「……で、何なんだ」

 ソルは先までレオが座っていたソファに腰かけ、酒瓶の蓋を開けた。カイもデスクに戻り、元の位置に落ち着く。随分と大人げのない言い合いをしていたと、我に返って互いに多少は反省した。若干気まずい空気の中、それでも聞き捨てのならないカイの台詞の真意を聞くために、ソルは振り出しに話を戻した。

「最近、眠れないんだ」

 疲れたように瞼を下ろしながら目の間を揉んでいるカイを、ソルは思い切り怪訝な顔で見た。

「………まさか添い寝してくれとか言わねぇよな」
「………………」

 揉んでいた指を下ろし、瞼を開けたカイとソルの目が合う。ぱちり、とぴったり合わさった視線はすぐに逸らされた。カイが気まずそうに。それがソルの言葉に肯定を示していた。

「………本当に〝坊や〟じゃねぇか」
「うるさいな」
「子ども返りか」
「ちがう……!」

 もうソルには三十路の男が子どもにしか見えなくなっていた。そうやって不満を露わに頬を膨らませる様なんて、本当に。

「………昔、」
「あ?」
「一緒に寝たことがあっただろう」

 ソルは眉間に深く皺を刻んだ。そんなことあったっけか、と記憶を掘り起こして「……ああ」と思い至る。

「アペンラーデか」

 カイはこくりと頷いた。



 あれは気象が非常に不安定な中での遠征だった。おかげで余計な被害も増えた悲惨な戦場ではあったが、敵の数はそこまで多くはなかった。小規模な部隊での戦闘になったが、すぐに片がついた。だがいかんせん気象が荒く、帰還するのは明朝ということになり、一晩天幕で過ごす羽目になった。戦闘中に近くでまた別のギアの一群が出没したこともあり、飛空艇がそちらに別の部隊の団員を送ったためである。
 それはもう非常に不本意極まりないが、ソルとカイは同じ天幕に寝ることとなった。小規模だったおかげでみんなで雑魚寝ということはなかったのだが、おかげで上司であるという理由からカイとソルは二人きりだった。何か楽しく世間話をするわけでもなく、その日は珍しく作戦を守って戦っていたソルにカイから小言が降りかかることもなく、特に何の会話もなく横になった。
 暴れられなかった所為で消化不良だった身体に舌打ちしながらも、ソルはどうにか眠ろうと目を閉じた。しかし、ソルの就眠は隣から聞こえた音に妨げられた。かちかち、と変な音がする、と隣を見やって瞠目した。カイの身体がガタガタと震えていたからだ。変な音、というのは歯が不自然に鳴る音だった。

「おい、どうした」

 さすがに無視できず、身体を起こして問いかける。カイは薄い毛布を震える手でぎゅうっと握りしめて、上手く合わさらない歯の奥の喉を鳴らした。

「……さむい」
「は……?」
「あなたは寒くないのですか?」

 言われて、はたと気付く。寒い。結構、かなり、相当。ちりちりと灼けるような人外の衝動に気を取られて気づかなかった。ソルは多少の気温の変化なら問題がない――と言っても寒いとは確かに感じる――ために、違うことに意識を向けすぎて、寒さを些末事と認識してしまっていたらしい。

「……ああ、確かに寒ぃな」

 そう白々しく付け足した。
 それにしてもさすがにそこまで震えているのはおかしくないかと、ソルはおもむろにカイの額に手をやった。

「わっ……な、なにするんです……!」

 長い前髪を除けて触れた額は異常な熱さを湛えていた。

「お前、熱あんぞ」
「えっ」

 驚きの声と共に真んまるになった青緑に呆れの視線を送る。

「テメェのこともわかんねぇのかよ」
「う、うるさい……全然平気だったんだから仕方ないでしょう……」

 むぅっと唇を尖らせて、ろくに反論にもなっていない言葉を返す様が妙に子どもじみていて違和感があった。これも熱を出しているからこそなのかもしれない。よくよく考えれば歳相応なだけなのだが、いかんせん普段が気持ち悪いほど老成しているおかげで違和感しかない。だが、その歳相応な子どもらしさと寒さに震える小さい身体が、珍しいことにソルに庇護欲を湧かせた。

「おい」
「はい…?」

 熱を出していると自覚したからか、はたまた悪化したのか知らないが、息を荒くし苦しげに呼吸をしている少年に呼びかける。ソルは自分に乱雑にかけていた毛布をめくった。

「入れ」
「……え」

 きょとんと丸くなった瞳が驚愕に限界まで開く。

「な、なんでですか」
「寒ぃんだろ。そのまま隣でガタガタ震えられても迷惑なんだよ」

 カイはぼんやりした顔をしたまま頷きもせず動きもしなかったので、ソルは強引にカイを引き寄せた。「ひゃあ」とか「ぎゃあ」とか聞こえたが、無視して己よりも小さい身体を抱き込む。その上から薄汚れた毛布を二枚かけた。

「……どういう風の吹き回しですか」
「あ?」
「あなたがこんな……」

 気遣うようなこと、と小さく言われて、思わず大きく眉を顰める。

「お前はひとを何だと思ってやがる」
「だ、だって……いつも私の言うこと無視するじゃないですか」
「聞く必要もねぇからな」

 途端にきっと睨んでくるカイの小さい頭をぽんぽん叩いて宥める。まるきり子どもにするような仕草だ。カイは驚いた顔をしてから、目もとを赤く染めて俯いた。長い前髪でカイの表情が見えなくなる。

「ガキならガキらしく、たまには我が儘でも言っとけ」
「……ガキじゃありません」
「ガキは総じてそう言うんだよ」
「あなただけですよ。私を坊や扱いするの」
「じゃあ、他の連中がおかしいんだろうよ」

