フランスの美しい瞳から日本は必死に顔を背けた。宝石のようなそこに映る己の醜い顔を見たくはなかった。
 無雑作に置かれた少女漫画が視界に入る。そうかとぼんやり思った。自分が二次元の世界に惹かれるのは、そこにはまぎれもないハッピーエンドがあるからだ。すべてがそうではないけれど、物語の最後は美しく幸せに終わってくれる。本当はその先があるはずなのに、おとぎ話の最後のページの決まり文句のように、末永く幸せに暮らしました、と終わってくれる。そんなことにはならない現実を嫌でも知っているというのに、その最高に幸せな完結に心踊らされるのだ。けれどもしかたら、この現実がおとぎ話のラストを迎えるような世界なら、日本はあの男を愛することはなかったのかもしれない。たまたまそこにいた相手に手を伸ばし、慰め合うようなこともなかったかもしれない。
 日本は喉奥に何かが引っ掛かったような苦しさを感じた。祟りなのだと思うほど辛いのに、身体を重ねるなど、互いの心中を身近に感じるなどしなければよかったと、そう何度も思うのに。彼へのこの想いが跡形もなく消えてなくなってしまうのは嫌なのだ。あるいは、初めから一欠けらも抱くことなく、この百年を過ごすなどということは嫌なのだ。大事にしなくちゃだめだとフランスは言った。言われずとも大事にしてきた、ずっと。本田菊という一個の存在として抱いた強い想い。これだけは真実だと思える、ただ一つの感情だった。大事にし過ぎたから消えることなくずっと胸の奥でくすぶり続けている。本当は声を大にして言いたかった。あの人を愛しているのだと。けれどそうする勇気は持ち合わせていなかった。言ってしまえば、あの人は離れていってしまうと思ったから。この歪な、けれど他の誰とも違う関係をまだ手放したくないと思ってしまうから。
 日本とフランスの長く続いた沈黙を遮ったのはインターホンの音だった。同時にびくりと身体を揺らす。フランスの眉を下げた困ったような笑みに、日本も似たような表情を返して玄関に向かった。
 どちら様ですか、と問いかけつつ開けた戸の向こう、視界に入り込んだ姿に心臓が一際大きく鼓動を刻む。
(…このタイミングですか)
 先までのフランスとの会話に関わるその男は「よう」と軽く挨拶をした。普段の快活な笑みでも、少年っぽさを含んだ顔でもなく、静かな表情で淡々と紡がれた言葉。こういうときは、彼が誰にも言わずに日本のもとへ来たという合図だ。何よりも愛する弟にも何も告げずに彼は来たのだろう。そうでなければ、いつものように無邪気に笑う。そんな、細波すら立てない凪いだ海のような表情などしない。
 一歩中へ踏み出したプロイセンが玄関に置かれた洒落た革靴を見て動きを止めた。一瞬の間をおいて顔をあげた彼は先程とは全く違う表情で日本を見た。小首を傾げ、チャーミングな犬歯を見せて少年のように笑って。

「誰か来てんのか

 ひどく明るい声でそう言った。いつもの彼のように。

「…ええ。フランスさんが」
「……へえ」

 靴を脱いで日本の横を通り抜ける。勝手知ったるといった感じて入っていくその背を見つめる。この場に日本以外の誰かがいるとわかった途端に普段の表情に戻ったプロイセンに、何とも言えない気持ちになった。日本にだけしか見せない顔があることに対する喜びや優越感。それから、それに振り回され、未だ肥大していく恋慕に対する悔恨や苛立ち。
 居間に姿を見せた男にフランスが僅かに目を見開いて動揺したのをプロイセンの肩越しに見た。フランスと視線が合ったが、何てことのないように微笑んでみせた。

「あれ、ぷーちゃん

 先程まで日本を追い詰めていた愛の国がそんな風に白々しく言ったのを聞いて内心で笑う。

「よお」
「日本で会うとか珍しいね」
「そうだな」
「よく来るの
「…いや。アジア巡ってたから、ついでに寄っただけだぜ」

 そんなことは嘘だと、日本もおそらくはフランスだって気づいている。

「アジア巡ってたって…随分と広いけどね。お前とはこの間、ドイツで会ったはずだけど」

 ちっ、と小さく舌を打つ音が聞こえた。あまりに杜撰な嘘だったとプロイセンは思っているのだろう。珍しい。取り繕うなら完璧にこなすこの男の失敗を不思議な気持ちで見ていた。
 フランスが目を細める。先程日本を動揺させたフランスがプロイセンにも何か決定的なことを言ってしまうのではないかと思って、彼が言葉を発するより先に日本は急いで口を開いた。

