骨の浮き出た小さな手が真っ白い画用紙をクレヨンで埋めていく。

「竜かの、それは」

 ふいに落ちた声に、小さい頭が短い金糸を揺らして振り返った。

「クリフさま……!」
「まだ寝ておらんかったのか、カイ」
「……ごめんなさい。眠れなくて……」
「よいよい。たまには夜更かしもいいもんじゃ。何の絵を描いておる?」

 小さい手の下には、鱗に体を覆われたような怪物がいた。大きい翼を広げ、鋭い牙の生えた口から火を噴いているが、その巨体には四角い画用紙の長辺からジグザグに伸びた黄色いクレヨンの線が浴びせられていた。

「ゼウス様がギアを滅ぼすところです」
「……ほう」

 ゼウスはギリシア神話の天空神だ。人類と神々双方の秩序を守護する。
 一切の濁りもない澄んだ青空のような大きな瞳がクリフを仰ぎ見る。「ゼウス様は正義と慈悲の神さまだとご本で読みました」。幼気な柔らかい声はそう謳うように紡いだ。
 屈折を繰り返す黄色い線は雷だ。ゼウスは全宇宙を破壊できるほどの強力な雷を武器とする。その力が化け物を滅ぼす場面が四角く切り取られた世界にはあった。
 クリフは小さい四角に描かれた子どもの夢に目を伏せ、発育が十分でない細い身体の隣に腰かけた。

「……カイ。眠れないなら寝物語はどうかの」

 はい! と頬を上気させた子どもは、その歳をようやく二桁にしたところだという。

「何のお話を聞かせてくださるのですか?」
「眠りの茨に刺された望みの乙女の話だ」





 Ⅳ. sleeping beauty - その子は岩山の上で眠り、その周りを炎が取り巻いている





「進展は?」

 朝そろっていた顔ぶれがカイの部屋に再度集結した。最後に部屋に訪れたレオは開口一番にそう放つ。
 ファウストは緩く首を振った。

「異常はどこにも見当たりませんでした。ただ目を覚まさないということだけです。過眠症かもしれません。しかし、ここまで目を覚まさないというのは非常に特異な症状ということになりますが……」

 医者にそう言われてしまえば、そうかと頷くことしかできない。
静寂のおりた部屋に、くしゃりと髪を撫でる音が響いた。寝台の横に置いた椅子に腰かけ、カイの髪を撫でていたディズィーがぽつりと呟く。

「カイさん、眠り姫みたい」

 仮にも夫である男を姫と比喩するのはどうかと思ったが、頷いてしまうほどの美貌が横たわっている。突っ込むべきか同意すべきか、誰もがアクションを取りかねている中、シンだけが無邪気に口を開いた。

「じゃあ、王子のキスで目覚めるんじゃねぇの」
「…………………」

 深い沈黙がおりた。
 確かに、この中に「王子」はいる。今まさに的外れな解決方法を提示したのが「王子」だ。王であるカイの息子である。そもそもカイはお姫様などではないわけだが、今の案を実行する場合、お前が父親に口づけることになるのだと誰もが内心で密かに突っ込んだとき、微妙な空気を振り払うようにソルの低い声が落ちた。

「……眠り姫病」

 ぽつり、と静かに紡がれた言葉に、ぽんっとパラダイムが手を打つ。

「なるほど、クライン・レビン症候群か!」
「何だ、そのくらなんとかってのは」
「睡眠障害の一つです。反復性の過眠症で、数日から数週間にわたって連続した睡眠状態になる病気です」
「そういう病気があるってことは治療できるってことですよね」

 ルビーの瞳を輝かせたディズィーがファウストを仰ぎ見た。

「……いえ、この疾患は非常に稀なもので原因すら特定されておらず、いまだ治療法は確立されていません」
「そんな……」

 悲愴に瞳を揺らしたディズィーを見てシンが慌てて声を張り上げた。

「オヤジは何か知ってんだろ!? なんとか病って最初に言ったし!」
「……眠り姫病、な。俺は医者じゃねぇんだ、ちょっとした知識しかない。確か、男がなる確率のほうが高くて、目が覚めたとき――ああ、目覚めるっつっても一、二時間らしい――に、異常行動をともなう」

 そうだろ、とソルがファウストを振り返る。

「ええ。過去の症例によれば、発作が始まると一日のほとんどを眠り続け、その過眠状態が三週間近く続くとか。起きている二時間ほどの間は、幼児退行や過食、性欲亢進などの傾向を併発するといいます」
「だが、若いうちにかかる病気じゃなかったか?」
「ええ。思春期に……十五歳くらいで発症することが多かったはずです」
「もし、カイさんがその病気にかかっているとすれば、今日も一、二時間は目を覚ますかもしれないということですか?」
「それはわからないとしか言いようがありません。もっと長く眠り続けた例もあります。しかし、もし目を覚ましたとしても人格が異なっている可能性もあります」
「どういうことだ?」
「そういう症例があるというだけです。患者は夢と現実の境もわからないといいますから」

 シンはハッと目を瞬き、弾かれたようにカイを見た。

「夢と現実の……」

 唐突に、いつかのカイの声が蘇った。

 ――シンは……夢を見るのが怖くないのですか?

 いつだ。この会話をしたのは。思い出せない。カイはなんて言った。

『怖いです』
『私はそれが一番恐ろしいんです』
『だって幸せな夢を見てしまったら――

「シン?」

 シンはディズィーの声に肩を跳ねさせて顔をあげた。

「どうかした?」
「……ううん」

 緩く首を振る。
 ――幸せな夢を見てしまったら……
 その続きがどうしても思い出せなかった。カイが何らかの病気にかかっていたとしても、あの会話とは関係ないはずだ。それなのに、どうして今、あの会話を思い出したのだろう。

「とりあえず、眠り姫病の線で調べてみましょう。もっと詳しくどこかに載っているはずです。王立図書館は開いていますか?」
「ああ。閉館は十七時だが、俺の権限で開放しておく」
「私も独自に調べよう」
「お願いします……。私はカイさんの傍にいます。目を覚ますかもしれないので」
「俺も母さんと一緒にいるよ。その病気だったとしたら、なんか異常行動? 起こすかもしんねぇんだろ」
「俺は仕事に戻るが、何かあったらすぐに呼んでくれ」

 ファウストとパラダイムに続いてレオが退室する。残った養父を仰ぎ、シンは首を傾げた。

「オヤジは?」
「……何か異常がなかったか調べてみる」

 小さく呟き、ソルはさっと踵を返した。カイを一瞥すらせず、まるで興味がないかのように去っていく大きい背を、シンは眉を寄せて見送った。

 

(続く)