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冷たい空気が頬を撫でる。見慣れたはずの街はどこか寂寥の様子を見せていた。…いや、それは己の心がそう見せているだけに過ぎないのかもしれない。幾万もの人が発するのは不安か期待か、どちらが大きいのか自分には全くわからなかった。この風景もきっとすぐに変わってしまうのだということに気付いていて、知らない振りをする。そうしなければ、この足は進むことをやめてしまう気がした。
角を曲がったその先に見えた銀糸に足を止めた。すらりとした、けれど肉付きのいい身体が凛と立っている。不安など微塵も浮かばない精悍な顔つき。刃の煌めきに似た髪と、千重咲きの赤い椿のように気高い瞳。けれども、それほどの美しく鮮やかな色をもっているのに決して豪奢さは感じさせない素朴さを身に纏う。
ああこれか、と胸中が騒めいた。きっとこの男は私が求める強さを持っている。
「…普魯西殿」
消え入りそうな小さな声に振り返った男の瞳が空の色を含んでいた。今日の夕焼けは赤くない。空の青と宇宙の黒と太陽の赤が混ざって、紫がかって街を包み込んでいた。今にも沈もうとしている太陽が低く薄い雲の隙間を照らす。もうじき逢う魔時となる。夜目の利く瞳はしかとその姿を映し出していた。そこにいるのは神か鬼か。
連れていってほしい、彼の岸へ。そんなことが頭に浮かんでようやっと己の心を理解した。井戸の底で見た小さな空で満足だったのだ、と。狭い世界でよかったのに、と。
「日本国。条約の件は定まったか?」
「ええ。もうじき」
「そうか」
世界の崩壊する音がずっと響いている。耳鳴りのように鳴り響いている。
「これからよろしくな」
差し出された手を取る。己のちっぽけなそれはいとも容易く包み込まれた。
圧倒的な不平等の上に成り立った関係なのに、男はさも親しい友人に見せるような無邪気な笑みを浮かべた。鬼はそうやって誘い込むのだろうか、大禍の世界へと。目の前の男が鬼ならば、連れていってほしいと思う。何も見なくて済む闇の中へ。世界の崩壊する音の聞こえない場所へ。
けれど、目の前の男を包む空気はどこまでも清らかで澄んでいた。嗚呼、鬼ではなく神のほうか。この繋がれた手から祟られていくのだろうか。そんなことをぼんやり思った。
1861年。海界へと足を踏み出そうとする日本の瞳には一縷の光さえ見えはしなかった。
155年目の告白
「……祟りとは言い得て妙ですね」
何となしに見たカレンダーのある数字――24に自然と目がいってしまったことに苦笑しつつ、小さく呟いた。もう思い出さずともよいだろうに。脳裏に鮮明に浮かぶのは己の心情のせいである。あのときはこんな気持ちを抱くことになるなんて思ってもいなかったというのに。
「…今、何か言った?」
炬燵を挟んだ向こうから発された声に「いえ、何も」と返す。そう、とさほどこちらの言葉を聞いていないかのような曖昧な相槌のあと、「うーん…」と唸るようは声が聞こえた。
「フランスさん? どうかされましたか?」
日本と会話していたのは、炬燵に潜り込んで俯せで漫画を読んでいたフランスだった。
空になっていた湯呑みにお茶を注ぎながらそう聞けば、緩慢な動作で起き上がったフランスが「メルシー」と言って湯呑みを受け取る。
「思ったんだけどさ」
「はい」
「日本の子って愛してるって言わないよね」
「はい…?」
フランスはとんとんと片手に持った漫画を叩いてそう言った。その手にあるのは少女漫画だ。確かにフランスの手にしている少女漫画の登場人物は愛してるとは言わない。では、他の作品ではどうだろう。思い出そうとするが、今一頭に浮かばなかった。
ふと思い出す。この間何となしに点けていたテレビ番組で、日本の男は愛の言葉が足りないとタレントの女性たちが騒いでいた気がする。欧米人のようにもっと愛情表現するべき、と。けれど、好きだと言うのと愛してると言うのにはかなり距離があるように思う。それこそ少女漫画とか二次元ならそのハードルは低い気もするが、現実ではなかなか…そう思ったところで苦笑した。そもそも自分には現実の恋愛事情など知り得るはずもないのだ。
「おいそれと口に出すにはハードルが高い言葉だと思いますよ。愛してるは」
「えー、そう?」
理解できないとばかりの顔に苦笑する。
「あなたの国と比べないでくださいよ。我が国は察する文化なのです」
「わかってるけどさ。でも、お兄さんはやっぱり愛情表現は惜しまないのがいいと思うわけよ。Je t’aimeは家族にも恋人にもよく言うべきでしょ」
