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02
窓から入る暖かい風がロベルトに眠気を誘う。開いていた本をそのままにうつらうつらと船を漕いでいると、来客を告げるチャイムが鳴った。
「こんにちは、ロベルト」
玄関を開ければ平賀が微笑んでいた。突然の訪問に何かあったのかと思いながらも、中に入るように促す。けれど平賀は首を振ってその場にとどまった。
「ここで大丈夫です」
「え? でも…」
「ロベルト、私はバチカンから離れることにします」
「は…?」
「ロベルトともさよならです」
「何を言って…」
「お元気で、ロベルト」
平賀は微笑んだまま何の迷いもなくそう言うと、ロベルトに背を向けた。
待って、と掠れた声で引き留める。無意識だった。離れていく背中に必死で手を伸ばす。
何で。突然どうしたの。どうして僕を置いていくの。どうして僕と離れることを何とも思ってないような素振りをするの。
平賀。待って。行かないで。
「待……て、行かな、い…で…」
ロベルトは弾かれたように起き上がった。荒い息の中、必死に酸素を取り込むように呼吸をする。気管が圧迫されたかのように苦しかった。心拍は危険を知らせる警鐘のように速く鳴り響いている。汗が頬を伝う感触と、へばりついた髪が鬱陶しかった。
「……夢、か…」
平賀がどこかへ行ってしまう夢。ロベルトのことを何とも思ってないかのように淡々と別れを告げていた。
呼吸を妨げるほど胸が苦しくて、ぎゅうっと胸元を握りしめる。
時計を見れば夜の八時半だった。ソファーで本を読んでいてうっかり寝てしまったのだろう。シャワーでも浴びようと腰を上げると、呼び鈴が鳴った。夢との既視感に心臓が一際大きく鳴ったが、気づかないふりで玄関まで足を進める。
扉を開けて息を呑む。そこには平賀が立っていた。
「平賀…?」
「………」
ドクンドクン、と早鐘を打ち始める鼓動が煩い。それでもどうにか冷静さを装って平賀を見つめた。平賀はきゅ、と唇を噛んで、まるで子どもが怒られているかのような表情をした。
「あの…ロベルト、」
こんな時間にどうしたの。そう訊ねようとする唇が震えた。
夢が、重なる。
平賀が突然ロベルトの家に訪ねてきて、そして――。
「あの…」
「待って!」
「え?」
平賀の言葉を遮る。
「…平賀」
「はい」
「君が今から言おうとしていることは僕にとって良いことかい?」
「え…良い、とは言えないですが…何故そんなことを?」
「良くないこと? 嫌だ、僕は聞かない」
「ロベルト…?」
「嫌だ。聞かないよ。……君は夕食を食べたのか?」
唐突な質問に平賀は首を傾げる。
「え…と……そういえば食べてないですけど…」
どうにか彼を引き留めないと。
ロベルトの頭の中はそのことしかなかった。
「また食べるのを疎かにしたのか。今日は特別に君のために夜食でも作ろう。さぁ、入って」
「あ、あの、ロベルト」
「早く」
ロベルトは平賀が言葉を続けないように遮って、強引に平賀を部屋の中に招いた。
平賀の腕を掴んでソファーの前まで来ると「本でも読んでなよ」と言ってロベルトはキッチンへと向かおうとしたが、離した腕を今度は平賀が掴んで引き留めた。
「ロベルト」
いつになく強い声音で名を呼ばれる。
「どうしたのです?」
「…何でもないよ。料理を作るから離してくれ」
「嫌です。先に私がここへ来た理由を聞いてください」
「…嫌だ」
「何故ですか?」
「嫌だったら嫌なんだ!」
「ロベルト?」
声を荒げたロベルトは悲しげに表情を歪めた。絶望に近い色を湛えた青の瞳にうっすらと涙の膜が張る。零すまいと堪えているのか、その雫は流れることはなかった。
「落ち着いてください。ロベルト、落ち着いて。ゆっくり息を吐いてください」
「ひらが…」
平賀はロベルトから力が抜けたのを確認してソファーに座るように促した。自分も隣に座り、ロベルトの瞳を覗き込む。
「どうしたのですか?」
ふるふるとロベルトは首を振る。先程から子どものような仕草をするロベルトは、何か大きな不安をもっていることを示していた。
「ロベルト。貴方が何か不安に感じているのなら私は貴方の力になりたい」
「平賀…」
「大丈夫です。私は貴方の傍にいます」
「傍に…?」
「はい」
ほら、こんなに近くにいるでしょう?
