TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > 烟紫色の戀 > 02
――頼みがある。
そう連絡が来たときはひとり舞い上がったものだ。仕事で会うことなどほとんどなく、ましてやプライベートとなればそれ以上に会うことがなかった。言ってしまえば、〝知人〟程度の仲だ。
かつて、暗中で太陽に焦がれるがごとく抱いた強い憧憬はいつの間にか形を変え、日本の心に巣食っていた。しかし、それをどうにかしようなどと思っていたわけではない。それこそ、人類が滅び国の概念がなくなるまで白日のもとに晒すことはないのだと疑うこともなかった。
それでも感情というもの厄介で、あの人が絡めば勝手に一喜一憂してくれる。連絡先は登録されていても、電話が鳴ることもなければメッセージが届くこともなかった彼からの突然の着信に舞い上がってしまうのは致し方ないことだった。
その真夏の太陽のようにギラギラした高揚も、彼の〝頼み〟を聞いた瞬間、一気に萎んだけれど。
取り決めた約束の日、彼は仰々しい荷物片手に日本宅の玄関を叩いた。客室へ案内し、もてなすために台所へ向かおうとした日本を遮って、座れと促される。あまりに厳しい声音と、硬い表情に嫌なふうに鼓動を速めながら腰をおろした。
「今から話すことを誰にも口外しないと誓えるか」
あれだけ騒がしい声を放つ人がやけに静かに告げた言葉に日本は息を呑み、彼が何を話そうとしているのか皆目見当がつかないまま、「はい」と神妙に頷いた。
「お前の神に……いや、民に誓って?」
再三確認を取られることに、彼の頼み事がそこまで大ごとなのだと知って手に汗が滲むほど一気に緊張感が増した。
今一度、「はい」と頷いた日本を見定めるように細まった稀有な色の双眸には、まだ疑いの色がある。日本は静かに深呼吸し、口を開いた。
「そこまでお疑いなら誓約書でもしたためますか? 私が破ったとわかったらそれなりの措置をしていただいて構いませんよ」
「……いや」
少しの沈黙のあと、プロイセンが日本から顔を逸らした。張りつめていた空気がふっと和らいで、緩く首を振ったプロイセンががしがしと銀に瞬く髪を掻き乱す。
「悪い」
「はい?」
「お前が誓うというなら、約束を破ることはねぇだろ。それくらいは信用してる」
「…………………」
それくらいは、とは、何とも微妙に棘がある。まあ、彼からすれば弟の友人くらいにしか思っていない男を手放しで信用しているほうが問題だろうけれど。
ちくちく、と針を刺すような鈍い痛みを発する胸を気づかないふりで、日本は話しの続きを促した。
「何年だ」
「え……?」
「何年生きてる?」
脈絡のない話に、それでも日本は律儀に答えた。
「二千年くらいですかね」
「サバ読みすぎだろ」
「誤差の程度です」
「よく言う」
プロイセンは少しの間沈黙したあと、小さく続けた。
「それだけ生きてて、生を実感できるのか」
話が、見えた気がした。
「……私には使命や責任があります。この地を、民を、守り続ける。私の生にはその意義がある」
「俺にはない」
「……………」
ふう、と溜め息を吐いたプロイセンが軽口でも叩くように明るい声をあげた。
「最初は命があるだけで儲けもんだと思ったんだけどな」
伏せられた瞼の先で銀の睫毛が震えた。
「今はもう一思いに殺してくれたほうがマシだと思うようになった。止まらない鼓動だけ持ってたって何の意味もない。その鼓動に価値がなけりゃな」
「……………」
「ヒト一人分の価値すらねぇんだぜ、この身体は。自棄にもなる」
少しの間を置いて、平素より低い声が続けた。
「………この間、ヴェストを殺す夢を見た」
息を呑んだ日本に嘲笑が降りかかる。
「まずいと思うだろ? このままじゃ。俺にはもう、生きてるっていう実感がない。生ける屍にでもなった気分だ。ゾンビっつーのはこんな気分なんだろうよ」
嫌なふうに疾走している心臓をどうにか静めて、日本はまっすぐにプロイセンを見据えた。
