01

 

 夜の帳が降りて静かな空間が寝室に広がる。

「ロベルト…」

 いつも慈しみに溢れている優しい平賀の声には幾らか甘さが含まれていた。それはいつもの合図だった。
 下から見上げてくる瞳が普段の彼からは想像もできないような色を湛えている。ふ、と口元が笑みを象るのと同時に黒耀の瞳が妖艶に細められる。
 するりとロベルトの首筋を平賀の女性のように細い指が撫でた。

「平賀…電気を消しておくれよ…」
「なぜですか
「なぜって…」

 艶めかしい色を湛えた瞳を一瞬にして無垢な瞳に変え、平賀は不思議そうに尋ねる。
 この先の展開を想像して、ロベルトは頬を朱く染めながら、どのようにして電気を消してもらおうかと考えた。平賀は不思議そうな顔をしているが、彼はこのようなときには知らない顔を見せるのだ。これはきっと確信犯。
 だって――

「貴方のその美しい身体を私に見せてはくれないのですか

 悲しげに眉を下げられれば、平賀の言うことを聞かないわけにはいかない。

「ダメですか

 まるで、純真無垢な子どもが親の許しを乞うかのような表情で柔らかく優しい声が悲しげに揺らぐ。
(……ああ、ほら、)

「…だめじゃない」

 ロベルトは小さく呟いた。

「だめじゃないよ、平賀」

 気がつけば、こうしていつも彼の言うことを許容する言葉を放っている。魔法にかけられたように勝手に口が動いてしまう。
 そうすると、ありがとうの返事の代わりに平賀は首筋に口づけて笑うのだ。その笑みは妖しく艶やかな色を含んで、アーモンド型の瞳は弧を描いている。
 いつもの純真な微笑みじゃないそれは「ひっかかりましたね」と、悪戯が成功したかのような顔だった。
(ほら、やっぱり確信犯じゃないか)
 近かった身体がさらに近づいて平賀の熱が直接伝わってくる。熱が徐々に広がっていくごとに鼓動が高鳴っていって心臓が痛いくらいだった。
 ロベルトはやはりこのような行為には慣れそうにないなと思いながら、少しでも心臓を落ち着かせようと後ずさった。
 けれど、これも彼は計算していたことなのだろう。
 後ずさった足はベッドにぶつかり、それを待ちかまえていた平賀がロベルトの肩をそっと押した。それに流されるようにロベルトは寝台に座る形になる。
 仰ぐように平賀を見たロベルトに、ふわりと天使のような微笑が降りかかる。その手が肩にかかるのを見て、ロベルトは今度こそ降参した。
 力を抜けば、簡単に身体は横たわって顔の横に平賀の手がつく。

「ロベルト」

 名を呼ばれると自然と瞼が落ちた。吐息が触れるのを感じて、高鳴っていた鼓動がさらに早鐘を打つ。
 そっと羽のような口づけが落とされてから、次にちゅ、と音が続いた。

「ん、」

 その次には、はむ、と唇を挟まれる。平賀の肉感的な唇の感触がロベルトを蝕んでいく。
 ロベルトが声を漏らすと、ぬるりと舌が侵入した。我が物顔で咥内を荒らしていく感覚は気持ちよさと恥ずかしさと、それから深く繋がっているという満足感をもたらす。
 そして、時を経るごとに頭が空っぽになっていき、時が経るという感覚すら飛んでしまう。だから、どれほどの時間が経ったのかわからないまま、ぼんやりと目を開く。
 目の前の端正な顔は普段では決して見られないような艶めかしい表情をしていた。
 その顔に見とれていると、きゅっと指を絡め合うように手を握られる。今になって手を繋ぐなんていう行為をしてくる平賀がなんだか可愛くて思わず笑みを零すと、彼はきょとんと目を丸くした。それがますます可愛くて、ついに声を出して笑声をあげると、今度はむっと不満げな顔をした。
 それを宥めるように握られた手を握り返す。思い通りにいかなくて頬を膨らます子どものような顔が微笑に変わった。嬉しそうに笑う顔に胸がきゅっと締めつけられるような感覚に陥る。その純粋な嬉しさを引き出しているのが自分だと思うと幸福感でいっぱいになった。

