※少しですが暴力表現があります。




 ――ゾンビっつーのはこんな気分なんだろうよ。

 ホラー映画を見ているわけでも、漫画を読んでいるわけでも、湧き出てくるゾンビを画面内で撃ち殺しているわけでもないのに、彼はそんなことを口にした。
 ゾンビに気分も何もないんじゃないですか、などと軽口を叩く気にはとてもなれなかった。それこそ、物語にでも登場してきそうな稀有で端整な容姿のその人は、棺の中で花に囲まれでもしているみたいに表情がなく、まさに生ける屍の如く、命が見えなかった。


 *


 会議終わりの懇親会でそれぞれが盛り上がっている中、日本はぼんやりと遠くの人物を眺めていた。緩い間接照明の下、プラチナブロンドを輝かせたその人は楽しそうに笑っている。フランスやスペイン、いつものメンバーと一緒のようだ。
 照明のせいか、いつも見惚れるほど美しい瞳が深みを増している。彼の瞳の色を言い表すのはとても難しい。光の加減か感情の発露か、様々な色合いを見せる気がする。今はなんと表せばよいか。
(臙脂色、のような……)
 そう思い至ったところで、思わず小さく笑った。久しぶりに読んだ歌集にちょうど出てきたものだ。
 臙脂色と言えば、その化学染料が一般的に広く使われるようになったのは明治中期頃のことだった。あのひとに教えを乞うたのもちょうどその頃だ。
 日本は遠くの銀糸を見つめ、小さく溜め息を吐いた。彼はかつての師であり、今は友人の兄。ただそれだけの関係だというのに、時を経るごとに歪になっていく。日本にとっては突然降ってきた幸運で、そこに打算はなかった、はずだった。今はもう、そうはっきりと断言できなくなってしまったが。

「日本?」

 柔らかい声にはっとして顔を向けると、ワイングラスを片手に持ったイタリアがいた。

「……イタリア君」
「どうしたの? なんかぼーっとしてたけど」

 ハグハグ~とグラスをテーブルに置いて抱き着いてきた身体をささやかに抱き返す。ハグという苦手な接触も慣れたものだ。きっとイタリアとはよくしているからだろうけれど。

「いえ、何でもないですよ」

 いつものように笑みを浮かべて返せば、イタリアはなぜか黙り込んでしまった。

「イタリア君? どうかしましたか?」

 特徴的なくるんがしょぼんと下を向いている。今の流れの何が彼を落ち込ませてしまったのかわからない。

「……日本はさ、いつもそうやって笑うよね」
「……?」
「俺だって……日本の言う〝何でもない〟が何でもなくなんかないことくらいわかるよ」
「……………」
「黙ってようって思ってたけど、俺、さり気なくとかそういうのできないから」

 はっきり聞いちゃうね。
 イタリアは困ったように眉根をさげて、無理矢理浮かべたように笑った。

「それ、どうしたの?」

 スーツの袖、日本の手首の辺りをさらりと撫でてイタリアはそう言った。
 びくり、と小さく身体が跳ねる。

「……なんの、ことだか」

 お酒を呑んで潤っていたはずの喉から漏れたのは、絞り出したような小さい声だった。

「ごめん。俺、日本にそんな顔してほしいんじゃなくて……!」

 イタリアの顔がくしゃりと歪んで大きな瞳に涙が溜まっていく。その様を見ていた日本はすっと心が静まっていくのを感じた。冷静にならないと。大切な友人に、こんな顔をさせてしまってはいけない。

「すみません、イタリア君。心配してくださったんですよね」

 ありがとうございます、と微笑むとイタリアはぎゅっと日本の手を両手で握ってきた。

「でもきっとあなたが心配してくださるようなことではないのですよ」
「ッでも…!」

 日本はそっとシャツの袖を捲った。そこには何かに貫かれたような惨い傷痕がくっきりと残っている。

「何か事件に巻き込まれているわけでも、無理矢理こんな状態にさせられたわけでもないのです」
「……本当に?」
「ええ」
「それって、」
「この痕は」

 人から見れば痛々しいのかもしれないその痕を優しく撫でる。

「人様のお役に立てたことを証左する名誉の痕ですよ」

 軽い口調で冗談交じりに告げた日本を揺れるアンバーが強く貫いた。

「……じゃあどうしてあんな顔したの?」
「あんな顔?」
「日本、今の自分の状態気づいてる? もともと細かったけど、すごく痩せちゃってる」
「……気のせいでは」
「俺知ってるよ……その痕つけたのって、ぷろ――