「あの…」

 二人が日本に視線を向けたのを見て、努めていつも通りの微笑を浮かべた。

「そろそろお昼です。昼食の準備をしますね」

 流れそうだった不穏な空気を裂くように明るく言った。よっこらしょ、とわざとらしく声をあげ、立ち上がろうとした日本にフランスが制止の声をかけた。何を言われるかと身構えたが、フランスはそんな警戒心丸出しの日本を見て苦笑して首を振った。

「いいって。世話になったから、ランチはお兄さんが作るよ」
「…ですが」
「って言っても、ある食材で適当に作らせてもらうからね 日本は休んでてよ。ずっとおもてなししてくれてたんだからさ。別にぷーちゃんはもてなさなくてもいいっしょ」
「おい」

 眉を寄せたプロイセンにフランスはケタケタ笑いながら、台所に向かってしまった。

「………」

 突如二人だけの空間になった居間に沈黙がおりる。慣れたようにプロイセンに近づいたぽちがその手に擦り寄っている。撫でて、と催促するような仕草はプロイセンが日本宅によく来ていることを如実に表していた。彼の撫で心地の気持ちよさを知っているぽちはまた来てくれたと言わんばかりに尻尾を大きく振っている。

「なあ」

 ぽちをわしゃわしゃと撫でていたプロイセンが日本に視線を向けることなく呼びかけた。

「はい
「フランスといるのは楽しいか

 突然の質問にその真意が全くわからないまま頷く。

「…ええ。趣味を理解してくれる友人ですから」
「そうか」
「はい」

 そこで会話は途切れた。窓の外へ向けられた瞳は何を考えているか全くわからなかった。どうしてそんなことを聞いたのか訊ねたいのに、日本の口は縫われてしまったかのように動かない。どこか遠くを見ているようなその表情が怖いといつも思っていた。日本には見えない何かを見つめて、すぐにふらふらとどこかへ行ってしまいそうだと思ってしまう。日本の手の届かないどこかへ。
 じゃあ、と言葉を続けたプロイセンがようやく日本を見た。その眼差しが向けられたことに安堵したのもつかの間、続いた彼の言葉は日本を凍らせた。

「…じゃあ、幸せだな」

 そう言ってひどく優しく微笑む。消え入りそうな儚さを感じる微笑。
 なんで、どうして、突然そんなことを言うのだろう。
 何か言おうと口を開いたが、何と言えばいいなかまったくわからなくて言葉は出てこない。幸せだなそれが、俺がいなくてもお前は幸せだよな。そんなふうに聞こえてしまったのは日本の勘違いなのだろうか。まるで、別れの言葉のようなそれが怖くて仕方がない。凍り付いた日本の表情をただ眺めるだけのプロイセンが何を思っているのか全くわからなかった。
 再び降りた沈黙を「日本、ごめん。ちょっと来てー」というフランスの声が遮る。「今行きます」と台所まで聞こえるように声をあげて日本は立ち上がった。数歩進んで振り返らずに呟く。

「…いいえ」

 否定の言葉を。祈るように。貴方がいなければ幸せなどではないと言外に添えて。



***



 いくら暖冬だからと言っても冬特有の冷たい空気が頬を撫でる。視界の端に映った柔らかな色が例年の冬とは違う景色を演出していた。春を彩るはずの花が咲いている。
 隣を歩くプロイセンがぴたりと足を止めた。フランスはそれに倣い歩みを止め、プロイセンの視線の先を見ながら呟く。

「狂い咲きだね」
「…おう」

 ちら、と横目でプロイセンを見たが、そこにあるのは普段と変わらない表情で、なんてことない風に止めていた足を動かし始めた。
 視界を彩る桜色の中を歩く背中に、どうしてこうも不器用なんだかとフランスは苦く笑った。逞しい背である。きっと、あの極東の男が必死で追いかけた背中なのだろう。しかし、誰よりも軍服が似合っていただろう彼は、ラフな服装に身を包んでいるからか、その背中は昔より随分と小さく見えた。
 フランスはその背に声をかけた。はっきりと、大きめに張って。

