TOP > Guilty Gear > Sol x Ky > Novel > Je te veux > 02
「お茶が入りましたよ」
柔らかい声が鼓膜を揺らした瞬間、肩が大袈裟に震えた。
カイのお気に入りのティーカップをデスクに置いた妻は、夫の顔を見て少女然とした面持ちを微かに歪めた。
「大丈夫ですか?」
「……なにがです?」
「お顔の色が優れません」
「…大丈夫ですよ。ここのところ忙しかったですから。多少は疲労が溜まっていますが」
「ここ最近、ずっと辛そうにしてます…」
カイは咄嗟に心配の滲む から目を逸らした。心に巣食う罪悪感が彼女を正視させてくれない。しかし、当の妻は困ったように微笑んだだけで、カイのしみ一つない手を優しく握り締めた。
「いいんですよ」
「え…?」
「そんなお顔なさらないでください。カイさんはカイさんの思うままに行動すればいいんです」
「ディズィー…」
もしやすべて知っているのではないかと疑念が一瞬湧いたが、そんなはずはない。彼女がカイの衷心をすべて知っているはずはない。それでも彼女は聖母のような微笑を浮かべて、カイのすべてを受け入れようとする。すべてを赦そうとする。いけないとわかっていて、それに甘えたくなってしまう。許されないのに。カイは不義をはたらいているというのに。
ディズィーは苦悩に歪むカイの顔を哀しげに見つめていたが、すぐに気を持ち直して口を開いた。
「音楽を聴きませんか?」
「え?」
唐突な提案にカイは目を丸くする。
「レコードをお借りしたんです」
「…レコード、ですか」
「お疲れなら気分転換をするのが一番ですよ」
ディズィーはカイが警察機構の長官時代から所持していたフォノグラフ――と言っても法力で動くものだが――に手にしていたレコードをセットした。
カイがレコードを聴くことはほぼないが、昔それを勝手に家に上がりこんで使っていた無礼者を思い出してしまって急いで思考を逸らした。
ほどなくして流れた三拍子のピアノの旋律。そしてそれに乗る美しい女性の歌声に目を瞬かせる。
『――J'ai compris ta détresse, Cher amoureux………』
耳に馴染む母国語。軽快で優しい音色だが、女性の声がどこか切々と、そして甘やかに鼓膜を揺らす。
愛しいひと、私の言いなりになって…と過激な愛が音になって部屋を満たしていく。わたしの身体が、唇が、心が、肉体が、すべてあなたのものになるといい、と軽快で優しい旋律とは裏腹な情熱的な歌詞が胸の奥底に深く沁みた。この歌を知っている。
『Je te veux』
そのタイトルが脳裏を掠めた瞬間、明けるように記憶が蘇った。
「思い、だした…」
「え?」
ディズィーが不思議そうに首を傾げるのを気にすることも出来ず、カイはただ蘇った記憶に耐え難い痛みでも堪えるような顔で翡翠を揺らした。
*
気分が、悪かった。どうしようもなく。
ごろん、と上質な絨毯の上を空っぽになった酒瓶が転がるのをぼんやり見ながら、カイは新しい酒瓶に手を伸ばした。もうグラスがどこにあるかさえわからない。開けた瓶にそのまま口をつけて煽りながら、ふらつく足で立ち上がった。
吐き気がする。普段付き合い程度しか飲まないアルコールをこれでもかと流し込んでいるのだから当然のことだった。おぼつかない足取りでバルコニーへ続く大きい窓を開けて外へ出る。夜風の冷たい空気が火照った身体に心地よいが酩酊を完全に醒ましてくれることはなかった。
シンはどうしているだろう。ふいにそんなことを思う。
もう寝てしまっただろうか。それともラムレザルやエルフェルトと夜更かしでもしているだろうか。たまには一緒に寝てくれないかな。もう添い寝をするような図体ではないけれど、昔できなかったのだから少しくらい……。ディズィーとなら喜んで添い寝しそうだなぁ。ディズィー…ああ、愛しい妻ももう就寝しているのかな。規則正しいから、きっともうとっくに夢の中だろう。
カイは寄りかかるようにしていた手すりを背にずるずると座り込んだ。ぽつりぽつりと寂しく瞬く夜空を見上げながら小さく微笑う。ああ、幸せだなぁ。美しい妻に可愛い息子。新しく加わった家族。理解ある同僚、慕ってくれる部下達、希望を託してくれる民たち。こんなにも温かいものに囲まれている。紛れもなくカイは幸せ者だ。それなのに、どうして。
自分には不釣り合いなほどのありあまる幸福に囲まれてなお、まだ足りないと望む己の強欲さに嗤笑を零した。