平賀はロベルトの頭を引き寄せて自分の肩口に抱きしめた。
常なら迷いなく言葉を連ねる彼が、迷い子のようにたどたどしく口を開いた。
「…嫌な夢を見たんだ……」
「夢、ですか?」
「とても苦しくて…悲しい…」
「そうですか…。ロベルト。それがいかに苦しく哀しいものであってもそれは夢です。現実ではありません。貴方の不安を取り除く力になるかはわかりませんが、私は……貴方の傍にいますから…。私の話を聞いてくださいますか?」
「…うん」
「今日は家に帰ってから、すぐにうっかり寝てしまったのです。それで私も夢を見ました…」
「君も?」
「はい。貴方と出会って間もない頃の出来事を夢で見たのです。そのときもロベルトは魘されていて…」
「そんなことがあったかい?」
「ええ。その後、貴方とディナーに行きました。それで…あのとき、少し私には不満というか…不安…いえ、寂しさですかね……そういう感情をもっていて」
「どうして?」
「…それは秘密です。あのときの寂しさを思い出して貴方に会いにきてしまいました。こんな時間に迷惑だと、わかっていたのですが…」
「そうか。だから、僕にあまり良くないって」
「はい、そうです」
「君が会いにくるのなら、どんな時間でもどんな用事でも僕は嫌になったりしないよ」
「そうなのですか?」
どうして、とでも問うような無垢な平賀の瞳に、ロベルトは先程までの不安を湛えた表情から落ち着きを取り戻した。
「そうさ。君はどうだい? 僕が君の家に行くと迷惑?」
「いいえ。そんなことありえません。ロベルトが来てくださるのなら、どんなときでも歓迎します」
「嬉しいよ。僕も君と同じ気持ちだよ」
そういうことですか、と平賀はロベルトの気持ちを理解できたようだった。
二人は向き合ってふわりと微笑み合う。平賀はロベルトが落ち着いたのを見て安堵の息を漏らした。
「ロベルト…貴方は苦しくて悲しい夢を見たのですよね」
「うん。でももう大丈夫だ」
そうですか、と言った平賀の顔が安心したのもつかの間、少し悲しげに変化した気がしてロベルトは首を傾げる。
「平賀…? 何か思うところがあるのかい?」
「え、と……その、ロベルト。貴方が見た夢の内容を聞いてもいいですか…?」
「え…?」
「あ、いいえ! いいのです。すみません。嫌なことを思い出させて…」
「いや、大丈夫だよ。もう嫌な気持ちはなくなったんだ。その…僕が見た夢には君が出てきてね…」
「私、ですか…?」
「そう。君が突然僕の家を訪ねてきてバチカンを離れるって言うんだ。それで君は僕にさよならって…」
ロベルトがその夢の光景をまざまざと思い出して眉を寄せていると、平賀は驚いたように目を瞬かせてから何故だか嬉しそうに頬を緩めた。
「平賀…?」
なぜ平賀が嬉しそうにしているのかまったくわからず、ロベルトが戸惑ったように呼ぶと平賀は慌てて緩んでいた頬を引き締めた。
「す、すみません、ロベルト。貴方の苦しみを笑ったのではないのです。ごめんなさい」
「いや、そんなふうには思ってないよ。でも、どうして嬉しそうなのか教えてほしいな」
「それ、は…」
平賀は躊躇ったようにしながら、頬をうっすらと朱く染めた。
「貴方が私と離れる夢を見て、あのように苦しんでくれたのだと思うと嬉しくて…。不謹慎ですよね、ごめんなさい……でも私は…貴方と離れることはすごく嫌なんです。だから、ロベルトが同じように思ってくれていたのがとても嬉しくて」
「そっか…」
ロベルトは平賀の言葉に恥ずかしそうにしながらも、微笑んだ。
「それに…昔の貴方は……」
「ん?」
「あ、いえ。何でもありません」
「なんだい、それは」
平賀は自分が見た夢を思い出してぽつりと呟いたが、ロベルトが不思議そうに見つめてきたのに気づき何でもないような顔をした。
出会って少しずつ話すようになったあの頃。ロベルトがディナーに誘ってくれたのがとても嬉しかった。料理が得意なんだ、と笑う彼に楽しみですと微笑み合って。あの日、ロベルトが魘されながら「ヨゼフ」と何度も呼んでいた。彼と初めて会ったときもその名を呼んでいて、人違いだと悲しげに言っていた。だから、その名が自分を呼んでいるわけではないことに気づいて寂しかった。不満にも思った。そのときは何故そのように感じるのかわからなかった。