「誰が狂わせたんだろうね」

 フランスの言葉に足を止めたプロイセンが一拍の間を置いて振り返った。眉を寄せて睨みつけられる。おお怖い、と内心でおどけながら、フランスは至極真面目な顔を崩さなかった。

「…どういう意味だよ」
「俺さ、ずっと勘違いしてたんだわ」
「あ
「お前らは上手くいってるのかと思ってた」

 ――返してッ…!!
 あの日。アメリカに縋り付いた日本の叫びはフランスの耳に鮮明に焼け付いていた。
 ――…あのひとまで奪っていくのですか
 あれからずっと、二人が共にいる姿を見られるときは慎重に観察していた。例えば、プロイセンがドイツの補佐として参加した世界会議のあとの懇親会。日本とプロイセンが二人きりで話す姿を見ることはなかったけれど、微かにアイコンタクトを取っているのを見たことがある。プロイセンが先に会場を後にして、その少しあとに日本が出て行った。俺はそれを見て、なんだ上手くいってるんだ、と勘違いした。
 ようやく分断の時代も終わり、再会した二人はきっと想いを通じ合わせたのだろう、と。二人はただ関係を公にはしないだけで、恋とか愛とか疎そうな二人はゆっくり慕情を育んでいるのだろう、と。
 フランスの勘はそう告げていた。二人の間には密接な空気があるように感じていたからだ。例え、それを二人が表に出そうとしていなくても。

「俺が口出すことじゃないと思うよ。でもさ、どこかのヒーローが言うように俺もハッピーエンドが好きなんだわ」
「…だから、何の話だよ」
「いい加減、腹括れよって話」
「は
「お前が何を思って日本と身体だけの関係でいるのかくらいわかるけど。お前は今こうして生きてるでしょ」

 殺気かと思うほどの鋭い視線がフランスを貫く。身体全体に感じるびりびりとした空気にフランスは深く息を吐いて落ち着かせた。

「……あいつに聞いたのか」
「いや。それとなく誘導しても、いつものらりくらりと躱された」
「じゃあ、なんで」
「愛の国を舐めないでほしいなあ、なんて」

 フランスは持っていた何十年も前の手帳をプロイセンに渡した。受け取ったプロイセンはそれに書かれている言葉が日本語だと気付いたのだろう、微かに瞳を揺らした。

「それ、日本に返しておいてくれない こんなに遅くなってごめんって」
「…何だよ、これ」
「ラブレター」
「はあ
「日本からお前宛てのラブレター」
「………」
「あひ見まく 星は数なく ありながら 人に月なみ 惑いこそすれ」
「……
「お逢いしたいという気持ちは星の数ほどたくさんありますが、あの方にお逢いする手がかりが無いので月のない夜道を歩くように迷っています」

 プロイセンの手帳を持っていないほうの手が強く拳を握った。動揺した赤紫が揺れている。

「日本がお前のどこにあんな重い情を抱いたのか、俺にはさっぱりなんだけど」

 揶揄するように軽い口調で言う。

「お前はただの想い人じゃないみたいだよ」
「…どういう意味だよ」

 あの日、座り込んだ日本が呟いた言葉。
『かえして、私の――

「私の――Mein Sonnenschein」

 私の太陽。
 息を呑んで瞠目するプロイセンに笑う。

「お前、日本に何したのよ。お前が日本にとって神さまだとでも言ってるみたいじゃない」

 視界に映る桜と共に日の昇る旗が脳裏を過ぎった。

「まあ、お前がいらないってんならお兄さんがもらっちゃおうかな」
「…なにを」
「何をって日本を」

 言った途端に飛んできた鋭い視線に苦笑する。だから、もうその感情を手放そうとするのを諦めたらいいのに。日本が幸せになる未来をプロイセンは望んでいるのだろう。日本を哀しませたくないから想いには応えない。けれど、身体だけでも手を伸ばしている現状にすでに答えは出ているはずだ。そしてこうやって身が竦むほどの嫉妬を俺に向けている。お前は耐えられないはずだ。日本の隣に自分以外の誰かがいることに。もうそれほどに愛してしまっている。だから諦めたらいいのに。いっそ傷つけても哀しませても己が手に囲い込むのだと、そう思ってしまえばいいのに。きっと日本もそれを望んでいる。

