春の暖かい陽射しのように輝く髪に、澄み渡った青空のような瞳。巡った西洋の国で見た絵画に登場する天使のような愛らしい姿の前で男が跪いた。男は月光のように静かに煌めく髪と、曙光が差したような空の色を含んだ強い情熱を孕んだような赤い瞳を持っていた。幼く小さな手を恭しく取り、頭を垂れる。さながら騎士が忠誠を誓うような姿だった。礼装に身を包んだ彼らはとても美しい。それを遠目に見ている己の不格好な姿は何て見苦しいのだろう。男は見に来いと言った。本に噛り付くだけの日本に見て学ぶことも大事だろう、と。日本は目立たないように会場の隅で静かに佇んでいた。それでも、彼らからすれば子どものように見える東洋人に不審がる視線と侮蔑の視線が何度か投げかけられた。
 新興国の彼が言葉を紡ぐ。幼いけれど、とても凛々しく言葉を放つその姿を数歩後ろで微動だにせず佇む男がじっと見ていた。慈愛に満ちた、どこまでも優しい瞳が向けられている。この場にいる誰もが幼い彼に視線を向けている中、日本はじっと己の師を見つめた。弟を見つめる師の姿を。あれが欲しい。あの強さが欲しい。気高く美しく、たった一人でも凛と立てる強さ。荒れ地に咲いた一輪の花のように勇ましく誇らしい強さ。欲しい。あれが、欲しい。
 そのあまりにも強い視線に気付いたのか、ふいに男と目が合った。強い意志の宿る椿色の瞳が、こちらを見て驚いたように少しだけ見開かれる。とても遠い距離なのにはっきりと視線が絡んだ。千重咲きの気高い椿が朝露に濡れて儚さを増すかのように揺れた瞳を見て、日本は息を呑んだ。男の薄い唇が何か言いたそうに震えている。ぴくりと動いた手が何かを求めるかのように少しだけ持ち上げられたが、すぐに下ろされた。交錯した視線を外せぬまま、互いを見つめる。周りの雑踏が遠くなって男の姿だけが鮮明に見えた。男がゆっくりと瞼を閉ざす。暫しの時を経て開かれた瞼の向こうに見えた瞳は先程の儚さの欠片もなく、いつものように凛と輝いていた。もうその視線は日本に向けられることはなかった。だからきっと勘違いなのだ。まるで、鏡に映った自分のようだと思ったのは。一縷の光さえ見えないような恐怖を抱えた己の瞳に似ているなどと思ったのは、勘違いなのだ。




 身体の内側が沸騰しているかのような気持ち悪さに、思わず呻きそうになって咄嗟に唇を噛む。深呼吸をしようとしてもままならないような状態に息苦しさを感じて、首もとを弛めようとしてやめた。釦を開けるのはみっともないだろう。洋装というものは複雑怪奇だ。こんなに窮屈に身を包まなければならないなんて。
 宛がわれた客室に向かう途中、身体の内側から発する痛みや気持ち悪さに立ち止まると、近くの部屋から聞き慣れた日本語が耳に入った。思わず耳を澄ます。

「これ以上予定を増やしたら祖国の体調に支障をきたします
「構わん。今は一分一秒とて無駄には出来んのだ」
「ですが…
「それに、あの方が変化に耐えきれずとも構わないのではないか
「ッそれは…どういう、」
「新しい国に生まれ変わるかもしれん。我々はもう昔の弱い日本を捨てなければならないのだ」

(……なるほど。弱い日本を捨てる、ですか)
 突然込み上げてきた咳に咄嗟に口もとを手のひらで覆う。ごほ、と無様な音が漏れて手のひらを生温い液体が濡らした。そこを見れば赤い液体が付着している。発熱したように意識が薄れ、ぐらぐらと視界が揺れた。揺れた視界、ぼんやりと見つめた己の小さい手が崩れていくように見えた。そんなもの、ただの錯覚だろうけれど。呼吸が荒くなって世界が回る。ああまずい。そう思ったときには身体が傾いていた。受け身を取らなければとぼんやりした思考で思いつつ、来るだろう痛みを待ち構えていたが、それが訪れることはなかった。