たったひとつ。どんなに追いかけても決して手には入ることのないそれを、手にしようとは思っていなかった。それが掌中におさまることは絶対にないと知っていたし、心臓が焼けるような痛みを認知したまま生きていくことも嫌だった。だから知らないふりをした。心の奥深くにパンドラの箱として仕舞い込んだのだ。
知らないふりでいることは難しくはなかった。カイには成さねばならぬことがあり、未来に向けて邁進していくには、それはきっと邪魔だった。そのうち愛しい女性と出逢い、子を授かり、権力の糸に絡め取られたとて、彼女たちの存在は幸福そのものだった。だから、そのパンドラの箱が開くことはなかった。
だが、その鎖で雁字搦めにして頑丈に仕舞い込んだそれは、馬鹿みたいに些細なことで開け放たれてしまった。ただひと目、この眼に映った男と女によって。
事件の事後処理がまだ尾を引いているときに民情視察など、と正直思っていた。だがそれは、休暇どころか休憩すら儘ならない王を思っての部下の申し入れだった。街へ出て少しくらい気分転換を、と。視察などただの建て前だったため、カイは深くフードを被って己の姿を隠し街へ繰り出した。
幾度も危機に晒された都市は、それでも根気強く再建を果たしてきた。民たちの顔にも笑顔が戻っている。それに安堵しながら、ふいに遠目に過ぎった姿に足を止めた。
ブラウンの髪が尻尾のように揺れる見知った男の後ろ姿に、声をかけようとカイが近づくより先に男へ向かう影があった。するり、と雪のように白い腕が男の逞しい腕に絡まった。肩より長いブロンドの髪が陽光にきらきらと輝いている。見えた横顔はモデルのように整っていて、長めの前髪から覗くラピスラズリとジェダイトを混ぜたような美しい瞳が男を見上げ潤んでいた。少し丸みを帯びた頬が微かに紅く染まっている。フランス人形のように可愛らしい女性は、男へひっついたまま離れようとしなかった。
ぴたり、と足を止めた男が女性を見下ろす。彼女がどこの誰かは知らないが、あの男ならばきっと振り払う。そう思ってカイはまだ遠いところにいる男へと再び足を進めた。それが男の性格を知っての判断か、我欲の含んだ願望かは、正直わからなかった。しかし、カイの判断は裏切られた。男は振り払うどころか、少し躊躇いをみせてから女性の腰へ腕を回した。寄り添ったままの男女が路地裏へ消えていくのを、カイは呆然と眺めることしかできなかった。
その寄り添う男女の姿がいつかの日の光景とぴったりと重なった。
あれはいつのことだったか。
聖騎士団で過ごすにしては珍しく、カイに待機命令もない休暇が与えられた。当然、緊急事態が起これば戻ることになるが、カイは久しぶりに街へと繰り出した。特に何か目的があったわけではない。紅茶の茶葉が欲しいな、くらいは思っていたが単なる気分転換だった。
未来の見えない戦いに疲弊している街は決して明るくはなかったが、活気づきたくさんの人々で溢れるいつかの未来への希望を宿して、カイは街の様子を目に焼き付けた。
ふいに視界の端に見知った男が映った。聖騎士団の制服ではない姿が珍しい。ちゃんと外出届は出したのだろうか。あの男のことだから多分無断で街へ出ているに違いない。カイはどんなに注意しても聞かない男に文句を言おうと歩き出したが、その足はすぐに止まった。
蜂蜜色のウェーブのかかった髪を靡かせた女性が男に細い腕を絡めたからだ。露出の激しい服を纏った女性の腰に男の逞しい腕が自然と回る。おそらく商売女だろう。それくらいの知識はカイにもあった。寄り添う男女が視界から消えていくのを棒立ちのまま見送る。本当はすぐにでも駆け出して、女からあの男を引き剥がしてしまいたかった。そんな衝動を無意識の内に理性が抑えていた。
痛い。カイは胸のあたりに手を置いて、理由のわからない痛みに首を傾げた。
痛い。痛い。痛い。カイは道の真ん中で突っ立ったまま胸を掻きむしった。怪我なんてしていないのに、いつの日かギアに腹を抉られたよりよっぽど痛かった。痛いの次には苦しみがやってきて、カイはもうどうすればいいのかわからなかった。気管を圧迫されたかのように息苦しく、今度は喉を掻きむしる。
棒立ちでいるカイの横を若い男女が通り過ぎた。「好きよ」「ああ、俺もさ」そんな会話が耳に届いた。デートだろうか、と痛みに使いものにならない状態の頭でぼんやり思った。だが、次に女が男に言った台詞でカイは痛みの理由を思い知ってしまった。