「俺だってあんなふうに愛されてみたいしね」

 現役時代さながらの気に身が竦んだが、フランスはどうにか足を動かしてプロイセンの横を通り過ぎた。その間際、挑発するように言う。

「そろそろ日本に行こうかな」

 例のイベントもあるし、いっそ年始も日本で過ごそうかな。

「ああ、あとさ」
「………」
「最後の口づけっていつの話

 少し身体を傾けてプロイセンに向けて言うと、目を見開いた後、何でお前が知ってるんだよというように眉を寄せられる。フランスは内心で苦笑しながらプロイセンの持つ手帳を指差した。

「Der Kuß, der letzte grausam süß, zerschneidend――ああ、やだやだ。何でお兄さんが美しくもないドイツ語を話してるんだか」

 大仰な身振りで嫌々と手を振って、フランスはその場を後にした。背後のプロイセンが覚悟を決めてくれることを願って。そうして無事にあるべき場所へ納まった二人を鼻で笑ってやろうと思う。この臆病者達め、と。



 プロイセンはフランスの背を見送ってから手もとに視線を落とした。星がひとつ煌めくそこには軍隊手牒と書かれている。
 お前がいらないならもらうとフランスは言ったが、それが本心からの言葉ではないことくらいプロイセンにもわかっていた。本心ならこれをわざわざプロイセンに渡しはしないだろう。けれど、フランスがそう言ったとき、プロイセンの胸中は凄まじい嫉妬の嵐が渦巻いた。日本の隣に自分以外の誰かがいることに堪えられないというように胸の奥が強く痛んだ。馬鹿じゃねえの、と自分に言う。自分が隣にいるべきではないとずっと思っていたというのに。日本が己に向ける恋情に気付いていて知らない振りをした。たとえ情を交わして一時の幸せを得ても、いつか必ず日本を傷つけ、哀しませることを知っていたから。どうしたって先にいなくなるのはプロイセンなのだ。あの己の感情など簡単に隠してしまう老実な国は、けれど情に厚く、容易く傷つく奴なのだ。あいつが愛する他でもない自分があいつを傷つけるのも哀しませるのも嫌だった。
 プロイセンは古く破けてしまいそうな手帳をそっと開いた。

「ひとつ…軍人は忠節を盡すを本分とすべし……およそ生を我國に稟くるもの、誰かは國に報ゆるの心なかるべき」

 ――武士道の徳目とは忠義です。
 あいつらしいな、とプロイセンは小さく笑った。西洋の個人主義を信じられないような思いで受け入れていた。主人と臣下も父と子も、別々の利害を認めることを不思議そうにしていた。愛するものへの自発的な忠義心。それを日本は殊更に大事にしていた。そしてそれがあの誰にも侵せない高い矜持、名誉の規範へと繋がるのだ。
 俺たちからすれば、あいつは死を軽く見ている気がした。けれど、そうではないのだとあいつは言う。
 ――愛する者のために死ねるとすれば、それは何のためだと思いますか。それは天への忠義なのです。
 あの男は確かに弱かった。開かれた世界という中においては。けれど、あの男の国は武士を、戦う者を人の見本とする国であった。主君への忠義が絶対としても良心に背く忠義は非難されたという。佞臣や寵臣は貶しめられたのですよ、とあいつは言っていた。その誠実さはプロイセンが目指したものだった。プロイセンは努力家が好きだ。真っ直ぐで真面目で実直。素朴で清らかな強さ。プロイセンは日本にその姿を見出した。だからこそ、師として慕ってくるあいつに真っ直ぐに応えようと思ったのだ。
 足を一歩踏み出したばかりの日本はその世界で生き残る術を知らないだけで、ただの弱い男ではなかった。西洋諸国より何倍も長く生きてきた老実な国は、ふとした瞬間にその身を表して、何もかも見透かしているのではないかのような瞳を向けてきた。けれど、あの男は真っ直ぐに若輩であるプロイセンを見つめてきた。師匠と慕い、全幅の信頼を向けた。あの深い夜色に惑いや哀しみが浮かぶのを見ては、どうにか癒してやりたいと思った。
 あの日。弱い日本はいらないと彼の部下達が話していたとき、日本の瞳に浮かんだ恐怖が己のそれと似ていた。だから、手を伸ばしてしまった。プロイセンを模ろうとする彼なら受け入れてくれると思った。あいつを抱いた後なら日常に戻ることができた。何もかもプロイセンの勝手な行為だった。けれど、日本はそれを受け入れ、あまつさえ、こんな自分勝手な男に惚れた。
 プロイセンは手帳をめくり、その間に挟まっていた写真を見て目を見開いた。プロイセンと日本が写っている。もう今となっては遠い昔の二人の姿だった。何となしに裏に返すと、日本にしては乱れた、焦って書いたような文字があった。

