1.天使が盲いた日

 

 馴染みの執事がことり、と美しい装飾の施されたティーカップをデスクに置いた。ブラックカラントのような香りが鼻孔を擽り、カイは思わず眼鏡を外した。艶のある赤銅色の水面が揺れるそこを覗いて頬を緩める。執事に礼を告げれば、「そろそろ休憩なさってください」と多分に心配の篭った、けれど有無を言わせないような眼差しに見据えられ、困ったように肩を竦めた。確かにずっと座っていた身体は凝り固まり、小さな悲鳴を上げている。疲れの溜まりやすくなった身体に歳月の流れを感じて少し寂しくなった。
 紅茶に口をつけて、ほう、と熱い吐息を漏らす。確かに、そろそろ休憩を取ってもいいかもしれない。固まった身体をほぐすためにも執務室を離れようか、と思ったところで脳裏に真紅の炎が揺らめいた。脳内は仕事だけが占めていたはずなのに、ちょっと気が逸れた途端にこれだ。たった一瞬、眼裏に姿が過ぎっただけなのに、会いたいという強い衝動が迸る。しかし、次の瞬間にはカイは首を傾げていた。どうしてこんな衝動に駆られるのか、自分の感情だというのに全くわからなかった。
 しばらく会っていなかっただろうか。あいつが好き好んで王城に来るわけはない。でもつい最近、話をしたような。カイは眉を寄せて瞳を揺らした。思い出せない。
 カイが飲み干したティーカップを置くと、すかさず執事がティーポットの乗ったトレーを手に近づいてくる。おかわりはいかがです、との視線に首を振り、カイは立ちあがった。
 どうしても今、会わなければならない気がした。あの男に。
 カイは少し躊躇いながら、「あの……」と執事を窺った。

「あいつは来ていますか」

 きょとんと目を丸くして執事は首を傾げる。

「あいつ、とは誰でしょう?」

 今度はカイのほうが目を丸くした。長年の付き合いだ。話は通じると思ったのだけれど。カイが〝あいつ〟だなんて言い方をする相手なんて限られている。それこそ、一人しかいない。
 カイが改めて男の名を口にして訊ねるより先に、執事が「ああ、」と得心がいったように口を開いた。

「シン様なら先ほど中庭でお見かけしましたよ。何でも王立騎士団相手に仕合いを挑んでいるみたいで」

 やんちゃな孫でも思い出すような微笑ましい表情をして告げた執事に、カイも思わず口もとを緩めた。
 シンは来ているのか。だったら、あいつもいるだろう。
 カイは頷き、「ちょっと見てきますね」と執務室を後にした。



 中庭に足を踏み入れる。一人が王の姿に気付くと同時に皆が振り返り、礼の形を取った。一様に敬礼した騎士たちの中心で息子が目を丸くしてこちらを見た。シンは手にした得物――が本来武器に使わないはずのものであるのもあいつの所為らしい――を一人の兵に突き出し、「まだ途中だぜ!」と意気込んだ。物々しい鎧の下の表情は見えずとも、彼らが困っているのはわかった。助けを求めるようにこちらに視線を向ける姿に微苦笑する。
 王の息子と本気で仕合えるはずもなく、けれど本気でないとシンが駄々を捏ねる。シンはカイにも劣らない実力の持ち主だ。身体能力だけでいえばシンのほうが上だろう。戦う術を教えたのがあいつだから、基本がまるでなっていないけれど。
 カイが緩やかにシンのもとに近づくと、あからさまに嫌そうな顔をした。以前ならそれに大層落ち込んだのだが、今は少しばかりわだかまりが解けたところだ。前なら口を噤んでいただろうが、カイは微笑を愛する息子に向けた。

「シン。彼らにも仕事があるんだ。それくらいにしなさい」

 むぅ、と唇を尖らせたシンは「ちぇー」と不満を露わにしたが、渋々といった感じで武器を下ろした。同時にあからさまな安堵が兵たちの間に落ちる。

「じゃあ、カイが相手してくれよ」

 ぐい、と得物を突きつけられる。相手をしたいのは山々だけれど、すぐに仕事に戻らないといけない。でも一戦くらいなら平気か、と逡巡している間に、断られると早とちりしたシンの瞳に微かに寂寥が浮かんだ。
 あーあ、と投げやりな不満の吐息を漏らし、シンは頬を膨らませた。