「つまり、生きているという実感が欲しいと。……私は何をすればいいんですか」
「話が早くて助かるぜ」
プロイセンは傍に置いておいたボストンバックに手を伸ばした。それは長い旅行にでも赴くのかと思うほど大きいが、中身はあまり詰まっていないように見えた。ジッパーが開く音がやけに大きく、物々しく響く。その中から取り出されたプルシアンブルーの布が巻かれた長い棒状のものに瞠目する。紺青の布が彼の手で解かれる前に日本は口を開いた。
「……どうやって持ち込んだんです。そんな獲物を」
「もうちょい検査は徹底すべきだ。平和ボケも大概にしろよ」
「………………」
濃い青がさらりと落ちる。ついに姿を現したそれは、柄や鍔に金の装飾が施されたサーベルだった。
恭しい手つきで武骨な指先が鞘を引く。覗いてきた銀の煌めきに映り込んだ真っ赤な瞳が血に飢えた獣のように歪んだ。
「俺はずっと戦場で生きてきた。この鼓動が、血が、一番沸き立つのは戦ってるときだ」
「……私に仕合いをしろと?」
「仕合いじゃねぇ、殺し合いだ。まぁ、死なねぇから明確にいうと殺し合いにはならねぇけど」
「……なぜ私にそんな頼みを」
プロイセンは、ふっと鼻で笑い、刀身を撫でた。
「他の誰に頼めって? ヴェストには当然言えねぇし、イタリアちゃんも論外だ。お兄様もな。男女はご免だし、坊ちゃんじゃ相手にならねェ。フランスも戦いにはならないだろうし、スペインも今じゃ碌に剣を握っちゃいねぇだろうよ。アメリカなんかに頼んじまえば、軍国復活を危惧して監禁されるのがオチだ。選択肢はそうそうないだろ?」
「……私は今挙げられたどの国より平和に生きているつもりですが」
「でも鍛錬を怠ることはない。三回目の喧嘩に備えて、な」
日本は思わず笑ってしまった。
自分を守る力すらない私が何に備えてるというんだ。
「正直に言えばいいでしょう。今挙げた彼らより差し障りがなく、傷を負わせてもさして罪悪感が湧かない。〝殺し合い〟の相手には最適」
「……………」
少しの沈黙のあと、プロイセンは続けた。
「テメェも鬱憤は溜まってんだろ。解消できんぜ。それともアレか? 海の向こうのご主人様にハーネスつけられて何もできねぇって? いい身分だよな、尻尾振ってりゃ安泰なんだから。噂通り牙も腕も足も抜かれて、無様に主人に縋ることしかできないっていうならしょうがねぇが」
「………………」
「ああ、もしかしてあいつに足も開いてんのか? プライドだけじゃなく貞操も捨てたっつーならお笑い種だ」
日本は完璧な微笑をこれ見よがしに浮かべてプロイセンを見据えた。
「安い挑発ですね。乗りませんよ」
「ふぅん? したくねぇってならしょうがないな。他にも血が沸き立つことはある」
プロイセンがサーベルを置く。
「……なんです?」
「セックス」
「……私で興奮するとは思えませんが」
「お前じゃねぇよ。……ここに来るときすれ違ったんだよな。向かいの家から娘が出てきてよ、長い黒髪で綺麗な顔立ちの。若ぇ女を組み敷くのはさぞかし楽しいだろうな」
「………………」
日本は唇を噛んでプロイセンを睨みつけた。
わかっている。彼がそんなことを本気で考えていないということは。ただの挑発だ。それでも大切な愛し子を穢された気になった。
「……わかりました。殺し合い、すればいいんでしょう」
「最初からそう言やいいんだよ」
「明らかな脅迫だった気がしますが」
「警察に突き出してくれても構わないぜ? 警官の命は保証しねぇけど」
日本は深い溜め息を吐き、立ちあがった。
「戦うなら道場でお願いします。この家を血だらけにされては困りますから」
こくりと子どものように頷いたプロイセンがサーベルを鞘に納め、紺青を巻いていく。伏せられた真っ白い瞼の奥に佇む血の色が揺らいでいるのを、日本は見逃すことをしなかった。
強く拳を握りしめ、肺の中の空気を全部吐き出すような感覚でどうにか平静を保った。横目で見た、冷たい言葉をつらつらと放っていたはずの彼の顔は、泣き出す直前の子どものように心許なかった。
血のにおいがする。