「Der Kuß……」

 フランスが言っていた言葉だ。

 Der Kuß, der letzte grausam süß, zerschneidend
 Ein herrliches Geflecht verschlungner Minnen.
 口づけ、最後の口づけは身ぶるうばかり甘やかに、
 絡みあう愛のかがやかな網を切り裂いた。

 ゲーテの詩だ。マリーエンバート悲歌。うら若き少女に恋し、失恋した彼の悲嘆と苦悶が窺える長い詩である。その途中の一節だ。プロイセンはその先をどうにか記憶を辿って思い出す。

「Nun eilt, nun stockt der Fuß――

 足はいませわしくもまた行きしぶり、戸口を避ける、
 智天使ケルビムに炎もて追われるごとく。
 眼はうつうつと小径を見据え、
 ふりかえれば、門は閉ざされてある。

 写真に視線を落とす。書き殴られた文字。
 Ist denn die Welt nicht übrig?(世界は消え失せてしまったのか

『お前が日本にとって神さまだとでも言ってるみたいじゃない』
 フランスの言葉が耳鳴りのように響いた。
 Mein Sonnenschein――私の太陽。

「ホントあいつ…馬鹿じゃねえの」

 零れた声は情けないほど震えていた。視界の端に映る可愛らしい花弁が季節外れに咲いている。あの男を思わせる花が狂ったように咲いている。
 プロイセンは唇を噛んで胸中を荒れ狂う感情をどうにか抑えた。プロイセンの手にはもう何もない。昔のようにあいつに与えられる何かなど持ち得ていない。それは日本が弟とその友人と手を取り合ったときもすでにそうだった。そんな俺を太陽だと、そんなことを言うのか。
 あの日。会うのは最後だろうと思った。だからどうしてもその熱を抱きたかった。その温もりを忘れたくなかった。離したくねえ、なんて言葉を飲み込んであの薄い胸に顔を寄せてきつく抱き締めた。じゃあな、と軽く言った。そうしなければ、いつまでもあの場を去ることができないと思った。ギルベルト、と呼んだ日本の声に目の奥が熱くなった。必死に腕を掴み、言葉を紡ごうとする彼の唇を塞いだ。聞いてはいけない。言わせてはいけない。俺はお前を哀しませるだけだから。傷つけるだけだから。いつかお前が本当の幸せを掴むとき、俺が隣にいるはずがない。彼の黒曜から一筋零れた涙が堪らなく切なかった。これが最後の口づけだと思うと中々離すことができなくて。じゃあな、ともう一度言った。日本は一度瞼を閉じ、そして覚悟を決めたような声音で言った。「…ご武運を。プロイセン君」それでいいと思った。日本の強い視線を背に感じながらその場を去った。どうか、彼の行く末に幸多からんことを、と祈りながら。
 プロイセンは震える息を吐き出した。
 閉じ込めてしまいたい。あの男を自分だけのものにして誰にも見られないように。そんな凶暴な感情が渦巻いて咄嗟に首を振る。そんなことをしたいわけじゃない。幸せになってほしかった。それなのに。ああ本当に恋とは儘ならぬものだ。己には不釣り合いな感情にプロイセンは小さく自嘲した。
『いい加減、腹括れよ』
 フランスの言葉が脳裏を掠めて、プロイセンは目を伏せた。