「カイはいっつも仕事仕事だし、おっさん達も全然本気で相手してくれねぇし。めっちゃ暇!」

 ぶうぶうと文句を寂しさ混じりに漏らすシンは図体は大きいけれど、やはりまだ幼さが残っていた。カイは困ったように眉を下げつつ、ふいに浮かんだ怪訝に目を瞬かせる。
 シンが暇だと漏らすなんて珍しい。だってシンはいつもあいつの背を追いかけ、あいつと一緒にいるのだ。
 まったく、とカイは呆れと怒りの交じった溜め息を漏らした。あいつはシンを放って何をしているのだろう。息子を預けた身でそんな怒りを向けるのは筋違いだとわかっているが、それでもまだ年齢的には幼いシンを放置とは許せない。他の諸々の教育方針も含めて。今一度きちんと話し合うべきか。だが、どう育っても文句は言うなよとの言葉に頷いてしまったのはカイだ。それでもまだ九九すら覚えていないというのは看過できない。あいつは自分は頭がいいくせに、それを教育に組み入れないのだから酷い話だ。
 段々とあいつに対する不満が膨らみ、やっぱり文句の一つでも言ってやろうという気になってカイは口を開いた。

「あいつはどこにいるんだ?」

 訊ねられたシンがきょとんと目を丸くした。

「あいつって誰だよ」

 またカイのほうが瞠目する。どうして伝わらないのだろう。

「ソルだ。あいつと一緒に城に来たんじゃないのか? どこに行ったんだ」

 丸くなっていたシンの青緑が不思議そうに細まった。

「はぁ? ソルって誰だよ」
「え……」

 カイはぽかんと口を開け、まじまじとシンを見つめた。嫌なふうに心臓がドクリと鳴る。

「……なにを言ってるんだ。冗談はやめてくれ」

 何か途轍もなく大きな不安が一気に襲ってきた。冗談、と鼻で笑おうとして浮かべたはずの笑みは、きっと歪になってしまったのだろう。シンが硬い笑みを浮かべるカイに眉を寄せる。その顔に乗る一つの眼は訝しげな色を孕み、何か得体の知れないものでも見るような表情でカイを見た。

「カイこそ、何言ってんだよ? ……そのソルって奴と一緒に俺が城に来たってどういう意味?」

 蒼碧が冷たくなっていく。シンはどこか責め立てるようにカイを見据えた。

「どういうって……あなたはずっとソルと一緒にいたでしょう?」

 そうだ。賞金稼ぎとして世界中を飛び回るソルと、ずっと一緒に。
 シンの瞳が戸惑いに揺れる。

「なに言ってんだ……? 何で急にそんなこと言うんだよ……?」
「シン…?」
「ソルって奴がどこの誰だか知らねぇけど、俺はずっとここにいたじゃんか! カイと母さんとずっと一緒に!」

 ずっと一緒に……?
 カイは愕然と目を見開いた。シンは大きな瞳を揺らし、悲愴と怒りの綯い交ぜになった顔でカイを責め立てている。その顔が嘘だとはとても思えなかった。
 急激に沸き立った恐怖がカイを覆い込む。抱えきれないほどの不安が押し寄せ、気が触れてしまいそうだった。何もわからなかった。シンの言動がどういう意味なのかすら。
 異様な空気が中庭を支配する。シンの強い眼差しに晒されながら、カイはハッとして兵を見た。

「……シンはいつ城へ来たのですか」

 必死な形相で問い詰められて兵は狼狽えたようだった。それは戸惑いが先立ったものだったらしい。恐る恐る、といった感じで口を開く。

「いつ、とはどういう意味でしょうか……? シン様はずっと城におられましたよ。なにかご旅行されていたわけでもないですし、最近は外出もせずにこちらで過ごされておいででしたが」
「……カイ、本当にどうしちまったんだよ? 俺、ずっとここにいたぜ? つーか、どっかに一人で旅に出るわけもねぇし、いつ城に来たのかって言われても、ここが家なんだから来たも何もずっといただろ」

 怒りの表情は不安に変わっていた。なじるようだった声音は、幼子でも説得しているかのように優しくなった。まるでカイの様子がおかしいとばかりの態度にふるふると頭を振り、カイは後ずさった。

「カイ様……!」

 ふらりと揺らいだ身体を兵が支える。その声に聞き覚えがあって弾かれたように兵を見た。かつての聖騎士団の団員は多くが警察機構へ就職した。その中にはイリュリア連王国が成立し、カイが第一連王となったとき、共に来た者もいた。元老院の手引きの所為でカイの周囲は新しい人材ばかりで固められたためわずかばかりではあったが、この兵はその内の一人だ。かつての部下であり、同僚だ。ずっと前からの。
 カイは藁にも縋る思いで兵を見上げた。