「あなたを想うと胸が苦しいわ」
ああ、ああ。なんてこと。
カイは咄嗟に踵を返して走った。
知ってしまった。理解してしまった。私は、わたしは。あの男が、傍若無人で人の言うことをこれっぽっちも聞かない人を子ども扱いする乱暴で粗野な、あの男が――好き、なのだ。
自覚したと同時に、報われることがないこともわかっていた。男のあの赤茶の瞳に自分が映っていないことなど知っていた。その目はいつだって遠いところを見ていた。
自室に駆け込んだカイはずるずると座り込み、膝に顔を埋めた。
『……好き、すきだ…』
涙に濡れる声で届くことのない想いを吐き出した。何度も、何度も。
今日だけだから。今日限りにするから。この想いは深く閉じ込めるから。決して開かないように頑丈な鎖で雁字搦めにして。だから、今だけはどうか。
『ッ……すきだ…そる、』
「――…き、…ソル、」
いつかの日と同じ言葉が無意識のうちに漏れていた。路地へと消えていった男女の残像を見つめたまま、胸もとを強く握り締める。
その感情は閉じ込めただけで決して消えてなくなることはなかった。こんなにも長い間。
許されない感情だ。こんなものを持っていては誰にも顔向けできない。妻にも子にも。もっとも近しい友、と微笑みかけたあの男にも。
認知してしまった途端に自分がどうしようもなく汚らわしい存在に思えて、カイは王城へと引き返した。
忘れなければ。はやく、こんなもの忘れなければ。これがそう簡単に捨て去ることのできるものではないと知っていたから忘却を望んだ。どうすれば忘れられるのかなんてわかるはずもなかったから酒の力を借りた。浴びるように飲み続ければ、アルコールに強くないこの頭は今日の出来事など思い出すこともできなくしてくれるのではないか。そうすれば元に戻れる。気づかないふりを、知らないふりを、出来ていた頃のまま。この心を、何よりも大切な妻子に、そして民にだけ向けられる。
何も考えられないほどアルコールに中てられた身体をぐたりとバルコニーに投げ出しながら、夜空に浮かぶ丸い月を見上げていた。ふいにそれを掴みたくて手を伸ばす。けれど、どんなに手を伸ばそうと、当然届くはずもなかった。遠いなあ、と思ったら妙に辛くなった。決して届くことのない衛星が焦がれてやまない男と重なった。
そのまま届かない手を宙に彷徨わせていると、その手の先に音も気配もなく男が降り立った。酔いの中、カイは動くことなくぼんやり男を見上げた。
「何してやがる」
「そる…?」
幻だと思った。いつも男が勝手気ままにカイのもとへ訪れることを期待して、窓の外をよく見ていたから。警察機構に勤めていた頃から、ずっと。
何で来たのかとか、お前にあてた部屋があるだろうとか、聞きたいことはたくさんあったけど声に出すことはなかった。そんなことどうでもよかった。王座に縛られたカイがもう追いかけることも叶わないこの男が、そこにいるのなら。カイの目に映る場所に在るのなら。
「……まったくどうしてお前は入り口からはいってこないんだ」
それでも馴れた軽口を酔いでもたつく舌で放つ。
酒で据わった潤んだ目と呂律の回らない舌、酒気で赤らんだ頬にソルは嫌そうに眉を寄せた。少し身じろいだソルからもアルコールの匂いがした。今まで呑んでいたのだろう。
「飲みすぎだろ」
呆れた口調が降り注ぐ。
「王がこんなんでいいのかよ」
は、と鼻で笑って嘲笑う様が癪に障った。む、と子どものように唇を尖らせて反論する。
「王にだって飲みたいときくらいある」
「へえ」
呆れを通り越して蔑みすら湛えているような視線だった。普段のカイだったら、いつもあまり変わらないソルの仏頂面の些細な変化を見逃さなかっただろう。ソルは何か虫の居所が悪いらしかった。だが、カイの働かない頭はそれに気付くこともなく、ただソルから理不尽に与えられる軽蔑にカッと血を上らせた。
お前の所為だと見当違いな罵倒を口走ってしまいそうだった。どうにか抑えたが、それでも怒りが渦巻いて制止きれず、ソルを強く睨みつけた。
「なにが悪いんだ。私にだって酒を飲む権利くらいあるだろう。お前が街で遊び呆けている間、休みなく仕事していたんだぞ」
「ハァ?」
「あんな美しい女性と過ごすのは、さぞ楽しかっただろうな」
寄り添い合うソルと女の姿が過ぎる。
「なんの話だよ」
ソルは思い切り怪訝な顔をした。その顔さえ、苛立ちを助長させる。
「なに苛ついてんだよ。生理前か?」