「体調が悪ぃなら、ふらふらしてんじゃねえよ」

 背中に感じた自分より高い体温。少し掠れた声が耳のすぐ傍から聞こえた。抱き留められたのだと理解したときには、背中に当たる高めの体温とは違う、少しばかり冷えた掌が日本の目もとを覆った。冷たい掌によって遮られた視界。その暗闇の中で小さく呟く声が聞こえる。独り言かと思うほど、小さな声。

「見なくていい」

 その言葉に従うように、心地の良い冷たい掌の中で瞼を降ろす。
 自分のものではないかのように重く、思い通りにならない身体がぐいっと引き寄せられた。背中に感じていた体温が日本の身体のすべてを覆い隠すように絡まる。目もとを覆っていた掌が外れたが、もう開くほどの余力すらない瞼が視界を閉ざしたままでいてくれた。

「聞かなくていい」

 先程まで聞こえていた日本の愛し子たちの言い争う声が厚い身体と腕に覆われたことによって、遠ざかっていく。胸もとに寄せた耳から、トクトクと鼓動を刻む音が聞こえた。誰よりも気高く強い男の生きている音がこんなちっぽっけな音なのかと、その儚さが怖ろしく感じた。
 日本にとって、この男だけが光だった。夜の海に投げ出されたかのように何も見えない、どこへ行けばいいのかわからない、そんな絶望に沈みそうな日本の前へ光を与えて道を指し示してくれる唯一の人。目を開けろと言う。この世界で生きていくために。この世のすべてに耳を傾けろと言う。幸せを掴むために。そうしてこの男は世界の理を知らしめるのだ。まるで神のように。何も見えない海の底へ沈んでいくだけの日本の前へ浮木を与える。それに必死にしがみ付く日本を見て無邪気に笑うのだ。よくやった、と。お前の進む道はこっちだと手招きする。その光を辿って歩むのだけれど、日本の耳はずっと捉え続けている。世界の崩壊していく音を。
 けれど男は目を開けろと言った口で見なくていいという。耳を傾けろと言った口で聞かなくていいと言う。嗚呼、本当に狡い男だ。そうやって時には鬼になる。鬼のように闇へ誘い、見なくていい、聞かなくていい、と言って日本の荒んだ心を守るのだ。

「…もう寝ちまえ」

 さらりと髪を梳く感触に身体の力が抜けた。沈んでいく意識の中、抱き留めてくれた腕に一瞬力が入ったように感じたが、それは日本の気のせいだったのかもしれない。



 急激に浮上した意識に目を開ける。見慣れ始めてきた天井と背中に感じる寝台の硬さに自分の居場所を理解した。プロイセンに借りている客室だ。上体を起こす。身体を包んでいた気持ち悪さは今のところ治まっているようだった。体調の悪さから浮上したことで気が抜けていたのか、部屋にある自分以外の気配に気づくのに一瞬遅れた。ハッとして気配の先を向くと、寝台から少し離れた位置に置いた椅子に腰かけたプロイセンの姿があった。

「師匠…」

 驚いて呆然としたまま呟いた言葉の先が浮かばないのは、プロイセンが無表情だったからだ。普段は少年のようにころころ変える端正な顔が喜怒哀楽のどれも浮かべないと、とても怖ろしく感じる。体調を崩した日本をここまで運んでくれたであろうプロイセンに感謝を伝えなければならないのに、どこか張り詰めたような空気に何も言うことができなかった。