「ロベルト、いいですか

 するりとシャツの襟を撫でながら平賀は言った。
 言外に「脱がしても」と含まれた言葉に操られたように間も無く頷く。
 女性のような細い指が身体を滑るのを感じて目を閉じた。これから襲い来るであろう快楽に身を委ねようと、身体を投げ出す。
 ロベルト。そう何度も名前を呼ばれる。呼ばれるたびに身体が神聖な何かに包まれていくかのように感じる。

 それはまるで、神の息吹を──、



***



 ――神の息吹を、感じるかのようだ。

 そこまで思考が辿り着いた瞬間、ロベルトは弾かれたように起き上がった。

「ッは、……ゆ、め…

 嫌な汗が首筋につたった。
 心臓が煩く脈打っている。それは先程の夢の中で感じた鼓動の高鳴りとは真逆の嫌な音だった。
 聖職者にあるまじき内容の夢だった。
 そこに登場した人物を思い出して胸が痛む。
 この夢を見るのは何度目か。夢はその内容を徐々に先の展開へと進んでいく。まるで恋愛映画でも見ているかのようなそれに恐怖する。
 胸もとを手でおさえて、嫌なふうに早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと深呼吸をした。
 ただの夢だが、彼を汚してしまったような気がした。誰よりも信頼を置く彼はいつだって純粋な信仰心を纏っている。だからなのだろう。神という単語を夢の中の自分が頭に浮かべたとき、それに反応して現実に戻ってきたのだ。夢の中の自分が聖職者であると気づく前に。
 それから、誰よりも大切な人をこれ以上汚さないために。

「ひらが…」

 零れた声は小さく掠れていた。
 あんな夢を見てしまったことが申し訳なくて、懺悔の言葉ばかりが頭を行き交う。それでも自分は気づいていた。どうしてあんな夢を見たのかを。
 ずっとその感情から目を逸らしてきたけれど、本当はわかっている。自分の平賀に対する感情の正体を。
 わかっていても、それからまた逃れるように頭を振ってベッドから降りる。窓を開ければ爽やかな風が吹き込んできた。空はどこまでも青く澄み渡っている。自分の心とは裏腹なその景色を見ながら、ロザリオを握りしめた。
 今日もまた、神に仕えるのだ。




 一日の勤務が終わった。仕事に没頭すれば朝のことを思い出さずにすんだ。それでも罪悪感に大きく巣食っている。平賀に対しても、自分が仕えるモノに対しても。
 多くの観光客の間をすり抜けて、ロベルトはサンピエトロ大聖堂の中へ入っていった。
 跪いて祈りを捧げる。罪滅ぼしをするように。罪が消えることなんてないとわかっていて、歪に唇が歪んだ。それをとっさに隠して祈ることに集中する。
 自分の信仰が揺らぐことなんて、これまで何度もあった。その度に感じる悲しみや虚しさを知っている。だからこそ、信仰が決して揺らぐことのない平賀を見ると自分が酷い人間であると思い知らされた。
 どうしてそこまで無垢な信仰を持っていられるのか。そんなことを思ってしまう自分が嫌で仕方なかった。
 でもそう思うと同時に平賀の言葉や行動に支えられるようにして、自分の信仰が本当だと信じられることもあった。彼には心をかき乱されることの他に確かに救われていた。

「ロベルト」

 そっと名前を呼ばれる。静かに柔らかい声が背中にかけられた。
 振り返ると平賀が微笑んでいる。

「ここにいたのですね。私も共に祈っていいですか
「平賀…もちろんさ。一緒に祈ろう」

 あれだけざわめいていた気持ちが不思議と落ち着く。やはり、彼は自分にとって特別なのだろう。乱されたかと思えば落ち着きを運んでくれる。
 二人で祈って横に並んで外へ出た。