酷使した身体に鞭を打って、鋭い軌道を描いた剣先から身を躱す。
明確な時間の経過はわからないが、相当長い間、相対していることだけはわかっていた。人里離れた道場はちゃんと管理はされているものの、長く使われていない。もう使い道はないが、取り壊すのも気が引けてそのままだった。まさか、〝殺し合い〟の場になるとは思いもしなかった。
たどり着くまでの車中ではろくな言葉ひとつ交わさなかった。着いた矢先、服を脱ぎ始めたと思ったら彼は見知った軍服に着替えた。日本も道着に着替えたが、プロイセンと対峙した瞬間、いつかの時代が鮮明に蘇った。他者の存在など目に入らない孤高の強さは、あのときの日本が何よりも欲していたものだった。あんなふうになりたかった。自分のたった二本の足だけでも凛と立てるように。
憧れだった。でももう、その憧れの国はこの世界に存在しない。
「考え事はよくねぇ、なァっ!」
「ぐっぅ……」
一瞬の隙を見切ったプロイセンが長い足を蹴り上げた。右腕に直撃した蹴りで刀が手から離れて転がる。
しまったと思っている暇はなかった。好機とばかりに振り上げられた剣先を避け、獲物のない右手を強く握り、身を屈める。長身の死角に入り、足を払おうとしたがすんでのところで避けられた。しかし、プロイセンが下がった拍子にわずかによろけたおかげで時間が生まれた。一か八かで背を向け、吹っ飛ばされた刀に手を伸ばす。すぐ後ろに迫っているだろうプロイセンの気配目がけて、振り向き様に大きく刀を振るった。
「――ッ……!」
血が噴き出した。
もうすでに互いに傷だらけで、噎せ返るような錆びた鉄のにおいがしたが、鮮度のある血が流れたおかげで余計に匂いが沸き立つ。
軍服が裂け、その間から覗く白磁の肌は赤く染まっていた。横っ腹の辺りを押さえたプロイセンが喉を歪に鳴らす。
「っく……ハハ! これだよ、この感じ……!」
「………っ……」
狂人のように高らかな笑声が響く。
血が沸き立っている。脈を打つ心臓が外に飛び出ているのかと思うほど、うるさく鼓動を伝えてくる。プロイセンもきっと同じ状態なのだろう。
彼の言った通り、鍛錬を怠ったつもりはない。けれど、真剣を手に血を流すなんてことは当然しない。でもこれが当たり前だった。戦わなければ、生きていけなかったあの頃は。
でも世界は変わった。彼ひとりをあの時代に取り残して。
その不条理を嘆くも、私には何もできない。すべてを放りだせるほど、大切なものは少なくない。でも、彼を苦しめる世界を滅ぼす夢くらいは見るかもしれない。このろくでもない世界を。
流れた血のように真っ赤な双眸が強く己を貫くのに仄暗い愉悦を感じながら、日本は刀を構えた。
「ぐッ……は、ぁ……っ」
プロイセンは日本に乗り上げた。組み敷いた先の日本の右の手のひらは、地に磔にするように剣が突き刺さっていた。
もう届くところにはない刀を横目で見て日本が悔しそうに顔を歪めるのを、高揚した気分のまま見下ろす。
「俺の勝ちだ」
いまだ整わない荒い呼気の中で告げる。異常なほど分泌する汗がぽたぽたと血だらけの日本に滴った。
広い襟から大きく覗く象牙色の肌にカッとなる。ほとんど無意識のまま破る勢いで服を割り開いて素肌を晒した。
「なっ……何をするんですか!?」
プロイセンは歪な笑みを浮かべた。
「敗者を蹂躙するところまでが勝者の特権だろ?」
瞬間、檻に入れられた獰猛な獣のような仕草で日本が歯向かってきた。押さえつけるプロイセンの手を押しのける勢いで上体を起こそうとするのを力任せに封じる。
「ッ……わたしはッ! 貴方たちのそういうところに心底反吐が出る!」
ギッと強く睨みつける姿に、普段の面影はなかった。まるで、いつかの、今はもう遠い昔にすら思える日本を見ているようだった。あの残酷な時代の日本を。
プロイセンはわずかに瞠目し、日本を見下ろした。
「……そうか」
血に濡れた節くれ立った指先が日本の目もとを撫でる。
「お前もあの頃に取り残されたままだったのか」
意味がわからず瞬く日本の瞼の奥にある双眸は、俺と同じ呪われた色をしていた。