TOP > APH > Gilbert x Kiku > Short > Erben > 03
「――それで、ふいに思い出しちゃったんだよねえ。鮮血みたいに真っ赤な紅をひいた唇が可愛らしい声で囁くんだよ。黒檀みたいな髪と白粉の塗られた雪みたいな襟足の対比が眩しくてさー…あの子の名前なんだったっけなあ…」
「黒檀の髪、血ぃみたいな唇、雪のように白い肌って…白雪姫みたいやないか」
「そうそう、まさしくそんな感じ! でもあそこは、一度身を沈めたら二度と這いあがれない籠の中……一時でも慰めてあげられたのかなぁ、俺」
「誰もお前に慰められとうなかったんちゃう?」
「はあ!? なんでよ! お兄さんに愛されるんだから大満足に決まってるでしょ!」
日本は一歩踏み出した足が戻りたいと願うのを抑えて、店の中へ入った。世界会議後の懇親会に、今日中に処理しておかなければならない仕事を終わらせてから遅れて出席した日本は、見渡す限り結構な酩酊状態の国々の合間に入るのが躊躇われ、気づかれぬようにカウンターの端に向かった。
「で、お前らはそんな経験ないの? ぷーちゃんは…あ、ないか」
「あ?」
「ないない」
「俺様はおっぱいでかい女がいい」
「何の話だよ!」
「全然ひとの話聞いてへんやん!」
「てめぇにだけは言われたくねーっての!」
「確かに!」
酒が進んでいるからか、大きい笑声が店内に響いている。見知った三人が下世話な話題で盛り上がるのを、ちらと見やった日本はその内の一人に視線を止めた。
(そういえば、珍しく会議に出席していましたね)
その姿を見たのは久方ぶりだった。最早地名ですらもなくなった男が弟の補佐として世界会議に出席することは少ない。仕事で会わなければ、他の用で会うことも特になかった。
――俺様は今、歴史的瞬間に立ち会っていると思っていいのか。
ふいに蘇った過ぎ来し方の情調に、小さく微笑う。
(懐かしいですね…)
もう随分と前のことだ。
日本は周囲を見渡す。多くの国々がだらしのない顔でどんちゃん騒ぎだ。あれから様々なことがあったが、世界は大分平和になっていた。かつて師と仰いだ男も、日本の憂心に反してその鼓動を刻み続けている。
――等価交換…とまではいかねぇかもしんねーけど、お前にはいいもん貰ったからな。
だが、あの言葉の真意を日本は未だ知り得ていなかった。
「つーか、ぷーちゃんは行ったことあんの?」
「どこにだよ」
「娼館」
「はあ?」
「あらへんに一票」
「お兄さんも」
「俺様も」
「お前もかい! って、やっぱないの!?」
「あるわけねぇだろ、気持ち悪ぃ」
「気持ち悪いっておまえ…」
「潔癖なん?」
「生まれからしてわからなくもないけど…まさか未だに律儀に掟守ってるわけ?」
「いんや? 単純に好きでもねぇ奴とはしたくないだけだ」
「ッ、…!」
日本は思わず手にしていたグラスを落とした。ガシャンッ…! という派手な音に六つの眼が音の出処を一斉に見る。
「あっ…いえ……すみません」
咄嗟に浮かべた愛想笑いのまま謝罪して日本はグラスを拾った。決して聞き耳を立てていたわけではないが、耳に入ってきた言葉に動揺してしまった。
決して忘れることのない過去の情景が鮮明に蘇って慌てて気を逸らす。そっと窺い見たプラチナブロンドの男は、普段と何ひとつ変わらない表情をしていて安堵した。
そういえば、あの日の謝罪は未遂のまま流れてしまったのだ。先の話を聞いてしまった今となっては、すぐにでも土下座しなければと思った。望まぬ行為を、無体を、強いたのだから。だが、当事者であるはずの男は、日本が話を聞いていたかもしれない今の状態でも特に変わった様子はない。もしかしたら、もう忘れているのかもしれない。あるいは、忘れたことにしているのかもしれない。それはそうだろう。何十年も昔の嫌な出来事など。
「あれ? 日本、来てたんだ」
「全然気づかんかったわ」
目を丸くしていたフランスが、ふいに思い出したように日本に近づき、顔を覗き込んだ。
「さっき話してたんだけどさ」