「ディナーを一緒にどうだい
「はい、喜んで」
「外で食べる
「いえ、あの、出来ればロベルトの料理を」
「僕のでいいの
「もちろんです。お疲れでなければでいいのですが」
「全然大丈夫さ」
「そうですか 嬉しいです。ロベルトの料理はとても美味しいですから」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」

 にこにこと本当に嬉しそうにする平賀にこちらまで笑みが伝染した。
 こんな時間でも観光客が多くいるが、通り過ぎた人が数人、平賀に視線を向けているのを感じる。端正な少女のような顔や東洋系の神秘さに惹かれるのだろう。胸によくない感情が沸き立ったが、気づかないふりをした。

「ロベルト どこか具合が悪いのですか
「え どうしてだい
「どこか顔色が悪い気がします」
「あー…その、新しく手に入れた本を読んでいてね。少し夜更かしをしてしまったんだ」
「そうですか。やはり今日は一人でゆっくり休んだほうが…」
「いいや、大丈夫だよ」
「ですが、」
「僕は君と一緒に夕食を食べたいんだ。お願いだよ」
「そんな、お願いだなんて…嬉しいです、本当に」

 顔色が悪いと指摘されて、咄嗟に今朝の夢の情景がありありと思い浮かんだがすぐに振り払う。
 それから何気ない話をしながらそのまま歩いていると、少し遠目に幼い少女が泣きそうな顔で一人ぽつんと立っているのに気がついた。

「あ…」
「どうかしましたか

 平賀がロベルトの視線を追うより先に駆け出していた。
 少女のもとへ行き、視線を合わせるために膝をつく。泣きそうな瞳がロベルトを見た。

「お嬢さん、どうしたんだい
「…ママが…っいない、の…

 ロベルトが小さな手を包むと、少女の瞳からは大粒の涙が流れる。
 どうやら迷子らしい。

「迷子ですか

 ロベルトを追ってきた平賀がそう声をかけてくる。

「そうみたいだね」

 平賀は少女の頭を優しく撫でた。

「大丈夫ですよ。一緒にお母さんを探しましょう。私もロベルトもついています」
「ッうん

 ふわりと天使の微笑みを浮かべた平賀に少女は丸い頬を朱く染めた。その可愛らしい姿にまで胸が嫌な締めつけを覚えたのを感じて、ロベルトは必死に思考を逸らす。
 まさかこんな煮えたぎるような嫌な気持ちをこの可愛らしい幼い少女に感じたとは思いたくなくて、目の前の少女に手を伸ばした。

「おいで」

 そう言えば、胸に抱きついてきた少女に愛おしさを感じる。そのことに安心しながら少女を抱き上げた。

「よく周りを見てごらん。ママがいるかもしれない」
「うん。…ねぇ、お兄さん」
「ん どうかしたかな
「お兄さんはだあれ
「え
「ママがよんでくれたお話のおうじさまみたいだね」
「なっ…」

 予想外の言葉に思わず顔が熱くなる。そんなロベルトの姿を見た平賀はくすりと笑った。

「ふふ。ロベルトは美しいですからね。確かに王子様みたいです」
「平賀 君までなんてことを言うんだい」
「事実ですよ」
「な、君はそうやって…

 平賀にまで言われてますます顔が熱くなった。
 それを見た平賀が妖しく目を細めたものだからロベルトは息をのむ。それが今朝見た夢の中の彼と重なった。

「お兄さんたちなかよしね

 少女の無垢な声が響く。

「ええ。私たちは仲良しです。そうですよね、ロベルト」
「え あ、ああ、…仲良しだね」

 仲良しだなんて単語が何だか恥ずかしくて声が小さくなっていく。平賀は変わらずにこにこと微笑んでいた。

「あ ママだ

 そう叫んだ少女をロベルトが地面に下ろすと、少女は母親のもとへ走っていった。

「無事見つかったみたいだね」
「ええ。よかったです」

 二人は顔を見合わせて笑うと、ロベルトの家に向かった。