けれど、今日そのときの夢を見て平賀は思ったのだ。ロベルトの気持ちが自分に向いていないことが悲しくて、寂しかったのだと。
「平賀。君は夕食を食べていないんだよね? 今からでいいなら作ろうか?」
「すみません。私は貴方に迷惑かけてばかりで」
「そんなことはないさ。僕が君に作ってあげたいんだ」
「では…お願いします」
平賀は申し訳なさそうな顔をした。
「そんな顔はしないでおくれよ。本当に迷惑だなんて思っていないんだ」
「はい。貴方は心優しい人ですから。ロベルトはいつもそうやって私を安心させる言葉をかけてくれますよね」
「そうかな?」
「はい。でも、私は貴方を楽しませたり、悲しいときに違う話題をふって勇気づけたりとか、そういうことはできません。どのようなお話をすればいいのか難しくて」
しゅんと落ち込む平賀の手をロベルトは包み込むように握った。
そうして、ふとロベルトは思い出す。以前にもこうして手を触れ合ったことがあった気がする。そのときは平賀がロベルトの握り締めた拳を、その美しい手で包んでくれたのだ。
あれは確か――。
ロベルトはその日のことを思い出して頬を緩めた。
「確かに君はそういうことに長けていないかもしれないけど、人に慈しみや暖かさを与えてくれるだろう?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。例えば君がこうやって僕の手を握ってくれたとしよう」
ロベルトはぎゅ、と平賀の手を握った。
「これだけで僕は安心できるよ」
「ロベルトが?」
「ああ、そうだ」
ロベルトは平賀にふわりと微笑んだ。それを見て平賀も安心したように笑う。
「それじゃあ僕は料理を作るよ。このまま話していると眠れなくなりそうだ。君は本でも読んで待っててくれ。この間新しい本を何冊か買ったんだ」
「はい。ありがとうございます、ロベルト」
平賀がソファーで本を読んでいるのを見つめながら、ロベルトは思い出していた。
あの日はヨゼフの夢を見ていた。名を呼ばれて起き上がると平賀が傍にいた。心配そうに覗き込む瞳がヨゼフと重なって悲しくなったのだ。けれど、強く握り締めた拳を平賀が優しく包み込んでくれた。その暖かさに心が落ち着いていくのを感じた。
あの日の平賀はいつになく饒舌だった。いろいろな話をしてくれた。ロベルトが興味を持ちそうな物語を。
そのときはまだ出会ってあまり経っていなかったから平賀のことを多くは知らなかった。だから饒舌だった理由を考えもしなかった。
けれど、今ならわかる。
ロベルトは料理を手にして、テーブルに並べながら小さく呟いた。
「君は僕を勇気づけようとしてくれたんだね」
「ロベルト? 何か言いました? あ、料理ができたのですね。手伝います」
「言ったよ」
「はい?」
「君がいてくれてよかったって言ったんだ」
突然のロベルトの言葉に平賀はびっくりしたように目を見開いたが、すぐに頬を上気させて微笑んだ。
「私も貴方がいてくれてよかったです」
二人は照れくさそうに笑い合う。
びゅうっと風の音が聞こえて、ロベルトは窓が開いていることに気づいた。
「あ、窓が開けっ放しだった。閉めてくるよ」
開いていた窓を閉めて平賀の元に向かう。平賀は料理をテーブルの上に並べ終えたようで椅子に座っていた。
お待たせ、と声をかけようとしたとき、背後から声が聞こえた気がした。
――ロベルト。
「え…?」
振り返ってもそこには誰もいない。優しく呼ぶ声にロベルトは聞き覚えがあった。忘れるはずもない、あの人の声。
「ロベルト? どうかしましたか?」
「あ、いや。何でもないよ、食べようか」
気のせいか、とロベルトは椅子に座って遅い夕食を二人で楽しく食べたのだった。
――ロベルト。よかったね。
柔らかい声でそう紡いだ少年が、ふわりと優しく、そして嬉しそうに笑った。
2013.4.5