「あなたはわかりますよね?」
「え……」
「ソルです」
「はぁ……ソル、さん…ですか」
「聖騎士としてはあるまじき無法者でしたが、軍神と呼ばれるほど強かったでしょう? ここにだって何度か足を運んでいますし――
「カイ様。すみません。私には覚えがありません」

 捲し立てるようなカイの言葉を兵が遮る。カイはぴたりと口を噤み、無理矢理に浮かべていた微笑のまま表情を凍らせた。
 なんで。どうして。
 ああ、そうか。あいつのことだから何か事件でも嗅ぎつけたのではないか。私が首を突っ込むのを嫌がり、シンや兵まで巻き込んで居場所を眩ませたか。

「シン!」

 強い呼びかけにシンがびくりと肩を震わせる。

「もう嘘はやめましょう?」

 ふらりと近づいたカイがシンの頬を細い指先で撫でる。こてりと首を傾げて微笑ってみせたカイに、シンの表情が恐怖に似た何かに彩られていく。

「ソルはどこにいるんだ? あいつが私から逃げるために嘘を吐かせたのだろう? 怒らないから正直に言いなさい」

 頬を包み込んだカイの手から逃れるように、シンは一歩後ろに下がった。いつも青空のように澄んでいるはずの瞳は、何か異常なものでも映すかのようにカイを見た。

「か、カイ……本当にどうしたんだよ? 仕事のやりすぎじゃねぇの……今日はもう休めって」
「シン……あいつに何かを盾に脅されているのか? あいつもそこまで鬼じゃない。私が勘付くことくらい想定済だと思うぞ?」

 シンの瞳が大きく揺らいだ。
 ああ、やっぱり。あいつは子どもに対しても容赦ないから、えげつないことでシンを脅したに違いない。ひとの息子に何てことを。早く追いかけて文句を浴びせなければ気が済まない。
 シンが身じろぐ。ようやく本当のことを言ってくれるかと笑顔でカイは顔をあげたのに、なぜかシンはまた一歩後ずさった。

「シン?」
「か、カイ様……」

 兵が微かに震えた声で呼びかけた。

「なんです?」
「シン様の言う通り、今日はもうお休みになられてはいかがですか」

 なんでそんなことを言うのだろう。皆、よっぽど私をあいつから遠ざけたいのか。それほどまでに重大な何かにあいつは巻き込まれているのだろうか。

「いいえ、大丈夫です。それより早くソルを追いかけないと。あいつはいつも一人で無茶をしますからね。シンも心配だろう? いつも「オヤジ、オヤジ」って慕ってるじゃないか。少し妬けるけどね。シンならあいつの事情に構わずついていくと思っていたが……本当に何か起きているのか?」
「………やめろよ」
「え……?」
「いい加減にしろよッ! 何なんだよ!? さっきから! なぁ、俺なにかしたか? カイのこと怒らせたかよ!?」
「シン? なにを、」
「わけわかんねぇよッ……オヤジってなに……おれの…俺の父さんはカイだけだろ!? 誰だよ、ソルって! そんな奴、俺は知らない……っ!」

 シンは眦に涙を溜めて叩きつけるように叫んだ。そのままカイに背を向けて逃げるように走り去っていく。呆然と遠くなっていく背を見送るカイの眼裏には傷ついた息子の顔がはっきりと焼きついていて胸が張り裂けそうだというのに、頭はあいつのことでいっぱいだった。
 ドクンドクンと嫌なふうに速さを増していく脈が警鐘のように鳴り響いている。
 どうして。なんで。シンが嘘を吐いていないというのなら、あいつはどこにいる。どうして誰もが目を丸くして不思議そうに首を傾げるのだろう。どうしてそんな異常なものでも見るような目で私を見る。あいつは。あいつは、どこ。

「あなた達は知っているのでしょう?」

 カイは兵を見渡し、無理矢理に笑みを浮かべた。兵たちの間で動揺したような騒めきが小さく沸き立つ。

「なぜ誰も答えないのですか? あの子と一緒にソルも来たのでしょうッ……!?」

 普段ならば絶対にしない責め立てるような言い方でカイは声を張り上げた。びくり、と肩を揺らした兵たちが無意識のうちにカイから距離を取るように後ずさる。

「……カイ様、どうなさったのですか……? シン様はずっと城におられました。それに……我々はソルという人物に心当たりはありません」

 カイの顔から歪な笑みが消える。すべての色を無くした端整な顔は人形のように生気を感じられなくなった。兵たちは何か狂ったものでも見るような、得体の知らないものがそこにあるような、そんな態度で王を見ていた。
 カイは何かから逃れるように首を振り、機械人形のように歪な動きで後ずさった。お前がおかしいと突きつけられているような肌を刺す空気に、一歩、また一歩と足を引く。ひく、と喉が引き攣った。
 なんで。なんでなんでなんで……!