――……か」

「え…

 しばらく続いた沈黙のあと、絞り出すような声が聞こえた。その内容は聞き取れていたはずなのに、彼がそんなことを言うなんて思えなくて、思わず聞き返していた。

「…怖いと、思ったことはあるか

 薄暗い部屋の中、煌めいている赤い瞳が揺らめいていた。ああ、勘違いなどではなかったのだ。いつか見たあの儚さは。

「ありますよ」

 当然のことのように答えた。プロイセンが微かに目を見開く。

「何回も…何十回も何百回も思ったことがありますよ」

 はっきりとそう口にした。
 プロイセンが何かを言おうと口を開いたが、そこから言葉が発されることはなかった。きっと今、互いに探り探りなのだ。どこまで踏み込んでいいのか。どこまで、この相手に手を伸ばしていいのだろうか、と。
 あの日。互いの瞳が強く絡んだあのとき。気高いこの男がほんの少しの動揺を見せたとき。そこに儚さを見出したのは間違いではなかったのだろう。恐怖を抱えている。私も、この強く美しい男も。
 プロイセンは何も言わない。物音一つしない沈黙の中、日本は寝台から足を下ろし、じっとその姿を見つめた。やはり気高い椿は露に濡れている。よく見なければわからないけれど、その瞳が微かに揺れるのを確かに見た。

「…人を…ヒトを羨んだことはありますか

 赤紫がゆっくりと瞬く。返事を待たずに続けた。

「命を懸けるとか、生涯を捧げるとか……そんなね…そんな言葉を言えるヒトというものが私は羨ましいと思うのです」
「……それは遠回しの自殺願望か

 日本は目を丸くして瞬いた。そんな風に思ったことがあったわけではないはずなのに、どうしてかプロイセンの言葉がすとんと胸に落ちた。

「…そうですか…、そうですね。あるいはそう思っていたのかもしれません」

 気の狂うほどの長い長い歳月。幼い頃はきっと、もっと明るく見えていた。この世界は。
 プロイセンが眉を寄せた。ひどく冷たい視線が投げかけられる。彼の求める答えではなかったのだろう。日本はもしやと眉をひそめた。怖いと思ったことはあるかと聞いたプロイセンが何を望んで日本のもとへ来たのかわかってしまった。日本は言葉を選んで慎重に紡いだ。

「さっき…貴方が抱き留めてくれた直前。弱い日本はいらないと聞いて、己の手が崩れていくように見えました」

 プロイセンが息を呑む音が聞こえた。

「そのとき思ったのです。怖い、と。消えてしまうのがとても怖ろしいと」

 ぴくりと動いたプロイセンの指先が何かを求めるように空を彷徨う。日本は寝台を下りて、プロイセンが座る椅子の前へ立った。
 プロイセンの指先が日本の手に触れた。羽が触れるようにささやかに。そっと指先を絡ませた。繋ぐ、なんてものではない。ちょっと動いてしまえばすぐに離れてしまうくらいの弱さで触れた。

「…日本」
「はい」
「俺は…」
「はい」
「…俺、は」

 普段の強気な彼とは思えない弱々しい声。
 プロイセンのもう一方の手が助けを求めるように揺らめいた。日本はプロイセンの頭を抱えるように胸に引き寄せる。何も見えないように。色を失う世界を見ないように。何も聞こえないように。世界の崩壊する音が聞こえないように。

「こんなふうに思いたいわけじゃねえ」

 くぐもった声が小さく紡がれる。

「あいつを…ヴェストをこの腕に抱いたとき、世界一幸せだと思った」
「…はい」
「なのに俺…」

 そこでプロイセンは言葉を詰まらせて口を閉ざしてしまった。
 日本は幼いドイツの前で跪くプロイセンの姿を思い出した。ドイツ民族の悲願、それを達成したのは確かにプロイセンだったが、彼は国の化身としての存在を手放したようなものであった。
 嫌だ、と迷い子のような声が聞こえた。最低だ、と己を罵る声。プロイセンは死に対する恐怖を抱いてしまうのが嫌なのだ。愛する弟を祝福したいのに、それに反するような恐怖を抱いてしまうことが嫌なのだ。
 日本はぎゅっと腕に力を込めた。

