蒼碧は濁ることも汚れることもなく、いつだって人類の明るい未来を真っ直ぐに見つめていた。
 今やもう彼の言うことも、その瞳が見つめる未来も、信じられなくなってしまった。病的に痩せこけた顔に乗る二つの眼は、たぶったように濁っている。その色に哀しみながら、レオは医者に促されるままにその場を後にした。



 爪を噛むと血の味がした。傷まみれの拳を治癒する考えすらなく、カイは気が触れたかのようにぶつぶつと呟きながら、時折ぎゅうっと瞼を閉じた。この信じたくない現実から逃れるように。
 ソル、と何千回目だか何万回目だか知れない呼び声を小さく漏らしたとき、覗き窓の向こうから聞き慣れぬ声がした。

「気のたぶった王様か。どこかでそんな小説読んだな。でも、まさか君がこうも気が触れてしまうとは思わなかったよ。僕は君という人間に対する見解を随分と見誤っていたようだ」

 絶望の滲む日々の中で、初めて違う「何か」が起きた。
 弾かれたように立ちあがり覗き窓に駆け寄ると、そこに立つ見知った兵たちの向こう白いフードを被った男が立っていた。兵は目前に不審人物がいるのにも関わらず、まるで何も見えていないかのように動かない。

「僕にとっては非常に都合のいいことだけど」

 格子を握り締め目を見開いた瞬間、男の姿がぶれたように消えた。

「でもこれはちょっと……あまりにも異常だね」

 刹那、背後から声がして息を呑む。勢い良く振り返ると、扉の外にいたはずの人物が同じ部屋に立ち、血で書かれた「Sol」まみれの壁を眺めていた。

「やあ、こんにちは。カイ=キスク」
――ギア、メーカー……!」

 フードの影になって見えない顔は、けれど首肯するようにわずかに揺れた。

「っ、あなたの仕業か……ッ!」
「正確には違うけど、間接的にはそうかな」

 カイは息を呑み、瞬く間に生白い頬を紅潮させた。昂奮だか何だか、自分でもわからない情動が凄まじい勢いで身体を支配し、心臓を熱く脈打たせている。全身を巡る血管の中の血が沸騰したかのような感覚に頭が真っ白になった。
 自身の感情すら理解できずに心臓を速足に鳴らしながら絶句したカイに、まるですべてを見通すかのように飛鳥が口を開いた。

「とても奇妙な顔をしているね。察するに、僕に対する怒りと……――それ以上に、「ソル=バッドガイ」の存在が君の狂った妄想ではなかったと証明されたことに喜悦しているのかな」

 そう言われてしまうとまさにその通りである気がして、余計に眼前の男への憤懣が募る。

「でも残念だけど、「ソル=バッドガイ」は存在しないよ」
「…ッ……」

 刹那、絶望が支配して、何かを言おうとした喉は引き攣っただけだった。

「少なくとも、この世界にはね」

 他人の感情を揺さぶるような物言いに歯噛みし、カイは激情のまま吠えた。

「っ、ソルを返せ……ッ!!」
「認識が間違っている。フレデリックは何ともない。君が、君だけ・・がおかしくなっているだけだ」

 「それと、」と続いた言葉はそれまでの柔らかい声音とは違い、低く強い響きでカイを貫く。見えなくとも、フードの下から鋭い視線が突き刺さった気配がした。

「〝返せ〟っていうのは違うと思うよ。フレデリックは君のものじゃない」
「っ……」

 しばらくの沈黙があった。
 フードの影越しに牽制するような視線を交わし合い、カイは静かに口を開いた。

「あなたのものでもない」
「……………」

 少しの沈黙のあと、飛鳥はカイの言葉に何も反応することなく脈絡なく紡ぎ始める。

「……君は」

 世界を絶望に落とした大罪人とは思えない柔らかな声は、けれどカイによくない感情をぶつけるかのように硬く響いた。

「いい加減にしてくれないかな」

 血まみれの冷たい灰色の壁に囲まれた部屋の中で落ちる声は、静かな怒りが乗っている気がした。

「僕は君に興味などないから君がどこで野垂れ死のうと構いはしないが、人類はそれを許さない。あるいは世界が、だ。必ず最悪な方向へ歯車が回る。〝神さま〟だって疲れてしまうよ。こんなにやり直させるなんて」
「……何の話ですか」
「呆気なく死なないでほしいって話さ」