 ―― あ い つ が い な い 。

 カイは駆け出した。あの男を求めて。どこかにあいつがいるはずだから。無愛想な顔で煙草を吸って、私に見つかると心底嫌そうな顔をするんだ。鬱陶しい、と隠しもせずに顔に出して私を追い払おうとするんだろう。鋭い瞳は額当ての影から冷たい色を湛え、私を見据える。それでも太い喉を動かし、あいつは私の名を呼んでくれる。今はもう、子どもに対する呼びかけではなく、私の名前を。

 ――カイ。

「ソル……っ」



 冷えた空気が肌を刺す。幻想的な青い光の筋を縫って下っていくと、反響した声が耳に届いた。

「……母さん。カイが……父さんがおかしなことを言うんだ」

 その静かな声は彼には似つかわしくなかった。

「〝ソル〟って奴を俺がオヤジって呼んで慕ってたとかさ。俺はそいつとずっと一緒にいたとかさ。母さんとカイとじゃなくて。……そりゃ最近までカイのこと恨んでたし、きつく当たってきたけど……こんなのってないじゃん。カイ、怒ってんのかな」

 一歩踏み出したところで、コツ、と足音が響いた。

「……シン」
「っ、カイ……」

 シンはカイが施した封印の中でぴくりとも動かない母親の前で、弾かれたように振り返った。

「……カイも母さんに会いにきたのか?」
「……ええ」
「じゃあ俺、」

 行くわ、と目も合わせずにそそくさと通り過ぎようとするシンの腕を掴む。びくっと震えた身体に思いの外強く掴んでしまったと反省する。

「シン。私はあなたに怒りを向けてなどいない」
「……ああ。つーか、あなた呼びやめろよ」
「え? ああ、そうだな。私はお前を――

 カイはハッとしてシンに詰め寄った。
 力を入れてしまった手に強く圧迫されたシンが小さく呻く。

「ぃっ、」
「それだ」
「は?」
「それだよ、シン。私が〝お前〟などと呼ぶのはあいつくらいだ」
「……〝あいつ〟? ……またソルとかいう奴の話かよ」
「シン。正直に言うんだ。ソルはどこにいる?」

 カイの頭は真面に働いてはいなかった。シンの言動を見れば、隠し事をしているなどと思わないはずだった。だが、カイの頭はソルの存在が証明されたとばかりに悦び、ただ一人の男のことだけを追い求めていた。
 嬉しそうに笑むカイの、その狂気じみた表情にシンは咄嗟に掴まれていた腕を振り払う。

「……正直に言うよ」

 同じ色の瞳が揺らぐ。

「カイは狂ってる」

 シンが発したとは思えないほど静かな声だった。
 喜悦の表情のまま凍りついたカイをそのままに、シンは逃げるように駆けていった。
 ……何が、起きている。
 歪んでいくカイの双眸が朧々となっていく。狂ったように頭を振り、自分以外が忘れ去ってしまっている――いや、認識すらしていない――男の残像を必死に眼裏に思い浮かべた。
 揺らぐ視界の端に愛する妻の姿が映る。カイは駆け寄り、縋りついた。

「ディズィー……私…っ、わたしは……」

 あいつは……あんなにも追いかけた大きい背中は、憎たらしいほど強い男は、大嫌いなほど眩しい光を持つあの男は、カイの人生にこれでもかと影響を与えた男は、
 ――〝ソル〟は存在しないというのか。
 私が私の中で創りあげた幻想だとでも……?
 それとも、彼が歩むべき安らかな人生へと還ったのだろうか。そうだというのなら、それはとても……――ちがう。……そんなの、そんなこと……っ、

 ――いやだ。

 徐々に光を失くしていく蒼碧の双眸が闇を覗いたように虚ろになった。
 はは、と気の触れた笑声が反響する。あまりに残酷な考えに至った自身に戦慄さえした。自分がとてつもなく汚らわしい存在に思えて、咄嗟に自身を抱きしめるように回した腕が爪を立てて鮮血を滲ませる。

「私は狂ってしまったのか」

 細い指先が縋るように封印の中の妻へと伸ばされた。
 光溢れる聖堂に飾られる聖母像のように、カイの女神は何も応えてはくれなかった。


 
 2018.9.30title by : afaik 様)

(続く)