会うのは最後なのかもしれないと思った。身体のあちこちから鈍い痛みが悲鳴を上げている。
 世界の波に飲み込まれ先の見えない濁流の中、友と呼べる人たちが出来た。春の陽射しのように柔らかな空気を纏う彼と、厳格だが心根の優しい彼は、あの人が愛する二人だった。

「強く、なれたのでしょうか」

 日本は煌めく夜空を見上げながら小さく呟いた。必死で追いかけたあの背中はまだこの世界に存在する。歯を見せて笑った彼は「これからは戦友だな」と無邪気に言った。彼を師事していた頃、一夜のあの邂逅から何度か身体を重ねた。表には出せない恐怖を払拭するかのように何度も。気が付けば、憧憬と崇拝だった彼への想いは形を変えていた。この恋情の先に終着点などないように思えた。叶うとか叶わないとかそういうことではなく、この想いは一生消えることがないように思えた。それほどの大きな感情だった。

「日本」

 背後からかかった声にびくりと肩が揺れる。先まで思い描いていた人の登場に動揺したのを落ち着けるために深く息を吐いた。そうして振り返ろうとしたとき、暖かい身体が背後から覆いかぶさってくる。日本が息を呑むと、彼は高い鼻梁を黒髪に寄せ耳に直接吹き込むように呼びなおした。

「きく」
「ッ、」
「本田菊」

 いつかのたどたどしい呼び方ではない。滑らかに紡がれた日本語の発音で彼は名を呼んだ。腹に回った腕にそっと触れると、耳もとの呼吸が微かに乱れた。

「ぎる」
「うん」
「ギルベルト」

 抱き締める腕に力が増す。痛みを感じるほどの強さがどうしようもなく切なかった。
 日本が腕を緩めるよう催促すると、プロイセンはそれに従った。腕の中で振り返る。目が合うと自然と唇が重なった。何度か触れ合うだけの口づけを交わすと、プロイセンがこっちへ来いと日本の手を強引に引っ張った。辿り着いた先のホテルの一室で、部屋に入った途端に互いに待ちきれなかったように唇を合わせた。咥内を探り舌を絡ませ合う最中、菊、きく、と何度も呼ばれる名前に応えるように彼の名を呼んだ。


 簡素な硬いベッドの上、プロイセンはあの頃と同じように日本の胸に顔を埋めていた。身体を重ねたあとは最初のあの夜からこの体勢であることが殆どだった。日本がプロイセンの頭を抱えるように抱き締めると、それに応えるように日本の身体に回った腕に力が込められた。
 日本は熱くなりそうな目をそっと閉じた。この人のすべてを覚えておきたかった。交わした言葉も匂いも体温も感触も、すべて。また会える保障など欠片もなくて、むしろこれが最後である可能性だって――。日本はそんなことはないと頭を振って必死に否定した。


 ぽん、と頭に置かれた手。特徴的な犬歯を見せてプロイセンは笑った。

「じゃあな、日本」

 昨夜の接触など微塵を感じさせないその普段の笑みに日本の胸はきゅっと切なさに疼いた。去っていくプルシアンブルーの背中に咄嗟に手を伸ばした。いつだってこの手はその背に届きはしなかった。何かが詰まったかのように苦しい喉で声を張り上げた。

「ギルベルト君ッ…

 国名ではない名で呼ばれたプロイセンがぴたりと足を止める。日本はプロイセンに駆け寄ってその手を掴んだ。言わなければならないと思った。この想いを伝えなければ。今伝えなければ後悔する。知っておいてほしかった。貴方を慕うものがいることを。

「わたし…私、貴方のことを――

 すべての言葉を紡ぐ前に日本の腕を振り払ったプロイセンが振り向く。そしてその先を言わせないというかのように唇を塞がれた。

――ッ…

 日本が抵抗しようともがくのを押さえつけて咥内に舌が入り込む。抗議を鎮めるように掻き回すそれにより、日本の身体からくたりと力が抜けた。日本が抵抗の術をなくしても唇は合わさったままだった。近距離で合った瞳が切なげに細められる。きっと何もかも見通している。日本の胸中などこの男には筒抜けなのだろう。けれど、言葉にしたかった。だが彼はそれを許してくれない。ならば、この合わせた唇からどうしようもなく重いこの感情が移ってしまえ、と日本は逞しい首に腕を回した。苦しくて哀しくて切なくて頬を雫が伝った。
 どれくらいそうしていたか。ようやく離れた二人の唇の間を銀糸が伝う。それをプロイセンの美しい指が拭う。その感触にさえ日本の身体は震えた。前髪を梳いて現れた額にプロイセンが口づけた。そっとささやかに。