「私たちはヒトと同じ身体を持っています。構造も同じ。中身に詰まっているのも同じなのでしょう。…だから、」

 背に縋りつく手に力が入る。日本の言葉に期待するかのように。

「だから、死を恐れることは当然のことではないでしょうか ヒトの持つ心を私たちも持っているのですから」

 ヒトはとかく死を恐れる。だから強い信仰でその恐怖を和らげるのだ。必ず訪れる往生を覚悟して。
 プロイセンが小さく吐く息が日本の胸もとを擽る。刃のような煌めきを持つ髪にそっと触れた。ぴくりと腕の中の身体が動いたが、やめろとは言われないことをいいことに、その柔らかい感触を撫でた。

「私好みの触り心地です」

 いつか、「褒めてやるぜー」とぐしゃぐしゃに日本の頭を撫で回したプロイセンが言っていた言葉を真似て呟く。

「…俺様の言い方真似すんな」

 拗ねた子どものような言い方にふふ、と笑みを零せば、背に回った腕が咎めるように強くなった。密着したそのままの状態でプロイセンが仰ぐように顔をあげる。日本が下を向けば、かなりの近さで視線が合った。その奇妙な体勢とあまりの近さにきょとんとした互いの顔が面白くて同時に吹き出す。いつものように独特な笑い声をあげるのではなく、くつくつと喉を鳴らして笑ったプロイセンは「よっ」と声を出して、日本の身体を持ち上げた。

「わっ、」

 そのままプロイセンの膝の上に乗せられてしまった。

「何なんですか…」
「…軽ぃ」
「余計なお世話です」

 拗ねた声音になってしまった日本にプロイセンは可笑しそうに笑った。

「日本」

 プロイセンの手が首筋に触れる。冷たい手の感触に驚いて身体を揺らすと、上目遣いの赤が昏く澱んだ気がした。プロイセンが日本の瞳を捉えて笑った。それはいつものような不敵な笑みだったのだろうか。日本には捕食者を捕えた鬼の表情にも見えた。

「ッ…

 首筋に鋭い痛みが走る。歯を立てられたのだ、がぶりと。生温い雫が伝う感触がした。食い千切られるのではないかと思うほどの強さで噛み付いた男は、真っ赤な舌でそれを舐めている。日本の身体が逃げをうつように動くと、長い腕で拘束された。

「にほん」

 妖のような気配を身に纏うくせに、迷子の子どもが呼びかけるかのような声で言う。

「堕ちてこいよ、ここまで」

 日本は瞠目して、プロイセンを見下ろした。

「…可笑しなことを言いますね」
「あ
「堕ちるのは貴方のほうでしょう」

 プロイセンが不思議そうな顔をした。その白磁の頬を撫でながら言う。

「強くて美しくて気高くて高潔で清いお人」

 きょとんと目を丸くしたプロイセンがさも可笑しいというように笑い声をあげた。

「おまえ変」
「失礼ですね」
「そんなこと言われたの初めてだ。…やっぱ奪っときゃよかった」
「何をです
「北海道」
「やめてください」
「だってよ、そうしたらもっと…」

