ひどく虫の居所が悪かった。

『ソル……すまなかった』

 懺悔室で項垂れているような声が耳の奥から離れない。
 ソルは「Shit…」と口汚く吐き捨て、目の前のグラスを大きく煽った。喉を通る焼けるような液体はアルコールの強さを物語っている。そういえば、あのときもこんな風に強い酒を次から次へと流し込んでいた気がする。けれど記憶はあまりに曖昧で、すぐに王の寝室で目を覚ましたところまで早送りされてしまう。思い出せないことがもどかしく、けれど思い出すことを拒む気持ちもあった。
 今さらだ。別に情を交わさず身体を重ねることに嫌悪や罪悪が湧くわけではない。長すぎる生の中、そこまで品行方正に生きてきたわけではない。けれど相手が悪かった。上質なシーツが落ち、晒された白い肢体が鮮明に脳裏に蘇って舌を打つ。
 ひどい自己嫌悪のような感情が渦巻いていた。だめなのだ。あいつだけは、絶対に駄目だった。あの広い王城の一角で育まれているちっぽけな幸せだけは、ソルが壊してはいけないものだった。あの男が身を削ってようやく創り上げた自身のための幸せが在る、あそこだけは。壊したくは、なかった。あんなことになった所為で破壊してしまったとは思えないが、少なくとも瑕はつけただろう。おの男が清廉潔白なのは痛いほど知っている。ソルとの行為がいつまでも尾を引いてしまっては、あそこの幸せに綻びが生まれてしまう。
 ソルが何度目かの舌打ちをしたとき、「あ…」という驚きの声がすぐ傍からあがって顔をあげた。

「またお会いできましたね」

 鈴の音のような声を嬉しそうに転がした女を見て瞠目する。酒場の薄暗い照明の中でも煌煌と瞬くハニーブロンドが揺れている。長めの前髪から覗く宝石のような青緑が真っ直ぐにソルを見つめていた。
 周囲が騒めいた。そりゃそうだろう。こんな酒場には似つかわしくない女の容姿はこの国の第一連王とよく似ていた。

「あなたのおかげで父と再会することができました。改めてお礼をさせてください」

 女はソルに微笑みを向けた。清爽とは言えない、幾許か哀切を含んだような寂しげな微笑が既視感を呼び起こし、記憶中枢を刺激した。
 あの日の記憶が糸を繋ぐように次々と蘇り、ソルは目を見開いた。





 性質の悪い男達が一人の女を囲んでいた。近道しようと路地裏に入ったソルは思わず舌打ちをして嫌そうに顔を顰めた。男達の下卑た視線と手に光る刃物を見てはほっとくことも出来ず、ソルは仏頂面に凶悪な面倒臭さを湛え、無言で男達を伸した。
 瞬く間に地に倒れ伏した男達を呆然と見やった女は、ハッとして振り返った。ソルを見上げてきた女の顔を真正面から見て瞠目する。

「あの…ありがとうございます」

 戸惑いに僅かな微笑を浮かべ礼を述べた女の声は、讃美歌でも歌うかのような清らかさをもってソルへ届いた。その声が紛れもなく女の高い色であったことがどうにも違和感をもたらす。痩身の、けれど女特有の柔らかさを湛える肢体も、胸もとの膨らみも、純白のワンピースも。
 何も答えないソルに怪訝に眉を寄せた女は、男が自分の顔をまじまじと見ていることで納得した。微苦笑して困ったように首を傾げる。

「第一連王様に似ているでしょう

 そうだった。よくよく見れば、他人であることはわかるのだ。だが、腰上まで伸びたブロンドの色合いや、蒼と碧のせめぎ合う作り物めいた瞳はよく似ていた。鼻の小ささや唇の厚みなどは男女の違いからか、そっくりとまではいかない。一瞬驚いたが、やはりただの他人なのだろう。どこか寂寞の浮かぶ儚い眼光の弱さは、カイには似ても似つかなかった。

「よく言われるんです」

 小さく唇が尖った。それは不満なことらしい。

「似てねぇよ」

 口を衝いた返答だった。
 あの男は唯一の生き物だ。例え、この女よりそっくりな奴がいようと、本人と比べてもわからないくらい精巧な機械人形が作られようと、ソルは似ているなどと欠片も思いはしないだろう。
 女は驚いたように目を丸くしてから微笑った。