「……はい?」
「吉原」
「は…?」
「で、会った子のこと思い出してたんだよねえ…声とか肌の感触とか赤の映える場景とか、結構思い出せるのに、あの子の顔や名前は全然思い出せなくてさー」
「はあ…」
それを私に話されても困る、と日本は零してしまったグラスの中身を拭きつつ、話を続けるフランスに適当に相槌を打った。
それに今はそれどころではなかった。かつてしでかしてしまった己の罪が深いものと偶然知ってしまった。あのときは、これが望んでいたことだったのに。少しでも彼を壊せるのなら。傷つけられるのなら、と。
(……最低ですね…)
日本は咄嗟に胸の辺りを押さえた。ズキン、と軋むような音を立てている気がする。これは、増殖していく罪悪感だろうか。
「――ってことは、お前は行かなかったわけか、吉原。あの現実離れした世界を見なかったなんて勿体ないねえ」
フランスがビールを呷るプロイセンに言った。
「ぷーちゃん行ったら、怖がられるだけちゃう」
「あー確かに」
フランスもスペインも頬が赤い。結構な量を呑んでいるのだろう。対して、プロイセンは意識がはっきりあるようで楽しげな二人とは裏腹に嫌そうに眉を寄せて、呆れの溜め息を吐き出していた。
日本としては、早くこの話題から解放されたかった。遊女との一夜の戯れと自分のあの行為は決して一致するはずもないが、致した行為だけを取れば一緒だろう。そこに戯れでも互いの間に情などは一欠けらもなかったにしても、プロイセンの前では少しも触れたくない話題だった。
「つーか、プロイセンさー…そういうとこ行かないってことはどうやって発散してたわけ? 恋人がい続けたとか言わないよね」
「ないない。ぷーちゃんは女の子に好かれるような男ちゃうもん」
「……てめぇら」
青筋を立てたプロイセンから日本は顔を逸らした。面倒に巻き込まれたくはない。しかし、騒ぎが大きくなることはなく、プロイセンはすぐに怒りを呆れに変えたようだった。深く溜め息を吐き、続ける。
「俺様はお前らみてぇに下半身思考じゃねーんだよ。あんなもん好いた相手以外と簡単にできるほうがどうかしてんだろ」
「……はー、おまえってほんと…」
「なんだよ」
「剣振り回しとったくせに、何でそんなふうに育つん? 意味わからんわ」
「じゃあ、好いた相手とならできるわけっしょ? そのへんどうなの」
「どうって」
「いつ! どこで! どんな子としたの!」
「随分と明け透けだな、おい」
「だあって、気になるじゃん? お前に恋人の影なんてずっとなさそうだしさー」
「ってか、好きな子おるん? まだそういう子と出会ってすらないとかいうオチやろ」
「えっ…まじか。あり得るわ。ってことは初体験もまだ――」
「そろそろ本気で殴んぞ」
「すみませんでしたぁ…でもほんとどうなのよ? お兄さんはお前のこと心配してんの。色恋も知らないような可哀想な子に育ってないか」
「でも、本当のことなんか? プロイセン」
「あ?」
「いくらぷーちゃんかて、長く生きとったら儘ならないこともあるやろ? 好きな子ぉだけとーなんて、乙女みたいなことありえへんちゃう?」
「乙女って、おまえww」
「はあ? 何言ってんだ。お前らと一緒にすんなよ」
三度目の深い溜め息のあと、プロイセンが続けた言葉に日本は丁度のタイミングで口にした酒に盛大に噎せた。
「俺様は今まで好きな奴としかしてねぇっての」
ごほっ、と大きく肩を揺らして急に噎せ始めた日本の背をフランスが慌てて摩る。
「ちょっと日本、どしたの。大丈夫?」
「ッ、だ、大丈夫です…」
はは、と乾いた愛想笑いを浮かべてフランスを見たとき、その奥にいたプロイセンとばちりと目が合った。日本は慌てて顔を逸らす。耳が急激に熱くなってきているのが恥ずかしい。ただの早とちりだ。プロイセンの言葉が示した中に、日本とのことなどカウントされてはいないだろう。
「日本も驚いたんやろ。プロイセンがこんなナリで似合わないこと言うもんやから」
「ほんっと、こいつが純情かましてるとなると衝撃だよねえ」