 カイはもう言い返すこともなく、黙り込んだ。少しの沈黙のあと、腕の中から小さい呟きが聞こえた。

「あったかい」

 そうだな。内心ぽつりと零す。随分と久しぶりに他人の体温を感じた気がする。
 ソルの身体はいつの間にか、暴れきれなかった消化不良を解消していた。そのことに首を傾げる。言いようのない衝動が手の届きそうなところにあるが如く煩わしいそれは、人肌に触れて鎮まるようなものではないはずだ。むしろ、人肌――というか、生き物の命――を感じれば、余計にひどくなるはずだった。その鼓動を刻む何かを壊したくなるから。それなのに、どうして。

「………わがまま言っていいですか」

 ソルの思考をカイの言葉が遮る。半分眠りの中にいるような舌足らずな声だった。

「…ああ」
「その……いつかまた――

 続いた言葉にソルはぎょっとしたのだが、その心情に身体が反応する前に眠りに入りかかっていた。腕の中におさまる身体は何か凸凹のピースでも嵌めたように、ぴったりとソルの腕に落ち着き、名状し難い安堵感を生む。しかしその安堵感は腕の中で、もそもそと動いたカイが細い腕を伸ばし、ソルに抱きついてきたことで壊された。
 ざわり、と全身を総毛立つような感覚がソルを襲う。眠気など一気に吹き飛んだ。喉が渇く。噛み締めた唇を牙のように鋭い犬歯が突き破る。血の味がした。壊したい。何を。この子どもを。……壊したいのか? 本当に……? 違う。ソルは腹の奥底から湧き上がってくる熱に、信じられない思いでいた。これは、呪われたこの身の細胞がもたらす衝動なんかじゃない。これは、欲求だ。ソルは、この子どもを求めている。何に付随する衝動かわからない。一夜の慰めか? 女代わりか? どれも違うように思える。だが、望んでいる。求めている。何かを、ソルに与えてほしくて。
 ソルは子どもを抱き込んでいる腕が残酷に動きそうなのを、どうにか理性で留めた。ここで衝動に従うのなら、それはただの獣だ。……化け物と同じだ。
 この少年はまだ、大人が庇護すべき対象の子どもだ。だったら、この子どもが大人になれば許されるのかと嘲笑う声が頭の隅で響いたが、ソルは気付かないふりで子どもを抱き込む腕に力を入れた。
 ソルは子どもの身体を抱き込み、親が子にするように蜂蜜色の髪に口づけを落とした。良い夢を、とでもいうようなその行動が滑稽だった。こんな戦場で見る夢など、悪夢に決まっている。ソルはきつく瞼を閉じ、何も考えないで済むように闇の中に身を投げた。



 いつか、また。
 封じ込めたはずの記憶が鮮明に蘇る。あの夜の子どもの声が耳の奥で反響した。

――……いつかまた一緒に寝てくれ、か」

 ソルは嫌な記憶まで付随して思い出したその言葉を小さく呟いた。

「……覚えてたのか」

 驚きと、それから幾許かの羞恥を含んだような顔でカイが言う。
 正直、今の今まで特に思い出すような記憶でもなかった。……いや、思い出さないようにしていた。あの日、なにか触れてはいけないものに琴線を掠めた気がしたからだ。

「……まぁな。そんな訳わかんねぇ我が儘を言われればな」
「訳わかんないって失礼だな」
「じゃあ、どういうつもりだったんだ」
「……さあ」
「ハァ?」
「私もほとんど眠りの中にいて、何でそんなことを言ったのかよくわからない」
「馬鹿じゃねぇのか」
「うるさい。でもあの日はやけにぐっすり眠れたことを思い出してな……。いい加減、ここ最近の不眠が辛くなってきて、」
「俺に一緒に寝てくれってか」
「ああ」

 さも妙案を思いついたとばかりの顔で頷かれて、ソルは憮然たる面持ちでカイを見た。こいつは馬鹿なのだろうか、と一国の王相手に大層酷いことを思いながら眉を顰める。いくら昔を思い出したからって大の大人がそんなことを頼むだろうか、普通。……ああ、そういやこいつは普通じゃなかった。それこそ、彼が少年だったときから。

「……いいぜ」
「え……」
「我が儘言えって言ったのは俺だからな。眠れないって夜泣きを続けてる坊やの頼み事じゃ仕方ねェ」
「っ、」

 カイはきっと眉をつりあげて反論しようとしたが、思わぬソルの了承に唇を噛んで言葉を呑み込んだ。ソルのあまりな言い草に湧き上がった怒りを抑えたカイは、ソルを真っ直ぐに見て、その名を呼びかけた。

「ありがとう」

 そう言った顔は隠しきれない喜色を滲ませ、微笑っていた。ソルは思わず押し黙る。カイの顔は、そんな歳ではないのに、本当に幼い少年のように見えた。
 夜に部屋に行く、という信じられない約束をしてその場を去ったが、ソルはなぜカイのお願いを聞いてしまったのか、自分のことながら不思議に思う。カイもカイで相当おかしいことをソルに頼んでいることをわかっていないのだろうか。いつかの、あのたった一夜を思い出したからといって、じゃあソルに頼もうなんて思うのは馬鹿らしい。人肌があれば不眠を解消できると思ったのなら、妻に頼めばいいことだ。……そうなのだ。なんで「嫁にでも頼めよ」と突き放すことをしなかったのだろう。
 ソルは何だかばつが悪いような気持ちになって、がしがしと髪を掻きむしって舌打ちした。