「そうですよね。私は王のようには強くないですから……」

 まるで力がないことを嘆いているようだった。
 だが、ソルには関係ない。このまま世間話に花を咲かせるわけもなく、ソルはさっさと踵を返した。その背を慌てて追いかける歩幅の小さい駆け足に眉を寄せる。

「……何だ」
「あ、あの…すみません。スペラン墓地まで一緒に行ってくれませんか
「は…
「ご、ごめんなさい。誰も頼れる人がいなくて……その、近くまででいいので…お礼は必ず何かしますのでお願いします」

 必死の形相だった。これまでも何度も襲われているような口ぶりだった。この女を目的地まで届けたところで報酬など期待できるわけもないし、ソルがわざわざお人よしを発動するわけもない。
 だが…とソルは先ほど伸した男たちへ視線を滑らせた。身なりがそれなりにいい。ソルの相手としてはあまりにも不足極まりないが、身のこなしはただの盗賊とも思えなかった。女の容姿を狙ってのことかもしれない。そっくりとはいかなくても遠目に見ればこの国の王に見えなくもない。行き別れた家族と言われれば納得する奴もいるかもしれない。女を襲った男たちがカイを利用とする上流階級の奴か政敵の差し金である可能性もある。考えすぎかと思ったが、女の必死な強い眼差しがまだ人類が化け物と戦争していた頃のカイの姿と重なって、ソルは盛大に舌打ちした。さっと女に背を向けて歩き始める。

「勝手にしろ」
「……

 女がソルを追いかけ駆けてくる。折れてしまいそうな細い腕がソルの太いそれに絡まった。何をする、と強く睨みつけると女は子どものように無邪気な顔で笑った。それに毒気を抜かれて目を瞬く。ソルの凶悪な面に物怖じしないとは肝が据わっている。

「少しだけ、こうさせてくれませんか…
「…………」
「あなたが…その……死に別れた父と雰囲気が似ている気がして……」

 どこまでも自分勝手な女だと思った。墓地に行くと言うことは、その父のところへ参りに行くのかもしれない。
 ソルは深い溜め息を吐いただけで無言を貫いた。それを勝手に肯定と受け取った女は、頬を微かに紅く染めて小さく呟いた。

「……おとうさん」

 僅かに潤んだ瞳が見上げてくる。
 「父はギアに殺されたんです」と続いた言葉に、ソルはぴたりと一瞬だけ足を止めた。だがそれは女にとって、ただ目的地へ向かう中での会話の一つに過ぎなかったらしい。何てことなく話を続ける女の腰へ、ソルは思わず腕を回していた。贖罪などというしみったれた感傷からではない。馬鹿な女だと思う。お前が頼った男こそ、憎むべき化け物だというのに。


 墓地はかなり大きく、広い緑に白の十字が一様に並んでいた。ソルの役目は終わりだ。そのはずが、十字架を前に跪く女の姿が、いつかの戦場で仲間の死を嘆く少年の姿に重なって、動けないでいた。

「私は父を愛していました」

 それが単なる微笑ましい家族愛ではないことは、声音だけで充分に伝わっていた。家族に対する親愛ではない、熱い情念が吐息となって彼女の唇から零れる。
 真っ白い花束を真っ白い十字架の麓へ置いた女がソルを振り返った。

「道ならぬ恋です」

 音もなく、乱れた呼気もなく、ただ川の水が上流から下流へ流れていくのと同じで当たり前のように、女の頬を雫が伝っていた。

「あなたも私と同じ顔をしていますね」

 ソルは大きく目を見開いた。深いところへしまいこんだものを刺激してくる憎らしい女を強く睨む。

「……その顔で泣くんじゃねぇよ」

 見たくなかった。蒼碧から涙が溢れるのは。
 気に食わない。僅かな苛立ちを胸に、ぐいっと親指で乱暴に女の頬を流れる雫を拭う。痛みを感じるほど強く乱暴に拭われて、目を丸くした女は首を傾げた。ソルは沈黙で女が言葉の意味を問うてくるのを制した。