「うっせぇな。俺様は好きな奴に操を捧げたいタイプなんだよ」
「ぶっはwww」
「ちょwwこれ以上笑わせんといてwww」
腹を抱えて笑っているフランスとスペインの傍で、日本は引き攣った笑みでいた。プロイセンは笑われているのにも関わらず、「ふふん」となぜか得意げな顔をして、日本に対するさらなる爆弾を落とす。
「俺様は好きな奴を想ってちゃんと貞節守ってんぜ」
プロイセンの紅血のような瞳が、照明の下で爛々と妖しい光を湛えて日本を真っ直ぐに見た。
「あの日から、ずっと」
すぅっと細まった双眸が蛇が獲物を捕らえるような獰猛さで日本に絡まる。
「なあ? 日本」
「ッ…!」
息を呑んだ日本が頭で理解するより先に、プロイセンが席を立った。「酔いが回ったから先にホテル戻るわ」と残りのビールを呷り大きな音を立ててグラスを置いた彼は、そのまま出口へと足を向けた。
「え、なに、日本何か知ってんの!?」「教えてや!」と騒ぎ立てるフランスとスペインの声は、日本の耳には入ってこない。去っていく背を、日本はいつかの日と同じように呆然と見つめていた。
『……たの、しい…っ、です、か…』
見上げた先、圧倒的な力の差を見せつけるが如く己を組み敷く男は、頑是ない子どものような顔で笑っていた。無垢なその笑みに逆上して忌々しく吐き捨てた問いに、男は答えた。
『ああ、最高だぜ』
他者を蹂躙することに愉悦を覚えているのだと頭に血が昇り、彼の首へ手をかけたのだった。けれどもし、あの笑みが、あの言葉の真意が違ったのだとしたら――。
『今日の訓練は変更なく行う。お願いをしてきたのはお前なんだから、這い蹲ってでも来いよ』
『そしてやがて、世界の主役はギリシャからローマへ替わり、彼の偉大なローマ帝国へと繋がる』
『俺様は今、歴史的瞬間に立ち会っていると思っていいのか』
『まだ惨めだと思うか』
『俺様には偉業を成し遂げようとしているふうにしか見えなかったんだけどな』
幾年月も経ている過去の情景がありありと瞼の裏に蘇る。
『等価交換…とまではいかねぇかもしんねーけど、お前にはいいもん貰ったからな』
彼は自分の胸もとに手を置いて、そう言った。その掌の下にあるものは。心臓だ。そこにあるのは――心だ。
『お前のその手の中にある文明を開化させろ。世界中に届くくらいでっかく』
『ケセセセ! やってみせろよ、大日本帝国殿!』
何ひとつ忘れてなどいなかった。日本は一言一句彼の言葉を覚えていた。こうして鮮明に思い出せるほどに。
日本はぎゅっと拳を握り締めた。もしあの頃、教えを請いにいった先が彼のもとでなかったのなら、どうなっていたのだろう。歴史が大きく変わっていただなんて思っているわけじゃない。そもそも教えを願ったのは彼の国だけではないのだから。
けれど、あのひとのもとへ行かなかったら、あんなにも前向きな気持ちで歩みを進めることは出来なかったかもしれない。もっと自棄になって世界を恨んでいたのではないだろうか。決して優しく接せられたわけではないけれど、あの剣胼胝と傷に塗れた大きな手は、飛び上がるほど強い力で日本の背を押してくれた。何度も、何度も。止まろうとする足を押し出すほど力強く。
日本は堪らなくなって駆け出した。追いつきたいと、追い越すのだと誓った背を追って。
夜の冷たい外気が剥き出しの肌を刺す。ぼんやり浮かんだ月明かりの下、見えた背中に日本は声を張り上げた。
「プロイセン君っ…!」
走った余韻に荒く乱れる呼気の中、それでも大きく響いた声にプロイセンの足がぴたりと止まる。ゆっくりと振り返ったその表情を見て、日本は泣きたいような気持ちになった。
不安も憂事も、辛苦も困難も、悲哀さえ浮かぶところを見たことのなかった瞳が、怯懦を宿して儚く揺れていた。弱々しく、怯えを孕んでいるようにも見えるその眼差しに胸の奥が熱くなる。日本が紡ぐ言葉を予想して、彼の瞳は揺れているのだ。こんな私のたった一言が彼にとって大事なのか、と。日本は過去に感じた惨めさや悔しさが今やっと雪がれていく気がした。かつて惨めさしか感じなかったこの無力な手は、届かないと思っていた手は、声は、足は、こんなにも簡単にあの背へ届くのだ。