「じゃあな、日本」

 数分前と同じ言葉を彼は言った。その口はもうとは紡いでくれない。
 日本は一度瞼を閉じて、どうにか己の感情を鎮めた。そして気高い椿色をしっかりと見つめて言う。別れの言葉だけは言いたくない。

「…ご武運を。プロイセン君」

 その言葉に彼は不敵に笑った。負けることなどあり得ないと思わせる王者の笑みだった。去っていくプロイセンの背が見えなくなるまで日本はじっと彼の姿を見つめ続けた。脳裏に焼き付けるように。
 どうか、と誰に対してかわからない祈りを何度も胸中で唱えた。奪わないでほしい。この世界からあの人を。爪が皮膚を破るほど強く拳を握り締めて、日本は何度も願った。



***



 身体が重い。未だ完全に治ってはいない身体のあちこちが鈍い痛みを訴えていた。
 そういえば日本はどうなのだろう。アメリカが全ての面倒を見ているため、フランスはその姿を見る機会はあまりなかった。ふいにベッドの上で微動だにしない日本の姿が脳裏を過ぎる。その姿を思い出して背筋を悪寒が駆けた。黒曜石のようだと思っていた煌めきを反射する瞳は闇夜の海の底のように昏く澱んでいた。
 思わず足を止める。は、と小さく息を吐いて苦笑した。あの日本を見て抱いたのは恐怖だった。何の光も宿さない瞳はいつか昔のように輝くのだろうか。正直、あのときはそんな日など二度と来ないのではないかと思ったのだ。あの闇色が己に向くのが恐ろしかった。いっそ罵倒して軽蔑して怒りや哀しみを露わにしてくれたほうがよっぽどよかった。けれど、彼はアメリカに対してすら何も言うことはなかった。
 ふいに聞こえた覚えのある声に思考を遮断して、フランスはその方向へ足を向けた。

「アメリカ こんなとこにいたの。イギリスが探して――
「返してッ…!!

 張り上げられた悲痛さを伴うような声がフランスの言葉を遮る。目に入った光景にフランスは瞠目して口を噤んだ。

「何でだい こんなもの君にはもう必要ないんだぞ」

 ひどく冷たい目でアメリカが日本を見下ろしていた。日本はアメリカの足もとに跪き、縋るようにアメリカの服を掴んでいる。言ってしまえばひどく無様な格好だった。フランスにはその光景が信じられなかった。日本は負けを認めていたが、アメリカに縋るような真似はしなかった。その高い矜恃を折られてなるものかと、傷だらけの身体で凜と立っていたというのに。けれど今の日本はそんな姿の面影もなく、アメリカの足もとで手を伸ばしている。

「…かえして」

 日本が発したとは思えない弱々しい声だった。

「嫌だ。大体なんでこんなもの君がまだ持ってるんだい。君は負けたんだ。君の武器も軍ももうないんだよ」
「……奪っていくのですか、そうやって」
「日本、」

 君は負けたんだ。
 アメリカはもう一度そう繰り返した。言い聞かせるように。

「あのひとまで奪っていくのですか」

(あの人…
 日本はそこで俯いてしまった。アメリカの服を掴んでいた手が力を失ったように床に投げ出される。
 アメリカは嫌そうに眉を寄せて日本を見たが、何も言わず、すたすたと部屋の入口で動けないでいたフランスのもとへ来た。

