2.誰かが希望を汚瀆している

 

 乱れた髪をそのままに、カイは窓辺に置いた椅子に座り呆けたように窓の外を眺めていた。少し乱暴な強いノックの音にも気付かず、陽の光の射す外を見る目は虚ろで、闇でも覗いているのかのようだった。

「……カイ」

 息を呑むような呼び声に、ようやく誰かが部屋に入ってきたのだと知る。ゆっくりと、ゾンビが生きた鼓動でも見つけて振り返るようにホラーじみた動きでカイが首を巡らす。

「……レオ、」

 虚ろだった蒼碧に段々と光が戻ってくるのを、レオは息も出来ないような心地で見守った。

「レオ……ッ!」

 ようやく聞き慣れた凛然とした呼びかけだった。しかし、レオが安堵し口もとを緩めたとき、

「助けてくれ!」

 駆けてきたカイが胸もとに縋りつき、そんなことを言った。

「きっとあいつに何かあったんだ」

 〝あいつ〟。

「あいつは何でも一人で抱えてしまうから……。こんな異常事態だ、早く助けないと」

 ……確かに異常事態だ。

「今すぐ対処しないといけないのにこの有り様だ。みんな、どうしてしまったんだ! 私をこんなところに閉じ込めて、執務まで取り上げて……! 早くソルのもとへ行かないといけないのに……っ」

 レオは漏らしてしまいそうだった嗚咽をどうにか呑み込んだ。常なら不遜なほどに強い瞳は揺らめき、長い付き合いの友人であり同僚であるカイの姿からそっと視線を逸らした。

「……カイ」

 もとより華奢だったのにさらに薄くなった気がする肩に手を置き、ゆるく頭を振る。

「……異常なのはお前だ」

 捲し立てるように言葉を放っていたカイが瞬時に口を噤み、まるで時を止めたかのようにぴたりと固まった。人間らしく焦りの表情を浮かべていた顔がゆっくりと、スロー再生でも見ているかのように色を無くしていく。

「君までなんでそんなことを言うんだ……?」

 本当に理解できないとでも言うように、いっそ無垢なほどの双眸がレオを仰いだ。

「ソルという男のことを俺も知らない」
「ッ……嘘だ! 聖騎士団で共に戦っただろうッ! 確かに君は支部が変わって――
「嘘じゃない」
「うそ、嘘だ……やめろ、やだ、いやだ……」

 後ずさり、狂ったものでも見るようなカイの瞳に晒され、頭に血がのぼる。

「っ……嘘じゃない! 他の誰もが、だ! 誰一人そんな男のことなど知らないッ! ……この意味がわかるだろ。お前が……おかしいんだ」

 衝動的に怒鳴り散らしてしまい、だんだんと歪められていく花顔に声が萎んでいく。

「……おかしくない……私は狂ってなんかいない……。そうだ、これが異常なんだ」
「カイ」
「皆からあいつの存在が消えてる。誰かがそうしてる」
「カイ」
「早く見つけ出して――
「っ、カイ!」

 ぐっと胸ぐらを掴むと、虚ろな蒼碧がようやくレオを映した。

「例えばそうだったとして。じゃあ、なぜお前は覚えてるんだ。ソルという男のことを」
「っ…それ、は……」
「お前らしくもないな。論理的に説明もできないことを言ってる」
「ッ、まだ材料が少ないからわからないだけだ。これから犯人を追えば……!」
「カイ」
「っ……あいつ、は……わたし…あいつが……」
「……例えばお前にとって一等大切な奴だったとして、他の誰も大切に思わないほどの奴なのか」
「……………」
「わかるな? 認めるんだ。お前は正気じゃない」

 一歩、カイが足を引いた。レオから逃げるように。
 レオは扉の外に「入れ」と命令とした。ゆっくりと開かれた扉から物々しい鎧を着た兵士たちが入ってくる。顔は見えずともレオにはわかった。彼らが正気を失ってしまった敬愛する王に涙を飲んでいたことは。一度唾を呑み、残酷にも静かに告げる。

「……連れていけ」

 二人の兵がカイを挟むようにして腕を取った。

「なに……っ、何をするんです!?」

 顎をしゃくって出口を指し示すと、嫌がるカイを引きずるようにして兵たちが動いた。

「レオ……っ!」

 部屋から出ようというところで力尽くで止まったカイが振り返る。

「治療を受けろ」
「治療? 私はどこも悪くない!」
「だとしても、このままにはできない」
「なにを」
「お前は今、イリュリアを、その民を、少しでも想っているか?」