あれだけ大きかった背中が小さく見えた。ゆっくりと大地を踏み締め、彼へと近づいていく。
あの頃は、彼の苦しみに気付けもしなかった。彼がどんなに辛くても哀しくても、私は知り得なかっただろう。自分の全存在を懸けて、かけがえない国のために邁進するあなたを当たり前のように見ていた。彼はきっと、誰も知り得ないだろう恐怖を抱えていたはずなのに。そして、自分の愛した故国が姿を完全に亡くすまで、彼は何でもないような顔で笑っていたに違いない。
遠い極東の果ての異国の背を押し、幾度もすくい上げてくれたひと。そのうえ、心まで寄せてくれた彼を、今度は私がすくい上げたい。その足が歩みを止めぬよう。その脈動が刻まれ続けるよう。その顔が無邪気に笑みを浮かべ続けられるように。そう思う情動を、愛しさと名付けるのは早計だろうか。
日本は眼前まで迫った男を見上げて微笑った。いつの日か、憎しみと怒りに任せて無理矢理繋げた鼓動を、今度は何の算用もなしに重ね合わせたい。あの日、寝台から見上げた男が一瞬だけ垣間見せた心を今度こそ拾い上げたかった。一掬の幸せにでもようやく手が届いたような、充足感の含んだ、けれど切々とした儚いあの笑みを。今度は刹那でなく、見せてほしい。
日本は己の心に素直に従って、目の前の男へと手を伸ばした。そうして互いの心臓を重ね合わせるように背へ腕を回す。鼓動が重なる。ドクン、ドクン、と速さを増していく音を発する心臓が灼けるように痛い。その音に耳を澄ませていると、彼の逞しい腕が日本の身体を掻き抱いた。細い肩に顔を埋めたプロイセンの腕の力はどんどん強くなっていく。そのあまりの加減のなさに息が止まりそうだったが、離してほしいとは欠片も思わなかった。
ああ、今ようやく解放された気がする。
そんなことをふいに思った。きっと、生まれて初めて日本はこの気持ちを味わっている。日ノ本として生を享けた瞬間から始まった、この命の重責。大きな困難にぶつかり、惨めさや悔しさを感じない日は少なかった。気が遠くなるほど長い生の、そのたったの百年があまりにも長かった。苦しかった。憎み、恨み、蔑み、疎んだ世界があった。そのうちの一つが今心臓を重ね合わせている男でもあった。あれほど嫌厭の眼差しを向けた男をこうして受け入れている。それは、あの日抱いた憎しみの情を発露した心と、今私の胸を覆う温かい情を発露している心が別個にあるからだ。私は今、私個人の情を、あの苦難に塗れた日々を超越して、この男へと向けているのだ。今この瞬間は、この瞬間だけは、私は個の私なのだ。彼を想って胸を脈動させる今この瞬間だけは、逃れられないと思っていた場所から確かに解放されていた。――果てしなく続く苦海の中から。この生の責も、いつかの日の憎しみも、そのすべてを超えたところで発する情動のなんと眩しいことか。この温かく、それでいて泣きたくなるような気持ちを、あなたも感じてくれていたら嬉しい。
重なる鼓動の音が生を刻んでいる。ああ、どうか。この音が鳴り止むことのないように。私は、不器用なこの男が世界からなくなってしまうのは嫌だ。こんなにも心臓を熱くさせてくれるひとを失うのは、どうしても嫌だ。私があなたの苦しみを探し出してみせるから。哀しみに気付いてみせるから。その心をすくい上げてみせるから。だからどうか、今度はあなたが私の背を追ってきてくださいませんか。いつの日か、あなたが曙光を齎してくれたように、今度は私があなたの歩く道を照らしてみせるから。あなたに頂いた文明の光が私の命を繋げてくれたのだから。私はその光で、今度はあなたの命を繋げてみせるから。千年先まででも。
日本は泣きたいような気持ちになって、熱い腕の中そっと瞼を閉じた。この誓いが、どうか天まで届くように、と。
掻き抱く力をさらに強くした国を亡くした男の眦から零れる一筋を、月灯かりが優しく照らしていた。
End.
2017.3.28