 意味がわからず、顔を顰めるカイの頬に女性のような細い指先が伸びる。反射的に後退ったカイの頬に確かに触れたと思った指先は、しかし感触を一切感じなかった。

「まさしく神に愛された被造物だね。……――いや、憎まれているのかな。あるいは、君自身が宇宙樹だったりする?」
「………私は一人の人間です。あなたが死に追いやった何十億もの人たちと同じ」

 憤激が頭の天辺から足の爪先まで支配するような、烈しい情動が渦巻く。眼裏には惨たらし戦場と、命を落としていく仲間、逃げ惑う人々、骸を抱き哀泣する人たち……そして、この何日もの間思い浮かべ続けた男の姿が強く焼きついている。
 彼が憎悪する男が目の前にいる。彼らの間にある関係も何も知らないが、カイにとっても厭忌してしかるべき人物だった。人類を苦しめた大罪人。原罪の男。
 男は憎しみの篭る辛辣な言葉に、そう、と一言返しただけだった。

「僕は市井の君への理解を額面通りに受け取っていたけど、人々の評価は当てにならないみたいだ。とても君が聖らかだとは思えない。これじゃあ――

 男は狭い部屋の壁をゆっくりと見渡した。その一面に滲む「Sol」と書かれた血を痕を。

「天使とは程遠いね。たった一人の男に依存して気が触れてしまうほどには卑しい――人間だ」

 カイは壁を叩きすぎて赤く腫れてしまった拳をぐっと握り締めた。そこからぽたぽたと鮮血が汚らしく滴り、冷たい床を汚す。

「でも、だからこそ困るんだ。そのうえ、君は周囲の評価や自身の立場を慮らずに自分の存在価値を卑下する傾向にあるようだ。………そんなだから、アクソスにあっさり殺されるんだよ」
「……え?」

 最後の言葉は聞こえなかった。
 聞き返したカイに飛鳥は何でもないと首を振っただけだった。
 怪訝に眉を寄せ、カイは周囲をゆっくりと見渡した。血まみれの壁を撫でてみる。それは確かに指に当たり、確然と物質として存在している。けれど。
 ――君だけがおかしくなっているだけだ。
 彼はそう言った。

「……ここはあなたがつくり出した幻ですか」
「いや、歴として存在する一つの世界だ。――在り得たはずの……世界さ」
「在り得たはずの世界……?」
「そう。破棄された未来……いや、僕の時点からは過去にあたる。この世界の「カイ=キスク」の意識に「君」の意識をリンクさせている。つまり、その身体は君だけど君のものじゃないってことだ」

 指先がカイの身体を舐めるように指し示す。思わず自身の身体を見下ろし、カイは蒼碧の双眸を揺らした。

「可哀想に。フレデリックを知る君の意識とリンクしてしまったが故に、この世界の第一連王は気の触れた王となってしまった。君の周りの人々は皆正しい。誰も「ソル」なんて男のことは知らない。知るはずがない。そして、「君」もだ。「君」がフレデリックに出逢うはずがない。当然だ。フレデリックは人間・・だ。彼は君が生まれるよりずっと前に天国に召されているよ。……あの研究所の最後の日にね」

 最後の言葉は小さすぎて聞き取れなかった。
 カイは飛鳥の言葉を理解するより先に、愕然とした気持ちになった。今さら思い知る。想像したことすらなかった。在り得たはずの未来。
 ――誰もソルなんて男のことは知らない。知るはずがない。
 ――君がフレデリックに出逢うはずがない。
 ――彼は君が生まれるよりずっと前に天国に召されているよ。
 飛鳥の静かな声が頭の奥で反響し続けている。