 息を呑んだカイに冷酷にレオは告げた。

「お前の頭は誰も知らないソルという男だけが占めている。お前は王の責務を放棄している。このまま王の権限を与えておくのは危険だ。……連れていけ」

 機敏さのない敬礼した兵が無理矢理にカイを連れていく。

「なんでそんな……ッ、ちがう。ちがう違う違う! 私はおかしくなんかなってないッ! あいつは、ソルは……っそる…どうして……ッ」

 遠くなっていく声がこの期に及んで「ソル」と何度も呼ぶのを、レオは哀れみの表情で見送った。


 *


「出してッ!! ここから出してください…ッ!」

 灰色の重厚な扉を音が響くほどに強く叩く音がする。壁や扉を殴打しすぎた所為で彼の拳が血まみれであることを、扉の前に佇む彼の部下たちは知っていた。
 聖騎士団の頃より彼に仕えていた一人の騎士は、もうじきこの音がやみ、叫びすぎてもとの柔らかい声の面影もない掠れた声が哀哭のようにある男の名前を呼ぶのを知っている。

「出して……ッ! だしてくださ……っ、おねがい…お願いです……」

 扉を叩く音が止まる。
 兵は内心つぶやく。〝ソル〟。

「そる……っ」

 同時に聞こえた愛しい王の声に、鎧の下で唇を噛んだ。

「ソルソルソル……!!」

 聞きたくない。もうその名前を聞きたくなかった。

 何日こうしているだろう。
 隣に立つ部下が嗚咽を漏らし始めた。

「しっかりしろ」
「も、もう私には耐えられません……! カイ様はどうしてこんな……ッ!」
「黙れ。不敬だぞ」
「……申し訳ありません」
「食事の時間だ、開けろ」

 兵が震える手で鍵を開け、重々しい扉に手をかける。
 給仕が持ってきたトレーを受け取り、キィィ、と嫌な音を立てて開いた扉の向こうに、スラックスとシャツだけを身にまとった王の姿があった。気が滅入るような灰色の壁に囲まれた薄暗く狭い部屋の中央に座り込んでいる。幾らか伸びたブロンドは乱れ、その美しい色すらくすんで見えた。その向こうから蒼碧の双眸がゆらりと覗く。

「出してもらえるのですか……?」
「……食事の時間です」

 雑に伸びた乱れた髪、殊更痩せ細った肢体、虚ろな双眸。
 部屋の造りも相俟って、まさしく精神を病んでしまった重度の患者そのものだった。
 王であり、希望であるこの人をこんなところに閉じ込めているのには訳がある。専門の医師のもと治療に当たっていたが、一度彼自身の力が暴走し、周囲を含め王の身までもが被害にあった。王の常人より優れた偉大な力の暴走は危険極まりなく、幾度もの議論の末、致し方なくこのような対処の仕方となった。骨の浮き出た細い足首には法力抑制装置の足輪がつけられ、部屋自体も結界が施されている。カイほどの術者でもこの部屋から抜け出すことは不可能だ。
 王の変わり果てた姿に目を伏せ、食事の乗ったトレーを小さい机に置こうとしたときだった。

「っひ……!」

 後ろから部下の小さい悲鳴があがる。
 何事だと怒鳴ろうとしたとき、それまで王に気を取られて視界に入らなかった部屋全体が目に映った。

「……ッ!」

 灰色の壁が開けた扉の外から入り込んでくる光によって明るくなる。その一面には赤い文字が浮かんでいた。

『SolSolsolsolsolsolsolsol…………』

 血の気が引く。
 王だけが知る名前。壁一面に〝誰か〟の名前が書かれていた。乾いた文字もあれば、端っこから赤が滴っている文字もある。
 中央に座り込む王の拳はいつものように赤く染まっている。だが、それは壁を殴りつけただけの赤ではなかった。その指先からはたらたらと真っ赤な鮮血が痛々しく滴っていた。
 ガシャン……!
 トレーが手から滑り落ちる。

「どうされたのですか?」

 王は私を見上げ、幼子のように無垢に小首を傾げた。
 言いようない恐怖に全身が竦む。
 細い腕が伸び、生白い指先が鎧の上から頬を撫でた。指が滑ったあとに血の道ができる。