 もっと。それに続く言葉は何だろう。プロイセンは「…いや」と緩く首を振って、人の悪そうな笑みで可笑しなことを言う。

「何も考えたくねえ」

 裾から入り込んだ手が日本の素肌を擽った。快感を引き出そうとする手の動きにその意図に気付いて、一瞬の間を置いてプロイセンを見る。彼は力無く笑った。その笑みに動揺して日本が身じろぐと、二人分の体重を支えている椅子がミシ、と嫌な音を立てる。ああ、消えない。世界の崩壊音が耳鳴りのように消えてくれない。そう日本が思ったのと同じタイミングで何も聞きたくねえ、と吐き捨てるような掠れた声が聞こえた。不思議だった。自棄になったかのような言葉をこの男が吐くことが。そしてどこかで歓喜していた。この男と似たような感情を抱いていることに。
 互いに思ったことはきっと同じだったのだろう。このどうしようもない世界に目をそむけて、無様にも慰め合おうと手を伸ばした。たとえそれが一時のことだとわかっていても。たまたまそこにいた都合の良い相手に手を伸ばしただけのことだとしても。けれどそんなどうしようもない邂逅をヒトは運命と名付けたりする。国と国の場合はどう呼ぶのだろう。先の見えない深い海の底、手探りで引き寄せた相手は日本にとっては未来そのものだったのに。その男の未来は崖の際で立っているようなものだった。全くもってひどい世界だ。
 ぎゅ、と首に回した手に力を込める。目の奥が熱くなっていくことを隠すように白金に顔を埋めたが、見えていないはずのプロイセンはなぜか「泣いてんの」と問うてきた。

「…まさか」
「へえ。顔見せろ」
「何ですか」

 男らしく、けれど美しい親指が日本の目もとを少し荒々しく擦った。

「泣いてませんでしょう

 そこは乾いている。雫の一筋も零れていないはずだ。
 プロイセンが目もとへと唇を落とした。ないはずの涙を拭うかのように。

「なあ」
「…はい」
「キスはしてもいいのか

 する、と指先が唇を撫でる。ふ、と思わず漏らしてしまった笑みにその指がぴたりと止まった。

「そんなことを聞かれるとは思いませんでした」
「あー…一応確認しないとダメかと思ったんだよ。…おい、笑うな」

 クスクスと笑うと、む、と不満げな顔で睨んでくる。

「これから口吸い以上のことをなさるのでしょう
「そりゃそうだけどよ」
「もういいです」
「何だよ
「好きにしてください」
「…おまえ、すげえこと言うのな」
「お嫌ですか
「いんや。めちゃくちゃ興奮する」
「ん」

 がぶりと唇を覆われる。食べられてしまうのではないかと言うほどに咥内が荒らされる。彼の熱い舌が絡んでくるのに必死に応えた。心地の良い熱が頭を身体を包み込んでいく。

「ふ、ぁ…んんッ

 呼吸のため一時離れた唇が言葉もなく再び吸い付いてくる。漏れてしまう甘い息に塞いでくる唇が弧を描いた。送り込まれる唾液をこくりと飲めば、よしよしと褒めるように頭を撫でられる。師として追う男に褒められるのは嬉しい。たとえそれがこんなことだろうとも。思わず、ふ、と笑みを零せば、一瞬きょとんとした赤紫が間近で瞬いて可笑しそうに撓む。ようやく離された唇から零れた唾液を美しい指先が掬い取って、己の口に運んだ。よくもそんな恥ずかしいことを、と思うのだが、この男がやると様になるものだから思わず頬が熱くなった。

「なに赤くなってんだよ」

 揶揄するように言われ顔を背けようとしたが、がっしりと顔を固定される。

「見ないでください」
「やだ」
「爺のこんな顔見て楽しいですか」
「うん」

 その子どもような返事が意外で言葉に詰まる。

「面白え。普段の能面みてーな顔が変わってくのって、おまえを一つ一つ征服してくみてえで愉しい」
「んッ…悪趣味ですね」

 裾から入れた手で素肌の背を撫でつつ、首筋をがぶがぶ噛む男を睨む。にぃ、と人の悪そうな笑みを向けられた。

「噛み付くくらいの勢いじゃねえとダメだって俺様言っただろ 嫌だっつーなら、おししょーさまの言う通り噛み付いてこいよ」

 つんつんと、日本の拗ねた頬をつついてくる指先が挑発しているかのようだった。さも愉快だとでも言いたげに弧を描く唇に歯を立てる。くつくつと喉の奥で笑われただけで何のダメージも与えていないことが何となく嫌だった。
 揶揄する赤い瞳が欲を孕んで爛々と輝く様が美しくて、気が付けばその瞳に唇を寄せていた。それを舐めようと舌を伸ばすと、日本の行動に驚いたプロイセンが一瞬固まる。その隙に顔を固定してべろりと瞳を舐めた。