「イタリアちゃん」

 突然かかった第三者の声にイタリアと日本の身体がびくりと大きく揺れた。

「どうした?」

 固まってしまったイタリアの頭をわしゃわしゃと撫でたのはプロイセンだ。常ならばそれをうまいこと回避する筈のイタリアはされるがままでいる。

「珍しいじゃねぇか。二人寂しく呑んでるなんて」

 日本はとっさに微笑んだ。

「プロイセン君こそ、フランスさんとスペインさんはどうされたのです」
「避難してきた。見てみろよ、あれ」

 巻き込まれたくねぇとプロイセンが言った通り、非常に盛り上がっているらしいあちらの方々は酔っ払ってあらぬことになっていた。

「……プロイセン」
「うん? どうした、イタちゃん」

 デレデレとした顔はいつものプロイセンだ。傍にいる日本もいつもと何も変わらない。イタリアは恐怖に竦むような感覚に泣き出してしまいそうだった。
 さり気なく伸ばされたプロイセンの手が日本のシャツの袖をそっと元通りにした。見えていた痕を隠すように。
 日本の様子がおかしいことには少し前から気づいていた。いや、日本自体はあくまで何も変わっていないが、痕があるのだ。一緒にお風呂、といういつもの流れをさり気なく躱されることが多くなったり、例えば夏なのに長袖を着ていることがあったり。
 あるとき、日本に遊びに行ったときに彼は着物を着ていた。ハグを交わしてその身体を離すとき、身長差からゆったりとした着物の中が見えた。そこを見てイタリアは驚愕したのだ。傷痕がたくさんあったから。それが古傷なら何とも思わないが、ほとんどは新しい痕だった。痛々しいそれらを日本は気にするでもなく、いつも通りで。その〝いつも通り〟が余計、恐怖を呼び起こした。
 ちょうどその頃だ。ドイツから相談があると持ちかけられたのは。とても深刻そうなその様子に、ドイツも日本のことに気づいたのかもしれないと思った。けれど、ドイツの相談はプロイセンのことだった。
 ――兄さんの様子がおかしいんだ。
 そう切り出したドイツは青ざめていた。何となく異変を感じたのは少し前からだという。プロイセンがドイツに黙ってどこかふらふらとすることは珍しいことではないが、その頻度が少し増えたらしい。そしてあるとき、掃除をするという目的で入った兄の部屋のベッドのシーツに血がべっとりついていたというのだ。怪我でも負ったのかと焦ったが、朝、家を出て行く姿はいつもと変わらなかったと言っていた。その後に続いた言葉にイタリアは固まった。……プロイセンは、ドイツに遊びに来ていた日本を空港に送り届けるために家を出たのだという。
 それを聞いてイタリアは青ざめた。ドイツに日本の様子を聞くと普段と何も変わらなかったと言っていた。ドイツは帰ってきたプロイセンにどういうことかと詰め寄ったが、ちょっと昔の剣の手入れしてたら斬っちまったと笑っていたという。では怪我の手当てを、と言うともう大丈夫だぜと躱されたらしい。それだけならドイツもそうかと納得したのかもしれない。けれど、プロイセンが日に日に憔悴していっているとドイツは感じていた。ぼんやりと宙を眺めることが多くなったり、そんなことなかったのに食事の準備中、皿を落としたり。
 イタリアは怖くなった。同じタイミングでプロイセンも日本も様子がおかしいのだ。何があったのか、全くわからない。イタリアはドイツに日本のことを話した。ドイツはそれを聞いて黙り込んだあと、もしかしてと切り出した。最近やたらとプロイセンが日本のことを聞いてくる、と。それは自然な会話の中でのことで特に気にしてはいなかったらしい。それに今の時代になって二人の仲が深まったのかと。
 それはイタリアもそう思っていた。例えば、イタリアが日本を誘ってドイツ宅に行けばプロイセンはいたし、二人が仲よさげに会話をしているのを見たことが何度もある。日本のプロイセン君、と呼ぶ声は柔らかく、時に師匠なんて呼んでは笑っていた。プロイセンもわしゃわしゃと日本の頭を撫で回したり、ちょっかいをかけて楽しそうにしていた。
 二人に聞くべきか。けれど日本もプロイセンもその懐の入るのはとても難しい。イタリアとドイツは少し様子を見ることにした。それからは二人を注意深く観察した。それでわかったのは日本がさり気なくプロイセンを見つめていることだ。焦がれるような視線。その視線の意味をイタリアはわかってしまった。一方、プロイセンも日本を見ることがある。そこに含まれる感情を理解するのは難しかった。けれど二人ともどこか昏い色をその瞳に映すのだ。少し歪な笑みを二人は浮かべていた。それを知ったとき、ぞくりと背筋が凍った。ダメだと思った。二人がどこか遠くへ行ってしまうのかと不安に襲われて。

「イタリア君? 大丈夫ですか?」

 優しく問いかける声にハッとする。

「どうした? 酔っちまったのか」

 プロイセンの声も優しい。

「う、うん。ちょっと飲みすぎたかも」

 咄嗟に出た言葉はそんな他愛のない受け答えだった。今日こそは何があったのか聞こうと意気込んでいたというのに。

「もう部屋に戻りますか?」
「え……ううん、その、」
「あーきたきた、ヴェスト!」
「……兄さん」

 ドイツはきっとイタリアが日本に話しかけてからずっとこっちを見ていたに違いない。イタリアの困惑に駆け寄ってきてくれた。会話は聞こえてなかっただろうけど。

「イタリアちゃん、酔っちゃったみたいでさ」
「…そうか。大丈夫か?」
「うん…」
「私も少し酔ってしまいました」
「すぐ酔うってわかってんのに洋酒飲むなよ」
「ふふ、洋酒を飲みたいときだってあるんです」
「部屋に戻るか?」
「ええ」
「イタリアちゃんはヴェストが送ってってやれよ」
「あ、ああ」
「俺は日本を、」
「っ、兄さん…!」