「我が国ではじゅてーむは多用しません」
「確かに日本の子たちは慎ましいのかもしれないけど、恋人同士なら言うんじゃない?」
「若い子はもしかしたら言うのかもしれませんが…愛してるなど、よっぽどのこと…結婚を申し込むとかそういうときくらいなものではないでしょうか」
「えー、そうなの?」
そんなに言わないものかあ、とフランスは何か思い出すような表情をする。
「突然何を言いだすかと思いましたが、日本人の恋人でも出来たのですか」
くす、と笑みを零しながら聞けば、フランスは目を丸くしてから首を振った。
「いやいや違う違う。この間さ、ドイツでの仕事帰りにとあるカップルに遭遇したのよ」
フランスはその様子を思い出したのか、少し目を細めて話を続ける。
「ただ普通のカップルだったんだけど、仲睦まじくしてる様子を何となしに見てたわけ。男が愛おしそうな目で女の子に言ったんだよね。愛してるって。あー…Ich liebe dichってやつ。そしたら、女の子の目がカってなって急に怒り出したのよ。ええーどういうこと? とか思って様子見てたら、女の子が「そんな気安く口にしないで!」って」
「気安く、ですか」
「うん。そんな感じで言ってるふうではなかったからあの男の子かわいそーとか思って。愛の言葉を言った分だけ気持ちが大きいとは思わないのかね」
「何度も言われたら軽いと感じる人もいるのではないですか? その女性はそれなりの覚悟をもって言ってほしかったのではないでしょうか」
フランスは目を見張ってから、クスクスと笑い出した。それをきょとんと眺めると、そっかとうんうん頷かれる。
「やっぱ似てるよね、おまえら」
「はい?」
「さっきの話、ぷーちゃんにもしたのよ。いくらドイツ人が堅物だからって恋人のこと宝物とか呼んじゃうほどなのに、愛してるはおいそれと口にしちゃダメとかどういうことだよって。そしたらあいつ、てめえの軽々しさと一緒にすんじゃねえとか言って…失礼だよね、ホント。お兄さんの愛は全部本気なのに。で、あいつが言うには深く長く付き合って、そいつとずっと一緒にいるって覚悟を決めてやっと口にするもんだろってさ。なんていうか、清いっていうか清廉潔白っていうか…まあ何か重い気もしなくもないけど。それ聞いて日本も同じようなこと言いそーって思ったんだよね。お兄さん、前からおまえらのこと似てるなって思ってたのよ。誰も賛同してくれなかったけど」
そうですか、と返しながらも心中は穏やかではなかった。フランスがその話をした理由は何だろう。ただ単にプロイセンと日本が似ているからなんてことではないのだ、きっと。
菫色の美しい瞳が意味ありげに日本を見つめる。その視線から逃れるように、動揺などしていない振りをしてお茶を一口含んだ。喉を通ったそれはすでに冷めていて、やけに苦く感じた。
「プロイセンくんに愛を囁かれる方は幸せですね」
口から出た言葉は、感情など籠っていないかのような声音だった。
きっと。きっとあの人が誰かに愛を囁くことはないのだ。とても優しい人だから。とても強い人だから。哀しませる未来を与えないようにと。
「…ねえ」
フランスが随分と静かな声で呼びかけた。この男はどこまで知っているのだろうか。日本とプロイセンの関係を。あるいは、日本の胸中を。
「祟りだなんて言わないでよ」
ああ、ばれている。
「その気持ち、大事にしなきゃだめだよ」
「…百年以上も続く祟りです。そろそろ解放されたいのですけど」
もう苦しくて辛くて仕方がないのだけれど。
努めて軽い口調で言った日本にフランスも同じように何てことのないような口調で、けれど残酷な言葉を突き付けた。
「諦めなよ」
この感情から解放されることなんてないのだと、フランスは日本に知らしめる。
そんなことは知っていた。何度も足掻いたのだ。この気持ちから逃れようと、何度も何度も。けれどそれは決して消えることなく、日本の望みとは裏腹に好き勝手に肥大していった。
あの人を愛してしまった。それに連なる事象は祟りのように日本を苦しめ続けている。けれど、それは罰なんかではないのだと、この慕情は罪なんかではないのだと、愛の国は宣うのだ。
眼前の美しい菫色に映る己の醜い顔を見ながら、この男のように友人でいられたらよかったのに、と思う。あるいは、あの人が過去とならない世界なら、と。
これだから嫌いなのだと、もう何度目かしれない感情を抱く。これっぽっちも思い通りにならない世界に、お前など嫌いだと厭味ったらしく吐き捨てた。