「ッ…」
「甘いかと思ったのですが味はしませんね」
「…そりゃそうだろ。ったく、おまえは」
「何です」
「やることがおかしいだろ。まさか眼球舐められるとは思わなかったぜ」
「ふふ」
「ヘンタイ」
「さっきから人を変だとかおかしいとか変態だとか、失礼ですね」
「事実だろ」

 ゆらゆらと身体を揺らしてプロイセンが愉しげに笑う。揺らさないでください、と一応抗議はするが、それは呆気なく却下されてされるがままだった。

「っ、そんなにあちこち噛まないでください」
「やーだ。俺様のやりたいようにやらせろ」
「横暴…ッい、」

 それはもうがりがりと噛まれる。首筋、肩、腕、指と歯を立てられる上にその力の加減のなさは酷い。身体のあちこちがじんじんと鈍い痛みを発していた。腕を掴んで夢中でがぶがぶと噛み付いてくるのに抵抗して、腕を引っ込める。

「あ、ばか、動かすな」
「痛いんですよ」
「我慢しろ。そのうち気持ちよくなってくるって」
「なりません

 日本の腕の引っ張り合いのような状態になって、互いに「あ」と声を漏らしたときにはバランスを崩していた。座っているプロイセンとその腿に乗っていた日本二人の体重を支えていた椅子が、二人が大きく動いたことで支点がずれて傾いた。バタンッ、と大きな音を立てつつ倒れた椅子共々、床に倒れ込む。倒れた状態で互いの驚いた顔が間近にあった二人は、ほぼ同時に吹き出した。

「ふふふ、何をやっているのでしょうねえ」
「ケセセセ 間抜け面だったぜ、おまえ」
「貴方もですよ」

 子どものような失態とやり取りをしていると、プロイセンが日本の前髪を撫でつけるように梳く。そのまま身体に腕を回して腹筋の力で起き上がった。

「捕まってろよ」
「え」

 膝裏に手が回ったかと思ったら、そのまま抱き上げられる。咄嗟に首に腕を絡めて不安定な姿勢を支えた。所謂お姫様抱っこ状態なのがどうにも恥ずかしい。逞しい腕は日本をそのまま寝台へと運んだ。ぼふ、と些か乱暴に放り投げられた。すぐに覆いかぶさってきた男に文句でも言おうと口を開いたとき、遮るようにプロイセンが言う。

「なまえ」
「…
「名前教えろ」

 それが一個人としてのものを教えろと言っているのは勿論わかった。これからの行為に国の名で呼ぶのも、呼ばれるのも嫌なのだろう。それは日本も同じだった。忘れたいからこその行為なのだ。何も考えなくていいように、先のような中身なんてない子どものような戯れもそのためだったのだろう。

「…菊。本田菊です」
「キク

 慣れない発音で呼ばれる己の名前にドクンと鼓動が跳ねた。

「はい。…貴方は」
「ギルベルト・バイルシュミット」
「…ぎる
「おう」
「ギルベルト」

 確かめるように呼ぶと、少し気恥ずかしそうにしていた彼が、まるで厳しい冬が明け春でも訪れたかのように目を輝かせて笑った。その笑みに嫌に五月蠅く刻み始めた鼓動が彼にばれないようにと願う。
 こつんと額を合わせたプロイセンがひどく嬉しげに名前を呼ぶ。

「キク」

 はい、と答えれば満足そうに瞳が細められた。

「呼んで」
「ギル」
「うん」

 よく出来ましたというかのように熱い唇が触れてくるのに期待して、そっと瞼を閉じた。