 椅子からおりた日本が当然のようにプロイセンについていこうとしたのをドイツが遮った。
 日本もプロイセンもきょとんとしている。

「ヴェスト?」

 イタリアも日本の手を引いてしまいたい気持ちだった。

「ドイツさん、どうされました?」

 何で、と頭を抱えたい思いだった。プロイセンも日本もどうして普通にしているの、と。

「に……兄貴は戻ってくるのか?」

 ドイツは必死に冷静を保とうとしている。

「いや、俺もそのまま部屋に戻るぜ?」
「プロイセン君、」

 くいっと日本がプロイセンの服を引っ張って行きましょうと促す。まるでこの場から早く去ってしまいたいかのように。
 プロイセンが日本の肩を持ってくるりと入り口に身体の向きを変えた。そっとその背を押して進むように促す。プロイセンはイタリアとドイツをちら、と見てから、ぽんっと二人の頭に手を置いて小さく呟いた。

「……ごめんな。でも俺は今、あいつを手放せないんだ」

 哀しげに揺れた瞳。迷い子のような寂しげな微笑にイタリアとドイツは目を見開いた。
 プロイセンはすぐに日本を追って行ってしまった。隣に並んだ二人が顔を見合わせて笑ったのを眺めてから、イタリアはドイツに腕を搦めて少し寄りかかる。

「俺、プロイセンのあんな顔初めて見た」
「……俺もだ」
「間違ってたかもしれない」
「何がだ?」
「ドイツが聞いたら怒るかもしれないけど……俺、もしプロイセンが日本を傷つけてるなら許せないって思ってた」
「当たり前だろう」
「うん。プロイセンが好きで人を傷つけるわけないのにね」
「でも何も解決していない」
「…そうだね」

 イタリアはドイツを見上げた。

「あの二人ってさ、自分を見せないよね。隠すために笑うんだ。俺はね、それがすごく寂しい」

 わかっているぞ、とでも言うように頭を撫でてくるドイツにイタリアは寂しげに笑った。その撫で方はプロイセンにそっくりなのだ。きっとドイツはイタリアよりも寂しいはずだ。大切な家族のことがわからないのだから。


 *


「やはり問題があると思うのですが」

 ホテルの一室に縺れこんだ途端、ひとをドアに押しつけて服を脱がせてくる男をじとりと見上げる。

「問題?」

 釦が飛ぶ勢いで襟を割り開いて見えた首筋目がけて、あー、と口を開けていたプロイセンは動きを止めて片眉をあげた。

「弟さんに嘘を吐くのはよくないのでは、と」

 噛みつくのを諦めて、プロイセンは屈めていた腰を伸ばした。日本を見下ろしながら鼻で笑う。

「お前、それマジで言ってる? あいつが生まれたときから嘘ばっか吐いてたぜ、俺は」
「……ああ、あなたはそういうひどいお人でしたね」
「非道くない国があるなら教えてほしいもんだな」
「そういう国を目指していたのではないのですか。理想の国を」
「……さぁな。国だった・・・頃のことなんて忘れちまった」

 低く紡がれた声はどこまでも冷め切っていて、色がなかった。
 日本は小さく息を吐き、話題を変えた。

「……イタリア君が不憫です。あんなに心配してくれているのに」
「俺だってイタちゃんの天使の笑顔を曇らせるのは本意じゃねぇけど、どうしようもないだろ」
「あなたが私の手首に剣を突き刺したりするから、痕が残って不審がられたんですよ」
「ああ、あれは悪かった。つい」

 あっけらかんと言い放ち、シャツを脱ぎ始めたプロイセンを呆れた目で見る。

「常人ならば致死量の出血させておいて、〝つい〟ですか」
「死なねぇんだからいいだろ。勢いあまったんだよ」
「痛覚はあるんです。しばらく痛かったんですよ」
「俺だって痛かったぜ? 見ろよ、この刀傷」

 シャツを脱ぎ捨てた逞しい裸身には古傷の他に斬り傷が散在していた。

「あなたは痛みを欲していたのでしょう?」
「ひとをマゾヒストみてぇに言うな」

 唇を尖らせて不満がる姿は頑是ない子どものようだった。内容は物騒だが。
 日本は緩く首を振り、話を戻した。

「話してみてはどうですか。イタリア君やドイツさんに」
「俺たちは殺し合いしたり、セックスしたりする仲だって?」
「……もっと柔らかい言い方で」
「どんな言い方だよ」

 呆れと嘲謔を混ぜたような顔で苦笑したプロイセンに、日本もつられて笑った。

「無理ですね」

 つき合わせた二人の顔が同時に噴き出す。喉を震わせるような笑声が響かせたあと、獣のように荒々しい口づけを交わした。