「あなたの恋は叶うといいですね」

 涙は止まることなく流れている。それでも女は微笑ってそう言った。

「………恋なんかしてねぇ」

 忌々しそうな声音と凶悪な顔で返したソルに気にすることなく、女は緩やかに笑っただけだった。その笑みから心憂い情が切り離されることはなく、やはり女の微笑は哀しげで儚く映った。
 そう、恋なんかじゃない。恋い焦がれる女はあいつとは別にいる。ただ…俺は多分、あいつを――
 それならば、こんな化け物に出来ることはただ一つだ。あいつが、世界に囚われ希望のシンボルとして生きるあいつが、身を削って創り上げた家族という小さな幸せを壊さないようにするだけだ。この凶悪な爪が、硬い皮膚が、鋭い歯が、人を殺す手が、そこを決して傷つけないよう。
 ソルは女に背を向け、顔を歪めた。ひどい苦味が滞留しているような感傷が煩わしかった。
 足は自然と酒場へ向かった。アルコールで全部流してしまえばいい。幸いにも、化け物の細胞は酩酊を妨げることはない。ソルは皮肉げに唇を歪め、嗤った。



 顔が見たくなった。どうしようもなく。
 アルコールでまともに働かなくなった頭でぼんやり思う。衝動に駆られるがままに、だだっ広い王城へ足を踏み入れた。
 夜目の利く目はバルコニーにある影を捉えた。無意識のうちに気配を完全に消しつつ降り立つと、今日会った女と似た蒼碧が潤んでいた。
 辺りを満たす酒の匂いが男には似つかわしくない。ちらりと部屋を横目で見やれば、異常なほどの酒瓶が転がっていた。おかしいと、回転の遅い頭で茫と思う。何があった。こんなふうに酒を浴びるほど飲んでしまいたいと思うほどの、何が。
 カイは癇癪を起こした子どものように、要領を得ない言葉を吐きながら怒りを露わにしていた。清廉な男がここまで自棄になるほどの負担がこの城にあるのなら、辞めてしまえばいいと思った。王なんか辞めてしまえばいい。脅嚇していた権力もなくなった今、それは可能だろう。もうただの男に、人間に、なるべきだ。聖戦の英雄ではなく、平和を守る使徒でもなく、臣民を幸福に導く王でもなく。こんなくそったれの世界から解放されればいい。
 互いに露わにした激昂。拒絶に血を上らせたソルが羨望に似た嫉妬を叩きつけると、カイの顔が泣きそうに歪められた。ひどい責め苦に追われているような顔が、普段の凛と澄んだ眼差しを完全に覆い隠している。触れるか触れないかくらい、ささやかに撫でられた頬。化け物を容易く屠る剣を握る手が震えている。薄く開かれた唇が聞き慣れない言語を紡いだ。
 宝石も眩むような美しい瞳の端から、つーっと一筋雫が伝った。

「おまえがほしい」





 蜂蜜色がふわりと揺れる。断りもなく隣に腰かけた女は「やっと見つけた」と笑った。あの哀しみ宿す微笑で。
 見たくなかった。今は、その顔を。

「ちゃんとお礼がしたかったんです。ここのお代は私が払いますね」
「……テメェは」
「はい
「父親に伝えたのか

 唐突な話題に一拍置いた女はふわりと笑って、大人びた眼差しでソルを見つめた。

「ええ。私たちは愛し合っていましたよ」

 ソルは僅かに目を見開く。
 柔らかな女の微笑に浮かぶ瞳が強い恋慕を湛えている。愛し、愛されたことを証明するような深い情動が表れていた。
 女は確か言っていた。あの日、墓地へ向かう最中、家族にも友人にもある事情で見放されてしまったと。だから頼れる人は誰もいなくて、と。今思えばそれは、実父との道ならぬ恋に走った所為だったとわかる。

「後悔してねぇのか

 この女はすべてを失い、たった一つを得たのだろう。でもそのたった一つは――

「していません」

 きっぱりと言い張った女に残酷な言葉を投げかける。

「死に別れてもか」

 たった一つはなくなったのだ。この世界から跡形もなく。たった一人きり、残されて。
 少しの沈黙があった。女は聖母のような双眸をソルに向けた。

「後悔はしていません。父と愛し合ったあの一瞬が永遠だと知っていますから」

 ソルは思わず押し黙った。
 それは単なる錯覚だと吐き捨てることが出来なかった。赤い髪を靡かせる天使が脳裏を掠める。
 ソルはそれ以上何も言わず、グラスを煽って立ち上がった。さっと踵を返すソルの背に女の声がかかる。

「どこへ

 一拍の沈黙のあと、ソルは口を開いた。

「帰る」

 口を衝いて出た言葉に苦く笑う。こんな言葉、久しく口にしていなかったはずだ。
 随分と甘ったれになってしまった気がすると、王城へ向かう足に小さく自嘲した。