 ――出逢うはずがない。

 その言葉だけがぐるぐると巡っていた。

『誰だよ、ソルって! そんな奴、俺は知らない……っ!』
『我々はソルという人物に心当たりはありません』
『っ……嘘じゃない! 他の誰もが、だ! 誰一人そんな男のことなど知らないッ!』

 シンもレオも部下たちも、誰ひとりおかしくなってなどいなかった。本当にだれも知らないのだ。「ソル」という人物を。
 ずくり、と切り苛むような絶望に似た痛みが鼓動を早めた。

「それで本題に入るけど、君はフレデリックと人類、天秤にかけたらどっちを取る?」
「……え?」
「本当は君の所為で一々歯車を狂わされたら困るから、君の身体に細工をしようと思っていただけなんだ。だけど、ちょっとした意趣返しを……いや、フレデリックがあまりにも君を……我ながら幼稚だね。ちょっとした意地悪のつもりだった」
「……意地悪? これが……?」

 声が一段と低くなり、カイの瞳に怒りが迸る。

「そう。でもまさか君がこんなにもフレデリックに執着しているなんて知らなかった。おかげでいい収穫だったよ」

 執着。この名状し難い情動は執着なのだろうか。こんなにも、心臓が焼けるように痛い感情は。

「それで本題だ。最悪のシナリオを回避するためにはフレデリックが死なないことが重要だった。でもセーフティーネットは必要だ。僕がそうあれたらいいけど、僕はすべてが終わったら彼と決着をつけなくてはいけない。彼が恨みを晴らすとき、僕はいなくなるだろうからね」
「……………」
「世界にはフレデリックが必要だ。彼がいなくなれば命運は尽きる。だから――……」

 澱みなく流暢に続いていた言葉が不自然に途切れた。

「……いや、ちがう。世界がどうとかじゃない。僕は……僕はフレデリックに生きていてほしいんだ」

 言い様のない腹立たしさが胸の奥底に渦巻いた。

「こんなことを言っても信じてもらえないだろうけど、本当に大切なひとなんだ」

 その切実な声に偽りがあるとは思えない。けれど。
 歯を噛み締める音が鳴る。あいつの――ソルの、色濃い積憂と孤独を湛えた冷たい双眸が眼裏を過ぎる。刹那、感情が爆発し、カイは飛鳥の胸もとに掴みかからんと拳を振り上げていた。

「ッ……!」

 しかし、カイの手は何も掴むことなく飛鳥の身体を突き抜けた。

「……弱冠十六歳で聖騎士団団長を務めたとは思えないね。君は意外と直情的なようだ。……それとも、フレデリックが関わると理性を失ってしまうのかな?」
「…っ……」
「僕はバックヤードから君に話しかけている。君を通して、この狂ってしまった哀れな王を閉じ込める牢を眺めているに過ぎない。そこに僕は存在しないよ」

 カイは唇を噛み締め、振り上げていた拳を下ろした。噛み締めた唇から垂れた血をそのままにゆらりと顔をあげ、ここにはいないという男を睨みつける。

「………ふつうは、大切なひとにあんな惨たらしい人生を歩ませない」

 唯一見える口もとがフードの影の下で、ぴくりと動き引き結ばれた。

「………そう。でも君は僕と同じ穴の狢だよ」
「ッ、貴様……っ!」

 カッとなって今一度振り上げた拳が行く先はなく、カイは壁に叩きつけた。

「貴様などと一緒にするなッ! 私は……っ!」

 ちがう。この男なんかと同じなものか。私はソルをっ……ソルを……!
 その先に続く言葉が何だったのか、自分でも理解できずにカイが閉口したのと、飛鳥が動いたのはほぼ同時だった。

「君はきっと――

 触れることのできない飛鳥の人差し指がカイの口もとに突き出される。しーっ、と親が子を黙らせるような仕草に思わず口を噤んだカイに、残酷な告諭が落ちた。

「僕と同じ罪を犯す」

 

(続く)