「大丈夫です。私があなたに安らかな光を与えます。だからどうか――

 ささやかに頬を撫でていた指先が腕を掴んだ。

「っぅ……!」

 いっそ化け物じみた力で握られる。
 あれだけ美しく柔らかった声が途端に低くなった。

――ここから出してください」

 思わずがむしゃらに細腕を振り払っていた。

「なぜ……そんなふうに怯えるのですか? あなたまで私の気が触れてると思っているのですか!?」

 ガンッ! と鈍い音を立てて血まみれの拳が壁に叩きつけられた。

「私はおかしくなどなっていない! 狂ってなんていないッ!」

 張り上げた声が牢のような部屋の中で反響する。

「他の誰が忘れてしまっても私だけは……ッ! あいつを、ソルを覚えてる!!」

 奈落の底へと落ちていくような恐怖の中、それでもその言葉を否定するようにふるふると首を振ると、カイの美しい容貌が鬼のように歪んだ。

「ソル……ッ! どうして返事をしてくれないんだ!!」

 壁しかない周囲を見渡し、カイは誰かを探し始める。呼び声に応える返事があるわけもなく、絶望に似た表情をしたカイは頭を抱え、たぶったように叫び始めた。
 兵は異常な王の姿に後ずさった。

「そる…っ、ソルソルソル……!!」

 後ろ足が部屋から一歩出る。

「……扉を閉めろ」

 涙の滲む声で兵は部下に命じた。



 いったいもう気のたぶった王を見守る残酷な毎日をどれだけ過ごしただろう。

「……どうしてこんなことになってしまったのでしょう」

 牢獄のような部屋の前で警備に就く部下が弱々しくそう漏らした。

「医師の話では何かしらの切欠で最後の砦が決壊したのでは、ということだ」
「最後の砦?」
「カイ様は幼い頃より戦場に立っていた。判断力や思考回路、物事への認識、自意識と客観的事実との相違への知覚……そういうものが形成される少年期を、だ。その時期は情動と関連づけられた記憶がより強く残るともいう」

 あのいつかの日の、戦塵と血と臓物にまみれた地獄が眼裏に焼きついている。

「戦場には通常の倫理も常識もない。騎士団はモラルを法規として明文化していたが、それは傍から見れば非合理なんだ。今の……平和な世での倫理に基づくとな。戦場では仲間がギアに殺され、喰われ……それはもう凄惨極まりなかった。ギアの猛襲を受け、供給路が絶たれて飢えをしのいだこともあった。いまだに仲間の悲鳴が耳に残っているよ」

 時々思う。今の自分はまるで、異世界で生きているようだと。人類の新たな脅威と戦い退けた今でさえ、それでもあの頃とはあまりにも違う。ここは異世界の楽園のようだ。あの残虐な悪魔の跋扈していた場所とはかけ離れている。それだけ陰惨だった。

「加えて、カイ様は指揮する立場にあった。何人もの仲間を死地に向かわせた。その精神負荷がどれほどのものだったか。医者が言うには、今になってそれら諸々を抱えていた器が決壊したのではという話だ」

 今になって疑問に思い、今になって気づいた。あんな惨たらしい戦場から帰還して、それでもなお、また戦場へとどうして足を向けることができたか。それは〝希望〟の存在があったからだ。

「……今さら私は気づいたよ。あの人が自分たちと同じ〝人間〟なんだって。今考えると信じられないな。あんな……子どもといっていい年齢だった。でも誰もがカイ様を信じ、疑うことはなかった。あの人こそ、まさしく希望だった。その希望への情念が我々の絶対に拭えない死への恐怖をなくしてくれた。だから皆……仲間が殺され、次々と倒れていく戦場であの悪魔たちに何度も立ち向かっていけたんだ。今になって思う。ならば、皆の心の拠り所だったカイ様はいったい何を信じ、倫理や常識を超えられたのだろうと、な」
「……神ではないのですか?」
「あの戦場に立ったものなら誰もが知っている。神に祈ったところで何も救われないことはな」

 ガンッ……!
 一際大きく部屋の中から壁を叩く音が響いた。

『ソル……ッ!』

 重厚な扉の向こうから、王の叫びが聞こえた。

「……〝ソル〟」
「………まさか、その人が……」
「あるいは、カイ様にとってそうだったのかもな……」
「聞いた話では、カイ様を治すにはカイ様の中にいるその男の存在を消し去らないとならないと」
「ああ」
「でもそれじゃあ――
「……難しいだろうな。もとの……希望であるカイ様に戻ることは」

 そんな……と嘆いた部下の向こう、灰色の物々しい扉の中で壊れた希望が啼泣の如き叫びをあげている。
 小さい覗き窓から見れば、狂ったように壁を叩く王の姿がある。その壁には一面血文字で書かれた名前が、まるで悪魔の儀式のように並んでいた。
 王は叫び続ける。
 ――ソルソルソルソル……
 一体何度、その名を聞いたか。
 もうその忌々しい名前を聞きたくなかった。
 その男が王を狂わせたのだ。王の中だけに存在し、他の誰もが知らない〝誰か〟。そいつがカイ様を奪った。この王国の、そしてこの世界の、人類の、希望を奪ったのだ。

 

(続く)