いつの間にか解けていたカイの長い蜂蜜色の髪を一房指に絡めて、揶揄するようにソルは唇を歪めた。瞬間、カイは激昂してソルに向かって酒瓶を加減なく投げつけた。
容姿を指して女みたいだと言われたことは過去何度もある。誰に言われようと聞き流してきた些末な言葉だが、この男には言われたくはなかった。
投げつけられた酒瓶を難なく避けたソルは、あまりなカイの行動に思い切り眉を寄せた。
「何なんだよ。何をそんなに怒ってんだ」
「怒ってない」
「怒ってんだろ、どう見ても。そんなにこの仕事がしたくねぇなら辞めちまえばいいだろうが、王なんか」
カイの怒っている理由を自分は「休みなく仕事していた」のに他人は「遊び呆けていた」の発言から解釈したソルは、苛つきを隠しもせず吐き捨てた。
カイは我を忘れるような激情に駆られて、酒気からだけでなく潤んだ瞳でソルを強く睥睨した。
「お前にはわからない…!」
私がどれだけお前を想っているか知らないくせに。お前が自分ではない誰か別の名を口にするだけで嫉妬する。本音を言えば、シンにだってよからぬ感情を抱く。私だってシンみたいに傍にいたいのに、と。それなのにお前は私なんか見向きもしない。何も言ってくれない。お前の目に私は映らない。そうやって揶揄って、馬鹿にして、いつまでも坊や扱いして。
わかっている。カイの抱える情動はカイだけの問題で、例えソルが絡んでいたとしても関係ないのだ。勝手に想って、勝手に苦しんでいるだけなのだから。
それでももう堪え切れなくて。こんな自分が許せなくて。こんなにもたくさんの幸せに囲まれているのに、それ以上を望む自分が気持ち悪くて。
強い罪悪感が焼き印のように刻み込まれた身体は、限界を訴えて悲鳴をあげていた。
叫声のように叩きつけられた拒絶の声に、ソルはカッとなって逆上した。
お前にはわからない、とそんな風な入り込む余地もない拒絶は初めてだったかもしれない。カイはソルを受け入れてきた。ソルという歪な存在そのものを。それは最近とくに顕著だった。この男だけは何も聞かず、問うこともせず、ただ今ここに在るソルを受け入れてきた。過去なんかどうでもいいと言った。過去のお前より、未来のお前のほうが大事だと。そんなことを言われて、そんなふうに行動で示されて、心を揺れ動かされないわけはなかった。
それなのに今になってその拒絶の仕方は、裏切られたような気がした。
「……わかんねぇよ」
「なに、」
「わかるわけねぇだろ! 俺はテメェじゃねぇんだ!」
「ッ…!」
ぐっと胸倉を掴む。カイが苦しげに息を詰めた。それでも強く睨みつけてくる翡翠の瞳に、激情はさらに烈しさを増していく。
「何が不満だよ」
酷薄に歪んだ唇が意思と反したかのように勝手に動く。
「妻がいて、息子がいて、一国の王で、誰からも愛されて。それで何が不満なんだよ」
もしかしたらずっと胸底で燻ぶっていた愚かな嫉妬なのかもしれない。この男はソルにないものを全部持っている。ソルがもう絶対に手に入らないものを。化け物の俺が決して手を伸ばしてはいけないと戒めているものを、すべて。
瞬間、カイの顔が泣きそうに歪められた。抱えきれない苦しみに苛まれているような顔が、子どものように幼く揺らいだ。細く白い指が羽根が触れるくらいささやかにソルの頬を撫でた。震えた唇が薄く開く。
「――……veux…」
聞き慣れない言語が聞き取れないほど小さく耳に届いた。
カイがもう一度喉を震わす。もうすでに耳に馴染んでしまった聞き慣れた声が掠れた言葉を紡いだ。鼓膜を揺らして届いたその内容に、ソルは大きく目を見開いた。
「おまえがほしい」
強い情動を伝えてくる蒼碧の瞳の端から一筋溢れた雫を目にした瞬間、ソルは衝動のままに動いた。廉直な魂魄を裏切って地獄へと身を堕とす天使のように、罪悪に震える身体を強く掻き抱いた。
*
「〝Je te veux〟――あなたが欲しい」
柔らかく少女のように清らかな声が紡ぐ。真っ直ぐにカイを見つめてくる強い妻の視線に息を呑んだ。心臓の音が流れる三拍子を追い越していく。優しいワルツの音色がやけに耳の奥に突き刺さった。
しばらくの間、逸らせない視線を交わしていた。ふわり。少女然とした彼女の顔が柔らかく撓む。すべてを赦す聖母のような微笑にカイは心憂い表情で嘆いた。
「ディズィー…わたし、は――」
ちょん、と細い人差し指がカイの唇から言葉が続くのを塞いだ。彼女は緩やかに微笑んで、カイが謝罪する隙を与えはしなかった。