「後で処分しておいてくれよ」

 そう言って渡されたものを反射的に受け取る。アメリカはフランスの返事も待たずに行ってしまった。
(何これ…手帳
 フランスは思わずアメリカの後を追って振り返ったが、そこにはもう彼の姿はなかった。わざわざフランスに渡して処分してくれと言うのは不自然だ。アメリカがそのまま持っていけばいいものである。戦後の日本のすべてを請け負っているのはアメリカだ。動けない日本を部屋に閉じ込めて、極力誰とも会わせようともしなかったというのに。
 フランスは手の内の手帳をそっと開いた。
(…軍隊手帳か)
 確かにもう日本には必要のないものだ。そもそも国の化身が持つ必要もないはず。軍人の身分証明や履歴を示すものだった。
(なんでこんなもの…)
 返して、と日本は声を張り上げていた。アメリカに縋りついてまで。なぜこれにそこまで執着するのか全くわからない。

「かえしてください」

 聞こえた小さな声にハッとして顔をあげる。日本は先程の体勢のままで、フランスを見てはいなかった。

「かえして、私の――

 私の その先の言葉がわからなかった。日本語ではなかった。フランス語でも、英語でも。
 深い沈黙が降りる中、フランスはどうすればいいのかわからなかった。日本になんと声をかければいいのかも、全く。有り体に言えば怖かった。少しでも間違えれば日本の身体が、心が崩れ去っていくのではないかと思った。そんな弱い男ではないことは知っているけれど。思い知らされたばかりだけれど。それでも、このまま壊れてしまいそうな儚さがあった。部屋の中央でぽつりと座り込んだ今の日本は簡単に瓦解してしまいそうに見えた。
 フランスは自分の手もとに視線を落とす。この手帳を日本に返すことが正しいのだろうか。けれどアメリカは必要ないと取り上げた。そして処分しろとフランスに言った。
(…ごめんね)
 フランスは日本に背を向けて部屋を出た。アメリカに逆らうことが得策とは思えない。それに。
(これを持っていてほしくはないかな…)
 武器を持つ日本を見たくないかと問われればOuiだ。出来得るなら、もう二度と。あんな恐ろしい姿を見たくはない。だから、これは必要ないのだと思いたかった。



 フランスは日本の軍隊手帳をぱらぱらとめくりながら、どこか冷えた空気の廊下を歩く。はらり、と手帳に挟まっていた紙が落ちてしまって慌てて拾った。黄ばみがかった白に文字が書いてある。アルアファベットで綴られた、少しばかり爛れた文字。英語でもなく、勿論フランス語でもなく。
(ドイツ語…
 Der Kuß――キス うーん、さすがに読めないなあ、と思いつつ、その下に書かれた日本語に目を向けた。うっかり日本文化に傾倒していたことがあったせいか多少は読める。日本が書いたのだろう。達筆な文字だが、少し乱れている。焦って書いたかのような文字だった。

「あひ見まく 星は数なく ありながら 人に月なみ 惑いこそすれ」

(で合ってるのかな、これ)
 フランスは意味を考えて眉を寄せたが、手の中の紙の感触に違和感を感じて紙をひっくり返した。

「え…」

 紙は写真だった。フランスが見ていたのは写真の裏だったようだ。フランスは写真に写った被写体に目を丸くする。

「プロイセン…

 写真にはプロイセンと日本が写っていた。似たような軍服に身を包んでいる。恐らくは公式に撮られたものなのだろう。二人とも笑みを浮かべているわけでもなく、凛とした表情で背筋を伸ばしている。
(最初はお兄さんの真似して、フランス式取り入れてたのにね)
 フランスは苦笑しつつ、写真に写る二人の姿を眺めた。そういえば似ているのかもしれない。素朴で真っ直ぐな強さを求めている感じが。
 なぜ手帳にプロイセンの写真を挟み、尚且つこれが奪われることに日本があんなにも抵抗したのか。考えた先の答えにフランスは、まさかね、と己で否定しつつもそれが正解である気がしてならなかった。愛の国の勘はそう言っているが、とにかく写真に書かれた言葉の意味でも知ればその答えはわかるだろう。
 フランスはもう一度写真の二人を見てから、そっと手帳に戻して目を伏せた。後ろに感じた気配に振り返らず口を開く。

「それで これを俺に見せてどうしたいわけよ、おまえは」
「俺はハッピーエンドが好きなんだぞ」

 子どものような拗ねた声音だった。先程、あんなにも冷たい目をしていたとは思えない声。

「……そうだね」

 知ってる、そんなこと。出来得ることなら、誰もが羨むハッピーエンドになることを願うよ。
 けれど、二人は咎人だ。